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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第七章「絶対運命を補完しない」
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37/48

第37話「完璧な朝」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 水鏡を抜けた翌朝、世界は正しすぎる形になっていた。


 前日の午後、オレたちは道場の映像で、学校中の人間が《今日も、最適な一日です》と同じ声を繰り返すのを見た。


 すぐ学校へ戻った。


 けれど同期発話は十三秒で解けていた。中庭の生徒も、教室の先生も、自分が何を言ったか覚えていない。教授の姿はなく、校内放送の記録にも声は残らず、選塔へ予備固定の赤い残響だけが十二本伸びていた。


 水鏡の向こうで消耗した先輩と蓮、鈴華、紫苑を、そのまま塔へ連れていくわけにはいかなかった。オレたちは残響の位置を記録し、一度、道場へ戻った。


 十三秒の試験が終わったのか。


 次の試験を待っているのか。


 答えは夜の間には来なかった。


 一晩たっても、一秒の手前で止まった都の景色は目から消えなかった。空中で丸いままの紅茶。笑顔になる直前の子ども。四十八の空欄へ満ちていく赤い文字。


 なのに、道場の障子を開けた向こうには、いつもの朝日があった。


 雪はもうない。庭の砂には箒の筋が一本ずつ平行に走り、いつも藍羽と踏み荒らしていた跡が、最初からなかったように消えている。


「七時二分」


 蓮がひびのない時門時計を見る。


「道場の時計、街の基準時、時門時計。全部一致しています。昨日の十三秒以外に、大きな欠落時間はない」


「朝飯の時刻まで補完されてるな」


「まだ断定しないで」


「腹が減ったあとでな」


 台所から、包丁の音が聞こえた。


 とん、とん、とん、とん。


 同じ強さ。同じ間隔。


 おっさんが大根を切っている。厚さは全部同じだった。鍋では粥が一度も吹きこぼれず、味噌汁の湯気まで真っすぐ上がっている。


 ひなたが椀を並べていた。


「おはよう、ハミン。朝食は七時十五分です」


 笑顔だった。


 いつもの、目尻が少し下がる笑い方だ。


 けれど椀を一つ置くたび、まったく同じ角度で笑った。


「おはよう、藍羽。朝食は七時十五分です」


 かたん。


「おはよう、ハヨンちゃん。朝食は七時十五分です」


 かたん。


「ひなた」


「おはよう、ハミン。朝食は七時十五分です」


「二回目だぞ」


「朝食は七時十五分です」


 ひなたの手を掴む。


 脈はある。冷たくもない。手を引けば、転ばないよう一歩こちらへ出る。人形じゃない。


 その一歩が、きれいすぎた。


 椀を落とさず、オレの足を踏まず、次の動きへ最短で戻る。


「固定が始まった」


「位相校正器、管理番号七三」


 ハヨンが白雲衣の袖から位相校正器を出した。


「お兄ちゃん、測っていい?」


「ひなたに針を刺さないなら」


「接触しない」


「やれ」


 青い線がひなたの輪郭をなぞる。


 線は一つしか出なかった。


 普段なら手を止める、続ける、話す、怒る。細い候補が身体の周りへ何本も揺れる。それが全部、椀を並べ終えて席につく一本へ重なっている。


「判断能力の消失ではない。候補の発生直後に、最大確率の動作だけが通されてる」


「止まってはいないのね」


 藍羽がひなたの前へ回る。


「ひなた。今日、私の髪、変じゃない?」


「似合ってるよ」


 返事が早すぎた。


 藍羽の長い濃紺の髪は、水鏡を通ったせいで右半分だけ跳ねている。いつものひなたなら、まず笑ってから櫛を持ってくる。


「直してないのに」


「似合ってるよ」


 藍羽の顔から笑いが消えた。


 おっさんが味噌汁を運んでくる。髭の先まで乱れていない。オレたちが帰ったことも、床の十三重円がまだ青く濡れていることも聞かない。


「朝食じゃ。食えば遅刻せぬ」


「おっさん」


「食えば遅刻せぬ」


「今朝の修行は?」


「食えば遅刻せぬ」


 藍羽が父親の肩へ触れた。


 おっさんはその手を払いもしない。いつもなら、問答無用で朝稽古の構えに入る言い方だった。


 廊下の奥で、白い腹が動いた。


 父さんだけが、柱の陰からこちらを見ている。


 白熊の顔はもともと同じ表情だ。だから、固定されているのかどうか分からない。


 父さんは紙を掲げた。


【紙面:考えろ。】


「父さんは平気なんだな」


 うなずく。


 白沢衣は、父さんを一人の選択点として成立させる観測を完全に拒んでいる。白熊の外形は見えても、零頁には布の白、足跡、父さんが外へ渡した力が別々の結果として映るだけで、中の着用者へ一つの住所を結べない。最も正しい行動を決めようにも、父さんの候補そのものが見えないらしい。


「どうやって起こす?」と先輩。


 父さんは別の紙を出した。


【紙面:起こせない。本人の足場を残せ。】


「殴っても?」


 首を横へ振る。


「気合を入れても?」


 もう一度、横。


「水をかけても?」


 父さんは先輩を見てから、紙の裏へ書いた。


【紙面:掃除が増える。】


「そこじゃないだろ」とオレ。


 ひなたは人数分の椀を並べ終え、七時十五分ちょうどに座った。


 オレたちも席へつく。


 粥は熱すぎず、ぬるくもない。味噌汁の塩分は薄め。焼き魚には骨が一本も残っていなかった。


「うまい」


 それが、少し怖かった。


 父さんは箸を取らず、門の外へ戻った。白沢衣が父さんを隠しても、観測できない空白の周囲は頁へ引かれる。それを知っているからだ。


 おっさんは一度も粥をこぼさない。


 ひなたも一度もむせない。


 藍羽は茶碗を持ったまま、二人を見ていた。


「学校へ行く」


 オレは立った。


「こんな時に?」


「こんな時だからだ。教授が使ってるのは学校だろ」


 紫苑が戸口へ寄りかかる。


「固定されてる連中は、邪魔をしないのか」


「最大確率が登校なら、学校へ集まる」


 ハヨンの画面で、赤い線が街の一方向へ流れていた。


「星環学園」


 全員の声が重なった。


 ひなたまで、同じ高さで言った。


     *


 街は、平和だった。


 信号が赤になる前に、最後の歩行者が渡り切る。


 自転車は誰ともぶつからない。


 交差点の角で、いつも上級生に鞄を持たされていた中学生が、一人で歩いていた。上級生たちは三歩離れ、前だけを見ている。絡むという候補が、朝の最適解から消されている。


 踏切へ駆け込む人はいない。電車は一秒も遅れない。泣く子どもも、怒鳴る大人もいない。


「悪くないな」


 口へ出すと、藍羽が振り返った。


「ハミン?」


「今朝だけ見ればだ。事故もない。あいつも鞄を取られてない。誰も遅刻しない」


「だから、このままでいいって言うの?」


「言ってない」


 上級生の一人が、落ちた空き缶を拾った。ごみ箱へ入れる。立派な行動だった。


 でも、中学生が礼を言うより先に歩き出す。


 礼を待つ必要がないから。相手を見て、前にしたことを思い出して、気まずくなる必要もないから。


「平和でも、次に何をするかが一つしかないなら、生きてるとは言いたくない」


 藍羽が少しだけ肩の力を抜いた。


「先に最後まで言いなさいよ」


「おまえが途中で聞いた」


「途中で止めたのは誰?」


「教授」


「それはそう」


 先輩が笑った。蓮は時計へ時刻を書き込み、鈴華は黒い袖の中で鈴を握っている。鳴らしてはいない。固定された人へ幻を重ねても、その人自身の選択にはならないからだ。


 校門前の購買所に、人の列があった。


 誰も押さない。誰も迷わない。全員が同じパンを一つ取り、同じ金額を出す。


 透明な袋には、《一日の不足栄養を補う全粒粉豆乳パン》と書いてある。


「昼飯まで補完されてるぞ」


「栄養面では合理的」とハヨン。


「味は?」


「嗜好は栄養ではない」


「重要だろ」


 列へ並ぶ。


 前の生徒が棚からパンを取る。


 次も同じ。


 その次も。


 棚の端に一個だけ、袋の角が潰れた焼きそばパンがあった。昨日の売れ残りだ。麺が片側へ寄り、紅生姜だけが袋へ張りついている。


「それ、買う人はいませんよ」


 購買のおばさんが、同じ角度で笑った。


「いる。オレだ」


「本日の推奨はこちらです」


「焼きそばパンはいくらだ」


「本日の推奨はこちらです」


 値札を見る。金を置く。潰れたパンを取った。


 背中で、列の足音が一拍乱れた。


 振り返る。


 誰も止まっていない。


 ただ、一番後ろにいた一年生が、全粒粉パンと売り切れた棚を見比べた。


 次の瞬間には、全粒粉パンを取る。


 起こせなかった。


 でも、目が一度だけ動いた。


 足場は残せる。


「まずい?」と藍羽。


 焼きそばパンを一口かじる。冷たい。麺の端は硬い。紅生姜が一か所に固まって、そこだけ辛い。


「うまい」


「顔と合ってない」


「選んだ味だ」


 袋を藍羽へ差し出す。


「いらない」


「食ってから選べ」


「食べないのを選んだの」


 それでいい。


     *


 校舎の時計は、八時十四分を示していた。


 廊下を歩く生徒は全員、右側を同じ速さで進む。靴音が一つに聞こえる。


 教室では教師たちが同じ秒に出席簿を開いた。


 ぱらり。


 隣の教室。


 ぱらり。


 上の階。


 ぱらり。


 校舎全体が、一冊の巨大な本みたいに頁をめくった。


 赤い線が、廊下を横切った。


 藍羽の足が揃う。


 先輩は雷綴を肩から下ろし、校内警備で決められた角度へ立てた。蓮は時計を開き、鈴華は放送設備の予定を読み、ハヨンは大学部研究室へ最短の方向を向く。紫苑まで、教授から与えられていた待機場所へ歩き出す。


 朝から固定の外へいた仲間も、選塔に近い校舎の中では捕まる。


 オレの足にも赤い線は来た。


 一歩目を男の運動地図、次を女の身体の重心へ合わせようとして、線が二つに割れる。時間・循頁に男の帰還枝を閉じたままでは、教授もオレの《最もありそうな一歩》を一つへ決めきれない。


 自由なんじゃない。


 まだ、引っかかる場所が二つあるだけだ。


「八時十五分に、旧体育倉庫前」


 オレは藍羽へ言った。


「分かった。八時十五分に、旧体育倉庫前」


「一分待っても来なかったら?」


「八時十五分に、旧体育倉庫前」


 藍羽は旧体育倉庫へ向かった。


 オレは逆へ歩く。


 ハヨンへ目的を聞かれれば、一分遅れるためだと答えるところだった。


 藍羽を怒らせたいだけでは、と言われれば、それもある。


 でもハヨンは、研究室へ向かう歩幅を崩さなかった。


 八時十五分。


 旧体育倉庫の前で、藍羽は待っていた。背筋を伸ばし、扉の右。人の通行を妨げない最適な位置。


 オレは角の向こうで止まった。


 約束を守るなら、いま出る。


 固定がオレの足首へ赤い糸を巻いた。


 身体が前へ出たがる。待たせない。揉めない。遅れない。最も正しい方へ。


 オレは壁へ背をつけ、焼きそばパンの残りをもう一口食った。


 八時十六分。


 角を曲がる。


「遅い!」


 藍羽の声が廊下へ響いた。


 すぐ後に、彼女自身が目を見開く。


「……私、いま」


「怒った」


「分かってる!」


「もう一回言えるか?」


「遅い! 理由も言わずに一分待たせるな! こんな時に試すなら先に相談しなさい!」


「起きたな」


「殴っていい?」


「それは固定されてないおまえが選べ」


 拳が飛んできた。


 避ける。


 藍羽の拳は壁の一寸手前で止まった。


「避けるな!」


「殴られるのは選んでない」


 藍羽はもう一発を構え、途中で笑った。


 その笑顔は、今朝のひなたと角度が違った。


「どうして一分だったの?」


「十分だと本気で怒るだろ」


「一分でも本気」


「ちょうどよかったな」


 藍羽が壁を蹴る。


 その音が、二つ、短く返った。


 とん、ととん。


 文化祭でオレたちが最後に使った、揃えないための拍だ。


 オレも踵で床を鳴らした。


 とん。ととん。とん。


 警備の姿勢で止まっていた先輩の手が、棒の石突を一度だけ外して鳴らす。


 目を瞬き、次は自分で二度鳴らした。


 蓮の秒針が一度待つ。蓮自身が、決められた次の秒を送らずに竜頭を押さえた。


 鈴華は鈴を鳴らさず、爪で金属を二度だけ弾く。二度目の間を、自分で少し長くした。


 ハヨンが研究室の扉へ伸ばした手を止め、七拍目を抜いた。


 紫苑は待機札へ結果を書きかけ、八拍目へ届く前に指を止めた。


 一人ずつ、教授に割り当てられた次の動作から外れる。


 不規則な拍が廊下を走る。


 文化祭の舞台で、誰かの声へ合わせるのではなく、自分で息を選んだ時のリズム。


 教室で、椅子が鳴った。


 ひなたが立っている。


「ハミン」


「起きたか」


「朝食のことしか考えられなくなって……次に気づいたら、ここにいた」


「怖かった?」


「怖い。でも」


 ひなたは自分の頬へ触れた。


「ちゃんと笑ってた気もする。嫌じゃない笑顔で。だから、どこから私じゃなかったのか分からない」


 その言葉が一番怖かった。


 固定は、人を眠らせて偽物を動かすんじゃない。


 本人が選びそうなことを、本人に続けさせる。


「全部ひなただった」


 オレは言った。


「でも、次を一つにされた。そこを取り返す」


 ひなたがうなずく。


 別の教室で、生徒が一人だけ立ち止まった。音楽室では、文化祭に参加した女子がピアノの同じ音を外した。


 起きる者がいる。


 起きない者の方が、ずっと多い。


「全校放送で流せば?」と先輩。


「駄目」


 鈴華が静かに答えた。


「この拍を聞いた方が全員、自分で舞台へ参加したわけではありません。わたくしたちが《起きるべき声》として押し込めば、教授と同じです」


「本人が拾う分だけか」


「はい」


 オレは廊下の赤い非常灯を見上げた。


 時間停止の合図ではない。


 塔から雲も降りていない。挑戦も請求も、互いの「選ぶ」もなかった。これは正式な選闘じゃない。だからオレと相手の二人だけではなく、固定の外へ出た全員が同時に動ける。


 逆に、選闘の勝敗で一気に解くこともできない。


「教授を殴って終わり、じゃないな」


「それで終わるなら、最初からお父さんを連れてきてる」とハヨン。


「父さんは中へ入れない」


「だから、最初から無理」


「二回言うな」


     *


 委員会室は空だった。


 資格停止の赤い紙が、三つの机へ置かれたままになっている。


 蓮は自分の机へ座らず、書類棚を開けた。


「ない」


「何が?」


「体育祭の安全同意書。文化祭の舞台参加同意書。秋季校外研修(星見島)の同意書」


 鈴華が台帳をめくる。


「原本保管欄は、今朝六時に一括移管。《卒業行事統合保管》」


「卒業式はまだ先だろ」


「三日後です」と蓮。


「近いな」


「前から三日後だった!」


 蓮が珍しく机を叩いた。


 時門時計の開いた文字盤へ赤い文字が浮かぶ。


 秒針は、正しい一秒だけを刻んでいる。そのたび、机の下にも赤い文字が増えた。


 体育祭。危険時停止。


 文化祭。舞台保全。


 星見島。緊急避難。


 三つの文言から細い赤線が伸び、選塔の絵へ集まっている。


「僕が作った書式です」


 蓮の声が低くなった。


「安全のために、僕が秒単位で条件を決めた。署名欄を作った。教授は、別々の行事で得た同意を一つの継続同意として登録し直したんだ」


「蓮がやったことじゃない」と先輩。


「書き換えたのは僕じゃない。でも、書き換えられる欄を作ったのは僕です。責任がないとは言わない」


「じゃあ、責任を取れ」


 蓮がオレを見る。


「辞めるとか、一人で罰を受けるとかじゃない。原本を見つけろ。どこを変えられたか、全部出せ」


「……分かった」


 蓮は時計を握った。


「僕が探す」


 赤い文面を委員章へ移し終えると、蓮は時計の蓋を閉じた。机の下の線も、校内の強制動作も消えない。時門時計を閉じても、親時計側の固定までは切れない。


「オレたちもだ」


「予定に入ってない」


「入れろ」


「三日分がもう埋まってる」


「余白へ書け」


「君は簡単に言うね」


「簡単だからな」


 ひなたがホワイトボードを裏返した。


 白い面へ、大きく書く。


《卒業式までに、みんなの選べるところを返す》


「予定っていうより、目標だね」


「時間が入ってません」と蓮。


「じゃあ三日後まで」


「急に粗い」


 校内放送の起動音が鳴った。


 天井のスピーカーから、教授の声が落ちる。


『おはよう、生徒諸君。今朝は遅刻者ゼロ、事故ゼロ、校内争議ゼロ。協力に感謝する』


 いつもの教師の声だった。


 明るく、聞き取りやすい。


 教室という教室で、生徒たちが同時に顔を上げる。


『最適化は順調だ。卒業式をもって、全工程を完了する』


 放送が切れた。


 校舎中で、頁をめくる音が一つに重なる。


 ぱらり。


 窓の外では、誰もいないはずの選塔屋上へ、四十八枚の赤い旗が上がっていた。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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