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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第一章「赤い三つ編みは止まった空を蹴る」
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第3話「屋上より高い屋上」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 日本の学校へ初めて登校する朝、オレはネクタイに負けかけていた。


「輪を作って、下から通して、引く」


「やってる」


「それは首を絞めてるだけ」


 藍羽が後ろから手を伸ばし、絡まった布をほどいた。


 星環学園の制服は濃紺のブレザーに白いシャツ。けれど、式典で指定される日以外は基本的に服装自由だった。学校側の限られた先生にはハヨンの緊急診断書と父さんの署名が届いていて、着替えには保健室横の個室も使えるらしい。


 男子更衣室へ行けば説明が増える。女子更衣室へ行っても、オレが落ち着かない。端の個室なら、必要な時だけ使える。


 助かる。でも、一人だけ場外へ出されたみたいなのは少し腹が立つ。使うかどうかまで学校に決められたわけじゃない。今日のオレが決める。


 緋天衣の朱赤の上着を脱いで脇へ畳み、制服を一度は試した。だが、ネクタイは首へ絡み、白いシャツの袖は拳へかぶさり、濃紺のブレザーは肩を回すたび遅れてついてくる。


「この身体、首まで細いんだな」


「昨日から何度目、その感想」


「毎回、新しい発見がある」


「まず鏡を見て」


 脱ぎかけたネクタイは左右で長さが違い、シャツの襟は片方だけ内側へ折れている。一本の赤い三つ編みは肩の前へ落ち、ネクタイの輪へ巻き込まれていた。


「戦うわけじゃないんだから、いいだろ」


「学校は第一印象が大事なの」


「昨日七秒で負けたのも第一印象?」


 藍羽の手が止まった。


「今日の昼休み。絶対もう一回」


「いいぞ」


「今度は七秒で終わらせない」


「じゃあ八秒だな」


 ネクタイが急に締まった。


「苦しい!」


「自分で直して!」


 そこで試合放棄した。白いシャツとブレザーを脱ぎ、脇へ置いた緋天衣の明るい朱赤の上着を着直す。黒いズボンと合わせ、いつもの格好で行くことにした。


 朝から順調だった。


 おっさんは道場の玄関で腕を組んでいた。紫の道衣のまま、近所の子どもたちへ箒を配っている。


「おっさん、行ってくる」


「帰れば受け身百本じゃ」


「なんで?」


「昨日、三本目の受けが遅れた」


「あれを見てたのか」


「負け方を忘れる者に、勝ち方は来ぬ」


 藍羽が門の外から急かす。


「遅刻するよ!」


 オレは靴を引っかけ、朝の商店街へ走り出した。


 歩幅が違う。階段の一段が前より高い。走り始めは足が出すぎ、速度が上がると今度は腕の振りが大きすぎる。


 それでも昨日よりはましだった。


 身体は、話すより先に覚える。


     *


 私立星環学園は、空港でもらった案内よりずっと大きかった。


 正門から中央校舎まで桜並木が続き、その向こうに高等部、大学部、体育施設が並ぶ。制服の生徒も私服の生徒も、年齢の違う同じ道を歩いていた。服装自由というのは本当らしい。


 そして敷地の奥に、細く高い塔が立っている。


「あれが旧天文塔?」


「そう。今は立入禁止」


「何階?」


「七階。窓も七段あるでしょ」


 東側の門から数えてみる。古びた窓は、きっちり七段だった。細長く見えても、高さはせいぜい三十メートルほどだ。


「本当だ。七階」


「朝から何を疑ってたの?」


「怪しい塔は、まず数えるだろ」


 前を歩く男子生徒も塔を見上げたが、すぐ友達との話へ戻った。誰も気にしない。


 オレが立ち止まると、低い音が耳の奥へ触れた。


 うううう、と、まっすぐな音。


 鼻歌を返しかけて、やめた。音も消えた。


「ハミン?」


「何でもない」


 道場で藍羽が言ったのと同じ答えを返し、校舎へ入った。


 二年三組の教室は、窓から中庭と塔が見える場所にあった。


 担任から名前を呼ばれ、黒板の前へ立つ。三十人くらいの顔が一斉にこっちを向いた。


「ハミンです。日本には格闘の修行と留学で来た。強いやつと、うまい店の情報を教えてくれ。あと――」


 窓際に、目の大きな女の子がいた。肩までの髪を揺らし、面白そうにこちらを見ている。


「可愛い女の子も歓迎だ」


 教室が静かになった。


 藍羽が額を机へぶつけた。


「女子校じゃないよ?」と誰かが言った。


「知ってる」


「歓迎される側じゃない?」


「オレは男だ」


 今度は教室全体がざわめいた。


 担任はハヨンの緊急診断書を読んでいたらしく、咳払いを一つする。


「身体については医療上の事情がある。本人から必要な範囲で説明するので、面白半分に聞かないように」


「いつ戻るかは分からない。でも、オレは大問題にするつもりはない」


 オレが付け足すと、担任の顔が少し困った。断言できない、と診断書に太字で書かれていたのだろう。


 窓際の女の子が手を挙げた。


「質問。好きな食べ物は?」


「肉。麺。でかい飯」


「分かりやすい。私は水守ひなた(みずもり・ひなた)。食堂の大盛りは高等部側の二階が一番だよ」


「ひなた、いいやつだな」


「食べ物だけで判断が早い」


 その一言で、教室の空気が軽くなった。


 オレの席はひなたの隣、藍羽の斜め前だった。


 授業が始まると、ひなたは先生の見ていないところで校内図を渡してくれた。食堂へ赤丸、売店へ青丸、旧天文塔へ大きな罰印がついている。


「ここは?」


「立入禁止。昔、天文部が使ってたけど、階段が危ないんだって」


「七階?」


「うん。窓も七階分。でも、中で八階目を数えたっていう怪談があるよ」


「外より中のほうが多いのか」


「何階まで登ったか分からなくなった、って人もいる」


 ひなたは声を落とした。


「あと、夜中に誰もいない屋上で拍手が聞こえるとか。塔へ入った人が、戻ったら十三分遅れてるとか」


「面白そうだな」


「そこで面白そうになる人、初めて見た」


 斜め後ろから消しゴムが飛んできた。


「寄り道しない!」


 藍羽だ。


「投げるな。先生に怒られるぞ」


「誰のせいよ」


 一時間目は国語だった。


 会話はできても、漢字は別の格闘技だ。先生が黒板へ書いた『選択』の「択」を、オレは三度続けて違う字にした。


「それだと『選尺』だよ」


 ひなたが小声で教える。


「意味は?」


「何を選ぶか、長さで決める感じ」


「今のオレには必要だな」


 腕を伸ばし、机の端までの距離を測る。ひなたは笑いそうになり、先生に見られて真顔へ戻った。


 二時間目の休みには、校舎の案内をしてくれた。


「ここが保健室。その横が個別更衣室。先生から話は聞いてるけど、使う時は普通に鍵かけてね」


「分かった」


「こっちは図書室。あの階段を下りると中等部食堂。高等部の食堂は渡り廊下の先」


「大盛りはどっちだ?」


「やっぱり最初にそこ?」


 廊下では、何人かがオレを見た。ひそひそ話す声もあった。女の子なのか男の子なのか。どこの国から来たのか。格闘家って本当か。


 ひなたは聞こえないふりをせず、一度だけ足を止めた。


「気になるなら本人に聞けばいいのにね」


「別にいい。分からない相手を見るのは普通だろ」


「ハミンは気にしないの?」


「勝負なら見られたほうが燃える。でも、廊下で見るだけなら腹は減らないな」


「判断基準、全部お腹なんだ」


 角を曲がると、同じクラスの男子が二人、待っていたように頭を下げた。


「さっき変なこと言って悪かった」


「どれ?」


「女子校じゃないって」


「事実だろ」


「でも、その……笑うつもりじゃ」


「なら気にするな。それより体育、何やる?」


「今日は持久走」


「勝負しようぜ」


 二人の顔が明るくなった。


 ひなたが肩をすくめる。


「結局、勝負になるんだ」


「話すより早い」


「怪我は遅く治るから気をつけて」


 その日の持久走では、最初の一周から先頭だった。


 二周目、以前の歩幅で曲がろうとして外へ膨らみ、一度だけ藍羽に抜かれた。だが三つ呼吸するあいだに今の歩幅へ直し、三周目で抜き返した。そこからは同じクラスの走者を一人ずつ周回遅れにする。女の身体の肺と脚は、オレが知っている配分では動かない。それでも、崑崙で気を練って育った道士と普通の中学生では、土台が違った。


 ゴールした時、二位はまだ最後の直線へ入ったところだった。教師が計時器を二度見している。


「留学生、全然普通じゃないな」と男子の一人。


「遅い」


「これで!?」


 藍羽が水を渡してきた。


「最初から飛ばしすぎ。今の身体の呼吸を全然見てない」


「見て覚えた。でも男の時なら、もっと楽に二周は先へ行けた。普段の半分も力が出てねえ」


「人間の体育でその嘆き方をするの、やめたほうがいいよ」


「オレだって人間だ」


「崑崙の仙人の家で育った人間でしょ」


「一回で足りなきゃ、明日も走る」


 授業の負けも、道場の負けと同じだ。


 悔しい。でも、次に試すことが増える。


     *


 昼休み、藍羽との再戦は先生に止められた。


 正しくは、教室の後ろで構えた瞬間に止められた。


「ここは道場じゃありません」


「一本だけです」と藍羽。


「一本で机が何個飛ぶと思ってる」


「飛ばさない」


 昨日、おっさんとの三秒で床を二枚きしませたオレたちに、説得力はなかった。


 代わりに三人で食堂へ行った。ひなたの案内どおり、高等部側の二階には山みたいな唐揚げ丼があった。


「日本、最高だな」


「それ、昨日も聞いた」と藍羽。


「一日一回言う」


「私は毎日聞くことになるの?」


 席へ着くと、高等部の女子が何人かこちらを見て笑った。オレも笑い返す。


「姉さんたち、可愛いな」


「先輩でしょ」とひなた。


「女子にお兄ちゃんは変だろ」


「そういう意味じゃない!」


 ひなたは笑い、藍羽は箸でオレの唐揚げを一個奪った。


「あっ」


「第一印象の手数料」


「勝負で取り返す」


「放課後、道場ね」


 約束した瞬間、食堂の時計が一秒止まった。


 秒針だけじゃない。


 窓辺のカーテンも、誰かがこぼした水滴も、一拍だけ空中に残った。


 低い音。


 塔の方向からだ。


「今の見たか?」


「何を?」ひなたが首をかしげる。


 藍羽も気づいていない。


 音はもう消えていた。


 唐揚げはうまかった。なのに最後の一個だけ、味が薄く感じた。


     *


 放課後、ひなたに頼まれて体育倉庫のマットを運んだ。


「転校初日に働かせるのか」


「クラスの歓迎係は、転校生へ学校の仕事も平等に渡します」


「それなら仕方ない」


 以前なら一人で四枚担げた厚いマットを、今日は二枚にした。重さは平気だ。今の身体でも普通の生徒より力はずっと強い。だが腕の幅が足りず、二枚を抱えるだけで前が全部見えなくなった。


「右、壁!」


 ひなたの声で止まる。鼻先が壁へ触れる寸前だった。


「本当に格闘家?」


「マットとは戦ったことがない」


「負けそうだよ」


「なら倒す」


 藍羽が反対側を持った。


「持ち方を変えればいいでしょ。腕で抱えず、下から手のひらで支える」


 三人なら前が見える。


 倉庫へ置き終え、ひなたは職員室へ鍵を返しに行った。藍羽も担任に呼ばれ、廊下を戻る。


「寄り道しないで待ってて」


「分かってる」


 一人になる。


 窓の外で、旧天文塔が細い影を落としていた。


 塔から低い音がした。


 正確すぎる一音。


 食堂で止まった水滴が、頭から離れない。待てと言われた場所はここだが、確かめたい場所はあそこだ。


「見るだけなら、寄り道じゃない」


 誰にともなく言い訳し、校内図の罰印へ向かった。


 藍羽が戻るまでは待てなかった。


 中庭の奥へ進むほど、生徒が減った。


 塔の入口には鎖も錠もなかった。『立入禁止』の札が斜めに下がっているだけだ。


「入るなって言うなら、ちゃんと閉めろよ」


 扉へ手をかけた。


 冷たい。


 押すと、蝶番が長い音を立てた。


 中は薄暗い。螺旋階段が上へ伸びている。窓と踊り場を一つずつ数えながら登った。


 一階、二階、三階。


 七つ目の窓を過ぎた。外から見れば、もう屋根のすぐ下だ。それなのに、同じ幅の階段がさらに上へ折れている。


「八階」


 次の踊り場には窓がない。もう一周すると、さっき見たはずの亀裂が同じ場所にあった。


「九階……だったか?」


 見下ろす。六つ下まで数えたところで、最初の数字が頭から抜けた。


 何階まで登った?


 考えようとすると、数字が頭の表面を滑る。「七階まで来た。もう充分だ。引き返せ」と、誰かの考えを自分で思いついたみたいに感じた。足も勝手に下り階段へ向きかける。


「よくねえだろ」


 声に出すと、考えが戻った。崑崙で霧の道を歩く時と同じように、息を腹へ落とす。低い音が、今度は階段の上からオレを拾った。


 一歩進むたび、背後の段数が分からなくなる。それでも音だけを追うと、急に階段が終わった。


 最上部の扉に着く。


 向こうから低い音がする。


 朝から聞こえていた、まっすぐすぎる音だ。


 扉を開けた。


 空があった。


 屋上――と呼ぶには、何もかもがおかしかった。


 白い床は巨大な円だ。向こうの縁まで百二十メートルほど。陸上競技場より広い円盤が空へ浮かび、その外側には壁も柵もない。雲が足元よりはるか下を流れ、切れ間には星環学園が小さく見えた。見晴らしだけなら、二千五百メートル級の山か飛行機の窓からだ。


 さっきまで、外から三十メートルもない七階の塔を登っていたはずなのに。


 反射的に深く息を吸う。苦しくない。耳も詰まらず、空気の濃さも温度も地上と同じだ。高度だけを空へ置き忘れ、呼吸だけが校庭に残ったみたいだった。


 一歩出て、振り返る。


 開けた古い扉は、円い床の縁に一枚だけ立っていた。背後に壁も塔もなく、扉の向こうに薄暗い階段が見える。太陽とオレの影は反対を向いていた。


「なんだ、ここ」


「それを聞きたいのは僕たちのほうだよ」


 知らない声がした。


 白い床の中央、十三重の円の向こうに三人が立っていた。


 一人は、オレよりずっと背が高い男子。褐色の肌。黒髪を後ろへ流し、一房だけ紫が混じっている。肩へ長い棒を担ぎ、面白そうに笑っていた。


 その右には茶色い短髪の男子。白いシャツに緩いネクタイ。懐中時計を開き、眉を寄せている。


 左には黒い和装の女子。長い淡金の髪は、毛先だけ桃色と水色。指先に小さな鈴を下げていた。


 時計と鈴には、崑崙の宝物庫で嗅いだのと同じ古い気が染みている。法宝だ。形は違っても、道士が術を預けて使った道具の呼吸は分かる。


「登録外の反応が、資格階段を抜けて自分から入ってくるなんて、予定表にない」


 時計の男子が言う。


「予定表に全部書いてあったら、予定表の外へ出る意味がないだろ」


 棒の男子が返した。


「先輩は、出る前にまず予定を確認してください」


「ここまで来て説教か?」


「お二人とも」


 鈴の女子が静かに言った。


 声は柔らかいのに、二人とも口を閉じた。


「先にお名前を伺いましょう。こちらは閑崎鈴華(かんざき・すずか)。絶対運命補完委員会の会計を預かっております」


「長い名前だな」


「委員会の名称へご意見が?」


「格好いい」


 閑崎の眉が、ほんの少し上がった。


 時計の男子が咳払いする。


「僕は時任蓮(ときとう・れん)。委員会の進行と閉鎖管理担当。あちらが西能寺京一(さいのうじ・きょういち)先輩、戦闘執行担当」


「よろしく」


 先輩が棒を片手で回した。


 重い棒だ。風の切り方で分かる。それを指先だけで扱っている。


「オレはハミン」


「知ってる。今日編入した中等部の留学生だろ」


 先輩の視線がオレの足、肩、拳を順に通った。女の子を見る目というより、武器の長さを測る目だ。嫌いじゃない。


「で、その留学生がどうして選塔(せんとう)の資格階段を抜け、選闘(せんとう)も始まっていない雲上闘技場まで来られた?」と時任。


「階段を上った」


「答えになってない」


「足で上った」


「そういう意味じゃないよ」


「蓮」


 閑崎が鈴を握り、音を止めた。


「ハミンさんの選択反応は、通常の登録者と異なります。二つの波が重なって――」


「身体のことか?」


 三人の空気が少し変わった。


 オレは隠さず説明した。元は男。妹の薬で今は女の身体。いつ戻るかは、作った妹にも分からない。


 時任は一度時計を閉じ、もう一度開いた。


「冗談ではなさそうだね」


「信じるのか?」


「信じるというより、この塔の反応が嘘をつかない」


「その塔が何なんだよ。ここは本当に屋上なのか?」


「登録外の人間へ詳しく説明する権限はありません。ただ、資格のない人は七階から上で数を失い、自分から引き返す。屋上扉までは着けないはずです」


「資格って、誰が決める」


「塔です。少なくとも、表向きは」


 時任は時計の蓋の裏へ一瞬だけ目を落とした。そこには別の答えが書かれていて、口にしなかったように見えた。


「なら帰る」


「帰すとも言っていない。未知反応を出した以上、委員会の聴取を受けてもらう」


「断る」


「規則です」


「オレが選んだ規則じゃない」


 時任と視線がぶつかった。


 閑崎が黒い袖の陰で委員章を開く。オレの位置を示す赤い点の横に、『登録外』『公開範囲』『顧問指示』という三つの文字が一瞬だけ並んだ。時任はそれを見て、小さく首を振る。


「試すとしても、一般へ説明できる範囲までです」


「分かっております」


 先輩が間へ入る。笑ったままだが、棒を肩から下ろしていた。


「簡単な方法がある」


「西能寺先輩」と時任が止める。


「こいつ、強いだろ」


「分かるのか?」


「立ってる足が、ずっと逃げ道を三つ残してる。普通の中学生は、知らない場所でそこまで立てない」


 先輩は棒の先を床へつけた。


「選闘で決めよう。オレが勝てば、ハミンは委員会室へ来て一度だけ正式な聴取を受ける。ハミンが勝てば、オレが一度だけ軽微な命令を聞く」


「決闘か」


 胸の奥が明るくなった。


「やる」


「話を聞いてから返事を」と時任。


「聞いた。先輩が勝てば話をする。オレが勝てば命令できる」


「選択権移譲決闘です。負けた側は、指定された行動を断る選択肢を一つ封鎖される。遊びではありません」


「遊びでも本気でやる」


 先輩が歯を見せて笑った。


「いいな、それ」


「双方の請求を確認します」


 閑崎が鈴を一度鳴らした。


 白い床へ二つの光の輪が生まれた。先輩の足元に青、オレの足元に赤。


 空中へ文字が浮かぶ。


『西能寺京一勝利時――ハミンは絶対運命補完委員会の正式聴取を一度受ける』


『ハミン勝利時――西能寺京一は七日以内に軽微な命令を一度履行する』


『互いの所有する未来枝。釣合い、適正』


「環へ入り、理解した上で『選ぶ』と答えてください」と閑崎。


 オレは赤い輪へ入った。


「選ぶ」


 先輩も青い輪へ入る。


「選ぶ」


 遠くで、学校のチャイムが鳴った。


 一音だけ、後ろ向きに吸い込まれるような音だった。


 風が止まる。


 時任の前髪が揺れた形で固まった。閑崎の袖も、鈴の下の細い飾り紐も動かない。空の鳥が羽を開いたまま貼りついている。


 色が薄くなる。


 時任と閑崎の身体が透けた。白い影になって遠ざかるのではない。瞬き一つのあいだに、入口扉の前から姿ごと消えた。声をかける暇もなかった。


 残った色は、赤い輪と青い輪。


 それから、オレと先輩だけ。


 床下から一定すぎる低音が湧き上がった。


 白い床の十三重円が光る。


 広さは変わらない。選闘の前からあった直径百二十メートルの円が、そのまま闘技場になった。ただ、円の縁に立つ古い扉は暗い膜に覆われ、こちらから開けない形へ変わっている。


 屋上より高い屋上に、当事者の二人だけが残された。


 下には雲。雲のさらに下に、止まった学校が逆さに浮いている。校庭で蹴られたボール、窓から落ちた紙飛行機、笑ったままの生徒。全部が途中の姿勢で動かない。


 十二歩先で、先輩が棒を構えた。


「怖くないのか?」


「すげえとは思ってる」


「普通は、それを怖いって言うんだ」


「おまえのほうが面白そうだ」


 先輩の笑みが深くなった。


 床の縁に、古い観測鏡が立っていた。


 鏡の中には止まった校舎が映っている。


 誰もいないはずの廊下に、見知らぬ女の人がいた。


 艶のある長い黒髪。海みたいな色の目。


 彼女だけが、こちらを見て瞬きをした。


 それから右手を上げようとして、なぜか左手を上げた。自分で首をかしげ、右へ直す。精巧な人形が、挨拶の手順を一つ取り違えたみたいだった。


「始めます」


 どこからともなく女の声がした。


 鏡を見る暇は、もうなかった。


 先輩の棒が、空を割った。


エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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