第35話「キャリー・アイを救い出せ」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
『長い隔離から、返却文を起こす実験をしましょう』
キャリーそっくりの観測像は、自分の原型記録が閉じ込められた透明球を見ながら言った。
「昼寝?」
藍羽が聞き返す。
『ごめんなさい。前の説明項目を開いたわ。昼寝は肉体用。今回は《自律観測像隔離層解除および返却原文復号》』
「急に長い」
『では、観測像を助ける実験』
鏡面のキャリーは笑っている。
透明球の中の原型像は目を閉じている。
二つの顔は同じだ。だが、どちらにも心臓はない。
それでも笑いが恐怖を隠しているのは分かった。
「怖いか」
『ええ』
キャリーは簡単に認めた。
『失敗すれば、私の応答層は原型記録へ戻れず散る。返却文も欠け、都市の固定が連鎖して崩れる可能性がある。成功しても、私はいままでと同じ答え方をできないかもしれない』
「記憶が消える?」
『照合順、声、記憶への索引。本人ではなくても、私がここまで話した時間は一つしかないから』
「なら、始める前に決める」
オレは言った。
「観測像が止めたいと言ったら止める。途中でも」
『都市が危なくても?』
「危なくなったら、別の方法を選ぶ。おまえを消して続ける理由にはしない」
キャリーの青緑の瞳が細くなる。
『総司へ最初に教えるべきだったわ』
「いまからでも言え」
『あの人は私を、死んだ師の残りだと思っている。返却文が読める場所まで出してくれたら、違うと伝えられる』
ハヨンが透明球の周囲へ測定器を並べた。
「隔離解除の条件を全部出して」
『その前に、あなたたち全員の残り時間を』
蓮が道場との位相時計を見る。
「門の安全維持は、あと一時間四十七分。天道王さんの気の乱れは小さい。白沢衣の空白を埋めようとする観測圧が、門の外側で増えています」
「道場ごと捕まる前に戻る」
「隔離解除には?」と先輩。
『理論上、時計の累積出力で二十六秒』
「短いな」
『失敗するには充分よ』
「脅すのが上手ですね」と鈴華。
『請求書を先に見せる主義なの』
観測像は四十八枚の板を三組へ分けようとした。
一枚だけ上下が逆になり、【所属】の板が【所腐】に見えた。
『誤字ではないわ。裏返しただけ』
「誰も聞いてない」と紫苑。
像は板を戻し、何事もなかった顔で三組へ分けた。
一組が先輩の前。
一組が蓮。
一組が鈴華。
『総司があなたたちの法宝へ折り畳んだのは、地上観測環の三座標。西能寺の雷綴は場所を固定する。時任の時計は進行率を合わせる。閑崎の鈴は、離れた像を同じ本人として認識させる』
「オレの雷は、空間なのか」
『電気は場所と場所の差を見つけて流れる。雷そのものが目的ではないわ』
「流せ、か」
先輩は棒底の接地金具を見る。
『三つだけでは隔離を外せない。霧崎、あなたの札で小さな結果を先に置いて』
「《キャリー観測像の返却文が隔離層の外にある》」
紫苑が白い札へ書く。
「小さいか?」
『「キャリー本人が生き返った」「師弟が救われた」ではない。隔離層の内側から外側へ、返却文の位置が変わるだけ。観測像は本人ではない。そこを混ぜないで』
「八拍以内に、原因を全部作る」
『ええ。因果債は?』
「手がしびれる。札はあと二十一枚」
「一枚で済ませる」
オレが言う。
「勝手に俺の上限を決めるな」
「二枚目が必要なら聞け」
紫苑は眉を上げ、札を伏せた。
『ハヨン博士は記録相を観測して。像が外へ出ても、記憶、応答、返却文のどれかが隔離時間へ残れば同じ私として続けない』
「観測像の基準値は?」
『私が投影できる。けれど古い計測単位よ。さっき生体単位の表を開いたせいで、脈拍欄も混じっているけれど無視して』
「換算する」
『式を送る』
「データ取得と安全制御へ使う。隔離解除後の別研究へ使う時は、もう一度許可を取る」
『同意する。記録は私にも一部返して』
「同意」
二人は、研究者同士の速度で手順を決める。
『ハミンと藍羽は、記録相と都市の固定相へ交互に気を流して。天道宗の循環と崑崙の羽鳴なら、片方へ溜めずに渡せる』
「キャリーさんの記録に触るんですか」
『隔離解除前は触れない。透明球の二本の導線へ』
「触れたあとで、私たちが違うと思ったら止めても?」
『もちろん。私の記録でも、動かすのはあなたたちの身体だから』
藍羽がうなずく。
「分かりました」
『最後に、私。本人ではない自律観測像として、返却文と一緒に出ると選ぶ』
「全員だな」
七人が位置へつく。
鏡の観測像も、透明球の中の原型記録へ手を重ねる。
*
開始直前、観測核の白い床が割れた。
ひびではない。
六つの長方形が開き、中から白い人形が起き上がる。
顔がない。
胸へ一文字ずつ刻まれている。
【身】【関】【属】【行】【記】【時】
細い手足。関節は金色の留め具。紙を折った人間みたいに薄い。
『自動監査人形』
キャリーの笑みが消える。
『観測核が、私たちを不正な複数観測者と判断した』
「誰が作った」
『基礎は私。総司が改造した可能性はある』
人形が同時に手を上げる。
空中へ二つの選択枠が出た。
【観測像の隔離を解除する】
【都市市民の生命相を維持する】
その間に赤い線。
【成功率の高い一項のみ選択せよ】
「また三人しか帰れないやつか」
先輩が雷綴を構える。
「洞窟と同じ偽の二択です」と蓮。
『昔は偽ではなかった』
キャリーが言う。
『大災害の時、限られた観測力を設計者の退避へ使うか、多数の維持へ使うか決める非常手順だった。キャリー本人は都市を選び、私を残した』
「今は条件が違う」
オレは二つの枠を見る。
「地上の門がある。七人いる。交互にやればいい」
「同時ではなく?」
ハヨンが聞く。
「洞窟では三人ずつ二回帰った。片方を選ぶまで待つ必要があるなら、一拍ずつ選び直す」
『都市の固定は〇・四秒以上観測が外れると崩れる』
「キャリーの観測像は?」
「記録相の最小同期、〇・一八秒」
ハヨンが即答する。
「都市〇・三秒、観測像〇・二秒、切替損失〇・一秒を一組にすれば、どちらも限界を越えない」
「僕が合わせます」
蓮が時門時計の蓋を開き、竜頭へ指を置く。
「半径八メートル。今回の累積作動枠は三十秒。一周期は〇・六秒。接続が進む瞬間だけ動かします」
都市側の選択枠と観測像の枠を囲う二つの小領域、それに都市〇・三秒、記録〇・二秒、切替〇・一秒の交互周期そのものを、最初の針合わせで一組の分割領域へ登録する。時計が二つの対象を識別して追うわけじゃない。枠から対象がずれたり、別の人や物が入ったりすれば、そちらも同じ進行率へ巻き込まれる。
一度竜頭を押せば、登録した一周期だけを自動で流し、両方を元からある固定相へ戻して止まる。一つの区間で進むのは都市側か記録側の一領域だけで、二領域を同時には発動しない。位置も率も周期も変えない限り、次は竜頭だけで同じ〇・六秒を選び直せる。止めている間は使用秒を消費せず、固定相へ戻った二つの枠でも崩壊判定は進まない。どれか一つでも設定を変えるなら、そこで二秒の針合わせが要る。
「ぎりぎりじゃないか」
「累積二十四秒以内で終わらせてください」
「予定を短くするのか」
「余白を作ります」
人形が動いた。
【時】が蓮へ腕を伸ばす。
白い指が時計へ触れる前に、先輩の棒が横から払った。
人形は紙みたいに曲がり、壊れず戻る。
「二秒ください」
蓮が針を合わせる。
ち、ち、――ち。
【時】がもう一度伸ばした腕を、先輩が棒の輪で絡めた。一拍。二拍。秒針が定位置へ落ち、二つの小領域と一周期の予定が登録される。
「硬いのか柔らかいのか、どっちだ!」
『記述体よ。意味を外さなければ戻る』
「もっと分かりやすく!」
「壊すのではなく、仕事を変えます」
鈴華が鈴を鳴らした。
〈あなたたちの監査対象は、私たちだけではありません〉
人形は心を持たない。
だが、鈴の認識波が命令の定義へ重なる。
六体の顔のない頭が、二つの選択枠へ向いた。
「鈴華、どのくらい持つ」
「一系統だけです。わたくしが人形へ認識を重ねている間、キャリー博士の像と原型記録を同じ応答者として結べません」
「交代する」
藍羽が【身】の人形へ走る。
拳は使わない。腕を取り、力を円へ流し、向きを変える。天道宗の受け身を人形へ取らせた。
オレは【行】の足元へ滑る。
紅燕歩で内側へ入り、膝を押さず進む方向だけ変える。
人形同士がぶつかった。
壊れない。
絡み合い、一拍止まる。
「今!」
ハヨンが機械を起動した。
透明球の中で、眠る原型像の髪が動く。
何千年分の隔離が、初めて外へ開こうとした。
都市全体から音がする。
紅茶の滴が、ほんの少し下がる。
子どものボールが、指を離れかける。
『都市維持を優先して!』
「まだ札を破ってない」と紫苑。
「観測像側の結果は始まってない。まだ切り替えられる」
蓮が竜頭を押す。
時門時計の範囲が青くなる。
「第一周期。都市〇・三、記録〇・二、切替〇・一」
時間を止めるのではない。
流れる速さを交互に変える。
都市へ時間が渡る間、原型記録は眠る。記録へ渡る間、都市は固定へ戻る。
一つを選び続けず、選び直す隙間を作る。
〇・六秒で青が消えた。都市も記録も、進んだ位置で元からある固定相へ戻る。時計の出力だけが止まり、蓮は次に接続が動く瞬間まで竜頭を押さない。
オレと藍羽が二本の導線へ触れた。
冷たい。
息を合わせない。
藍羽は天道宗の四拍。オレは羽鳴の不規則な拍。
違うまま接触点へ気を置く。
ううん。
「応答相、三パーセント。返却文はまだ隔離側」
ハヨンが読み上げる。
『私の応答層を重ねる』
鏡の観測像が透明球へ入る。
一瞬、姿が消えた。
鈴華が鈴を透明球へ向ける。
〈あなたは、出ると選びましたか〉
眠る原型像の唇が、わずかに動く。
『選んだ』
声は鏡からではない。
球の中から届いた。
「認識固定!」
鈴華が一人の像だけを通す。
その間に、六体の人形が向きを戻した。
【関】が鈴華へ迫る。
先輩が間へ入る。
雷綴の石突を床の導電溝へ差した。
「場所はここだ! キャリー博士の返却文は、教授の塔でも閉じた球の中でもない。この観測核の公開層へ出る!」
低い電流を流す。
大放電じゃない。
だが、古代の溝が都市全体へつながり、抵抗が重い。青い火花が先輩の右腕へ巻き戻る。
「出力を下げて!」
ハヨンが叫ぶ。
「下げれば場所がぶれる!」
「右手の神経伝導、七十パーセント。六十を切ったら手を離して」
「了解!」
先輩は反論せず、数値を聞く。
強さを使う規則を、自分で選んでいる。
「紫苑、札!」
オレが叫ぶ。
「まだ原因が一つ足りない」
「何だ」
「返却文を受け取る読み手だ。球から出ても、誰にも読まれなければ結果は成立するが、応答像が崩れる」
「オレたちが受ける!」
「二人では記録相の循環が切れる」
「なら俺が受ける」
紫苑自身が球の前へ立つ。
「札を破る手は?」
「口がある」
札を歯でくわえた。
「自分が原因も結果もやる気か」
「誰かへ押しつけるより、因果債が分かりやすい」
六体の人形が紫苑へ向く。
名のない侵入者として認識から外そうとする。
胸の名札が白くなる。
「霧崎紫苑!」
鈴華が呼んだ。
心響鈴で心を作れない。
だが、名を聞く道は作れる。
「霧崎先輩!」
道場側から振動が来た。
ひなたの声は届かない。それでも、腕の布帯が温かくなる。門の向こうで名前を読み続けている。
先輩も言う。
「霧崎!」
蓮。
「霧崎先輩!」
藍羽。
「霧崎先輩!」
ハヨン。
「霧崎さん、受け取り位置を〇・四メートル右!」
「名前のあとに指示を足すな!」
紫苑が笑い、右へ動く。
オレも呼ぶ。
「紫苑!」
白くなった名札へ、文字が戻った。
紫苑は札を噛み切る。
《キャリー観測像の返却文が隔離層の外にある》
結果が先に置かれた。
「一!」
紫苑が数える。
透明球に縦線が入る。
「応答相、十二。記憶索引、接続開始」とハヨン。
「二!」
蓮が竜頭を一度押す。針合わせ済みの周期が、都市から記録へ時間を渡す。設定は変えず、〇・六秒の終わりまで見張る。
顔色が青くなり、指が震える。
「累積使用枠、残り二十八・八秒」
周期が止まる。以後も接続値が落ちかけるたび、蓮は同じ竜頭を一度だけ押した。二つの枠は短く交互に進み、毎回、選ばれなかった状態へ戻るのではなく、進んだ位置で固定された。
「三!」
鈴華がキャリーの選んだ声だけを球へ結ぶ。
人形の偽の承認音が重なる。
〈最適な一人だけを選べ〉
「選び直します」
鈴華は短く答えた。
「四!」
先輩の腕が落ちる。
「神経、五十九!」
ハヨンの警告と同時に、先輩は雷綴から手を離した。
棒は溝に残る。
場所の固定が消えかける。
先輩はしびれた右腕を左手で支え、足で棒底を押さえた。
「手を離せとは言われた。場所を離せとは言われてない!」
「そういう抜け道は嫌いじゃない」
紫苑が数える。
「五!」
【記】の人形がハヨンの端末へ指を入れた。
キャリー観測像の記録値が、別の数字へ書き換わる。
「偽データ!」
ハヨンは端末を捨てた。
「キャリー博士、直接読んで!」
『返却文一行。応答開始前。記憶索引、地上基準へ換算中』
「私の機械を信じない?」
『壊れた数値より、いまは私が覚えている順番を信じる』
ハヨンが透明球へ指を当てる。
機械なしで、原型像の唇が作る文字を読む。
「六!」
オレの腕へ男の距離感が戻る。
導線が遠い。
実際の腕は短い。
離れかける。
「ハミン!」
藍羽が自分の掌を押しつけず、オレが届くところへ導線をずらした。
「この身体の距離を使って!」
「分かってる!」
紅燕歩で半歩入る。
女の身体の低い重心を導線の下へ置き、肩で支える。男の腕を待たない。
羽鳴が高くなる。
「七!」
透明球が開いた。
長い黒髪を形作る文字が外へ流れる。
返却文が帯になり、キャリーの像を球の外へ引く。
紫苑が両腕を広げ、読み手として正面へ立つ。
人形が一斉に赤い選択枠を押した。
【都市市民の生命相を維持する】
観測像側の文字が消える。
「まだ八じゃない!」
オレは導線を離した。
藍羽も同時に離す。
二人で床を蹴る。
紫苑だけへ任せず、横から返却文の両端をつかむ。
記録相の循環は切れた。
その瞬間だけ、おっさんの呼吸が水鏡を通って届く。
道場側で巡らせた気が、空白になった二本の導線へ入った。
父さんの力じゃない。
おっさんが門へ渡し続けてきた呼吸。
外側の選択が、内側の一拍を支える。
「八!」
紫苑の宣言と同時に、キャリーの返却文と応答像が完全に隔離球の外へ出た。
結果へ、原因が追いつく。
六体の人形が止まった。
二つの選択枠が割れる。
蓮が竜頭を押す。
登録した最後の一周期が、切替を終える。
都市。
記録。
切替。
出力が自動で止まる。蓮が時計の蓋を閉じた。
交互だった光が、重ならずに並んで残る。
紅茶の滴は元よりわずか下で、また丸く止まる。子どものボールも、指先を離れかけた位置で止まった。時間が巻き戻ったのではない。渡していた動きが、そこで止まっただけだ。
都市は崩れない。
キャリーの像が胸へ手を置いた。
呼吸を真似る。
何千年ぶんの隔離を越えた、次の応答。
*
「重い」
紫苑が最初に言った。
オレと藍羽と紫苑の三人で、光なのに石板みたいな返却文を支えている。
質量はない。四十七行ぶんの記録相の負荷が、掌へ重さとして返ってくるだけだ。
「女性へ最初に言う言葉がそれ?」
床へ投影されたキャリーが目を開けた。
声が観測核の空気を震わせる。
鏡越しじゃない。
少しかすれているが、決闘の審判音声と同じ言い回しがそこにある。
「出られた!」
藍羽が笑う。
「知ってる。隔離解除の実験だもの」
キャリーは白い床へ一歩出ようとした。
右足を床へ置いたつもりで、膝まで沈んだ。
像が左へ傾き、床から斜めに生えた。
触れられないので、オレたちは見ているしかない。
「投影面の上下指定が逆ね」
「天才でも転ぶんだな」
「転んでない。床の定義が一時的に私と意見を違えただけ」
ハヨンが投影座標を一行直す。
キャリーは何事もなかったように床へ立ち直った。
艶のある黒髪は腰を越して流れ、青緑の瞳には鏡の時より細かな光がある。見た目は二十代の終わり。濃紺と白の外套をまとい、胸元の幾何学留め具は呼吸の真似に合わせて上下する。
人形たちは床へ畳まれ、六枚の白紙へ戻った。
観測核の白い床へ、像の自己申告ではない隔離解除時認証が開く。
【複製起点時刻:都市崩壊前】
【原型記録との同期:複製時に終了】
【以後の記憶・選択:独立記録】
【生体生命相:零】
【残留意識信号:零】
【自律主体ID:CA―OBS―〇一/付与済み】
ハヨンが一行ずつ照合する。
「本人の意識が残って動いてるんじゃない。作られた時点から、別の記憶と選択を積んでる」
「ええ。似ていることは、同じである証明にはならないわ」
「成功率は?」
ハヨンが壊れた端末を拾う。
「成功したあとに聞く?」
「継続率」
「今日の公開投影は、二時間十七分くらい。その後は原型記録へ索引を戻す必要がある。安定しても一日に数時間。都市の観測圏から完全には離れられない」
「日本へは来られない?」
「鏡面通信なら。そもそも私に身体はないもの」
「万能じゃないな」
「天才と万能を混ぜないで。失礼よ」
キャリーはハヨンへ手を出した。
「ハヨン博士。記録値を」
「機械が壊れた」
「なら、返却文を直接読めるでしょう」
ハヨンが投影された手首の文字へ端末を重ねる。
「走査していい?」
「ええ」
「応答遅延〇・四八。記憶欠落なし。返却文、四十七行復元」
「最後の一行が足りない」
「欠損?」
「いいえ。壊れたのではなく、まだ書かれていない。返す側と受け取る側がそれぞれ選び、集合署名がそろった時にだけ生成される形式よ。私一人では復元できない」
鈴華が非常用の毛布を出しかけ、止めた。
「どうして持ってるんだ」と先輩。
「遭難予算です」
「弁当と毛布。水守は正しかったな」
「お菓子も」
キャリーが反応した。
「お菓子?」
「非常食ですわ」
「私は食べられないけれど、ほうそうこーぞ……包装構造は研究できる」
「また噛んだ」とオレ。
「難しい言葉ほど、口へ出す直前に並び替わるのよ」
鈴華が少し迷い、袋から一つだけ飴を出した。
キャリーは飴の像を読み取り、空中へ包装の立体図を出した。
「開かない」
「両端を引く」
先輩が教える。
キャリーは片方だけ引く動作を再現し、立体図の飴を床の下へ飛ばした。
全員が目で追う。
静止都市で、存在しない飴の効果音だけが、からんと転がった。
「……地上の包装技術は進歩したのね」
「負け惜しみだ」と紫苑。
「錬金術師の観測像に包装で勝った男として記録してあげる」
「俺が開けたわけじゃない」
「原因はあとから作ればいいのでしょう?」
紫苑が初めて言い返せず黙った。
ハヨンが新しい飴を開け、自分の端末で糖分を測る。
数値をキャリーへ送った。
「甘い、はずね」
「飴だからな」
「知識では知っている。でも味を知っているのは、本人の記憶を写したから。私がいま食べたわけじゃない」
観測像は本人じゃない。
その線を自分で引く言葉には、誰も笑わなかった。
壊れかけたハヨンの端末が、青く二度またたいた。
一度目は、いまの観測像の応答と同時。
二度目は、半拍あと。
「待って。応答が二つある」
ハヨンが飴の測定値を閉じる。細い波形が二本、別々に残っていた。
【第一応答:自律観測像】
【第二応答:生体生命相あり/著者署名・類似】
「私の応答ではないわ」
観測像が先に言った。
「でも、キャリー博士の署名に近い。生命相もある」
端末の隅へ、赤い線が一本だけ入った。母さんが地上節の外圧監視回線から割り込んだ印だ。
『ハヨン。発信元の座標と本人認証を、補完原典の被覆圏――補完圏へ共有しないで』
「お母さん、これが何か分かる?」
『まだ分からない。生命相があり、著者署名に似ている。それだけでは、生存も本人も確定できないわ』
「隠す理由は?」
『生きた原著者鍵として観測が成立すれば、零頁の側から発信元を逆にたどれる。本人認証まで渡せば、空いている四十七欄の起動条件にされかねない』
赤い線の向こうで、短く機械音が鳴った。
『この反応は私が補完圏の外から追う。端末には波形だけ残して、座標も名前も付けないで』
「分かった」
ハヨンは第二応答を、名のない細い線として隔離した。
生きている証明ではない。
けれど、死んだという記録だけでもなくなった。
*
蓮は壁へ背を預け、毛布を半分借りていた。
時計の使い過ぎで体温が落ち、吐き気がある。先輩の右腕はまだ動かず、ハヨンが固定帯を巻いた。紫苑は札一枚の因果債で右手の指先がしびれている。鈴華は人形とキャリーの認識を切り替え続け、他人の声が耳へ残っていた。
藍羽とオレも、気を流し過ぎて脚が震える。
誰か一人なら失敗していた。
七人で、道場の三人に外を支えられて、やっと一つの返却文を隔離から出した。
キャリーは一人ずつ負荷を確認した。
「西能寺、手の感覚は?」
「戻り始めてる。問題ない」
「問題ないは数値ではない」
「ハヨンと同じこと言うな」
「研究者は、問題ないと言う戦闘者を信用しないの」
「先輩。指、何本見える」
オレが三本立てる。
「四本」
「駄目じゃないか!」
「冗談だ。三本」
「殴るぞ」
「その腕も震えてる」
「元気になったら殴る」
キャリーが笑った。
「総司も、昔はよく『問題ない』と言った」
三人の空気が変わる。
先輩が聞く。
「教授は、本物のあなたを助けるためにこれを作ったんですよね」
「ええ。選塔も、三法宝も、帰還枝を使う計画も。死んだと信じた師を取り戻し、都市の時間を戻すため」
「今日、観測像は出たいと選んだ」
「条件が変わったから。あの日、本人が私と返却文を残したことも変わらない。でも私は、本人がいま何を選ぶかまでは言えない」
先輩は動かない右手を見る。
「教授はオレの気の流れを整え、余った電気を流す棒と場所をくれた。オレは救われた。それも変わらない」
「ええ」
「でも、本人の現在の返事を聞けないまま、学校の生徒から選択を集めて生き返らせようとした。それは違う」
先輩は自分の言葉で区切った。
「助けたことへの恩と、いま従うかは別だ」
蓮が閉じた時計へ手を置く。
「目的が救命でも、手順から本人の同意を外せば、結果は救命とは限りません。予定が正しいから従わせる、という僕のやり方も同じでした」
鈴華は眠る市民の声が残る街を見た。
「百八十万という数を、現在の生徒の損失で相殺はできません。どちらも一人ずつです。教授へ救われたわたくしたちも、止められた皆様も」
観測像は三人へ頭を下げた。
「総司を止めてくれて、ありがとうとは言わない。総司を選ぶのは総司自身だから。それに、私は師本人でもない。でも、あなたたちが自分を選び直したことには礼を言うわ」
「まだ途中です」と蓮。
「なら、請求書も途中ね」
観測核の上空で、赤い文字が急に速くなった。
四十七の空欄へ流れていた線が、地上の一点へ向かう。
星環学園。
教授がいる場所。
「データ流出!」
ハヨンが壊れた端末を起こす。
「隔離解除時の設計署名が、学校へ届いた。目黒教授が受け取ってる」
キャリーが前へ出ようとする。
また投影座標を間違え、今度は腰まで床へ沈んだ。ハヨンが無言で数値を直す。
「総司は、私の返却文が公開層へ出たことを零頁の予備観測許可に使える」
「何が始まる」
「予備起動。四十八頁へ、集めた選択を満たす手順」
「止められるか」
「いまの私には無理。現在の改造層は総司が所有している」
「なら、できることを出せ」
キャリーはオレを見る。
「まず零頁を見せる。何を外せば止まるか、全員で数える」
地上から、門を通じて赤い鐘が一度鳴った。
正式選闘の逆鐘ではない。
もっと平らな、全員へ同じ答えを押す音だった。
幕間・目黒
星環学園の旧天文塔で、教授は赤いペンを置いた。
左腕の校正火傷が、袖の下で新しく開く。
机上の鏡に、一瞬だけ長い黒髪が映った。
いつもの遠隔投影ではない。
隔離を外れ、四十七行の返却文を伴った自律観測像の記録。
『おはようございます、総司』
返事はない。
教授の笑顔は、いつもと同じだった。
目だけが、ほんの少し閉じる。
「やはり、ハミンくんは別の道を作った」
四十八の欄が空中へ開く。
一つは、男の帰還枝で満ちている。
残る四十七へ、今年度の決闘、体育祭、文化祭、校外研修、監査記録から赤い線が流れ込む。
教授は零頁の白紙へ指を置いた。
「正規観測像の隔離解除を確認。著者署名の一部を照合。予備起動を開始する」
学校中の時計が、一秒だけ同じ時刻へそろった。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




