第37話「完璧な朝」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
水鏡を抜けた翌朝、世界は正しすぎる形になっていた。
前日の午後、オレたちは道場の映像で、学校中の人間が《今日も、最適な一日です》と同じ声を繰り返すのを見た。
すぐ学校へ戻った。
けれど同期発話は十三秒で解けていた。中庭の生徒も、教室の先生も、自分が何を言ったか覚えていない。教授の姿はなく、校内放送の記録にも声は残らず、選塔へ予備固定の赤い残響だけが十二本伸びていた。
水鏡の向こうで消耗した先輩と蓮、鈴華、紫苑を、そのまま塔へ連れていくわけにはいかなかった。オレたちは残響の位置を記録し、一度、道場へ戻った。
十三秒の試験が終わったのか。
次の試験を待っているのか。
答えは夜の間には来なかった。
一晩たっても、一秒の手前で止まった都の景色は目から消えなかった。空中で丸いままの紅茶。笑顔になる直前の子ども。四十八の空欄へ満ちていく赤い文字。
なのに、道場の障子を開けた向こうには、いつもの朝日があった。
雪はもうない。庭の砂には箒の筋が一本ずつ平行に走り、いつも藍羽と踏み荒らしていた跡が、最初からなかったように消えている。
「七時二分」
蓮がひびのない時門時計を見る。
「道場の時計、街の基準時、時門時計。全部一致しています。昨日の十三秒以外に、大きな欠落時間はない」
「朝飯の時刻まで補完されてるな」
「まだ断定しないで」
「腹が減ったあとでな」
台所から、包丁の音が聞こえた。
とん、とん、とん、とん。
同じ強さ。同じ間隔。
おっさんが大根を切っている。厚さは全部同じだった。鍋では粥が一度も吹きこぼれず、味噌汁の湯気まで真っすぐ上がっている。
ひなたが椀を並べていた。
「おはよう、ハミン。朝食は七時十五分です」
笑顔だった。
いつもの、目尻が少し下がる笑い方だ。
けれど椀を一つ置くたび、まったく同じ角度で笑った。
「おはよう、藍羽。朝食は七時十五分です」
かたん。
「おはよう、ハヨンちゃん。朝食は七時十五分です」
かたん。
「ひなた」
「おはよう、ハミン。朝食は七時十五分です」
「二回目だぞ」
「朝食は七時十五分です」
ひなたの手を掴む。
脈はある。冷たくもない。手を引けば、転ばないよう一歩こちらへ出る。人形じゃない。
その一歩が、きれいすぎた。
椀を落とさず、オレの足を踏まず、次の動きへ最短で戻る。
「固定が始まった」
「位相校正器、管理番号七三」
ハヨンが白雲衣の袖から位相校正器を出した。
「お兄ちゃん、測っていい?」
「ひなたに針を刺さないなら」
「接触しない」
「やれ」
青い線がひなたの輪郭をなぞる。
線は一つしか出なかった。
普段なら手を止める、続ける、話す、怒る。細い候補が身体の周りへ何本も揺れる。それが全部、椀を並べ終えて席につく一本へ重なっている。
「判断能力の消失ではない。候補の発生直後に、最大確率の動作だけが通されてる」
「止まってはいないのね」
藍羽がひなたの前へ回る。
「ひなた。今日、私の髪、変じゃない?」
「似合ってるよ」
返事が早すぎた。
藍羽の長い濃紺の髪は、水鏡を通ったせいで右半分だけ跳ねている。いつものひなたなら、まず笑ってから櫛を持ってくる。
「直してないのに」
「似合ってるよ」
藍羽の顔から笑いが消えた。
おっさんが味噌汁を運んでくる。髭の先まで乱れていない。オレたちが帰ったことも、床の十三重円がまだ青く濡れていることも聞かない。
「朝食じゃ。食えば遅刻せぬ」
「おっさん」
「食えば遅刻せぬ」
「今朝の修行は?」
「食えば遅刻せぬ」
藍羽が父親の肩へ触れた。
おっさんはその手を払いもしない。いつもなら、問答無用で朝稽古の構えに入る言い方だった。
廊下の奥で、白い腹が動いた。
父さんだけが、柱の陰からこちらを見ている。
白熊の顔はもともと同じ表情だ。だから、固定されているのかどうか分からない。
父さんは紙を掲げた。
【紙面:考えろ。】
「父さんは平気なんだな」
うなずく。
白沢衣は、父さんを一人の選択点として成立させる観測を完全に拒んでいる。白熊の外形は見えても、零頁には布の白、足跡、父さんが外へ渡した力が別々の結果として映るだけで、中の着用者へ一つの住所を結べない。最も正しい行動を決めようにも、父さんの候補そのものが見えないらしい。
「どうやって起こす?」と先輩。
父さんは別の紙を出した。
【紙面:起こせない。本人の足場を残せ。】
「殴っても?」
首を横へ振る。
「気合を入れても?」
もう一度、横。
「水をかけても?」
父さんは先輩を見てから、紙の裏へ書いた。
【紙面:掃除が増える。】
「そこじゃないだろ」とオレ。
ひなたは人数分の椀を並べ終え、七時十五分ちょうどに座った。
オレたちも席へつく。
粥は熱すぎず、ぬるくもない。味噌汁の塩分は薄め。焼き魚には骨が一本も残っていなかった。
「うまい」
それが、少し怖かった。
父さんは箸を取らず、門の外へ戻った。白沢衣が父さんを隠しても、観測できない空白の周囲は頁へ引かれる。それを知っているからだ。
おっさんは一度も粥をこぼさない。
ひなたも一度もむせない。
藍羽は茶碗を持ったまま、二人を見ていた。
「学校へ行く」
オレは立った。
「こんな時に?」
「こんな時だからだ。教授が使ってるのは学校だろ」
紫苑が戸口へ寄りかかる。
「固定されてる連中は、邪魔をしないのか」
「最大確率が登校なら、学校へ集まる」
ハヨンの画面で、赤い線が街の一方向へ流れていた。
「星環学園」
全員の声が重なった。
ひなたまで、同じ高さで言った。
*
街は、平和だった。
信号が赤になる前に、最後の歩行者が渡り切る。
自転車は誰ともぶつからない。
交差点の角で、いつも上級生に鞄を持たされていた中学生が、一人で歩いていた。上級生たちは三歩離れ、前だけを見ている。絡むという候補が、朝の最適解から消されている。
踏切へ駆け込む人はいない。電車は一秒も遅れない。泣く子どもも、怒鳴る大人もいない。
「悪くないな」
口へ出すと、藍羽が振り返った。
「ハミン?」
「今朝だけ見ればだ。事故もない。あいつも鞄を取られてない。誰も遅刻しない」
「だから、このままでいいって言うの?」
「言ってない」
上級生の一人が、落ちた空き缶を拾った。ごみ箱へ入れる。立派な行動だった。
でも、中学生が礼を言うより先に歩き出す。
礼を待つ必要がないから。相手を見て、前にしたことを思い出して、気まずくなる必要もないから。
「平和でも、次に何をするかが一つしかないなら、生きてるとは言いたくない」
藍羽が少しだけ肩の力を抜いた。
「先に最後まで言いなさいよ」
「おまえが途中で聞いた」
「途中で止めたのは誰?」
「教授」
「それはそう」
先輩が笑った。蓮は時計へ時刻を書き込み、鈴華は黒い袖の中で鈴を握っている。鳴らしてはいない。固定された人へ幻を重ねても、その人自身の選択にはならないからだ。
校門前の購買所に、人の列があった。
誰も押さない。誰も迷わない。全員が同じパンを一つ取り、同じ金額を出す。
透明な袋には、《一日の不足栄養を補う全粒粉豆乳パン》と書いてある。
「昼飯まで補完されてるぞ」
「栄養面では合理的」とハヨン。
「味は?」
「嗜好は栄養ではない」
「重要だろ」
列へ並ぶ。
前の生徒が棚からパンを取る。
次も同じ。
その次も。
棚の端に一個だけ、袋の角が潰れた焼きそばパンがあった。昨日の売れ残りだ。麺が片側へ寄り、紅生姜だけが袋へ張りついている。
「それ、買う人はいませんよ」
購買のおばさんが、同じ角度で笑った。
「いる。オレだ」
「本日の推奨はこちらです」
「焼きそばパンはいくらだ」
「本日の推奨はこちらです」
値札を見る。金を置く。潰れたパンを取った。
背中で、列の足音が一拍乱れた。
振り返る。
誰も止まっていない。
ただ、一番後ろにいた一年生が、全粒粉パンと売り切れた棚を見比べた。
次の瞬間には、全粒粉パンを取る。
起こせなかった。
でも、目が一度だけ動いた。
足場は残せる。
「まずい?」と藍羽。
焼きそばパンを一口かじる。冷たい。麺の端は硬い。紅生姜が一か所に固まって、そこだけ辛い。
「うまい」
「顔と合ってない」
「選んだ味だ」
袋を藍羽へ差し出す。
「いらない」
「食ってから選べ」
「食べないのを選んだの」
それでいい。
*
校舎の時計は、八時十四分を示していた。
廊下を歩く生徒は全員、右側を同じ速さで進む。靴音が一つに聞こえる。
教室では教師たちが同じ秒に出席簿を開いた。
ぱらり。
隣の教室。
ぱらり。
上の階。
ぱらり。
校舎全体が、一冊の巨大な本みたいに頁をめくった。
赤い線が、廊下を横切った。
藍羽の足が揃う。
先輩は雷綴を肩から下ろし、校内警備で決められた角度へ立てた。蓮は時計を開き、鈴華は放送設備の予定を読み、ハヨンは大学部研究室へ最短の方向を向く。紫苑まで、教授から与えられていた待機場所へ歩き出す。
朝から固定の外へいた仲間も、選塔に近い校舎の中では捕まる。
オレの足にも赤い線は来た。
一歩目を男の運動地図、次を女の身体の重心へ合わせようとして、線が二つに割れる。時間・循頁に男の帰還枝を閉じたままでは、教授もオレの《最もありそうな一歩》を一つへ決めきれない。
自由なんじゃない。
まだ、引っかかる場所が二つあるだけだ。
「八時十五分に、旧体育倉庫前」
オレは藍羽へ言った。
「分かった。八時十五分に、旧体育倉庫前」
「一分待っても来なかったら?」
「八時十五分に、旧体育倉庫前」
藍羽は旧体育倉庫へ向かった。
オレは逆へ歩く。
ハヨンへ目的を聞かれれば、一分遅れるためだと答えるところだった。
藍羽を怒らせたいだけでは、と言われれば、それもある。
でもハヨンは、研究室へ向かう歩幅を崩さなかった。
八時十五分。
旧体育倉庫の前で、藍羽は待っていた。背筋を伸ばし、扉の右。人の通行を妨げない最適な位置。
オレは角の向こうで止まった。
約束を守るなら、いま出る。
固定がオレの足首へ赤い糸を巻いた。
身体が前へ出たがる。待たせない。揉めない。遅れない。最も正しい方へ。
オレは壁へ背をつけ、焼きそばパンの残りをもう一口食った。
八時十六分。
角を曲がる。
「遅い!」
藍羽の声が廊下へ響いた。
すぐ後に、彼女自身が目を見開く。
「……私、いま」
「怒った」
「分かってる!」
「もう一回言えるか?」
「遅い! 理由も言わずに一分待たせるな! こんな時に試すなら先に相談しなさい!」
「起きたな」
「殴っていい?」
「それは固定されてないおまえが選べ」
拳が飛んできた。
避ける。
藍羽の拳は壁の一寸手前で止まった。
「避けるな!」
「殴られるのは選んでない」
藍羽はもう一発を構え、途中で笑った。
その笑顔は、今朝のひなたと角度が違った。
「どうして一分だったの?」
「十分だと本気で怒るだろ」
「一分でも本気」
「ちょうどよかったな」
藍羽が壁を蹴る。
その音が、二つ、短く返った。
とん、ととん。
文化祭でオレたちが最後に使った、揃えないための拍だ。
オレも踵で床を鳴らした。
とん。ととん。とん。
警備の姿勢で止まっていた先輩の手が、棒の石突を一度だけ外して鳴らす。
目を瞬き、次は自分で二度鳴らした。
蓮の秒針が一度待つ。蓮自身が、決められた次の秒を送らずに竜頭を押さえた。
鈴華は鈴を鳴らさず、爪で金属を二度だけ弾く。二度目の間を、自分で少し長くした。
ハヨンが研究室の扉へ伸ばした手を止め、七拍目を抜いた。
紫苑は待機札へ結果を書きかけ、八拍目へ届く前に指を止めた。
一人ずつ、教授に割り当てられた次の動作から外れる。
不規則な拍が廊下を走る。
文化祭の舞台で、誰かの声へ合わせるのではなく、自分で息を選んだ時のリズム。
教室で、椅子が鳴った。
ひなたが立っている。
「ハミン」
「起きたか」
「朝食のことしか考えられなくなって……次に気づいたら、ここにいた」
「怖かった?」
「怖い。でも」
ひなたは自分の頬へ触れた。
「ちゃんと笑ってた気もする。嫌じゃない笑顔で。だから、どこから私じゃなかったのか分からない」
その言葉が一番怖かった。
固定は、人を眠らせて偽物を動かすんじゃない。
本人が選びそうなことを、本人に続けさせる。
「全部ひなただった」
オレは言った。
「でも、次を一つにされた。そこを取り返す」
ひなたがうなずく。
別の教室で、生徒が一人だけ立ち止まった。音楽室では、文化祭に参加した女子がピアノの同じ音を外した。
起きる者がいる。
起きない者の方が、ずっと多い。
「全校放送で流せば?」と先輩。
「駄目」
鈴華が静かに答えた。
「この拍を聞いた方が全員、自分で舞台へ参加したわけではありません。わたくしたちが《起きるべき声》として押し込めば、教授と同じです」
「本人が拾う分だけか」
「はい」
オレは廊下の赤い非常灯を見上げた。
時間停止の合図ではない。
塔から雲も降りていない。挑戦も請求も、互いの「選ぶ」もなかった。これは正式な選闘じゃない。だからオレと相手の二人だけではなく、固定の外へ出た全員が同時に動ける。
逆に、選闘の勝敗で一気に解くこともできない。
「教授を殴って終わり、じゃないな」
「それで終わるなら、最初からお父さんを連れてきてる」とハヨン。
「父さんは中へ入れない」
「だから、最初から無理」
「二回言うな」
*
委員会室は空だった。
資格停止の赤い紙が、三つの机へ置かれたままになっている。
蓮は自分の机へ座らず、書類棚を開けた。
「ない」
「何が?」
「体育祭の安全同意書。文化祭の舞台参加同意書。秋季校外研修(星見島)の同意書」
鈴華が台帳をめくる。
「原本保管欄は、今朝六時に一括移管。《卒業行事統合保管》」
「卒業式はまだ先だろ」
「三日後です」と蓮。
「近いな」
「前から三日後だった!」
蓮が珍しく机を叩いた。
時門時計の開いた文字盤へ赤い文字が浮かぶ。
秒針は、正しい一秒だけを刻んでいる。そのたび、机の下にも赤い文字が増えた。
体育祭。危険時停止。
文化祭。舞台保全。
星見島。緊急避難。
三つの文言から細い赤線が伸び、選塔の絵へ集まっている。
「僕が作った書式です」
蓮の声が低くなった。
「安全のために、僕が秒単位で条件を決めた。署名欄を作った。教授は、別々の行事で得た同意を一つの継続同意として登録し直したんだ」
「蓮がやったことじゃない」と先輩。
「書き換えたのは僕じゃない。でも、書き換えられる欄を作ったのは僕です。責任がないとは言わない」
「じゃあ、責任を取れ」
蓮がオレを見る。
「辞めるとか、一人で罰を受けるとかじゃない。原本を見つけろ。どこを変えられたか、全部出せ」
「……分かった」
蓮は時計を握った。
「僕が探す」
赤い文面を委員章へ移し終えると、蓮は時計の蓋を閉じた。机の下の線も、校内の強制動作も消えない。時門時計を閉じても、親時計側の固定までは切れない。
「オレたちもだ」
「予定に入ってない」
「入れろ」
「三日分がもう埋まってる」
「余白へ書け」
「君は簡単に言うね」
「簡単だからな」
ひなたがホワイトボードを裏返した。
白い面へ、大きく書く。
《卒業式までに、みんなの選べるところを返す》
「予定っていうより、目標だね」
「時間が入ってません」と蓮。
「じゃあ三日後まで」
「急に粗い」
校内放送の起動音が鳴った。
天井のスピーカーから、教授の声が落ちる。
『おはよう、生徒諸君。今朝は遅刻者ゼロ、事故ゼロ、校内争議ゼロ。協力に感謝する』
いつもの教師の声だった。
明るく、聞き取りやすい。
教室という教室で、生徒たちが同時に顔を上げる。
『最適化は順調だ。卒業式をもって、全工程を完了する』
放送が切れた。
校舎中で、頁をめくる音が一つに重なる。
ぱらり。
窓の外では、誰もいないはずの選塔屋上へ、四十八枚の赤い旗が上がっていた。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




