第33話「天道宗、十三番目の門」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
世界の入口が床下に現れてから、冬休みを挟んで二か月半が過ぎた。
その間に二度の満月が来たが、身体は変わらなかった。オレたちは十三番目の門を壊さず開くため、母さんの遠隔設計と道場の地脈を照合し続けた。
本開門を前にした昨日の予備試験では、逆流で床と廊下の向きがずれ、全員を三方向へ避難させた。
その翌朝、おっさんは雑巾を十枚出した。
「門を開く前に、床を磨け」
「世界を救うのと掃除は関係ないだろ」
「世界の入口が汚れておったら恥ずかしい」
「誰に対してだ」
「水の裏の女」
「キャリーだ」
「まだ名乗られておらん」
床へ門が現れた日に本人の声を聞いたのに、おっさんは意地でも「水の裏の女」と呼んだ。
アトランティスを知らなかったことが少し悔しいらしい。
「床を磨けば気の流れも分かる」
「後から修行らしい理由を足すな」
「朝食、掃除、受け身、門開き。すべて天道宗の修行じゃ」
「昨日まで門開きが修行になるなんて言ってなかった!」
「今日から増えた」
開祖は強い。
新しい修行を自分で増やせるところが、特に強い。
藍羽は文句を言いながら、もう円の外側を拭いている。
「ハミン、そこは線に沿って」
「雑巾まで型どおりか」
「門が現れた日に四十八本へ増えたでしょ。一本ずつ切れ目がないか見るの」
「真面目だな」
「私の道場だから」
藍羽は少し誇らしそうだった。
誰かから渡された十三番目の門じゃない。
おっさんが地面の音を聞き、藍羽や近所の子どもたちが毎日走り、掃除し、転んで受け身を取った。そうして自然節へ気が巡り、偶然だった場所が門になった。
オレも雑巾を線へ沿わせる。
板間の下から、低い音が掌へ返った。
選塔の一定すぎるハミングとは違う。
吸う。吐く。迷う。もう一度吐く。
人がここで過ごした呼吸の跡だ。
「お兄ちゃん、七番線で止まって」
ハヨンが十三重円の外へ機械を並べていた。
文化祭の位相観測器を半分。母さんの遠隔設計を四分の一。残りは、冬のあいだにハヨンが作った。銀色の輪が四十八本の細線を読み、床の中心へ投影する。
「これ、爆発するか?」
「しない」
「絶対?」
「爆発の定義による」
「ひなた、避難経路を増やせ!」
「もう三つ作った!」
ひなたは道場の平面図へ赤、青、黄色の矢印を書いている。正式選闘ではない。門が逆流すれば全員が動けるが、床や廊下の方向が変わる。昨日の避難で、普通の「玄関へ走る」だけでは足りないと知った。
「赤が庭。青が台所の勝手口。黄色は屋根が落ちた時の窓。全員、自分で一つ選んで。塞がっていたら別の色へ」
「最適経路を一つに決めないんですね」
蓮が感心したように言う。
「三人しか帰れない洞窟の話を聞いたから。正しい出口が罠になるなら、最初から三つ作る」
「工程表へ採用します」
「委員資格を止められてるのに?」
「予定を作る資格までは、誰にも止められていません」
蓮の工程表には、今日の門開きが秒単位で書かれていた。
ただし最後の欄だけ空白だ。
【門が開いた場合――参加者が決める】
前の蓮なら、帰る時刻まで先に決めたかもしれない。
先輩は庭へ接地杭を打ち込んでいる。雷綴の電気を門へ入れるためじゃない。逆流した気を地面へ逃がす安全線だ。
「あと二十センチ右」とハヨン。
「ここか」
「右」
「オレから見て?」
「地図の北を上にして」
「道場の中で北を上にできるか!」
「京一、杭が泣いておりますわ」
鈴華が黒い袖の中で鈴を鳴らす。
ちりん、と一度。
庭から、杭を打たなかった場合の鈍い声が返る。
〈左〉
先輩が右へ打ち直した。
「鈴華。そっちは左って言ってないか?」
「打たなかった場所の残響です。反対が現在の正解ですわ」
「ややこしい!」
「残響へ苦情をお願いいたします」
紫苑は縁側へ座り、札を一枚ずつ並べていた。
「使うのか?」
「使わない結果を先に置いてる」
「ただ見てるだけだろ」
「結果は同じだ」
「霧崎先輩」
ひなたが名前札を紫苑の胸へ安全ピンで留める。
「それ、外さないでください」
「俺を幼稚園児だと思ってる?」
「目を離すと名札のない知らない人になるので」
「名札があっても知らない人だろ」
「なら、これから知ります」
紫苑は何も返さず、名札を外さなかった。
父さんは門の外、庭の石灯籠のそばに立っている。
白沢衣の計測端子を閉じ、中の着用者を一人の存在として完全に隠していた。それでも雪は父さんの周囲だけ溶けず、落ちる直前の形で空中へ浮いている。
「父さんは手伝わないのか」
紙が上がる。
【紙面:最後の一線だけ。先に触れれば門が私を選ぶ。】
「見てるだけって難しいな」
【紙面:殴るより難しい。】
父さんが書くと説得力がある。
*
昼前、床の中心へ水滴が浮かんだ。
キャリーは一枚の手鏡に現れた。
腰を越して流れる黒い髪、青緑の瞳、濃紺と白の外套。文化祭の時より像が近い。だが鏡を傾けても、彼女の背景は変わらない。青い空と、逆さの白い塔。
『聞こえる?』
「聞こえる」
『天道王も?』
「水の裏の女よ。人へ名を聞く前に自分から名乗れ」
キャリーが目を丸くした。
『失礼。キャリー・アイ。アトランティス最高の錬金じゅちゅ――錬金術師で、いまは扉の向こうの案内係』
「いま噛んだか?」
『通信が一瞬よじれただけよ』
「天道王。天道宗の開祖で、この道場の主じゃ」
『あなたがこの自然節を育てたのね。ありがとう』
「礼を言うなら、門の使用料を払え」
「父さん!」
「朝食一人前でよい」
『良心的ね。身体が戻ったら払いましょう』
キャリーは笑ったあと、鏡越しに床を調べた。
『十三番目の自然節は、《補完原典》が管理している十二の地上門から外れている。だから総司の校正を通らず、こちらへ入れる可能性がある。ただし、門として固定されていない』
「開けばいいんだろ」
『強く開けば裂けるわ。地上と都市の時間差は、一秒と数千年ほど離れている。扉だけ開いて道を作らなければ、こちらの一秒が道場へあふれる』
「昨日みたいに床が折れる?」
『昨日より静かに、もっと悪く。全員が動いたまま、次の一歩だけ永遠に来なくなる』
おっさんの笑顔が消えた。
「どう開く」
『私は向こうから観測する。でも地上側を選ぶことはできない。天道宗の循環と、崑崙の羽鳴を同じ型へ押し込めず、接触点だけ作って』
「羽鳴?」
オレの声へ、父さんが紙を上げた。
【紙面:ハミンの鼻歌。崑崙の古い呼吸名。】
「名前があったのか!」
【紙面:教えた。】
「いつ」
【紙面:五歳。】
「覚えてるわけないだろ!」
キャリーが鏡の中で笑っている。
『いい名前ね。羽が別々に鳴って、同じ空気を動かす』
「文化祭の《はみんぐ・ふれあ》と同じ」
藍羽がオレを見る。
「偶然?」
「おまえが勢いで付けたんだろ」
「でも、ハミンの鼻歌から考えた」
「名前まで帰る道を覚えてたのかも」
ハヨンが小さく言った。
『門へ必要なのは四つ。地上の場所、現在の時刻、向こうを知る認識、そして自分で渡る気。法宝は補助に使って。答えにしてはいけない』
先輩が雷綴を、蓮が時門時計を、鈴華が心響鈴を見た。
教授から与えられた三つの法宝。
いまは、教授の管理外へ道を開くために持っている。
*
開始前、ハヨンがオレの前へ来た。
位相校正器の輪を両手で持っている。
「お兄ちゃん」
「うん」
「双相仙脈を門の基準に使いたい。女の身体相を現在側、奪われた男の帰還枝の残響を向こう側へ照合する」
「オレの中に男の枝はないんだろ」
「権利は奪われた。でも、身体地図と記憶は残ってる。満月前の倍音も来る。そこから座標だけ読む」
「危険は?」
「教授に接続を観測される可能性。門の逆流で二つの身体距離が一時的に混ざる可能性。腕や脚の感覚がずれて転倒する。最悪の場合、位相酔いで意識を失う」
「戻れなくなる?」
「いま以上に帰還枝を奪う機能はない。でも、ゼロとは言わない」
「途中でオレが止めろと言ったら」
「止める」
「キャリーが続けろと言っても?」
「止める」
「母さんや父さんが大丈夫だと言っても?」
「お兄ちゃんが止めろと言えば止める」
ハヨンの手は、起動釦へ触れていない。
薬を飲ませる前のハヨンなら、もう測定を始めていた。
謝ったから変わったんじゃない。
変わった手順が、謝罪の続きになっている。
「使っていい」
「記録していい?」
「全員の安全確認に使う。別の薬へ流用する時はまた聞け」
「分かった」
ハヨンが初めて釦へ触れた。
銀の輪がオレの胸の高さへ浮く。
男と女、二つの輪郭が半拍ずれて床へ落ちた。
「これで、薬のことは終わり?」
ハヨンが聞く。
「終わったことにはしない。忘れない」
オレは答えた。
「うん」
「だから次も聞け」
「聞く」
「なら、いまは一緒にやる」
ハヨンの赤い髪飾りが、小さく揺れた。
やっと、謝罪が言葉の外へ出た。
*
「門開きの型、始め!」
おっさんが勝手に名付けた。
「今日できた型だろ!」
「今日から伝統じゃ!」
十三重円の中央へおっさん。
外周へ藍羽。
オレは四十八線の間へ立つ。
ハヨンの機械が二つの身体相を投影し、先輩の接地線が道場の場所を地面へつなぐ。蓮は時計の蓋を開き、門の内側へ置く〇・九倍、〇・五秒の補正を二秒かけて登録した。ち、ち、――ち。秒針を定位置で待機させ、まだ出力は始めない。鈴華の鈴がキャリーの像とこちらの認識を結ぶ。
紫苑とひなたは円の外。
「一拍ごとに名前を読む」とひなた。
「忘れた時は?」と紫苑。
「また最初から」
「門が開くまで何度でも?」
「何度でも」
父さんは庭。
最後の一線へ触れる時だけ動く。
「藍羽!」
「はい!」
おっさんが息を吸う。
天道纏気が道場へ広がる。
藍羽は外周を走った。正しい型。爪先、膝、腰、肩が一つの線を通る。十三の円を一周するたび、気を溜めず次へ渡す。
春から、数え切れないほど組手をした。内を深く通すオレの気へ触れるたび、藍羽は自分の纏気が止まる場所を一つずつ直した。増えたのは気の量じゃない。受けた流れを殺さず、次へ渡す精度だ。
オレは反対へ走る。
紅燕歩。
女の身体で完成させた、小さな回転。線へ触れてから進む方向を選ぶ。最初から決めない無選歩を混ぜ、藍羽の気が来たところだけ受け取る。
一周目。
床が水色になる。
ずれの警告がつき、蓮が竜頭を一度押す。〇・五秒だけ門内を補正し、出力が止まった。
二周目。
道場の外で、雪が空へ巻き上がる。警告が出るたび、蓮は同じ補正を針合わせなしで走らせた。短い出力の間は門が少し遅れ、止めている間は累積使用枠を減らさない。
三周目。
残響が出た。
オレの前に、男のオレが立つ。
長い黒紫の髪を一本の三つ編みにしている。今より広い肩。おっさんへ一度勝った夜の身体。
〈そっちなら届く〉
声がする。
男の影が長い腕を伸ばす。
〈女の身体を置いていけ〉
「残響だ!」
ハヨンが叫ぶ。
「お兄ちゃんが選ばなかった言葉。未来の命令じゃない!」
「分かってる!」
男へ戻りたい。
その気持ちは偽物じゃない。
だが、女の身体で過ごした時間を捨てたいわけでもない。
影の腕へ触れる。
消そうとせず、流す。
影は鼻歌へほどけた。
ううん。
藍羽の前にも影が出る。
完璧な型で一人だけ門を開く藍羽。おっさんに褒められ、誰にも合わせない姿。
〈ハミンを待つな〉
「待ってない」
藍羽は影の拳を受けた。
「渡してるの。次へ行けるように!」
影を投げず、回転させる。
気がオレへ来る。
受け取る。
次の線へ置く。
床の青が深くなった。
その中へ、白い街路が見える。
「時間差、一・八倍へ拡大!」
蓮が竜頭を押す。〇・九倍の補正が門の内側へ入る。
蓮の指が震える。
「〇・九では追いつかない。〇・八五へ下げます」
秒針を合わせ直す。新しい倍率へ移るまで二秒。そのあいだは〇・九倍の領域が残る。
「二拍、今の循環を保って!」
藍羽と呼吸をそろえ、青い線を同じ幅へつなぐ。
一拍。
二拍。
秒針が定位置へ落ち、門の内側が〇・八五倍へ切り替わった。〇・五秒の補正が終わると出力は止まり、門は合わせた位相を保つ。次の警告には、同じ倍率を竜頭だけで再実行できる。
「累積使用枠は?」
ハヨンが聞く。
「あと十八秒。予定内です」
「限界前に戻して」
「予定済みです」
鈴華の鈴から、何百もの声があふれた。
〈開け〉
〈閉じろ〉
〈一人で来い〉
〈全員で来い〉
鈴華の顔が白くなる。
「鈴華!」
「聞こえております」
鈴を握る手を下ろさない。
「ですが、命令は通しません。本人が選んだ声だけを――」
鏡の中からキャリーが言う。
『私は、門を開いてほしい』
鈴華がその一声だけを選ぶ。
ほかの声が遠のいた。
先輩の接地杭へ、赤い電気が逆流する。
「来るぞ!」
雷綴を横へ寝かせ、庭の三本へ分ける。大放電は使わない。細い電流を地面へ逃がすたび、右手の古い火傷が赤くなる。
「先輩、放せ!」
「まだ場所がずれる!」
「腕が動かなくなるぞ」
「三秒なら持つ!」
蓮が時計を見た。
「三秒だけです!」
決めた時間を、先輩も守る。
一秒。
二秒。
三秒。
雷綴を手放す。
紫苑が柄を蹴り、接地線の外へ出した。
「俺は使わない結果を置いた」
「いま使っただろ」
「足だ。札じゃない」
門の中心が開く。
水面が板間いっぱいへ広がった。
なのに、最後の四十八番線だけ黒い。
「閉じる!」
ハヨンの表示が赤くなる。
「外周の気圧が足りない。でも、お父さんを入れたら過剰になる!」
父さんが動いた。
円へは入らない。
庭から縁側へ一歩。白熊の長い腕を伸ばし、黒い線の外端へ小指だけ触れた。
強い気を入れない。
裂け目が外へ広がらない位置を支える。
紙が父さんの反対の手にある。
【紙面:中は任せた。】
「藍羽!」
「ハミン!」
オレたちは四十八番線の両側へ入った。
おっさんの型と、オレの歩法。
どちらを勝たせるかじゃない。
藍羽の掌へ触れる。
気を押さない。奪わない。
藍羽が渡せる量だけ受け取る。オレが持てる量だけ流し、余りを返す。
二人の間を一周した呼吸が、線へ落ちた。
黒が青へ変わる。
「開いた!」
ハヨンが校正器を止めた。
蓮が時計の蓋を閉じる。
鈴華が鈴を伏せる。
おっさんは纏気を解いた。
父さんの小指が線から離れる。
床は水鏡になった。
板も、修行図も見えない。
足元に、青空がある。
海底じゃない。
雲が浮かび、その向こうに白い都市が逆さまに広がっていた。尖塔、橋、金色の環。街のさらに下を、空より青い海が囲んでいる。
上下が全部、間違っている。
それでも水面へ映ったオレたちだけは、正しい向きで立っていた。
中央にキャリーがいる。
鏡像のまま、向こう側から手を上げる。
オレも手を重ねた。
水は冷たい。
手のひらの向こうに、温度があった。
『やっと触れた』
キャリーが笑う。
その背後で、都市中の時計が同じ一秒の直前を指して止まっていた。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




