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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第一章「赤い三つ編みは止まった空を蹴る」
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第1話「妹の薬には取扱説明書がない」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

第一章「赤い三つ編みは止まった空を蹴る」


 日本へ出発する前の晩、オレは三人の女の子に怒られていた。


 人生で三人の女の子に囲まれる日が来るなら、もう少し祝福されていい場面だと思っていた。少なくとも、三方向から竹刀と木剣と硬式テニスボールを向けられる場面じゃない。


「ハミン。明日の朝、最後の稽古に付き合うって言ったよね?」


「私には空港へ行く前に走ろうって」


「わたしには新しいサーブを受けてくれるって!」


 庭の石灯籠の上で、白熊が頭を抱えた。


 正しくは父さんだ。父さんは世界で一番強い男だが、いつも白熊の着ぐるみを着ている。丸い耳までついた生成り色の着ぐるみで、今も膝へ肘を置き、熊の両手で熊の顔を覆っている。知らない人が見たら、近所の遊園地から逃げてきたマスコットにしか見えない。


 ただし、あれは本当の着ぐるみではない。白熊型法宝(ファーバオ)・白沢衣(はくたくい)。崑崙(こんろん)の道士や仙人が、気を術へ変えて使う古い道具だ。暑さも寒さも通さず、父さんが脱ぐと決めないかぎり、世界中の誰にも脱がせられない。なぜ白沢衣が白熊の形なのかだけは、父さんも紙へ書こうとしなかった。


 オレが着ているのも、崑崙由来の衣服型法宝(ファーバオ)・緋天衣(ひてんい)だ。法宝には、持ち主が知らなくても必ず固有の名がある。斜めに留める立ち襟のチャイナ服風の上着は黒、下は動きやすい黒いズボン。緋という名なのに、男のオレが着る上着は昔から黒だった。緋天衣は着る者の身体へ合わせて大きさや色合いを変え、泥へ転がっても汚れを弾く。長い黒紫の髪は、首の後ろで一本の三つ編みにしてある。どれも男として生まれた時からの、いつものオレだった。


「いや、待て。全員ちゃんと覚えてる。忘れてたわけじゃない」


「三つとも午前六時でしょ」


 縁側から冷たい声が飛んできた。


 淡い銀髪を片側でまとめ、丸眼鏡の奥からオレをにらんでいるのは妹のハヨンだ。十二歳。背は小さい。態度はでかい。家の研究棟を三度爆発させ、四度目には爆発しない研究棟を自分で建てた天才でもある。


「お兄ちゃんの身体は一つ。午前六時も一つ。これは小学生でも分かる」


「順番にやればいいだろ」


「一人一分四十秒?」


「濃い二分になる」


「相手の同意を取ってから濃くして」


 三人の視線がさらに冷たくなった。これはまずい。相手の重心なら一目で読めるが、女の子が本気で怒り始める一歩前だけは、何度見ても分からない。


 オレは両手を合わせた。


「悪かった。時間をずらそう。ミンジュは五時半。ソラは六時。ユリは六時半。オレはそのあと空港まで走る」


「寝る時間は?」とハヨン。


「飛行機で寝る」


「荷造りは?」


「父さんがした」


 白熊がゆっくり首を横へ振った。


「……これから父さんとする」


 三人は呆れたあと、結局笑った。約束を組み直し、最後は一人ずつ拳を合わせて帰っていった。ユリが門を出る直前に振り返る。


「日本でも、女の子全員に同じこと言っちゃ駄目だよ」


「同じことなんか言ってないぞ。みんな違って、みんないい」


「それが一番駄目なの!」


 門が閉まり、竹刀の先が消える。


 オレは首をかしげた。


「ちゃんと一人ずついいところを見てるのにな」


「お兄ちゃんは、誠実さを人数で薄めても誠実だと思ってる」


「難しい言い方するなよ」


「お兄ちゃんが簡単すぎるから」


 ハヨンは眼鏡を中指で押し上げ、そのまま研究棟へ戻っていった。身体より大きな白いパーカーは、古い収納術をハヨンが現代向けに作り替えた衣服型法宝(ファーバオ)・白雲衣(はくうんい)だ。大きな裾が揺れ、襟元から黒いインナーがのぞいた。


 父さんが、いつの間にかスケッチブックを出していた。


【紙面:現地では、一つずつ選べ。】


「分かってるって」


 父さんは紙をめくった。


【紙面:今、三つ選んだ。】


「細かいな、父さん!」


 熊の肩が上下した。声はないが、笑っている。たぶん。


 父さんと荷造りを始めた。


 オレが鞄へ道着を五着押し込み、父さんが四着を戻す。オレが木剣を入れ、父さんが出す。オレが石の鍛錬球を入れた時には、父さんは鞄ごと片手で持ち上げ、底が抜けるところを見せた。緋天衣の黒い上着の裾を指し、これが一着あれば普段着は足りる、と紙へ追記する。


【紙面:日本にも石はある。】


「うちの山の石とは違う」


【紙面:違いを見に行く。持って行くのではない。】


「なるほど」


 悔しいが、父さんの紙はたまに鋭い。


 空いた場所へ、父さんは古びた布袋を入れた。中には丸い金属片が一枚。表に十三の輪、裏に八本の線が刻まれている。


「何だ、これ」


【紙面:昔、日本でもらった。】


「誰に?」


 父さんは少し考え、紙を裏返した。


【紙面:強い髭。】


「人の名前じゃないだろ」


 今度は返事を書かなかった。白熊の口元は最初から笑っているので、こういう時だけずるい。


 オレは金属片をポケットへ入れた。知らない土地へ行く不安がなかったわけじゃない。言葉が通じても、間の取り方は違う。修行の型も、友達の作り方も違うかもしれない。


 それでも、違うなら見てみたい。


 鞄から出された四着の道着を見て、父さんが最後に一枚だけ紙を出した。


【紙面:帰る道も、残す。】


「一着くらい置いていけってこと?」


 父さんは大きくうなずいた。


 たぶん、それだけじゃなかったのだと思う。


 家の裏は普通の山に見えて、普通じゃない。


 霧の濃い朝、父さんの足跡を同じ順番で踏むと、谷が一つ増えることがある。岩壁の向こうに道場があり、見たことのない星の下で老人たちが呼吸を数えている。うちではそこを、崑崙の重なり谷と呼んでいた。


 地図を広げれば、ここは中央アジアへ連なる崑崙山脈で、国境線だけなら中国側になる。けれど、岩壁と位相の向こうへ重なった谷は、役所が引いた線よりずっと古い。谷で育ったオレたちは、中国人でも韓国人でもない。何者かと聞かれたら、崑崙の道士だと答える。それが一番正しい。


 オレはそこで、殴り方より先に立ち方を、立ち方より先に息の仕方を覚えた。


 父さんもオレも、崑崙の仙人だ。正確には、父さんは完成した仙人で、オレはまだ修行中の小道士。普通の人間より強いのは、そのせいでもあるらしい。けれど、仙人の家だと言われても、正直よく分からない。父さんは説明を紙三枚で終わらせるし、母さんは世界のどこかで仕事をしているし、ハヨンは質問すると方程式で返してくる。オレにとっては、山を走って、気を練って、強い相手と戦う家だ。それで充分だった。


 翌朝までは。


     *


 研究棟の冷蔵庫には、食べていい物より、食べたら駄目な物のほうが多い。


 ハヨンはその一番奥から、母さんの名前が記された銀色の容器を取り出した。


 ――ということを、オレが知ったのはずっとあとだ。


 その時のオレは、自分の部屋で荷物を詰め直しながら、明日から通う星環学園(せいかんがくえん)の案内を眺めていた。中等部、高等部、大学部まで同じ敷地にある。広い体育館、古い天文塔、国際交流の盛んな校風。パンフレットの女の子たちはみんな可愛かった。


「日本、最高だな」


 写真の中のテニス部員へ笑いかける。


 扉の外で小さく何かがぶつかる音がした。


「ハヨン?」


「何でもない」


 返事が速すぎた。


 研究棟では、ハヨンが母さんの陰陽相転換触媒へ六種類の安定剤と、自作の神経指向補助式を加えていた。狙いは、オレが男を恋愛対象として認識するようにすること。たった一滴で気脈へ定着し、日本への留学が終わるまで作用する設計だった。


 その発想が最初から全部間違っていたと、ハヨン自身が認めるまでには、かなり長い時間がかかる。


 だが、この晩のハヨンは自信満々だった。


 完成した紫色の試薬を一滴、オレが毎朝飲む栄養ドリンクへ落とす。琥珀色の液体へ紫の筋が沈み、溶け切ったあと、一度だけ赤く光った。瓶の底へ十三の細い輪が浮かぶ。


 真ん中に黒い点。


 目みたいな形だった。


 ハヨンが眼鏡を外して拭くあいだに、輪は消えた。


     *


 午前五時二十分。


 オレは黒い上着と黒いズボンで台所へ降りた。朝日より早く起きるのは慣れている。冷蔵庫から栄養ドリンクをつかみ、蓋をひねった。


「お兄ちゃん」


 背後から呼ばれた。


「なんだ?」


「日本で、もうトラブルを起こさないで」


 ハヨンは大きすぎる白いパーカーの袖へ両手を隠していた。開いた襟の内側は黒いインナーだ。徹夜したらしく、銀髪がいつもより跳ねている。


「起こさねえよ」


「昨日だけで約束が三件重なった」


「解決しただろ」


「相手が優しかったから」


「日本では、私が横から止められない」


「止めなくていい」


 ハヨンは答えず、大きなパーカーの袖の中で手を握った。


 オレはドリンクを一息で飲み干した。


 少し薬っぽく苦かったが、元からそういう味だ。


「オレだってちゃんと考えてる。向こうじゃ勉強して、稽古して、強いやつと戦って、それから可愛い女の子と――」


「最後が余計」


「大事だろ」


 玄関で白熊姿の父さんが手を上げた。最初の約束の相手が来たらしい。


「行ってくる」


 オレは瓶を流しへ置き、庭へ飛び出した。


 ハヨンが背中で何か言った。


 聞き取れなかった。


 たぶん、「ごめん」だった。


     *


 三人との稽古を終え、空港まで走る予定は父さんに止められた。


 寝不足と稽古疲れに、妙な熱が重なったからだ。


 頭の芯がぼんやりする。手足の先が、自分のものなのに遠い。父さんはオレを担ごうとしたが、白熊に抱えられて帰るところを近所の女の子に見られるのだけは嫌で、自分で歩いた。


 ベッドへ倒れたのは午前八時前だった。


「二時間だけ寝かせろ。出発には間に合う」


 枕元にいたハヨンへ言う。


「お兄ちゃん、体温は?」


「ちょっと高い」


「心拍」


「速い」


「視界は?」


「おまえが二人いる」


「それはまずい」


「二人とも小言が多そうだ」


 そこで意識が落ちた。


 夢の中で、遠い床下から低い音がした。


 一定の、細い唸り。


 それに合わせるように、オレは鼻歌を鳴らしていた。


     *


 次に目を覚ました時、天井が遠かった。


 いや、違う。


 ベッドがでかい。


 毛布から出した手が小さい。指が細い。拳を握った感触が軽い。起き上がろうとして、いつもの勢いで腹に力を入れたら、身体が予想より早く跳ねた。


「うおっ」


 声が高い。


 額へ赤い髪が落ちてきた。


 オレは髪を払い、床へ降りた。足が着く位置を間違え、膝を机へぶつけた。痛い。夢じゃない。


 部屋の鏡まで三歩。


 いつもなら二歩半だ。


 鏡の中に、知らない女の子がいた。


 赤茶の髪。赤い目。少し幼く見える丸い顔。長い髪は、男だった時と同じ一本の三つ編みが半分ほどけ、寝癖で四方へ跳ねている。上着は男のオレに合わせていた黒から、名のとおり明るい朱赤へ変わっている。黒いズボンの色だけは変わらず、上着と一緒に、小さくなった肩や腰へぴたりと合っていた。袖も裾も余っていない。緋天衣だけが、オレより先に今の身体を受け入れている。


 鏡の中の女の子が口を開いた。


「なんでだ!」


 オレと同時に叫んだ。


 廊下で何かが落ちた。


 扉を開けると、ハヨンが計測端末を持ったまま固まっていた。眼鏡が鼻先までずれている。


「お兄ちゃん?」


「ハヨン」


「声紋は一致。虹彩反応も一致。気脈の固有振動も――」


「おまえ、何を入れた?」


「説明する」


「走りながら聞く!」


 ハヨンが逃げた。


 オレも追った。


 一歩目で廊下の壁に肩から突っ込んだ。


 身体の幅が違う。いつもの角度で踏み出すと、足が内側へ入りすぎる。そこを直そうとして二歩目は大きくなり、棚へ手をついた。手を置く場所が五センチ届かず、棚ごと倒れそうになる。


 白熊の腕が横から伸び、棚を指一本で支えた。


 父さんはオレと逃げるハヨンを見比べ、ポケットから紙を出した。


【紙面:まず歩け。】


「父さん、止めるならハヨンを止めろ!」


 父さんはもう一枚出した。


【紙面:先に転ぶ。】


「転ばねえ!」


 三歩目で転んだ。


 転んだまま、オレは床へ拳をついた。


 立ち方を一つずつ確かめる。足裏の幅。膝の向き。腰の高さ。前へ出した拳の終点。


 壁に吊った稽古紙へ、いつもの距離から突きを出した。


 拳は紙の手前で止まった。


 届かない。


 半歩入れば当たる。だが、その半歩を足すと腰が先に流れ、反対側の肩が開く。たった数センチの違いが、今まで覚えた全部を「少しだけ間違い」にしていた。


 オレはもう一度打った。また届かない。


「お兄ちゃん、今は検査が先」


 廊下の端からハヨンが言う。


「オレにはこれも検査だ」


 三度目。拳が紙へ触れ、軽い音を立てた。


 喜ぶより前にバランスを崩し、また尻もちをつく。


 白熊の父さんが、紙へ丸を一つ描いた。


「今の、丸なのか?」


 父さんは丸の横に小さく三角を足した。


「どっちだよ!」


     *


 十五分後。


 オレは研究棟の椅子に座り、ほどけた赤い髪をハヨンに一本の三つ編みへ結び直されていた。


「動くと計測できない」


「髪と計測に何の関係がある」


「お兄ちゃんが邪魔だって怒ったからまとめてる」


「切ればいい」


「身体相が戻る時にどうなるか分からない。勝手に切るのは駄目」


「薬は勝手に飲ませたくせに?」


 ハヨンの指が止まった。


 そこは笑って流せなかった。


「……説明する」


「しろ」


 ハヨンはオレの正面へ回り、端末へ図を出した。


「お兄ちゃんの恋愛対象を、留学中ずっと男性へ向ける試薬を作った」


「は?」


「日本で同じ騒ぎを起こさないように」


「起こす前からオレの好みを変えるな!」


「女の子を好きじゃなくなれば、約束を三つ重ねない」


「男を三人好きになるだけかもしれないだろ!」


 ハヨンが目を見開いた。


「その可能性を見落としてた」


「天才やめろ!」


 怒鳴った声はやっぱり高い。だが、怒っているのは声じゃなくオレだ。


「それで、なんで身体まで女になってる?」


「分からない。指向反転式が、家系性の陰陽相へ接続した可能性がある。神経作用は出ていない」


「簡単に言え」


「薬は失敗。お兄ちゃんは女の子のまま女の子が好き」


 研究棟の窓の向こうを、宅配便の女の子が通った。帽子から出た髪がよく似合っている。


 普通に可愛いと思った。


「本当だな」


「確認が速い」


「で、戻るのか」


「分からない」


「留学が終わるまでじゃないのか」


「それは、恋愛指向だけへ作用した場合の予定。身体相まで変わる式は作ってない。薬が予定外の場所へつながった以上、いつ戻るかは計算できない」


 ハヨンは緋天衣の赤い袖口へ測定器を当てた。布の銀糸が一瞬だけ光り、今の細い手首へ合わせてまた縮む。


「緋天衣は無事。身体相に合わせて寸法も色味も調整してる。汚染反応もゼロ」


「褒めるところはそこか」


「服と身体は違う」


「同じとは言ってない。でも、どっちもオレが着るし、オレが決める」


「……分かってる」


 まだ本当には分かっていない顔だった。


 ハヨンは次にオレの髪へ触れる前で手を止めた。


「結び直していい?」


「走る時に邪魔だから頼む」


 今度は聞いた。


 大きな間違いをした直後でも、小さなところからやり直すことはできるらしい。オレは鏡の前へ座り、細い指が男の時と同じ一本の三つ編みを作るのを見た。


「似合う?」


「お兄ちゃんが聞くとは思わなかった」


「日本で女の子に聞かれた時の参考にする」


「反省を返して」


「留学は今日だぞ」


「日程をずらすべき」


「ずらさない」


 即答した。


 鏡に知らない姿が映るのは落ち着かない。拳を握っても力の集まる場所が違う。声も、目の高さも、足の裏へ乗る重さも違う。


 だからって、何か月も準備してきた日本行きを、今ここで誰かに決め直されるのはもっと嫌だった。


「戻る日が分からなくても、向こうで調べればいい」


「でも書類が」


「母さんに聞く」


 ハヨンの顔が固まった。


「つながらない」


「どこにいる?」


「分からない。五日前に仕事へ出てから、位置情報も通信も圏外。緊急回線へ三回送ったけど応答なし」


 母さんは家にいない。世界中を飛び回るのはいつものことだ。それでも、家族用の緊急回線まで届かないのは珍しかった。


「じゃあ、母さんはオレがこうなったことを知らない?」


「まだ知らない」


「母さんの薬を勝手に使って、母さんがいない時に?」


 ハヨンはリボンの端を握った。


「……言い返せない」


 壁一面の画面には、送信待ちの文字だけが並んでいた。いちばん上の宛先は母さん。画像も検査値も、まだ一つも開封されていない。


「渡航書類はどうする」


「私が緊急診断書を作った。既存の身分情報はそのまま、急性の身体相変化として航空会社と学校の責任者へ必要な範囲だけ連絡した。保護者署名はお父さん。学校は制服があるけど、式典以外は服装自由だから、緋天衣をそのまま着て通える」


 父さんがスケッチブックへ太い線を引いた。


【紙面:母はいない。父が決める。】


 一度書いてから、最後の四文字を横線で消した。


【紙面:ハミンが決める。】


 ハヨンは試薬の解析表を開いた。


「もう一つ。私の改造だけなら、身体相まで完全には切り替わらない。元の触媒式へ、〇・〇一パーセントだけ、私にもお母さんにも属さない応答が混ざってる」


「〇・〇一?」


「誤差とも言える量。でも、誤差は理由なく目の形を作らない」


 画面に、瓶の底で消えた十三重の円が再現された。


 黒い点がこちらを見ていた。


「本来の薬は留学終了まで効く予定だった。事故のあとの身体がいつ戻るかは、私にも分からない。それでも行く?」


 ハヨンが顔を上げた。


 父さんも、白熊の丸い目でオレを見た。


 決めるのはオレだ。


「行く」


 父さんが大きくうなずき、熊の指でハヨンを示した。


「……お兄ちゃんへ、言うことがある」


 ハヨンは眼鏡を外した。赤みのある目が、まっすぐオレを見る。


「お兄ちゃん。ごめん。心配だった。でも、勝手に変えていい理由にはならなかった」


 十二歳にしては、ちゃんとした謝り方だった。


 だからこそ、すぐに「いい」とは言えなかった。


「今はまだ怒ってる」


「うん」


「戻らなかったら、もっと怒る」


「それは受ける」


「でも、日本には行く。おまえは原因を調べろ」


「分かった」


 ハヨンはもう一度眼鏡をかけた。泣きそうだった顔が、研究者の顔へ戻る。


「三十七時間以内に第一報を出す」


「三十七って何だよ」


「今の私が約束できる最短」


「じゃあ待つ」


 父さんがスケッチブックへ、太いペンで文字を書いた。


【紙面:行け。見ろ。選べ。】


 紙を持つ白熊の手は大きい。


 世界最強の手だ。


 それでも父さんは、オレの代わりに行けとも残れとも書かなかった。


「行ってくる、父さん」


 白熊の拳と、小さくなったオレの拳を合わせた。


 いつもと同じつもりで当てたのに、音が軽かった。


     *


 空港へ向かう車の後部座席で、オレはすぐ眠ってしまった。


 赤い三つ編みが頬へ触れる。慣れない身体は、座っているだけでも疲れる。隣では父さんが膝をそろえ、巨大な白熊のまま窮屈そうに座っていた。


 意識が沈む直前、喉の奥から低い鼻歌が漏れた。


 昔からの癖だ。


 父さんだけが、窓の外から顔を戻した。


 白熊の丸い耳が、オレのほうへわずかに傾いた。


 オレの声より半音低い音が、どこからか返ってきていた。


 まだ、この町を出てもいないのに。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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