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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第六章「崑崙と沈まない都」
PR
36/48

第36話「魔械文書の零頁」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 世界の仕組みを聞く前に、昼飯になった。


「説明は逃げない。温かいものは冷める」


 隔離を外れたキャリー観測像が、ひなたの弁当箱を指した。


「都市の時間は止まってるんだろ」


「私たちの周りは動いている。あなたのお腹も」


 言われた瞬間、腹が鳴った。


 選闘のあとと同じだ。門の帯域で動いた時間は、外へ戻ってもなかったことにならない。走り、戦い、気を使ったぶんだけ空腹になる。


「食う」


「即決ですね」と蓮。


「こういう時の判断だけは速いですわ」


 鈴華が弁当を配る。


 観測核の白い床へ七人で輪を作り、八人目のキャリー観測像は光の椅子へ座った。隔離球から出たばかりの像が、使い捨ての箸を裏表に走査している。


「割るんだ」


「どこを?」


「真ん中」


 キャリーは箸の立体像を左右へ引き、一本を長く、一本を短く割った。


「地上の食器は成功率が低いわね」


「普通は同じ長さになる」と先輩。


「私の手順に問題があった?」


「珍しく自分から聞いたな」


「失敗を観測したから」


 ハヨンが予備の箸を見本として置く。


「ここを持って、ねじらないで開く」


「ありがとう、ハヨン博士」


 今度はきれいに割れた。


 キャリーは卵焼きの像を一口ぶん投影し、口へ運ぶ真似をした。像は唇を通り抜け、後頭部から出た。


「味覚機能は、やっぱり付いていないわね」


「最初から分かってただろ」


「確認するまで仮説よ」


「何千年なんだ?」


「数える暦による」


「父さんと同じ答え方するな」


 紫苑が空の手を出した。


「俺の弁当は?」


 鈴華が人数を数える。


「七人ぶん、確かに受け取りました」


「俺も七人へ入ってたはずだ」


「水守さんがキャリー博士の分を予測できるはずはありません」


「観測像は食べないわ。それは霧崎の分」


 腕の名前帯がなければ、原因ごと忘れそうな不足だった。


 鈴華が最後の一箱を、紫苑の名前帯と照合して渡す。


「食え」と先輩。


「おまえのをもらう原因が消えた」


「ちゃんと一つあるならいいだろ」


 紫苑は受け取った。


 キャリーは全員の弁当から一品ずつ、光の見本だけを自分の前へ並べた。


「食べられなくても、献立の構造は研究できる」


「飴の包装も失敗しただろ」


「今回は説明書を先に読むわ」


 そう言って手に取ったのは、ひなたが入れたごみ持ち帰り用の注意書きだった。


 藍羽が笑う。


 都市の一秒は止まったまま。


 紅茶も、子どものボールも動かない。


 その真ん中で、オレたちだけが弁当を食べる。


 異様なのに、少しだけ遠足みたいだった。


「それで、魔械文書って結局なんだ」


 オレが魚の骨を外しながら聞く。


「前に本じゃないと言ったな」


「魔法の本ではない、と言ったの」


 キャリーは短くなった光の箸を二本並べた。


「錬金術は、奇跡に請求書を付ける学問よ」


「請求書なら分かる。昼飯より高いか?」


「たいていは」


「なら、勝った時に使いたくないな」


「その感覚を忘れないで」


 キャリーは箸の間へ、卵焼き、豆、米粒の像を置く。


「何かを変えるには、材料がいる。どの状態から、どの状態へ変えるか定義する。当事者が触れるか同意する。採らなかった可能性を代価にする。最後に、結果をどこへ固定するか決める」


「定義、同意、代価、固定」


 ハヨンが指で四つ数える。


「魔械文書の発動手順」


「ええ。文字、図形、素材、それを読む人の意思を回路にする装置。紙の頁が時計、鈴、棒、札、塔へ折り畳まれることもある」


 先輩が雷綴を見る。


「オレたちは頁を持ってた」


「頁の機能を法宝へ定着させたもの。だから燃やしても、芯の記述は別の形へ戻る」


「壊せば終わるほど簡単ではない、と」


 蓮が言う。


「そう。請求書を破っても、借りたものは返したことにならないでしょう」


「貸借の説明なら、わたくしにも理解できます」


 鈴華が台帳を開く。


 六つの区分。各欄に八つの小印。


「この帳簿は、何を数えていたのですか」


「魔械文書の基幹頁」


 キャリーが立ち上がる。


 まだ投影座標が危うい。藍羽が手を出す。キャリーは触れられない掌へ光の手を重ね、それを支え代わりに立ち上がった。


「借りるわ」


「どうぞ」


 二人で透明球の前へ行く。


 キャリーが球へ手を当てると、四十八枚の板が降りた。


 六列、八段。


 その前に、何も書かれていない白い面が一枚だけ現れる。


「これが零頁」


「何もないぞ」


「後ろの四十八頁を何に使うか決める規約だから、内容が一つに見えてはいけない。保存、剪定、返却。最初に選ばれた規則が、後ろすべての読み方を変える」


 キャリーが指を置く。


 白紙に三つの文字が浮かぶ。


【保存】


【剪定】


【返却】


「仮に、本物のキャリー博士が生きていたら」


 ハヨンが白紙を見たまま言った。


「本人をここへ連れてくれば、零頁を正しく戻せる?」


「いまは、いちばん危険な方法よ」


 キャリーは即答した。


「総司が改造層の管理権限を持つ間に、生きた原著者鍵が補完圏へ入れば、零頁は存在そのものを設計者の承認と誤認する。本人が何も選んでいなくても、空いている四十七欄まで《設計者承認済み》で満たし、四十八頁を即時完成させる」


「完成したら?」


「総司が指定した一つの答えで、都市と地上の世界固定が始まる。本人を連れてくる前に、総司から改造層の管理権限を外さなければならない」


 さっきの、名のない第二応答を思い出す。


 生きているかもしれない、だけで近づけていい場所じゃない。


「本人が設計した通常動作は保存。選ばなかった可能性を消さず、あとで検証し、本人へ返す。剪定は災害時だけ。生命を守るため、明確な同意と期限を置いて危険な枝を消す非常手順だった」


「教授は?」


 オレが聞く。


「剪定を通常動作へ変えた。返却路を閉じ、選ばなかった枝を燃料として別の固定へ送っている」


「アトランティスへ」と蓮。


「いまはそう。でも都市を戻したあとも、総司は同じ規則を残すつもりでしょう。二度と誰も大きな失敗を選べないように」


「失敗しない都市が、これか」


 先輩は止まった街を見る。


「昔のアトランティスは、最善だけを残そうとした。危険な進路を消し、病気になる可能性を消し、争う言葉を消した。最初は多くの人を救った」


「全部悪かったわけじゃない」


「ええ。だから止められなかった。最善を選び続け、選ばなかった道を燃料にし続けた。最後には新しい考えも、失敗から戻る道も、滅亡を避ける枝も残らなかった」


「それで、キャリーさんが時間を止めた」


 藍羽が言う。


「消える直前の一秒へ固定した。正しかったとは言わない、と本人の記録にはある。あの時、払える請求書がそれしかなかった、と」


 キャリー観測像は、本人が残した選択を美しく言わなかった。


 零頁の白紙へ赤い線が走る。


 教授の予備起動。


【剪定】の文字がほかより濃くなる。


「返却へ変えればいいんじゃないか」


「いま変えれば、固定に使われている選片が全部、行き先を失う。物理的に壊しても同じ。選択は記憶や関係へ結びついているから、持ち主へ返るのでなく消える」


「男のオレへ戻った記憶も?」


「女の身体で過ごした記憶も、どちらを連続した本人と定義したかによって巻き込まれる」


「壊すのはなし」


「賢明ね」


     *


「四十八は、何の数ですか」


 蓮が聞いた。


「その前に、選闘のレベルと四十八頁を混同しないで」


 キャリーが人差し指を三本立てようとして、二本で止まった。反対の手から一本借りる。


「レベルは、け、契約深度。強さの点数ではないわ。一般生徒へ公開されたレベル1は、一度の軽微選択だけ。昼食、短い約束、その場の行動」


 二本目の指が光る。


「レベル2は条件選択。部活を続ける、立入を控える、誰かとの関係上の行動を一定期間続ける。厳しいぶん、最長でも一学期。一般生徒には伏せられ、当初は委員会三名と総司だけが知っていた」


「わたくしたちは、その秘匿を受け入れ、運用しました」と鈴華。「守るためだと思っていても、説明しなかった責任は残ります」


 三本目。


「レベル3(原典級)は、すでに本人へつながる固有選択を移す。才能、所属、周期的な機会。人生や運命の幹を変え得る。でも、何もないところから望む人生を作る万能の願望器ではない。対象の枝、作用、期限、代価を定義し、先に勝敗条件へ書かなければ動かない。心そのものなどの保護領域も、正規承認なしに破れない」


「僕たちはレベル3の存在と承認規約だけ知っていました」と蓮。「全能力、保護例外、教授単独の起動経路は隠されていました」


「二年前の試験二〇八で、総司はレベル2の条件を足場にレベル3実装へ踏み込んだ。そしてハミンとの決闘で初めて、固有選択の移譲を正式に実演した」


「オレの満月を取ったやつだな」


「ええ。しかも百八件の軽微選択を不正な燃料にして、本来必要な委員承認を迂回した」


 三人の表情が同時に固くなる。


 知っていた秘密と、教授に隠されていた仕組み。その境目まで、もう曖昧にはしなかった。


 キャリーは六列を一つずつ光らせる。


「人の選択を、何へ結びつけるか。身体、関係、所属、行動、記憶、時間。六種類」


 次に、八段が光る。


「いつの向きへ動かすか。起、継、断、延、促、復、還、循。八方向」


「漢字一文字で言うな」


「では、身体を使って歩きましょう」


 床へ六つの扉が出る。


 各扉の周りに八つの小窓。


「四十八の新しい能力ではない。保管棚の住所よ。同じ選択でも、何を変え、いつへ動かすかで置く場所が違う」


 キャリーは【身体】の扉へ触れた。


「起は始める。成長、治療、変化を開始する枝。継は続ける。治療を続ける、現在の身体相を保つ。断は終える。発熱や変化を止める」


「延は先へ延ばす」とハヨン。


「ええ。手術や発症の時刻を遅らせる。促は前へ寄せる。回復を早める。復は中断から再開。還は以前の状態へ戻す。循は周期ごと選び直す」


「オレの帰還枝は身体・循じゃないのか」


「効果だけなら身体。でも、奪った対象は男の身体そのものではない。満月ごと出生相を照合する時刻の権利。だから《時間・循》」


 六列目、八段目。


 男のオレの影が立つ欄が光った。


「分類を間違えれば?」


「実行されないか、別の代価が生まれる。総司があなたへ『身体をもらう』と言わず、『周期的な未来を一つ』と定義したのは、正確に時間・循へ置くため」


 腹の中が熱くなる。


 教授は最初から、何を奪うか知っていた。


 オレも帰還枝だと理解して選んだ。


 それでも、対価へ使った百八件はオレのものじゃない。


「関係は?」


 先輩が聞く。


「友達になるのが起。関係を続けるのが継。別れるのが断。告白を延ばすのが延」


「そこ詳しく」


「先輩、黙れ」


「好きにさせることはできる?」


 キャリーは先輩へ聞いた。


「できたとしても、使わない」


「正解。心そのものは保護領域。会う、言う、続けるという行動機会は扱えても、誰を好きになるかは書けない」


 先輩が少し安心した顔をする。


「オレの気持ちが棒のせいじゃないってことだな」


「誰も疑ってない。迷惑だとは思ってる」


「迷惑と否定は違う。前進だ!」


「何がだ!」


「説明中ですわ」


 鈴華の一言で、先輩が座った。


「所属は、学校、委員会、家、町。加入が起、在籍が継、脱退が断。戻るなら復や還」


 紫苑の名札が反応した。


 【所属・継】の窓へ、赤い傷がある。


「俺はそこか」


「一つは。あなたの被害は所属だけではない」


「行動は、一度の約束や昼食も入る?」


 鈴華が台帳を見た。


「入る。レベル1選闘の小さな請求は、ほとんど行動の起、延、断に保管される。だから小さくても燃料になった」


 オレが勝って要求した昼飯。


 先輩、蓮、紫苑。


 一緒に卓へつくための小さな選択でも、本人が断れない時点で頁へ記録された。


「記憶は保護領域じゃなかったか」


 ハヨンが聞く。


「レベル1とレベル2の勝敗請求では読取りだけ。忘れる、覚える、思い出すを条件にはできない。総司は隠していたレベル3実装で保護を外した。でも改ざん痕は私の観測核へ残る」


 【記憶】の列に、深い赤い裂け目。


 【継】の窓が黒い。


 紫苑の姿が一瞬薄くなった。


 オレは名札を読む。


「霧崎紫苑」


「いる」


 紫苑が答える。


「時間は時刻や周期。始める時、続く時間、終わる時、先延ばし、前倒し、中断からの再開、以前の時刻状態への復帰、周期ごとの照合」


 蓮の時計が八つの窓へ順に反応した。


「僕の法宝で局所的に操作できるのは、この列の一部です」


「そう。けれど無限に時間を作る頁ではない。速めたぶん、あなたの気と主観時間が請求される」


 蓮は冷えた指を毛布の中へ入れた。


「請求済みです」


「なら、これからは請求を読む側にもなりなさい」


 六つと八つ。


 四十八の窓。


 人の魂を四十八個へ分けたものじゃない。


 選択を返すための、住所と時間方向。


 そのすべてへ、いま教授の赤い線が入り込んでいる。


 ハヨンが【身体・延】の窓を拡大した。


 ほかの赤線より古い文字が、封鎖の内側から出てくる。


《管理者自己契約》


《対象:生体加齢が次の身体状態へ到達する時刻》


《原所有者:本人》


《保管者:暫定管理者》


《維持対価:管理者本人の未選択可能性》


「観測核で保留した記録」


『ええ。総司は「老いる」という自分の未来枝を、個人としての自分から、暫定管理者としての自分へ移譲した。次の加齢時刻が来るたび、自分の未選択可能性を対価に、また先へ延ばしている』


「レベル3か?」


『違うわ。決闘制度より前にあった、古代の個人生存手順。四十八頁の住所は同じでも、選闘の契約深度には数えない』


「心拍と代謝は止まらない。怪我も病気も」


『死ぬ可能性も消えていない。若返りでも、不死でもない。生体加齢の到達時刻だけを先送りしている』


「他人の選片は使ってないのか」


『この自己契約の維持対価は、総司自身の枝だけ。けれど、都市を戻し、世界を固定する燃料には、他人から集めた選片を使っている。二つの責任を混ぜて軽くしてはいけない』


「返したら、何千年ぶん一度に老いる?」とハヨン。


『いいえ。経過年数を身体へ貯めたのではなく、加齢の次回時刻を繰り返し延ばした。返却後は、その時の身体年齢から普通に老いる』


     *


「オレのは、どうやって返す」


 四十八の説明が終わるまで待った。


 待ったから、近道を使う気がないわけじゃない。


 時間・循の窓へ男のオレが立っている。


 手を伸ばせば届きそうだ。


 満月の前兆が来るたび、手足の距離感だけは男へ戻る。鏡の中で半拍遅れた影も見る。そのたび、身体は変わらない。


 返してほしい。


 いますぐ。


 その気持ちを、分かったふりで消すつもりはない。


「正規の方法は二つ」


 キャリーが時間・循の窓へ触れる。


 男の影から、赤い糸が伸びた。


 糸の先には教授の名。


「一つ。同じ二人で再びレベル3(原典級)の正式選闘を行い、現在の所有者へ勝って返還を請求する」


「もう一回、教授と戦う」


「ええ。総司が自発的に返す場合も同じ経路だけれど、いまは期待しないほうがいいでしょう」


「もう一つは?」


「監査。最初の定義、双方の同意、対価の釣合い、承認。どこかに重大な不正があったと零頁へ証明し、移譲そのものを無効にする」


 蓮が顔を上げた。


「ハミンは、周期的な未来が請求対象だと理解して受諾しました」


「そこは有効」


「でも、対価が釣り合っていなかった。総司は保管中の小選択を百八件、レベル3(原典級)請求の燃料へ充当した」


 鈴華の台帳が開く。


「百八件の持ち主から、別の決闘へ使う同意は得ておりません。委員全員の承認もない。わたくしたちの委員章には、事後に顧問印が加えられました」


「それが不正監査の核になる」


 キャリーは赤い糸の途中へ三つの黒い結び目を作った。


 無断燃料。


 承認欠落。


 事後校正。


「記録はどこに?」


「時門時計へ開始時刻。心響鈴へ持ち主の声。雷綴へレベル3請求を固定した場所。三法宝は総司の収集端末だったから、不正を記録する証人にもなる」


 先輩がしびれた腕を上げる。


「使われたから、見たものが残ってる」


「そう。法宝が悪いのではない。誰が、何へ使うか」


「監査で返せる確率は?」


 ハヨンが聞く。


「証拠をすべて保全できれば高い。ただし総司は暫定管理者。零頁へ監査を通す入口そのものを校正できる」


「じゃあ先に教授を止める必要がある」


「またはレベル3の正式選闘で管理権へ触れる」


 結局、教授の前へ立つ。


 格闘なら、また戦えることへ胸が熱くなる。


 だが前のように、熱だけで選ばない。


「戦えば、また二人だけだな」


「レベル3の正式選闘なら、最後まで」


 キャリーが答える。


「選闘の外なら、接続資格や一時同行資格を持つ者は闘技場へ入れる。でも正式選闘が始まれば、当事者二人以外は姿ごと待機相へ外される。私も同じ。総司が規則を破った痕は、法宝や台帳から外で示せても、戦いへ手を出せない」


「それでいい」


 藍羽がこちらを見る。


「よくない。前に負けた」


「また負けるとは言ってない」


「一人で勝手に受けないでって言ってる」


「受ける時は話す」


「条件を全部?」


「全部」


「なら、いまはそれでいい」


 藍羽は納得したのではなく、約束を受け取った。


「キャリー博士。薬や身体相の上書きで、帰還枝と同じ結果を作れない?」


 ハヨンが聞いた。


「男の身体を再構成するだけなら、ハユンとあなたの技術で可能性はある」


「なら」


「でも、奪われた権利は残る。外から男の相を固定すれば、現在の女の身体相と、そこで積んだ記憶を押しのける危険がある」


 ハヨンは言葉を止めた。


「やらない」


 今度は、オレより先に自分で言った。


「お兄ちゃんが戻りたいと言っても、危険と失うものを説明する。そのあとで選んでもらう」


「それでいい」


「戻りたい気持ちを否定はしない」


「それも」


 男の影へ、女のオレが映る。


 二つは重ならず、同じ窓の中で隣に立った。


「返す方法は分かった。いまは触らない」


 手を下ろす。


 近道を選ばないのは、戻りたくないからじゃない。


 女の身体で過ごしたオレまで、代価へしないためだ。


 ハヨンが、母さんの陰陽相転換触媒式を零頁の前へ出した。


「キャリー博士。この基礎式を知ってる?」


 キャリーは金色の文字を二段だけ遡り、目を細めた。


「地上観測所へ残した、身体相変換文の古い枝ね。ハユンが現代の薬理式へ組み直している。瓶に出た目形は薬の印ではないわ。選塔が双相仙脈を観測し、《現在の相》を返した観測眼。〇・〇一パーセントは、その外部応答よ」


「母さんの式にも、学校の式にも見えたのは、同じ基礎文を別々に使ってたから」


「ええ。薬だけでも、塔だけでも、あの変化にはならなかった」


     *


「次は俺だな」


 紫苑が【所属】と【記憶】の間へ立つ。


 二つの列へ、一人の影が裂けている。


 所属・継。


 記憶・継。


 どちらにも、二年前のレベル3実装による赤い傷。


「レベル1でもレベル2でも保護領域」


 紫苑が言う。


「教授が試作で外した」


「ええ。あなたから奪ったのは、学校へ所属し続ける機会と、人の記憶に保持され続ける機会。名前そのものでも魂でもない」


「返せば、全員が思い出す?」


「あなたを記憶できるようになる。記録から欠けた氏名や、保存されていた印象の一部は戻る可能性がある。でも、二年間に作れなかった関係は自動で生まれない」


「元の友達も?」


「あなたが消えたことで傷ついた人は、理由を知るかもしれない。けれど、すぐ以前と同じ友達になる義務はない。謝ること、怒ること、もう一度名乗ること。その先は一人ずつ選び直す」


 紫苑の軽口が消えた。


「返れば全部、元どおり。そういう結果は置けないか」


「置けない。心と過ごさなかった時間は、札でも作れないでしょう」


「原因がない」


「ええ」


 紫苑は腕の名前帯をほどきかけた。


 また結び直す。


「なら、名前からやり直す」


「何回でも言え」


 オレが言う。


「忘れたら、また聞く」


「返ったあとも?」


「忘れることは普通にある」


「それは困るな」


「おまえも答えろ」


 紫苑は少し笑った。


「霧崎紫苑。先に名乗った。覚える原因は、これから作れ」


「分かった、紫苑」


 キャリーは二つの傷を保存側へ写した。


「改ざん証拠を複製した。実行機能のない写しだから、これだけで返却はできない。でも総司にも消せない」


 鈴華の台帳にも、二年前の欠番が黒い文字で戻った。


「未収ではなく、返却請求へ変更します」


「人を資産にするのはやめたか」


「最初から、人を数字だけにしたつもりはありません」


「つもり、か」


「訂正いたします。数字にすることで守ったつもりでした」


 鈴華は自分の誤りも記帳した。


     *


「壊せない。すぐ返せない。教授は予備起動を始めた」


 先輩が四十八頁を見上げる。


「なら、何からやる」


 キャリーは零頁を裏返した。


 白紙の裏に、三つの鍵が浮かぶ。


 人の手。


 赤い流路。


 一つの都市。


「安全に止めるには、三つを順に外す」


「順番がある?」


 蓮がすぐ筆記する。


「まず同意鍵。誰が、何へ同意したか。総司は学園行事の安全同意、決闘の受諾、委員章の承認を、一つの大きな観測同意へ重ねている」


「校外研修の書類にも、時間停止安全条項がありました」


「安全への同意は、世界固定への同意ではない。原文と改ざん後を照合し、本人が選んでいない鍵を外す」


 蓮がうなずく。


「原本を探します。僕が作った予定表や書式も、使われた責任ごと確認します」


「鈴華の台帳に、持ち主の声がある」と先輩。


「すべてではありません。ただ、本人が何へ同意したか、強く残った感情を確認できます」


「紫苑の札も、結果を先に置かれた契約を見分けられる」


「俺の札は八拍だけだ。証明が成立するまでの橋なら作れる」


「それでいい。永久の結果を一枚へ背負わせてはいけない」


 キャリーが二つ目、赤い流路を示す。


「次に燃料経路。選闘や行事から集めた未選択可能性が、返却路ではなく剪定炉へ流れている。三法宝は地上の場所、時刻、認識を固定する端末。逆に使えば、誰の選択がどこから来たか分けられる」


「雷綴で場所を戻す」と先輩。


「時門時計で、奪われた時刻と現在を合わせる」と蓮。


「心響鈴で、持ち主本人の声だけを通す」と鈴華。


「ただし、総司の管理刻印が残ったままでは、使うほど燃料を送る」


 三人の顔が引き締まる。


「法宝を捨てれば?」


「経路を失い、選片が閉じたままになる。外装と管理刻印だけを外し、本来の頁を残す方法を探して」


「教授のくれたものを全部壊すのではなく、使い方を選び直す」


 先輩は雷綴へ左手で触れた。


「やる」


 三つ目。一つの都市。


「最後に固定先。総司は、現在の世界から枝を集め、アトランティスを唯一の正しい未来として重ねようとしている」


「アトランティスを見捨てれば、止まる?」


 藍羽が聞く。


「固定先を消せば予備起動は止まる。でも都市も崩れる」


「それは選ばない」


 オレは止まった人々を思い出す。


 紅茶を注ぐ女。ボールを投げる子ども。謝ろうとしている男。


 教授の方法を止めることと、あいつらを見捨てることは同じじゃない。


「現在と都市を一つへ潰さず、両方を置ける場所が要る」


「さっきキャリーさんを出した方法」と藍羽。


「交互に観測した」


「小規模なら。都市全体では、もっと多くの自発的な観測が必要」


 ハヨンが文化祭の記録を開く。


 ばらばらな鼻歌が、金色の光へ変わった波形。


「命令した合唱では補完圧が下がらなかった。観客が自分で音を選んだ本番だけ、固定場が弱くなった」


「《はみんぐ・ふれあ》」


 藍羽が企画名を言う。


「一人で正しい音を出すんじゃなく、違う音が触れる」


「崑崙の羽鳴も、二つの身体相を消さず巡らせる」とハヨン。


「天道宗の円天は、気を一人へ溜めず返す」


「文化祭の参加者全員をアトランティスへ連れてくるのか?」


 先輩が聞く。


「身体は必要ない。本人が自分で選んだ声の記録を、鈴で同意鍵へ通す」


 鈴華が考える。


「強制された声を除外できれば」


「時刻を時計でそろえ、場所を雷綴でつなぐ。紫苑の札で《返却が始まっている》結果を八拍だけ先に置く。その間に、ハヨン博士とハユンが過負荷を測る」


「キャリー博士は?」


「文書の言語へ翻訳する。保存された枝を燃やさず、一時的に複数の観測者で共有できる形へ」


「父さんとおっさんは外を支える」


「藍羽は気を巡らせる」


「ハミンは羽鳴で二つの相を保つ」


 役割が一つずつ並ぶ。


 誰か一人の必殺技じゃない。


 誰か一人が答えを決める方法でもない。


「これで返せるのか」


「可能性のある返却路を作れる」


 キャリーは断言しなかった。


「同意鍵を外し、燃料を持ち主ごとに分け、固定先を二つ残す。順番を一つでも違えれば、選片か都市が消える。いま話したのは設計の骨だけ。地上で各法宝の管理刻印、原本、参加者の同意を調べなければ実行できない」


「キャリーが零頁を書き換えれば早いんじゃないか」


「私は基礎層の正規観測像。でも現在の選塔、決闘制度、管理刻印は総司の改造層。所有者ではない私が外から上書きすれば、不正な第二の管理者になる」


「それに身体は一日数時間」とハヨン。


「都市を観測する役目も残る」


「だから方法を出す。選ぶのは地上側?」


「ええ」


「便利な天才なのに、全部やらないんだな」


「できないこともある。できても、してはいけないことがある」


 キャリーはハヨンを見る。


 ハヨンもうなずいた。


「母さんも同じことを言う」


「ハユンらしいわ」


「知ってるのか?」


「地上節を何度も修理している赤い髪の研究者。通信記録で見た。直接議論したら、三日は寝られなさそうね」


「母さんは五日でも平気だぞ」


「それは困る」


 世界を救う設計の途中で、キャリーが初めて本気で嫌そうな顔をした。


     *


 零頁の赤が、また濃くなった。


 四十八窓のうち、十二が赤く満ちる。


「速い」


 蓮が時刻を見る。


「学校側の予備起動が加速しています」


「今日中に全部は満ちない」とキャリー。


「でも試験固定が始まる。総司は、全校で一つの答えを選ばせ、その反応を測るつもり」


「門を閉じたら通信も切れる」とハヨン。


「記録を持ち帰る」


 キャリーは、鈴華が開いた台帳へ光の文字を送った。


 六種と八方向の文字が、実行機能を持たない黒い写しとして入る。蓮の工程表へ三つの鍵。ハヨンの端末へ負荷数値。先輩の雷綴へは、管理刻印の位置を示す青い細線。


 紫苑の札へは何も書かない。


「俺には?」


「結果は、必要になった時に自分で書きなさい。私が先に決めれば、あなたの能力を奪う」


「分かってるな」


「設計者の判断手順を写されているから」


 キャリーの膝が崩れた。


 公開投影の時間が終わりかけている。


 オレと藍羽が左右から手を出し、触れられないことを思い出す。


「また床へ沈んだぞ」


「今度は重いって言わないで」


「言ったのは紫苑だ」


「原因を押しつけるな」と紫苑。


 透明球の外へ、簡素な光の椅子が出た。


 キャリーはそこへ座る。


「返却文は公開層へ残せる。ただし応答索引は原型記録へ戻す。次に広域投影を起こす時は、また私へ聞いて」


「キャリーさんへ?」


 藍羽が聞く。


「ええ。観測像でも、いま出たいと選んだから、次も同じとは限らない」


「分かりました」


 キャリーは一人ずつ見る。


「西能寺。腕を治すまで大きな雷は禁止」


「了解、キャリー博士」


「時任。今日は時計を使わない」


「予定へ入れます」


「閑崎。聞こえた声を全部、自分の中へ置かない」


「必要な方へ返します」


「霧崎」


「名前なら書いてある」


「なら、また読ませて」


「次に会った時、覚えてたらな」


「忘れていたら、聞くわ」


「そういうやつばかり増える」


 紫苑は嫌そうな言い方をして、少し嬉しそうだった。


「藍羽。天道王へ、朝食一人前の借りを」


「伝えます。本物のキャリーさんに会えたら、道場で」


「ハヨン博士。私の応答値をあなたの正しさの証明にしないで」


「安全の証明に使う。間違ったら修正する」


「いい答え」


 最後にオレ。


「ハミン。二つの姿から一つを捨てる前に、どちらで何を選んだか数えなさい」


「前にも聞いた」


「大事なことは、何度でも請求するの」


「請求権はないだろ」


「お願いよ」


「なら聞く」


 キャリーが目を閉じる。


 光の身体は椅子の上で薄くなる。


 応答索引が透明球の表面へ移り、鏡の像として目を開けた。


『行ってらっしゃい』


「また来る」


『それは、帰ってから選びなさい』


     *


 水鏡を戻る時、全員が弁当箱を持っているか確かめた。


「人より先に箱か」と紫苑。


「ひなたへ怒られる」と先輩。


「人は点呼で確認します」


 蓮が一人ずつ呼ぶ。


「ハミン。如月さん。ハヨンさん。西能寺先輩。閑崎先輩。霧崎先輩。僕」


「七人」


 鈴華が鈴を三度鳴らす。


 道場側で、ひなたが七枚の名札を上げた。


 水面へ入る。


 都市の青空が足の上へ移る。


 止まった百八十万人を背中へ残し、道場の天井へ落ちた。


 おっさんの呼吸が終わる。


 水鏡は木の床へ戻った。


 父さんが外側の線から手を離す。


 白沢衣の縫い目が暗くなり、庭へ浮いていた雪が一度に落ちた。


「全員いる?」


 ひなたが数える。


「一、二、三、四、五、六――」


「七」と紫苑。


 腕の帯を見せる。


「霧崎先輩。七」


 ひなたが自分で言い直した。


「おかえり」


「ただいま」


 普通の言葉が、止まらず次へ進む。


 おっさんは腹を押さえた。


「三時間じゃ。約束どおり、朝食一人前」


「キャリー観測像から伝言。本物に会えたら払わせるって」


「いつ来る」


「まだ分からない」


「利息を付ける」


「人助けへ利息を付けないでよ!」


 藍羽の声に、やっと道場らしい空気が戻る。


 父さんはオレたちの傷と顔を順に見た。


 質問を書かない。


 まず先輩の腕を固定し、蓮へ温かい水を渡し、鈴華の鈴へ布をかけ、紫苑の黒い指先を紙で包んだ。


 最後に、オレの頭へ熊の手を置く。


 押さない。


 そこにいると確かめるだけ。


「父さん。中は任された」


 父さんが丸を描く。


「でも、まだ何も返してない」


 紙をめくる。


【紙面:道を見た。次は歩く。】


 懐の空白の紙は、まだ白い。


 いま書けば、たぶん急ぎ過ぎる。


 オレはもう一度しまった。


     *


「学校を見て」


 ひなたの声が変わった。


 委員会の緊急端末を指している。


 資格停止後も避難連絡用の映像だけは受信できる。画面には星環学園の中庭が映っていた。


 昼休み。


 生徒が歩いている。


 購買の袋を持つ者。友達と笑う者。ベンチで本を読む者。


 時計は十二時五十九分五十九秒。


 一時になった。


 全員が止まる。


 正式選闘の逆鐘はない。


 挑戦も、相互請求も、受諾もない。


 選闘ではない。


 それなのに、中庭だけでなく、廊下、教室、体育館の生徒が同時に顔を上げた。


 同じ角度。


 同じ速さ。


 教授が校内放送で何か言ったわけでもない。


 数百の口が開く。


『今日も、最適な一日です』


 男も女も、先生も生徒も、同じ高さ、同じ速さで話した。


 映像の音量をゼロへする。


 口は動き続けている。


『今日も、最適な一日です』


 もう一度。


 誰も笑っていない。


 誰も次の言葉を選ばない。


 ひなたが、自分の口を両手で押さえた。


「私は、言ってない」


「分かってる」


 オレは立つ。


 脚が震えている。


 腹も減ったまま。


 男へ戻る日は、まだ教授の手にある。


 それでも、行く道は見た。


「学校へ戻るぞ」


 画面の中で、全員が三度目の同じ言葉を話し始めた。


エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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