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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第六章「崑崙と沈まない都」
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33/53

第33話「天道宗、十三番目の門」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 世界の入口が床下に現れてから、冬休みを挟んで二か月半が過ぎた。


 その間に二度の満月が来たが、身体は変わらなかった。オレたちは十三番目の門を壊さず開くため、母さんの遠隔設計と道場の地脈を照合し続けた。


 本開門を前にした昨日の予備試験では、逆流で床と廊下の向きがずれ、全員を三方向へ避難させた。


 その翌朝、おっさんは雑巾を十枚出した。


「門を開く前に、床を磨け」


「世界を救うのと掃除は関係ないだろ」


「世界の入口が汚れておったら恥ずかしい」


「誰に対してだ」


「水の裏の女」


「キャリーだ」


「まだ名乗られておらん」


 床へ門が現れた日に本人の声を聞いたのに、おっさんは意地でも「水の裏の女」と呼んだ。


 アトランティスを知らなかったことが少し悔しいらしい。


「床を磨けば気の流れも分かる」


「後から修行らしい理由を足すな」


「朝食、掃除、受け身、門開き。すべて天道宗の修行じゃ」


「昨日まで門開きが修行になるなんて言ってなかった!」


「今日から増えた」


 開祖は強い。


 新しい修行を自分で増やせるところが、特に強い。


 藍羽は文句を言いながら、もう円の外側を拭いている。


「ハミン、そこは線に沿って」


「雑巾まで型どおりか」


「門が現れた日に四十八本へ増えたでしょ。一本ずつ切れ目がないか見るの」


「真面目だな」


「私の道場だから」


 藍羽は少し誇らしそうだった。


 誰かから渡された十三番目の門じゃない。


 おっさんが地面の音を聞き、藍羽や近所の子どもたちが毎日走り、掃除し、転んで受け身を取った。そうして自然節へ気が巡り、偶然だった場所が門になった。


 オレも雑巾を線へ沿わせる。


 板間の下から、低い音が掌へ返った。


 選塔の一定すぎるハミングとは違う。


 吸う。吐く。迷う。もう一度吐く。


 人がここで過ごした呼吸の跡だ。


「お兄ちゃん、七番線で止まって」


 ハヨンが十三重円の外へ機械を並べていた。


 文化祭の位相観測器を半分。母さんの遠隔設計を四分の一。残りは、冬のあいだにハヨンが作った。銀色の輪が四十八本の細線を読み、床の中心へ投影する。


「これ、爆発するか?」


「しない」


「絶対?」


「爆発の定義による」


「ひなた、避難経路を増やせ!」


「もう三つ作った!」


 ひなたは道場の平面図へ赤、青、黄色の矢印を書いている。正式選闘ではない。門が逆流すれば全員が動けるが、床や廊下の方向が変わる。昨日の避難で、普通の「玄関へ走る」だけでは足りないと知った。


「赤が庭。青が台所の勝手口。黄色は屋根が落ちた時の窓。全員、自分で一つ選んで。塞がっていたら別の色へ」


「最適経路を一つに決めないんですね」


 蓮が感心したように言う。


「三人しか帰れない洞窟の話を聞いたから。正しい出口が罠になるなら、最初から三つ作る」


「工程表へ採用します」


「委員資格を止められてるのに?」


「予定を作る資格までは、誰にも止められていません」


 蓮の工程表には、今日の門開きが秒単位で書かれていた。


 ただし最後の欄だけ空白だ。


【門が開いた場合――参加者が決める】


 前の蓮なら、帰る時刻まで先に決めたかもしれない。


 先輩は庭へ接地杭を打ち込んでいる。雷綴の電気を門へ入れるためじゃない。逆流した気を地面へ逃がす安全線だ。


「あと二十センチ右」とハヨン。


「ここか」


「右」


「オレから見て?」


「地図の北を上にして」


「道場の中で北を上にできるか!」


「京一、杭が泣いておりますわ」


 鈴華が黒い袖の中で鈴を鳴らす。


 ちりん、と一度。


 庭から、杭を打たなかった場合の鈍い声が返る。


〈左〉


 先輩が右へ打ち直した。


「鈴華。そっちは左って言ってないか?」


「打たなかった場所の残響です。反対が現在の正解ですわ」


「ややこしい!」


「残響へ苦情をお願いいたします」


 紫苑は縁側へ座り、札を一枚ずつ並べていた。


「使うのか?」


「使わない結果を先に置いてる」


「ただ見てるだけだろ」


「結果は同じだ」


「霧崎先輩」


 ひなたが名前札を紫苑の胸へ安全ピンで留める。


「それ、外さないでください」


「俺を幼稚園児だと思ってる?」


「目を離すと名札のない知らない人になるので」


「名札があっても知らない人だろ」


「なら、これから知ります」


 紫苑は何も返さず、名札を外さなかった。


 父さんは門の外、庭の石灯籠のそばに立っている。


 白沢衣の計測端子を閉じ、中の着用者を一人の存在として完全に隠していた。それでも雪は父さんの周囲だけ溶けず、落ちる直前の形で空中へ浮いている。


「父さんは手伝わないのか」


 紙が上がる。


【紙面:最後の一線だけ。先に触れれば門が私を選ぶ。】


「見てるだけって難しいな」


【紙面:殴るより難しい。】


 父さんが書くと説得力がある。


     *


 昼前、床の中心へ水滴が浮かんだ。


 キャリーは一枚の手鏡に現れた。


 腰を越して流れる黒い髪、青緑の瞳、濃紺と白の外套。文化祭の時より像が近い。だが鏡を傾けても、彼女の背景は変わらない。青い空と、逆さの白い塔。


『聞こえる?』


「聞こえる」


『天道王も?』


「水の裏の女よ。人へ名を聞く前に自分から名乗れ」


 キャリーが目を丸くした。


『失礼。キャリー・アイ。アトランティス最高の錬金じゅちゅ――錬金術師で、いまは扉の向こうの案内係』


「いま噛んだか?」


『通信が一瞬よじれただけよ』


「天道王。天道宗の開祖で、この道場の主じゃ」


『あなたがこの自然節を育てたのね。ありがとう』


「礼を言うなら、門の使用料を払え」


「父さん!」


「朝食一人前でよい」


『良心的ね。身体が戻ったら払いましょう』


 キャリーは笑ったあと、鏡越しに床を調べた。


『十三番目の自然節は、《補完原典》が管理している十二の地上門から外れている。だから総司の校正を通らず、こちらへ入れる可能性がある。ただし、門として固定されていない』


「開けばいいんだろ」


『強く開けば裂けるわ。地上と都市の時間差は、一秒と数千年ほど離れている。扉だけ開いて道を作らなければ、こちらの一秒が道場へあふれる』


「昨日みたいに床が折れる?」


『昨日より静かに、もっと悪く。全員が動いたまま、次の一歩だけ永遠に来なくなる』


 おっさんの笑顔が消えた。


「どう開く」


『私は向こうから観測する。でも地上側を選ぶことはできない。天道宗の循環と、崑崙の羽鳴(はみんぐ)を同じ型へ押し込めず、接触点だけ作って』


「羽鳴?」


 オレの声へ、父さんが紙を上げた。


【紙面:ハミンの鼻歌。崑崙の古い呼吸名。】


「名前があったのか!」


【紙面:教えた。】


「いつ」


【紙面:五歳。】


「覚えてるわけないだろ!」


 キャリーが鏡の中で笑っている。


『いい名前ね。羽が別々に鳴って、同じ空気を動かす』


「文化祭の《はみんぐ・ふれあ》と同じ」


 藍羽がオレを見る。


「偶然?」


「おまえが勢いで付けたんだろ」


「でも、ハミンの鼻歌から考えた」


「名前まで帰る道を覚えてたのかも」


 ハヨンが小さく言った。


『門へ必要なのは四つ。地上の場所、現在の時刻、向こうを知る認識、そして自分で渡る気。法宝は補助に使って。答えにしてはいけない』


 先輩が雷綴を、蓮が時門時計を、鈴華が心響鈴を見た。


 教授から与えられた三つの法宝。


 いまは、教授の管理外へ道を開くために持っている。


     *


 開始前、ハヨンがオレの前へ来た。


 位相校正器の輪を両手で持っている。


「お兄ちゃん」


「うん」


「双相仙脈を門の基準に使いたい。女の身体相を現在側、奪われた男の帰還枝の残響を向こう側へ照合する」


「オレの中に男の枝はないんだろ」


「権利は奪われた。でも、身体地図と記憶は残ってる。満月前の倍音も来る。そこから座標だけ読む」


「危険は?」


「教授に接続を観測される可能性。門の逆流で二つの身体距離が一時的に混ざる可能性。腕や脚の感覚がずれて転倒する。最悪の場合、位相酔いで意識を失う」


「戻れなくなる?」


「いま以上に帰還枝を奪う機能はない。でも、ゼロとは言わない」


「途中でオレが止めろと言ったら」


「止める」


「キャリーが続けろと言っても?」


「止める」


「母さんや父さんが大丈夫だと言っても?」


「お兄ちゃんが止めろと言えば止める」


 ハヨンの手は、起動釦へ触れていない。


 薬を飲ませる前のハヨンなら、もう測定を始めていた。


 謝ったから変わったんじゃない。


 変わった手順が、謝罪の続きになっている。


「使っていい」


「記録していい?」


「全員の安全確認に使う。別の薬へ流用する時はまた聞け」


「分かった」


 ハヨンが初めて釦へ触れた。


 銀の輪がオレの胸の高さへ浮く。


 男と女、二つの輪郭が半拍ずれて床へ落ちた。


「これで、薬のことは終わり?」


 ハヨンが聞く。


「終わったことにはしない。忘れない」


 オレは答えた。


「うん」


「だから次も聞け」


「聞く」


「なら、いまは一緒にやる」


 ハヨンの赤い髪飾りが、小さく揺れた。


 やっと、謝罪が言葉の外へ出た。


     *


「門開きの型、始め!」


 おっさんが勝手に名付けた。


「今日できた型だろ!」


「今日から伝統じゃ!」


 十三重円の中央へおっさん。


 外周へ藍羽。


 オレは四十八線の間へ立つ。


 ハヨンの機械が二つの身体相を投影し、先輩の接地線が道場の場所を地面へつなぐ。蓮は時計の蓋を開き、門の内側へ置く〇・九倍、〇・五秒の補正を二秒かけて登録した。ち、ち、――ち。秒針を定位置で待機させ、まだ出力は始めない。鈴華の鈴がキャリーの像とこちらの認識を結ぶ。


 紫苑とひなたは円の外。


「一拍ごとに名前を読む」とひなた。


「忘れた時は?」と紫苑。


「また最初から」


「門が開くまで何度でも?」


「何度でも」


 父さんは庭。


 最後の一線へ触れる時だけ動く。


「藍羽!」


「はい!」


 おっさんが息を吸う。


 天道纏気が道場へ広がる。


 藍羽は外周を走った。正しい型。爪先、膝、腰、肩が一つの線を通る。十三の円を一周するたび、気を溜めず次へ渡す。


 春から、数え切れないほど組手をした。内を深く通すオレの気へ触れるたび、藍羽は自分の纏気が止まる場所を一つずつ直した。増えたのは気の量じゃない。受けた流れを殺さず、次へ渡す精度だ。


 オレは反対へ走る。


 紅燕歩。


 女の身体で完成させた、小さな回転。線へ触れてから進む方向を選ぶ。最初から決めない無選歩を混ぜ、藍羽の気が来たところだけ受け取る。


 一周目。


 床が水色になる。


 ずれの警告がつき、蓮が竜頭を一度押す。〇・五秒だけ門内を補正し、出力が止まった。


 二周目。


 道場の外で、雪が空へ巻き上がる。警告が出るたび、蓮は同じ補正を針合わせなしで走らせた。短い出力の間は門が少し遅れ、止めている間は累積使用枠を減らさない。


 三周目。


 残響が出た。


 オレの前に、男のオレが立つ。


 長い黒紫の髪を一本の三つ編みにしている。今より広い肩。おっさんへ一度勝った夜の身体。


〈そっちなら届く〉


 声がする。


 男の影が長い腕を伸ばす。


〈女の身体を置いていけ〉


「残響だ!」


 ハヨンが叫ぶ。


「お兄ちゃんが選ばなかった言葉。未来の命令じゃない!」


「分かってる!」


 男へ戻りたい。


 その気持ちは偽物じゃない。


 だが、女の身体で過ごした時間を捨てたいわけでもない。


 影の腕へ触れる。


 消そうとせず、流す。


 影は鼻歌へほどけた。


 ううん。


 藍羽の前にも影が出る。


 完璧な型で一人だけ門を開く藍羽。おっさんに褒められ、誰にも合わせない姿。


〈ハミンを待つな〉


「待ってない」


 藍羽は影の拳を受けた。


「渡してるの。次へ行けるように!」


 影を投げず、回転させる。


 気がオレへ来る。


 受け取る。


 次の線へ置く。


 床の青が深くなった。


 その中へ、白い街路が見える。


「時間差、一・八倍へ拡大!」


 蓮が竜頭を押す。〇・九倍の補正が門の内側へ入る。


 蓮の指が震える。


「〇・九では追いつかない。〇・八五へ下げます」


 秒針を合わせ直す。新しい倍率へ移るまで二秒。そのあいだは〇・九倍の領域が残る。


「二拍、今の循環を保って!」


 藍羽と呼吸をそろえ、青い線を同じ幅へつなぐ。


 一拍。


 二拍。


 秒針が定位置へ落ち、門の内側が〇・八五倍へ切り替わった。〇・五秒の補正が終わると出力は止まり、門は合わせた位相を保つ。次の警告には、同じ倍率を竜頭だけで再実行できる。


「累積使用枠は?」


 ハヨンが聞く。


「あと十八秒。予定内です」


「限界前に戻して」


「予定済みです」


 鈴華の鈴から、何百もの声があふれた。


〈開け〉


〈閉じろ〉


〈一人で来い〉


〈全員で来い〉


 鈴華の顔が白くなる。


「鈴華!」


「聞こえております」


 鈴を握る手を下ろさない。


「ですが、命令は通しません。本人が選んだ声だけを――」


 鏡の中からキャリーが言う。


『私は、門を開いてほしい』


 鈴華がその一声だけを選ぶ。


 ほかの声が遠のいた。


 先輩の接地杭へ、赤い電気が逆流する。


「来るぞ!」


 雷綴を横へ寝かせ、庭の三本へ分ける。大放電は使わない。細い電流を地面へ逃がすたび、右手の古い火傷が赤くなる。


「先輩、放せ!」


「まだ場所がずれる!」


「腕が動かなくなるぞ」


「三秒なら持つ!」


 蓮が時計を見た。


「三秒だけです!」


 決めた時間を、先輩も守る。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 雷綴を手放す。


 紫苑が柄を蹴り、接地線の外へ出した。


「俺は使わない結果を置いた」


「いま使っただろ」


「足だ。札じゃない」


 門の中心が開く。


 水面が板間いっぱいへ広がった。


 なのに、最後の四十八番線だけ黒い。


「閉じる!」


 ハヨンの表示が赤くなる。


「外周の気圧が足りない。でも、お父さんを入れたら過剰になる!」


 父さんが動いた。


 円へは入らない。


 庭から縁側へ一歩。白熊の長い腕を伸ばし、黒い線の外端へ小指だけ触れた。


 強い気を入れない。


 裂け目が外へ広がらない位置を支える。


 紙が父さんの反対の手にある。


【紙面:中は任せた。】


「藍羽!」


「ハミン!」


 オレたちは四十八番線の両側へ入った。


 おっさんの型と、オレの歩法。


 どちらを勝たせるかじゃない。


 藍羽の掌へ触れる。


 気を押さない。奪わない。


 藍羽が渡せる量だけ受け取る。オレが持てる量だけ流し、余りを返す。


 二人の間を一周した呼吸が、線へ落ちた。


 黒が青へ変わる。


「開いた!」


 ハヨンが校正器を止めた。


 蓮が時計の蓋を閉じる。


 鈴華が鈴を伏せる。


 おっさんは纏気を解いた。


 父さんの小指が線から離れる。


 床は水鏡になった。


 板も、修行図も見えない。


 足元に、青空がある。


 海底じゃない。


 雲が浮かび、その向こうに白い都市が逆さまに広がっていた。尖塔、橋、金色の環。街のさらに下を、空より青い海が囲んでいる。


 上下が全部、間違っている。


 それでも水面へ映ったオレたちだけは、正しい向きで立っていた。


 中央にキャリーがいる。


 鏡像のまま、向こう側から手を上げる。


 オレも手を重ねた。


 水は冷たい。


 手のひらの向こうに、温度があった。


『やっと触れた』


 キャリーが笑う。


 その背後で、都市中の時計が同じ一秒の直前を指して止まっていた。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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