第38話「京一が棒を置く日」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
一枚目の原本は、体育館の床下にあった。
正確には、あるはずだった。
「体育祭実施後、同意書の原本は競技用具の点検簿と一緒に三年間保存します」
蓮が床板の番号を確かめる。
「僕が規程を書きました。保管箱は、この下です」
「開ければいいのね」
藍羽がしゃがみ込む。
「待ってください。如月さん、それは床板です」
「だから外すんでしょ」
「鍵があります」
「最初に言いなさいよ」
蓮が管理鍵を差し込む。
床板が音もなく開いた。
中には、空の金属箱が一つあった。
四つ折りにされた白紙が、底へ張りついている。開くと、紙の中央に赤い矢印だけが印刷されていた。
矢印は体育館の外を向いている。
「誘ってるな」
「罠です」と蓮。
「分かりやすくて助かる」
「罠だと言いました」
「罠の先に原本があるかもしれない」
「なくても、教授の用事はある」と紫苑。
先輩が雷綴を肩へ乗せた。
「なら聞きに行こうぜ。オレたちも教授に用がある」
明るい声だった。
けれど、棒を握る右手の古い火傷が白くなっている。
体育館の外では、高等部の運動部が練習をしていた。
バスケットボールが同じ弧を描いて輪へ入る。
野球部の打球は同じ場所へ落ちる。
陸上部は全員、自己記録を更新しない速さで走っていた。疲労も故障も起こさず、大会の日へ最も効率よく近づく速さ。
歓声はない。
失敗がないから、惜しいという声もない。
「あれを毎日やって、楽しいのか?」
先輩が言った。
「勝つ確率は上がる」とハヨン。
「聞き方を変える。ハヨンは楽しいか?」
「観測対象としては興味深い。参加者としては退屈」
「だよな」
先輩は笑った。
矢印は校庭の中央で止まっていた。
白線で巨大な円が描かれている。体育祭の競技用ではない。円周から四十八本の細線が伸び、校舎、体育館、旧体育倉庫、選塔へつながっている。
円の中央へ、一本の赤い線が立ち上がった。
線が人の形になる。
教授だった。
薄緑の髪。サングラス。紫のスーツ。左腕だけを背中へ回し、校庭へ授業をしに来た時と変わらない顔で立っている。
「映像だ」
ハヨンが言う。
「本体の生体反応はない」
『おはよう、西能寺くん』
「教授。朝の挨拶には遅いな」
『遅刻のない朝に、遅い挨拶は存在しないよ』
「そういうの、蓮が嫌うぞ」
「論点はそこではありません」
教授の像が先輩を見る。
『資格停止中にもかかわらず、雷綴を保全してくれたことへ感謝する。君は昔から、預かった役目を投げ出さない』
先輩の棒が、肩の上で少し動いた。
『覚えているかね。君の生来の帯電が、年齢と身体・気の成長に伴って強まり、初めて君の制御を振り切って他人を傷つけた日を』
校庭が消えた。
いや、見えてはいる。
その上へ、古い道場が薄く重なった。
中学生だった先輩が、木の棒を振っている。いまより細い腕。汗だらけの顔。向かいの稽古相手が踏み込み、棒が触れた瞬間、青白い電気が弾ける。
相手が尻もちをつく。
焦げた袖。
胸元の浅い火傷。
周りの人間が先輩から離れる。
その全員の目だけが、いまの先輩を見た。
「幻ではありません」
鈴華は鈴へ触れずに言う。
「保存された記録です」
『あの時、彼は軽傷で済んだ。だが次も同じとは限らないと、君は競技会から外され、道場からも力を封じるよう求められた』
「知ってる。オレの話だからな」
『事故のあと、私は乱れた君の気の流れを整えた。そのうえで、崑崙から流出した法宝の導体芯を魔械文書で解読し、雷綴の外装を作った。身体から溢れる電気を接地点へ逃がし、君が気で許可した分だけ雷として通す棒だ。君を恐れずに済む場所も用意した』
「ああ」
先輩は、すぐに認めた。
「助かった。あんたがいなければ、オレはたぶん棒を捨ててた。委員会で、強いやつを安全な場所へ連れていけば、同じ事故を減らせると思った。それも嘘じゃない」
教授の像の後ろで、古い道場が書き換わる。
雷は出ない。
稽古相手は倒れず、先輩の肩を叩く。
観客が笑う。
いまの先輩の右手から、火傷が消えている。
『零頁が完成すれば、この枝を残せる。君が誰も傷つけなかった先だ。彼の家族も、昔の仲間も、君を見るたび事故を思い出さずに済む。君自身も、力を恐れずに済む』
先輩は答えなかった。
否定もしなかった。
目の前の枝を、まっすぐ見ている。
「先輩」
「待ってくれ、ハミン」
声は穏やかだった。
「ちゃんと惜しませてくれ。欲しくないふりで断ったら、選んだことにならない」
オレは口を閉じた。
稽古相手が笑っている。
先輩の手に傷はない。
誰も一歩引かない。
そんな先があるなら、欲しいに決まっている。
教授がやってきたことを知っていても、助けられた日の礼は消えない。消さなければ敵になれないなら、敵になる方が間違っている。
「教授」
先輩が言った。
「その先で、傷つけられたやつはどうなる」
『傷つかなかった記録へ補完される』
「怪我の話じゃない。体育祭で止められたやつ。文化祭で声を燃やされたやつ。霧崎を忘れたオレ。ハミンから月を取ったあんた。それも、なかったことにするのか」
『必要な痛みだったと理解できる形へ整える』
「便利だな」
先輩が笑う。
寂しそうだった。
「あんたに助けられたことまで、便利に整えられそうだ」
雷綴の握りで、赤い印が開いた。
四十八の目に見える模様が、棒の芯へ食い込んでいる。
「先輩、放してください!」
蓮が叫ぶ。
先輩の腕から気が吸われた。
青白い電気ではない。血に近い赤の電流が、雷綴から校庭の線へ落ちる。
体育館の照明が一斉に消えた。
陸上部の生徒たちは、同じ速さで走り続ける。その進路を、赤い線が横切った。
「藍羽!」
「分かってる!」
オレと藍羽が同時に走る。
先頭の生徒の腹へ腕を回し、線の外へ運ぶ。本人は走る動作をやめない。地面へ下ろせば、また決められたコースへ戻ろうとする。
「こいつら、言うこと聞かないぞ!」
「聞いてたら固定じゃない!」
藍羽が二人を抱え、コースの向きを外側へ変える。正面から止めるのではなく、足が進みたい方向へ円を広げる。
「戦わなくていいのか」と紫苑。
「あれは先輩の棒だ!」
オレは三人目の肩を押す。
「オレたちが選ぶな。こいつらをどかす!」
先輩が両膝をついた。
棒を握った右手から、赤い線が腕へ上がる。管理刻印が、使用者の気を選塔へ集めている。
『手を離せば、事故は繰り返される』
教授の声が校庭へ響く。
『雷綴を失えば、余った力の逃げ道も失う。君はまた誰かを傷つける』
「そうかもしれない」
先輩が立ち上がった。
両手で雷綴を持つ。
「先輩、気の吸収率が上がっています。あと十秒で安全値を越える!」
「蓮。地面の経路を見ろ」
「三本です。東の接地杭、旧体育倉庫の地線、校舎避雷網。ただし、一度に流せば――」
「一度にはやらない」
先輩は雷綴を、校庭の円の中央へ置いた。
乾いた音がした。
初めて会った時から、先輩の手にはいつも棒があった。
戦う時も、警備する時も、ソファで寝る時も、手を伸ばせば届くところへ置いていた。
いま、その手には何もない。
『西能寺くん』
「教授。これをくれたことには礼を言う」
先輩は素手を赤い電流へ伸ばした。
「でも、流す道を覚えたのはオレの身体だ」
指が触れる。
青白い光が、赤を内側から裂いた。
先輩の靴底から、細い放射模様が地面へ走る。棒が接地していなくても、両足が土を踏んでいる。気は足裏へ落ち、腰を通り、肩から指へ返る。
教授に偏った気の流れを整えてもらい、地面へ流す最初の操作を教わった。そこから、おっさんに循環を教わり、先輩自身が何度も稽古して身体へ覚えさせた流れだ。
一度目の大放電。
先輩は電流を東の接地杭へ送った。
雷は自在に曲がらない。指先から地面に刻まれた導線へ沿って、短い距離を走る。
接地杭が青白く光る。
焦げ臭い風が吹いた。
「右腕の感覚は?」とハヨン。
「指が三本、遠い!」
「比喩?」
「半分はな!」
管理刻印が次の電流を引き上げる。
先輩の肩が跳ねた。
「先輩、やめるならいまだ!」
オレは叫んだ。
「オレが選んだハミンの味方だ!」
先輩が叫び返す。
「途中で勝手にやめさせるな!」
「なら最後まで立て!」
「言われなくても!」
二度目。
左の掌で流れを受け、旧体育倉庫の地線へ落とす。
床下へ埋められた銅線が光った。体育祭の時、旗柱を固定するために使った線だ。あの日に蓄えられた残響が、電気へ押し出される。
歓声。
転んだ声。
やり直したいという小さな声。
それらが燃えずに、空気へほどけた。
先輩の左腕が下がる。
「握力低下。心拍一七六」とハヨン。
「まだ二回だ」
「大放電の安全上限は三回。残り一回。終えた直後に棒を握るのは禁止」
「置いたから問題ないな」
「言葉遊びをしてる場合?」
「余裕があるように見せてるんだよ」
実際には、先輩の膝が震えていた。
教授の像が手を上げる。
最後の赤い電流が、雷綴の中央へ集まった。
棒を砕けば止まる。
オレにも分かった。
でも、中には原典の頁がある。空間を現在へつなぐ導電芯だ。壊せば文化祭で集められた声も、体育祭の選片も、返る道ごと焼ける。
「刻印だけだ!」と蓮。
「棒の握りから九センチ、赤い外周だけ! 中核へ入れないでください!」
「細かい注文だな!」
「壊していい場所を言っています!」
藍羽が最後の生徒を線の外へ押し出す。
「こっちは空いた!」
「先輩!」
オレが呼ぶ。
先輩は返事をしない。
右腕が上がらない。
左も指が曲がらない。
それでも足は地面を踏んでいた。
棒がなくても、何度も稽古した立ち方だった。
肩を下げる。
肘を落とす。
手で掴まず、身体の周りへ電流の通る細い道を作る。
三度目。
雷綴から校舎の避雷網へ、青白い光が走った。
大きな音は一つだけだった。
その後に、細い雷が三方向の地面を這う。
東の杭。
旧体育倉庫の地線。
校舎の避雷網。
三本が選塔の手前で交わり、赤い管理刻印の外周だけを焼いた。
先輩が倒れる。
オレは紅燕歩で滑り込み、頭が地面へ当たる前に肩を受けた。
「立てって言っただろ」
「三回終わったあとまで含むとは聞いてない」
「予定へ書いとけ」
「それは蓮の役だ」
先輩は笑った。
両腕は動いていない。
心臓が速すぎる。ハヨンが胸へ計測板を当て、藍羽が濡らした布を首へ置く。
「七分間、絶対安静」
「四分で」
「交渉不可」
赤い教授の像が乱れた。
『君の事故は消えないぞ、西能寺くん』
「知ってる」
先輩は空を見た。
「だから次は、オレが流す」
像が消えた。
校庭へ、失敗したシュートの音がした。
輪へ当たったボールが跳ねる。
投げた生徒が、初めて困った顔をした。まだ目覚めてはいない。けれど次の球は、さっきと少し違う弧を描いた。
*
雷綴の芯は無事だった。
外側の黒い布だけを慎重にはがす。
焼けた管理刻印の下から、青い文字が現れた。
『流せ、蓄えるな』
ハヨンが読んだ。
「原典頁の最初の命令。赤い刻印は後から重ねられたもの」
鈴華が台帳へ写す。
「雷綴は、法宝本来の姿では選択や気を集積する道具ではなかった。使用者の余剰な気や電気を地へ返す導体です」
崑崙の道士たちが気を通して使った道具。それを古い呼び方で法宝という。完成した法宝には一つずつ固有の名があり、その名も機能を束ねる術式の一部になる。名のないものは法宝ではなく、まだ読み解かれていない部材か、ただの道具だ。委員章や学校の計測器まで、珍しいからといって法宝になるわけじゃない。
教授はアトランティスの錬金術と魔械文書で流出した中核へ外装を加え、原文から復元した固有名どおり、雷綴、時門時計、心響鈴として起こし直した。
「文化祭の時も」
蓮が、青い文字の隣へ浮かぶ細かな記録を指した。
《自発声・過積載》
《返却路・一時開放》
《管理刻印により再収集》
あの舞台で、命令された歌は光らなかった。
自分から声を出した者の周りだけが光り、選塔の補完圧が弱まった。その出口を、管理刻印が無理に閉じて、余った声を蓄え直していた。
「事故じゃなかった」と先輩。
腕を動かせないので、地面へ寝たまま文字を見ている。
「返りかけてたんだな」
「三点同期、という記録もあります」
鈴華が焦げ跡へ顔を寄せる。
青い三角形がある。
一つの角に雷綴。
一つに時門時計。
一つに心響鈴。
三角形の中央には、短い注意書き。
《同意鍵の解除後、空間・時間・認識を同時接続》
「先に同意書。そのあと三つの法宝」
蓮が言った。
「順番を間違えて道具だけ起動すれば、また選塔へ集められる」
「一つは戻したぞ」
オレは雷綴を拾おうとした。
「触るな!」
先輩とハヨンが同時に言った。
「まだ熱い」とハヨン。
「それと、オレの棒だ」と先輩。
「置いたんじゃなかったのか」
「置くのと捨てるのは違う」
「面倒だな」
「ハミンにだけは言われたくない」
藍羽が絶縁布で雷綴を包み、先輩の横へ置いた。
棒は黒く焦げている。
管理刻印だけが消え、中の導電芯は細い青のまま脈打っていた。
蓮の閉じた時門時計が、その光へ合わせるように三度ためらった。
かち。
かち。
かち。
四度目が来る前に、銀の蓋の表面へ赤い目が浮かんだ。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




