第34話「水鏡のアトランティス」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
異世界へ行く時も、弁当は要る。
「七人ぶん。水筒は一人一本。食べ終わった容器は持ち帰る。知らない都市へごみを捨てない」
ひなたが水鏡の前へ荷物を並べた。
「向こうの滞在時間は未定だぞ」
「だから二食ぶん。お菓子は非常食。西能寺先輩が先に食べないよう、閑崎先輩が管理」
「オレだけ信用がないのか」
「ハミンさんにも渡しません」
鈴華が菓子袋を黒い袖へしまう。
「わたくしの会計管理下に置きます」
「遭難した時は?」
「一人一袋です。食欲を理由に遭難を早めないでください」
アトランティスへ入る七人は、オレ、藍羽、ハヨン、先輩、蓮、鈴華、紫苑。
ひなたとおっさんは道場側に残る。
父さんは門の外で、地脈へ流れ込む観測圧を抑える。
「私も行けるよ」
ひなたは自分から言った。
「でも、行かない。道場側で名前を読み、時間を記録し、近所の人が来たら避難させる。能力がないから残るんじゃない。こっちの仕事を選んだの」
「分かってる」
「本当に?」
「今朝、赤と青と黄色の道がなかったら、朝稽古の子を逃がせなかった」
「ならよし」
ひなたは七本の布帯を出した。
一つずつ名前が書いてある。
【ハミン】
【如月藍羽】
【ハヨン】
【西能寺京一】
【時任蓮】
【閑崎鈴華】
【霧崎紫苑】
「帰る時、全員ぶんそろっていなければ門を閉じない。霧崎先輩は特に、名前を見せてください」
「俺だけ名札が二つになった」
紫苑の胸には、今朝、安全ピンで留めた名前札も残っている。
「忘れられにくさ、二倍です」
「ゼロを二倍してもゼロだぞ」
「でも、書いた人は二回思い出せる」
紫苑は腕の帯を見た。
結ばれたものを、今度も外さなかった。
おっさんは十三重円の中央へ座る。
「わしの呼吸が止まれば、門も閉じる。無理に戻ろうとするな。水面へ鈴を三度鳴らせ」
「父さん、何時間持つの」
「腹が減るまで」
「弁当を食べながらやらないでよ」
「なら三時間」
「最初から時間で言って」
父さんは縁側の外へ立ち、紙を上げる。
【紙面:私は門へ触れない。外側の気脈を支える。】
「分かってる」
【紙面:危険なら戻れ。強さは、進むことだけではない。】
「それも分かってる」
父さんはもう一枚出した。
【紙面:弁当を忘れるな。】
「ひなたと同じこと言うな!」
白熊の肩が上下した。
*
水鏡へ足を入れる。
冷たい。
膝まで沈んでも、朱赤の衣服型法宝・緋天衣は濡れない。だが、緋天衣が水を弾けば済む冷たさじゃない。皮膚の外ではなく、選ばなかった動きの間へ入ってくる。右足を出した記憶と、出さなかった左足の感覚が同時にある。
「止まらないで」
ハヨンが後ろから言う。
「途中で立ち止まると、どちら側の重力へ落ちるか固定できない」
「先に言え!」
「手順書へ書いた」
「水へ入る前に読ませろ!」
「お兄ちゃんが弁当を先に見た」
頭まで水鏡を抜けた。
上下がひっくり返る。
落ちた。
「うおっ!」
白い石畳へ手をつく。
空は上にあった。
道場から見た時は逆さだった都市が、こちらへ来ると普通に立っている。白い建物。青銅色の屋根。空中へ何重にも渡る橋。遠くには海が壁のように立ち、都市を丸く囲んでいた。
海は落ちてこない。
波だけが、崩れる直前で止まっている。
藍羽が隣へ着地する。
「地面、硬い」
「当たり前だろ」
「空の上に見えたから」
続いてハヨン。先輩。蓮。鈴華。
最後に紫苑が水面から出る。
「誰だ?」
先輩が一瞬、棒へ手をかけた。
紫苑は腕の帯を見せる。
「霧崎だ。七人目」
「悪い。水をくぐった瞬間、抜けた」
「戻ってから飯を一品増やせ」
「それでいいのか」
「忘れた代金は高く取る」
ひなたの帯が、最初の一回を取り戻した。
背後の空中へ、丸い水面が浮いている。
向こうに道場の天井。ひなたが一人ずつ名前札を指している。声は届かないが、三十秒ごとに鈴華の鈴へ小さな振動が来た。
外側の仕事は続いている。
「滞在者七。門、安定」
蓮が時計を読む。
「こちらの秒針は?」
針が進まない。
「止まっています。僕たちの主観時間だけが門の帯域で動いています」
「使ったぶんは戻らない?」
「戻りません。空腹も疲労も、そのままです」
「弁当を持ってきて正解だな」
「いま食うな」と先輩。
道場側の光が小さく揺れた。
キャリーの声が、足元の磨かれた石へ映る。
『ようこそ、アトランティスへ』
長い黒髪が石畳の中で流れている。
「出迎えは顔だけか」
『いまの私は、反射面から反射面へ渡るのが精いっぱい。投影元の観測核は街の内側よ』
「どこだ」
『街の中央。歩いて二十分。寄り道しなければ』
街路は三方向へ分かれている。
どの道にも、人がいた。
一番近くの食堂。
白い服の女が、透明な茶器から紅茶を注いでいる。琥珀色の液体は細い弧のまま止まり、一滴も落ちない。客の男は椅子を引く途中。布の裾が浮き、瞳が友人のほうへ動きかけている。
呼吸しない。
瞬きしない。
だが石像でも死体でもない。
ハヨンが触れずに測定器を向ける。
「生命相、維持。心臓は次の収縮直前。細胞代謝も次の反応へ移る直前で固定されてる」
「生きてるのか」
『ええ』
キャリーの声だけが動く。
『この人は、紅茶を少し薄くしようとしていた。客は窓際へ座るか、奥へ座るか迷っていた。どちらも、まだ消えてはいない』
オレは男の客の目を見る。
こちらを見ない。
教授が助けたい人たち。
嘘じゃなかった。
「触っても?」
藍羽が聞く。
『触れないで。いまは一人の皮膚へ入った力でも、固定の次を決めてしまう』
藍羽は伸ばしかけた手を戻した。
「ごめんなさい」
『聞いてからなら、謝らなくていいわ』
街を進む。
すべてが、同じ一秒の手前にいた。
ボールを投げようとする子ども。受け取る子は、両手を胸の前へ出して笑いかけている。ボールはまだ指を離れていない。
二つの扉の前で立つ老人。右には市場、左には図書館の標識。杖の先が、どちらへも倒れず中央に浮いている。
橋の上で喧嘩をしていた二人。一人は怒鳴る口を開き、もう一人は謝ろうと息を吸っている。
どちらの声も出ない。
鳥も、旗も、噴水も止まっている。
空だけ青い。
明るいのに、音がない。
学校の時間停止では、オレたち決闘者二人だけが動いた。ここには挑戦も、相互請求も、受諾もない。正式選闘ではなく、十三番門が作った移動帯域の中にいる七人だけが動いている。その分、止まった人の多さがはっきり見えた。
「数は?」
先輩が聞く。
『都市全域で約百八十万。外縁の居住区を含めれば、もっと』
先輩は雷綴を強く握った。
「教授は、全員を助けようとしてたのか」
『総司はそう信じている』
「違うんですか」
蓮が聞く。
『助けたい気持ちは本物。方法が、助けられる側の次を消す』
鈴華が止まった市民を見る。
「わたくしたちは、教授の事情を知らずに恩だけを受けていました」
『恩を嘘にしなくていい。総司があなたたちを助けたことも、本当なのでしょう』
「それでも止める?」
先輩が聞く。
『ええ。愛情は、相手の選択を無効にする許可証ではないから』
ハヨンの指が、一瞬止まった。
オレたちは何も言わず歩いた。
*
中央広場には、星環学園の校旗と同じ目紋があった。
大きな青銅の輪。中心に細長い目。上下へ十三の線。
「体育倉庫の印だ」
オレが近づく。
輪の周りには十二の小さな門が並ぶ。十一は暗く、一つだけ赤い校正線で閉じられている。十三番目の場所には門そのものがない。
『地上観測環』
広場の噴水へキャリーが映る。
『都市が通常時間にあった頃、各地の観測所とアトランティスをつないだ設備よ。星環学園の塔は、その一つを学校の建設時に取り込んだ』
『雲上闘技場は、その観測環が地上と都市の位相を重ねる操作面。直径は百二十メートル、見かけの高度は標準で約二千五百メートル。雲の下へ校舎が逆さに見えたのは、別世界へ移ったからではなく、二つの位置関係を同じ面へ折り畳んだからよ』
『でも空気まで上空から持ってきてはいない。入口扉を座標の錨にして、気圧も酸素濃度も地上側へ固定してあるの。だから息は薄くならないし、耳も痛くならない。資格のない人が階段で数を失うのも、縁から落ちた人が屋上扉の階段側へ即時転送されるのも、同じ座標復帰――いえ、最後のは復帰というより安全帰還ね。順番を噛んだわ』
『正式選闘中は、入口扉を暗い膜が閉じる。場外転送された者はその膜の階段側へ送られ、十三の計数は、落下者をさらに落とす時間でも、戻れるか試す時間でもなく、負傷確認をしながら場外を確定するための猶予。選闘の外で落ちたなら、計数なしでそのまま安全に帰れるわ』
「学校が先じゃないんだ」
藍羽が見上げる。
『塔の基礎が先。校舎は後。総司が、地上側で使える形へ組み直した』
広場の一角に、折れた旗がある。
白地に青い環。現在の星環学園の校旗と、色を反転しただけの図案。
蓮の時門時計が勝手に一度鳴った。
旗の柱へ、同じ大きさの歯車穴がある。
「時計の頁が、ここにあった」
『時間座標を地上と合わせる部品。いまの外装は総司の設計ね』
鈴華の鈴は、旗の隣にある音叉へ反応した。
先輩の雷綴の下端は、広場の導電溝へぴたりとはまる。
『器の芯は、昔の崑崙の道士たちが使った法宝よ。気と術式を物へ定着させる形式へ、アトランティスの座標頁を組み込んである。総司は三つを発掘し、現在の外装と管理刻印を与えた』
三つの法宝の紋章が光り、重なる。
一本の棒が場所。
一つの時計が時刻。
一つの鈴が、誰を同じ世界として認識するか。
三つで円になる。
「教授は、オレたちを部品にした」
先輩の声は低かった。
「でも、教授に整えてもらった流れを支え、余った雷を逃がせるようにしたのも同じ棒だ」
自分で続ける。
「助けられたことと、使われたこと。どっちも消さない」
「記録します」
蓮が工程表ではない白紙へ書いた。
鈴華も台帳を開く。
「損失と恩義を同じ欄で相殺いたしません。別々に残しますわ」
「会計らしいな」と紫苑。
「霧崎さんの存在も、未収金扱いで残しております」
「人を借金にするな」
「返却されるべき資産です」
紫苑は少しだけ笑った。
*
観測核へ続く建物は、学校の塔を逆さにした形だった。
入口が屋上にあり、階段を下りるほど空へ近づく。
一段ごとに重力が変わる。右足を床へ置いたのに、身体は壁へ引かれる。ハヨンは測定器を見ながら平気で進み、先輩は三度、天井へ頭をぶつけた。
「ハヨン、先に言ってくれ」
「足元の矢印を見れば分かる」
「古代文字だぞ!」
「図形は普遍」
『その矢印、文字よ』
壁の銀板へ映ったキャリーが訂正する。
「キャリー博士。これは重力方向の指示?」
『いいえ。「急ぐと転ぶ」。ハヨン博士、あなたも読めていないでしょう』
「構造から推測した」
『推測を事実の顔で言うところは、若い研究者の悪い癖ね』
「結果は合ってた」
『転んだ西能寺が反証よ』
先輩が天井から降りる。
「二人とも、オレを論文にするな」
キャリーとハヨンは、似ていない。
キャリーは感情を顔へ出す。ハヨンは数字の後ろへ隠す。
だが、分からないものを見つけた時の目は同じだった。
最下層の扉で、ハヨンの現代端末が動かなくなる。
キャリーの錬金式も、地上の電子認証を読めない。
「私の端末で物質相を読む。キャリー博士が文書の意味を翻訳して」
『逆でもいいわ。私が素材の記憶を読み、あなたが現在の数値へ変換する』
「同時に」
『賛成』
二人が鏡を挟んで作業する。
ハヨンの青い数値と、キャリーの金色の文字が重なり、扉の鍵になる。
「開く」
扉が音もなく左右へ分かれた。
『ハヨン博士』
「何?」
『あなたは、説明できることと、決めてよいことを混ぜた経験がある?』
ハヨンは扉から目を離さなかった。
「ある。お兄ちゃんへ黙って薬を飲ませた」
『効果を説明できた?』
「説明できると思ってた。間違ってた」
『仮に計算が正しくても、飲ませてよかった?』
「よくない」
『なら、もう私が教えることは半分しかないわ。残りはその手順を続けなさい』
ハヨンがオレを見る。
オレはうなずいた。
扉の向こうへ先に入るか、聞かれる。
「行く」
それから全員が、自分で答えて入った。
*
観測核は、巨大な空白だった。
床も壁も白い。
中央に、透明な球が浮いている。球の中には長い黒髪の女が眠り、その周りを四十八枚の薄い板が回っていた。
鏡のキャリーと同じ顔。
けれど、身体じゃない。
ハヨンの測定器は質量を零と表示した。体温も、心拍も、細胞もない。濃紺と白の外套も、胸の前へ重ねた両手も、光の層へ古い文字で書かれている。
『私の原型記録よ』
球の表面へキャリーの像が重なる。
『正確には、キャリー・アイが崩壊直前の思考、記憶、判断手順を写して作った自律観測像。鏡で話していた私も、この球の中で眠る女も、設計者本人ではないわ』
「いままで、キャリー本人みたいに話してたぞ」
『本人に似せて応答するのが仕事だもの。口癖も、失敗した時に説明書のせいへする癖も入っている。そこまで写す必要があったのかは、私にも疑問だけれど』
言った直後、像は球の操作板を開こうとして、隣の照明板を消した。
『……これは配置が紛らわしいわね』
「いまのも写した癖か」
『たぶん』
すごい説明の途中で、白い部屋だけが一度真っ暗になった。
ハヨンが無言で正しい板を開き、照明を戻す。
『都市を止めた時、設計者が観測核へ直接つながれば、零頁はその人を《著者鍵》として扱う。だから本人の代わりに私を残し、都市の保存と返却規約を監視させた』
「本物はどこだ」
『分からない』
キャリーの像は、初めて答えを飾らなかった。
『観測核へ残った最後の外部監視記録では、南研究棟が白い光へ潰れ、キャリー・アイの生命相も消えた。避難路から見た総司も同じ記録を受け取った。その後、外部位相との通信は何千年も完全に切れた』
「教授は、死んだと思ってる」
『ええ。私を残留意識だと思っている。私自身も、生存を示す観測を一件も持っていない』
崩壊を示す記録。
長すぎる通信遮断。
目の前に残った、本人と同じ顔で答える像。
教授が信じた死は、願いから作った一行ではなかった。
球の下へ、若い教授の映像が一瞬映った。
いまより短い薄緑の髪。割れた眼鏡。球へ手を伸ばし、届かない。
音はない。
記録はすぐ消えた。
「今と、生体年齢がほとんど同じ」
ハヨンが、像の消えた場所と観測板を見比べる。
「都市の人は、心拍も細胞代謝も止まってた。目黒教授は違う。学校で歩いて、呼吸して、怪我もしてる。あの時測った時も、代謝は動いて、経年方向だけが読めなかった」
『総司の個人生存契約が身体頁に残っている。でも暫定管理者の封鎖で、ここから読めるのは《身体・延》という保管先まで』
「自分の『老いる』時刻を延ばした?」
『可能性は高いわ。でも、契約文を見ずに断定しないで』
「分かった。保留する」
先輩たちは目をそらさなかった。
救いたかった師は、ここにいない。
それでも、その師が残した返却手順は目の前にある。
どちらも、教授が手を伸ばし続けた理由だった。
「おまえは、ここから出たいか?」
オレが聞く。
観測像は、眠る原型記録を見た。
『隔離を解除して、返却文を読める場所へ出たい』
「それは、キャリー本人の選択か?」
『いいえ。私は本人の現在の意思を代弁できない。崩壊前に本人が書いた条件――外部から複数の自発的観測者が到達した時、像自身へ隔離解除を選ばせる。その条件を満たした私の選択よ』
「なら、おまえを助ける」
『簡単に言うわね』
「難しい方法は、観測像とハヨンが考えろ」
「お兄ちゃんも動く」とハヨン。
「分かってる」
四十八枚の板が止まった。
六つの列へ並ぶ。
身体。
関係。
所属。
行動。
記憶。
時間。
各列に、八つの空欄。
赤い線がところどころへ流れている。だが、完全に満ちている欄は一つだけだった。
時間の列、一番下。
【循】
周期ごと選び直す欄。
そこに、男のオレが立っている。
鏡じゃない。
長い黒紫の髪を女の時と同じ一本の三つ編みにしている。広い肩。長い腕。満月の日に戻れた、出生時から続く身体相。
影はオレを見た。
同じ顔で、違う身体。
「お兄ちゃんの帰還枝」
ハヨンが息をのむ。
手を伸ばす。
透明な板との間へ、赤い線が走った。
『触らないで!』
キャリーの声が響く。
オレは手を止めた。
『いま引けば、あなたが女の身体で過ごした記憶まで、帰らなかった時間として引かれる』
「じゃあ、どう返す」
『順番がある。原型記録の隔離を外し、私が持つ返却文を零頁へ戻す。それから、奪った定義と燃料を調べる』
「近道は?」
『錬金術師へ近道を聞くなら、代価も一緒に聞きなさい』
「代価は?」
『あなたがここへ来るまでに選んだ時間、全部』
「却下」
『賢明ね』
男の影が、板の中で半歩近づいた。
口が動く。
声はない。
オレはここにいる。
そう言った気がした。
その影の周りで、四十七の空欄へ赤い文字がゆっくり満ち始めていた。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




