第2話「白熊に見送られて」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
国際空港で白熊に見送られる人間は、たぶんオレくらいだ。
父さんが出発ロビーへ入った瞬間、子どもが三人集まった。続いて、写真を撮る大人が五人。空港職員が一人、困った顔で近づいてくる。
「お客様、その……着ぐるみの頭部は、保安上の理由で外していただく場合が」
父さんは胸元から紙を出した。
【紙面:医療用。外せない。】
職員は紙と白熊の顔を見比べた。
「診断書などはお持ちでしょうか」
父さんは分厚い封筒を出した。母さんが以前の海外移動に備えて用意しておいた、衣服型法宝・白沢衣の説明書類だ。職員は一枚目を読み、二枚目で眉を上げ、三枚目から先は読むことを諦めた顔になった。
「確認できました。ご協力ありがとうございます」
父さんが丁寧に頭を下げる。周りの子どもたちも一緒に頭を下げた。
「父さん、人気者だな」
父さんは肩をすくめた。着ぐるみの背中には、よく見なければ縫い目にしか見えない細い線が走っている。塔みたいな三角形と、重なった円。小さい頃から見てきた模様なのに、その朝はなぜか、薬瓶の底に浮かんだ目を思い出した。
「お兄ちゃん」
ハヨンがオレの三つ編みを引いた。
「引っ張るな」
「聞いてなかったから。これ、持って」
手のひらへ、黒い腕輪型の計測器を押しつけられた。
「心拍、体温、筋電位、気脈のずれを記録する。外さないで」
「風呂は?」
「防水」
「爆発は?」
「しない」
「前にも聞いたな、その言葉」
「前回の失敗を含めて成功率九十九・七パーセント」
「残りの〇・三は?」
ハヨンは目をそらした。
オレは腕輪を着けた。昨日までなら余裕のない大きさだったのに、今の手首では少し余る。
「第一報、忘れるなよ」
「忘れない。お兄ちゃんも、変化があったらすぐ送って」
「戻ったって報告を送る」
「うん」
ハヨンはそこで言葉を切った。謝罪をもう一度口にすれば、自分が楽になるだけだと思ったのかもしれない。代わりに、腕輪の留め具を一段きつくした。
父さんが紙を上げる。
【紙面:靴紐。】
「分かってる」
見ると、右の紐がほどけていた。しゃがんだ時の膝の位置がまだ分からず、危うく自分の鞄へ額をぶつける。
後ろでハヨンが息を飲んだ。
「笑っていいぞ」
「笑わない」
「そっちのほうが腹立つな」
搭乗案内が流れた。
父さんは最後に、拳ではなく手のひらを出した。オレも手を重ねる。熊の手に、小さな手がすっぽり隠れた。
紙が一枚、オレの胸の前へ差し出される。
【紙面:道は示せ。足は奪うな。】
家の稽古で何度も見た言葉だった。
「分かってる。自分の足で行く」
そう言って、オレは二人に背を向けた。
振り返ったのは一度だけだ。
銀髪の妹が手を振っていた。その隣で、白熊が両手を大きく上げている。
やっぱり父さんは、どう見ても空港のマスコットだった。
*
飛行機ではほとんど眠っていた。
起きた時には、雲の下に日本の町が広がっていた。屋根も道路も、小さな箱みたいに並んでいる。
着陸の衝撃に身体が前へ出た。反射的に座席へ手をついたが、肘が伸び切る場所が昨日までと違う。シートベルトが腹へ食い込み、オレは小さく息を吐いた。
何をしても一度ずつずれる。
殴るなら、その一度で負ける。
拳を握り、機内の窓へ映る赤い三つ編みと、明るい朱赤へ変わった上着をにらむ。
「いつまでだろうと、オレはオレだからな」
窓の女の子も、同じ顔でにらみ返した。
到着ロビーは人と音でいっぱいだった。日本語、英語、知らない言葉。転がる鞄。コーヒーの匂い。迎えの札が何十枚も並んでいる。
その中に、オレの名前があった。
『ハミン様 天道宗』
札を持っていたのは、長い濃紺の髪の女の子だった。毛先だけが青く、空の色を吸ったみたいに光っている。水色のジャージの上からでも、肩と腰の力が抜けているのが分かった。立ち姿がいい。かなり鍛えている。
それから、普通に可愛い。
「おーい、ハミンはオレだ!」
手を振ると、その子はオレの後ろを見た。
「えっと……お兄さんは?」
「兄じゃない。オレがハミン」
「ハミンさんの妹さん?」
「だからハミン本人だって」
彼女は札とオレの顔を三往復した。
「男の子だって聞いてるんだけど」
「男だよ」
「でも、どう見ても」
「事情がある。いつ戻るかは分からない」
拳なら、一度合わせれば相手が何者か分かる。名前を名乗るたびに一回戦からやり直すのは、正直面倒だ。
でも、見た目で間違えた相手を殴っても、オレの名前は伝わらない。
ハヨンから届いていた緊急診断の連絡画面を見せる。医療用語だらけの文章を途中まで読み、彼女はこめかみを押さえた。
「こんな事情、迎えに来る前に教えてほしかった……」
「驚かせたかったんじゃないか?」
「誰が?」
「うちの家族なら全員やりそうだ」
父さんはやらない。書いたあとで紙を伏せて驚かせるくらいだ。
女の子は小さくため息をつき、姿勢を正した。
「私は如月藍羽。天道宗道場の娘。星環学園では同じ中等部二年になるから」
「藍羽か。よろしく」
拳を出す。
藍羽は握手しようとしていた手を止め、少し迷ってから拳を合わせた。
「ずいぶん慣れ慣れしいのね」
「嫌だったか?」
「別に。あと、荷物持つよ」
「いい。自分で持てる」
「身体、慣れてないんでしょ」
「持てるって」
大きな鞄を肩へ上げた。以前のつもりで勢いをつけたせいで、鞄が背中を越え、反対側へ落ちそうになる。
藍羽が取っ手をつかんだ。
「持ててないじゃない」
「今のは鞄が軽かった」
「言い訳まで軽い」
笑うと、藍羽も少しだけ笑った。
*
電車を二つ乗り継いだ。
藍羽は道場と学校の話をした。天道宗は父親が開いた修行場で、町の子どもに護身術を教え、朝は商店街を掃除する。怪しい宗教じゃない、と三度念を押した。
「怪しい宗教は自分から怪しくないって言うよな」
「そこを心配してるから説明してるの!」
「玄関で壺を買わされる?」
「売ってない」
「空中に浮く修行は?」
「しない」
「滝に打たれながら光る?」
「父さんなら、滝くらい割るかも」
「面白そうじゃねえか」
「面白がらないで」
藍羽は呆れながらも、道場の話になると声が少し誇らしげになった。
「父さんは、ハガンさんの息子なら相当な使い手だって言ってた。私も女子の全国大会で入賞してるから、稽古相手くらいにはなれると思う」
「全国?」
「去年は三位」
「強いんだな」
思わず身を乗り出した。
藍羽が一歩引いた。
「急に目が怖い」
「着いたらやろうぜ」
「まだ荷物も置いてないでしょ」
「荷物は逃げない。強いやつは気が変わるかもしれない」
「変わらないわよ。むしろ今、勝つ気になった」
いい子だ。
改札を出るころには、日本に来てよかったと思い始めていた。
駅前の商店街を抜ける。八百屋、古本屋、揚げ物の匂いがする総菜屋。道場はその先、住宅が増え始める坂の途中にあった。
木造の門。その上に大きく『天道宗』。横には『一日護身術』『親子で纏気体験』『掃除も修行』と派手な札が並んでいる。
「怪しいな」
「分かってる!」
藍羽が門を開けた。
境目を一歩またぐ。
風鈴が鳴った。
涼しい音が一つ。二つ。三つ。
四つ目が、来なかった。
風が止まっていた。
軒下の短冊が斜めになったまま動かない。庭へ降りかけた雀が、羽を広げた姿勢で空中に留まっている。
壁の丸時計だけが動いた。
秒針が一周するより短いはずなのに、十三目盛ぶん、引っかかるように遅れて進む。
喉の奥で低い音がした。
朝、車で眠った時の音だ。
「藍羽」
「なに?」
藍羽は普通に歩いていた。
雀が地面へ降り、短冊がまた揺れる。何もなかったみたいに。
「今、止まったよな」
「何が?」
「雀と風鈴」
「長旅で疲れてるんじゃない?」
藍羽は振り返り、オレの額へ手を伸ばしかけた。オレが一歩下がると、素直に手を止める。
「熱は?」
「ない。たぶん」
腕輪の表示も平熱だった。
けれど、計測波形の隅に十三本の細い縦線が出て、すぐ消えた。
*
道場は広かった。
磨かれた板間の中央に、十三の輪と八本の線が描かれている。端では小学生たちが受け身の練習をし、奥の台所から味噌汁の匂いがした。
一番小さな男の子が、後ろ受け身で頭を打ちかけた。
藍羽が話の途中で走る。床へ入る前に一礼する余裕まであり、男の子の首の後ろへ手を差し入れた。
「顎を引いて。怖くなったら手より先に、おへそを見て」
「藍羽姉ちゃん、背中が痛い」
「痛くない倒れ方を覚えるための受け身。でも本当に痛い時は我慢しないで言う」
男の子はもう一度転がった。今度はきれいに板を叩き、笑って起きる。
藍羽も笑い、頭を撫でた。
「子どもに教えてるのか」
「週に三回だけ。父さんは掃除も料理も全部修行って言うけど、受け身はちゃんと教えないと危ないから」
「優しいな」
「普通でしょ」
「可愛くて強くて優しい。日本に来て最初から当たりだ」
藍羽の頬が赤くなり、男の子たちが囃したてた。
「そういうこと、簡単に言わない!」
「本当だから言った」
「もっと駄目!」
怒りながらも、藍羽は次の子の受け身をきちんと見届けた。
全国三位は肩書きだけじゃない。人を倒す技と、怪我をさせない技を両方知っている。さっきまでより、戦うのが楽しみになった。
「ここ、踏まないで」
藍羽が床の輪を示した。
「修行の足運び図だから」
「瓶と同じだ」
「何が?」
鞄から空になった栄養ドリンクの瓶を出した。ハヨンが検査用に持たせたものだ。底にはもう模様がない。床と見比べても、ただのガラスにしか見えなかった。
「いや、何でもない」
「変なの」
「変なのはこの道場もだろ」
「今すぐ勝負する?」
「待ってた」
荷物を壁へ置き、靴下を脱いだ。
藍羽は長い髪を高い位置で結び、水色の上着を脱ぐ。下は動きやすい黒の練習着だ。板間へ一礼して入る所作に無駄がない。
小学生たちがざわめいた。
「藍羽姉ちゃんがやるぞ」
「転校生、女の子じゃん」
「男だ!」
反射的に返すと、子どもたちはもっとざわめいた。
藍羽が両手を腰へ当てる。
「説明はあと。一本先取、投げか有効打で決着。いい?」
「何でもいい。始めようぜ」
向かい合う。
藍羽の立ち方は天道宗の型らしい。前足へ四、後ろへ六。肩は力まず、手のひらを半分開いている。正面から見える隙は少ない。
合図の木片が鳴った。
藍羽が踏み込む。
速い。
胸元へ掌底。オレは外から手首を払う――はずだった。
手が、届かない。
「っ!」
半歩下がって避ける。藍羽の目が細くなった。オレの失敗を見た。
二撃目は下段。受ける腕の角度がずれ、衝撃が肘まで響く。
身体が軽い。押されたぶんだけよく動く。悪く言えば、簡単に飛ばされる。
藍羽が三歩目を踏む。
きれいすぎる三歩だった。
強い。でも、呼吸が型と一緒だ。吸って、止めて、打つ。目より先に胸の奥が教えてくれる。
オレはいつもの拳を捨てた。
届かないなら、届かせなくていい。
藍羽の掌底を肩で滑らせ、懐へ入る。いつもより小さい身体が、相手の肘の内側へすっぽり収まった。
「え?」
藍羽の声。
前足の踵へ、自分の足を引っかける。
肩を押さず、相手が踏み込んだ方向へ少しだけ引いた。
藍羽の身体が床と平行になった。
受け身の音が、板間を鳴らす。
合図から、たぶん七秒。
オレは藍羽の顔の横へ手をついて止まり、笑った。
「一本だな」
藍羽は目を見開いていた。
耳まで真っ赤になる。
「もう一回!」
「いいぞ」
「今のは身体が違うって聞いて油断した!」
「じゃあ今度は油断なしだ」
「当然!」
起き上がった藍羽の背後で、子どもたちが一斉に静かになった。
板間の奥に、壁みたいな男が立っていた。
長い黒髪。胸まで届く黒い髭。紫の道衣。立っているだけで、床板の下から重い呼吸が聞こえる気がする。
「父さん」
藍羽が姿勢を正した。
「この人が天道王。天道宗の開祖で、私の父」
「王って名前なのか?」
「法名じゃ。好きに呼べ」
低い声が腹に響いた。
「じゃ、おっさん」
「初対面で!?」と藍羽。
おっさんは髭の中で笑った。
「ハガンの小道士よ。藍羽を七息で倒したか」
「父さんのこと知ってるのか」
「知っておる」
それだけ言うと、おっさんの足が輪の中へ入った。
「来い。旅で鈍った身体を起こしてやろう」
「おっさんが相手か」
背中が熱くなった。
さっきまでとは違う。
この男は、強い。
オレは輪へ入った。
「父さん、ハミンは身体が――」
「身体は言い訳をせぬ。言い訳をするのは、身体を知らぬ頭じゃ」
おっさんが構える。
構えたようには見えなかった。両手は下がったまま、足も自然に開いている。
だからこそ、どこからでも来る。
「始め!」
藍羽の声と同時に踏み込んだ。
腹へまっすぐ。今の腕の長さはもう分かっている。届く距離まで入ってから打つ。
おっさんは避けなかった。
拳が紫の道衣へ触れる直前、薄い熱へぶつかった。
皮膚じゃない。
身体の表面を何かが巡っている。
崑崙の仙人が気を内から通すのとは違う。全身の外へ薄い鎧のように纏っている。
「父さんは若い頃、インドで修業して気――オーラの纏い方を学んだの」
輪の外から藍羽が言った。
「崑崙の気とは違うのか」
「根は同じ。でも、育て方が違う!」
拳の力が横へ流れた。
次の瞬間、天地が入れ替わった。
背中から床へ落ちる。受け身を取ったはずなのに、肺の空気が全部出た。
「――っ、まだ!」
転がって立つ。
脇腹へ蹴り。短くなった脚の距離も計算した。
おっさんの手のひらが足首へ触れた。
それだけで軸が消えた。
片手を床へつき、反対の脚で顎を狙う。おっさんは首を一寸引いた。初めて動かした。
届かない。
腕も脚も、オレが知っている場所より手前で終わる。
それを分かって打っているのに、身体の奥に残った十四年分の距離が、最後の最後で邪魔をする。
「力が、身体の外へ落ちておる」
おっさんの声が近い。
胸元へ指が一本触れた。
熱が身体の中心を貫いた。
膝が落ちる。
立とうとした足へ力が入らない。呼吸がばらばらだ。目の前の男は、一歩もその場から動いていなかった。
「十、まで数える?」
藍羽が心配そうに聞いた。
「いらん。こやつの身体がもう答えておる」
悔しい。
でも、それより先に笑いが出た。
「おっさん。明日、もう一回やろうぜ」
おっさんの太い眉が少し上がった。
「歩けるようになってから言え、小僧」
「小道士じゃなかったのか」
「負けて格下げじゃ」
子どもたちが笑った。藍羽まで口元を押さえている。
「藍羽、笑ったな」
「七秒で負けた私の前で、三秒で負けるからでしょ」
「二回目はもっと持つ」
「その前に私との二回目!」
「飯を食ってからな」
仰向けになったまま言うと、おっさんが見下ろした。
「腹は動くか」
「そこだけは元気だ」
「よし。客間へ荷を置け。飯も修行じゃ」
また怪しいことを言う。
でも、味噌汁の匂いは怪しくなかった。
夕飯は、大根と鶏肉の煮物、焼き魚、山盛りの白飯だった。
おっさんは「客人は三杯」と言い、オレが三杯目を食べ終える前に四杯目を置いた。藍羽は「それは父さんが食べさせたいだけ」と言いながら、魚の大きいほうをオレの皿へ移した。
「負けた相手に優しいな」
「長旅の客に普通にしてるだけ」
「明日は勝てるといいな」
「今夜もう一回やる」
「食べた直後はやめろ。おっさんみたいになるぞ」
向かいでおっさんが五杯目を平らげた。
「わしは消化も修行済みじゃ」
「そんな修行あるの?」
「今作ったんだろ」とオレ。
おっさんは髭の奥で笑った。
食後、藍羽が客間へ氷嚢と新しい寝間着を持ってきた。道場にあった新品で、法宝ではないが今の身体に合う寸法だ。
「用意が早いな」
「いつまでいるとしても、寝間着は必要でしょ。はい、脇腹」
氷嚢を受け取り、おっさんに触れられた場所へ当てる。
「おっさん、いつもあんなに強いのか」
「今日はかなり軽くしてた」
「あれで?」
「悔しい?」
「当然。でも嬉しい」
「どうして」
「勝つ相手がいる」
藍羽は呆れたように息を吐き、それから少し笑った。
「父さんへ負けて笑う人、初めて見た」
「藍羽は笑わないのか?」
「私は悔しくて泣いた。八歳の時だけど」
「今は?」
「勝つまでやる」
「同じじゃねえか」
目が合った。
藍羽はすぐ立ち上がり、戸口で振り返る。
「明日の朝、六時。今度は七秒より長く立つから」
「じゃあオレは六秒で倒す」
「絶対負けない!」
足音が廊下の向こうへ消えた。
日本で最初にできた知り合いは、明日も戦う約束をしてくれた。
悪くない始まりだった。
*
夜、用意された客間で腕輪のデータを確認した。
藍羽戦の七秒、おっさん戦の三秒。その少し前、門をまたいだ時刻だけ記録が欠けている。
十二秒でも十四秒でもない。
十三秒。
空き瓶を灯りへ透かす。
透明な底へ、消えたはずの輪が一瞬浮いた。
部屋の外、道場の床下から低い音がした。
瓶の黒い中心と、オレの目が重なった。
瞬きをした時には、ただのガラスへ戻っていた。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




