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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第六章「崑崙と沈まない都」
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31/51

第31話「白熊、来日」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 父さんは、入国審査をどう通ったのか。


 朝起きて最初に考えたのは、それだった。


 天道宗道場の食卓には、昨日の朝にはいなかった巨大な白熊が座っている。


 生成り色の丸い耳。いつ見ても笑っている口。人間用の座布団から大きくはみ出した尻。父さんは茶碗を左手に持ち、右手の箸で焼き魚の骨をきれいに外していた。


「父さん」


 白熊が箸を置き、手を上げる。


「いつ来た?」


 昨夜、雪の庭で【紙面:腹が減った。】と掲げていたところまでは知っている。


 そのあとおっさんが鍋を出した。父さんは一人で六人前を食べ、客間へ案内され、襖を閉めた。


 なのに、今朝はオレより先に風呂を沸かし、庭の雪をどけ、食卓の一番大きい魚を確保している。


 父さんは胸元から小さな紙束を出した。


【紙面:昨日。】


「それは知ってる。日本へは」


【紙面:昨日。】


「中央アジアの崑崙主門からここまで何時間かかると思ってるんだ」


【紙面:急いだ。】


「飛行機は?」


 父さんは窓の外を指した。


「飛んできたのか」


 白熊の頭が横へ振られる。


【紙面:歩いた。】


「海を?」


【紙面:海のない道を。】


「朝から説明を諦めるな!」


 父さんの熊肩が上下した。


 声は一つも出ない。笑っている時も、困った時も、父さんは呼吸の音さえ目立たせない。


 昔からそうだった。


 ハガンは世界最強の男だ。


 いつも白熊の着ぐるみを着て、絶対に喋らない。


 オレにとっては、その二つとも「父さんはそういうもの」で終わっていた。


 いまは、終わらせる気になれない。


 正常な満月が来ても、オレの身体は女のままだった。


 教授に男へ戻る帰路を奪われたまま、もう一度、月が欠けて満ちた。


 委員会は教授へ背を向けた。紫苑は二年前から存在を奪われていた。学校で起きたことは、父さんが日本へ持たせた金属片や、道場の十三重円へつながっている。


 なのに父さんは、ずっと紙を伏せていた。


「ハミン。味噌汁が冷める」


 藍羽が鍋を持ってきた。


 長い濃紺の髪を後ろで結び、朝稽古の道着へ割烹着を重ねている。父さんを見ると、少し姿勢を正した。


「ハガンさん、おかわりどうぞ」


 父さんが茶碗を両手で差し出す。


「オレの時より盛りが多くないか」


「お客様だから」


「オレも居候だぞ」


「働かない居候」


「朝稽古した」


「雑巾がけは?」


「これからだ」


「昨日もそう言った」


 父さんが紙へ何か書く。


【紙面:ハミンは、あとでやると言ったことを忘れる。先にやらせろ。】


「日本まで来て余計なことを書くな!」


「正しいです」


 ハヨンが機械の箱を抱えて入ってきた。


 淡い銀髪を横で結び、丸眼鏡の奥に寝不足の影がある。昨日の夜から父さんの周りを十七種類の計測器で調べていた。父さんは魚を食べながら、測定項目と用途、採取量、保存期間を一つずつ確認して丸をつけたが、採血用の針だけは熊の布を通らず折れ、血は採れなかった。


「お父さん。外装の測定、もう一回していい?」


 父さんは紙へ大きな丸を描いた。


「今度は裏地の計測端子を開いて、外装計へつなぎたい。切らない。温度と反射率だけ」


 丸の横に小さな丸が増える。


「同意記録、保存」


 ハヨンが端末へ入力した。


 あいつは、もう「家族だからいい」と省かない。


「朝飯の前に実験するな」


「食べながらできる」


「魚へ光を当てるな」


 玄関の引き戸が開いた。


「おはよう。昨日のランチョンマットを――」


 ひなたが食堂の入口で止まった。


 昨夜、雪の庭で初めて父さんを見た時は「白熊さん?」と呼んだ。父さんが【紙面:父。】とだけ名乗り、ハヨンと藍羽が説明して、ようやくハガンだと分かった。


 今朝は、一度だけ深呼吸する。


「おはようございます、ハガンさん」


 父さんも箸を置いて立ち、丁寧に頭を下げた。丸い耳が食卓の照明へぶつかり、傘が傾く。片手で支えて元へ戻し、紙を出す。


【紙面:昨夜は挨拶が短かった。ハガンです。いつも世話になっています。】


「水守ひなたです。昨日も名乗りました」


 父さんは少し考え、紙の端へ書き足す。


【紙面:もう一度、覚えた。】


「霧崎先輩の名前を何度も書いてたから、私も必要だと思いました?」


 丸。


「家族なのに知らないことを、今日みんなで聞く予定だ」


 オレが言うと、ひなたは父さんの白熊姿を上から下まで見た。


「着ぐるみと、喋らない理由?」


「それも」


 父さんの肩が少し下がった。


 ひなたは靴を脱いだ。


「初めまして、ハガンさん。水守ひなたです。ハミンが学校で壊したものを数える係をしています」


「そんな係はない」


「作りました」


 父さんはひなたへ紙を見せる。


【紙面:苦労をかけます。】


「父さん!」


 おっさんが大きな盆を持って現れた。


「朝から騒がしいぞ。客人は食え。弟子は働け」


「おっさん、あの挨拶のあと、父さんと何を話した?」


「昨夜は鍋の具について」


「その前だ。昔会ったんだろ」


「強い者が二人会えば、まず手合わせ。そのあと飯。話は必要ならあとでする」


「必要な話が十五年くらい遅れてる!」


「なら朝食のあとじゃ」


 父さんがうなずき、おっさんも座った。


 こうして、世界の真相を聞く前に焼き魚を食べることになった。


     *


 朝食へ、先輩、蓮、鈴華が増え、客間から紫苑も出てきた。


 昨日の雪で電車が遅れ、委員資格を止められた三人は学校へ行く前に監査資料を道場へ預けに来た。紫苑は昨夜から客間を借りている。自分の名前が書かれたランチョンマットを枕元へ置いて眠ったらしい。


「父親へ挨拶する服じゃなかったな」


 先輩が自分の黒い運動着を見下ろす。


「何の挨拶だ」


「ハミンを大切に思っています、という挨拶だ」


「飯を一回食った相手の父へするな」


「回数の問題か!」


 父さんが先輩を見る。


 白熊の黒い目は最初から同じ形なのに、先輩の背筋が伸びた。


「西能寺京一です!」


 父さんは紙へ書く。


【紙面:強い。声が大きい。】


「ありがとうございます!」


「褒められたのは半分だけだぞ」


「ハガンさん。僕は時任蓮です」


 蓮が時計を押さえて頭を下げる。


「閑崎鈴華と申します」


 鈴華は黒い和装の膝をそろえた。


 父さんは二人にも一枚ずつ書いた。


【紙面:時間を使い過ぎるな。】


【紙面:聞き過ぎた声は、外へ出せ。】


 蓮と鈴華の顔が同時に変わる。


「どうして知っているのですか」


 父さんは二人の時計と鈴を指し、自分の目を指した。


「見ただけか」と先輩。


「気の流れを見たんだ」


 オレには分かった。


 時計は蓮の体温を削るように冷え、鈴は鈴華の胸へ他人の気配を戻している。


 父さんなら、一目で見抜く。


「俺のは?」


 紫苑が聞いた。


 父さんは少し長く紫苑を見た。


 紙へ書く。


【紙面:結果より先に、名を置け。】


「書いたところで忘れられる」


【紙面:また書け。】


 紫苑は口元だけで笑った。


 ひなたがランチョンマットへ、もう一度「霧崎紫苑」と太く書き足す。


「はい。また書きました」


「世話焼きが増えたな」


「忘れる人も増えるから同じです」


 明るい声が続いたのは、そこまでだった。


 父さんが味噌汁の椀を置いた。


 音は小さかった。


 それなのに、道場の床下で何かが答えた。


 ごうん。


 遠くの塔の鐘みたいな音。


 朝食中も父さんの背へつないだままだった外装計が、一瞬だけ細い赤線で囲まれる。白熊の輪郭は、その線の内側にすら現れない。


「お父さん、動かないで。端子を閉じる」


 ハヨンの端末が警報を鳴らした。


「白沢衣の外装端子が捕捉された。中のお父さんは見えてない。でも、外へ漏れた気圧だけで測定上限を超えてる」


 床の十三重円が赤く光った。


 正式選闘の鐘はない。


 挑戦も、請求も、受諾もない。


 だから全員が動ける。


 だが、道場そのものが動き始めた。


 板間の端が持ち上がる。


 壁が床へ倒れるのではなく、角度を保ったまま下へ折れた。天井の梁が遠ざかり、その向こうへ星環学園の廊下が現れる。朝の校舎。歩く生徒。誰もこちらを見ない。


 次の瞬間、その廊下も九十度折れた。


 雲上闘技場の白い床が、道場の畳の下から滑り込んでくる。


「外装を捕まえられた」


 ハヨンが叫ぶ。


「選塔はお父さんを見てない。観測できない空白を周囲ごと埋めて、端子から漏れた気を選択燃料にしようとしてる!」


「避難!」


 ひなたが玄関へ走る。


「近所の朝稽古組が更衣室に三人。台所に二人!」


「藍羽、奥!」


「分かった!」


 オレと藍羽が同時に走った。


 廊下が斜めになる。小学生の道場生を抱えた藍羽が、壁を蹴って戻る。オレは台所のおばさん二人を窓側へ誘導した。窓の外には庭ではなく、塔の雲が流れている。


「こっちへ!」


 先輩が雷綴を戸口へ渡し、手すりにする。


 蓮は時計を開きかけ、止めた。


「範囲が広すぎる。僕が遅らせれば、道場の半分だけ時間差で裂けます」


「使わない判断でいい!」


 鈴華が鈴を鳴らす。


〈玄関は右ではありません。いま床になっている壁を進んでください〉


 幻で道を作るのでなく、本当の出口を心へ送る。


 紫苑は札を一枚出した。


「《全員が庭へ出ている》を置く」


「大きすぎる!」


 ハヨンが止める。


「原因が足りない。反転したら全員が閉じ込められる」


 紫苑は札を戻した。


「聞いておくもんだな」


 床がさらに折れた。


 柱と梁の継ぎ目が外れる。


 道場の屋根全体が、白い闘技場へ落ちようとした。


 父さんが立った。


 一歩だけ。


 巨大な白熊が食卓を離れ、柱の下へ入る。


 右手の人差し指を梁へ当てた。


 それだけだった。


 落ちかけた屋根が止まる。


 父さんは力んでいない。布の腹も、丸い肩も動かない。指一本の位置だけで、梁から柱、柱から床、床から地面へ力が流れ直した。


 世界最強の男が、何かを壊すところなら何度も見た。


 これは違う。


 壊れるはずの場所から、崩壊そのものが消えた。


「ハガン!」


 おっさんが十三重円の中央へ入る。


 紫の道衣が膨らみ、全身へ気が巡った。


「上は任せる。下はわしが回す!」


 円天。


 おっさんの呼吸が、途切れず床へ流れる。父さんの力を増やすのではない。地面へ戻す道を作る。


「ハミン、八番線! 藍羽、三番線!」


「おう!」


「はい!」


 避難を終えたオレたちは円へ戻った。


 女の身体の低い重心で、浮く板を押さえる。藍羽は天道纏気(てんどうてんき)を腕へ集めず、足から床へ薄く広げる。


 奪わず、巡らせる。


 文化祭で覚えたみたいに、違う呼吸を同じ音へ潰さない。


 オレの喉から低い鼻歌が出る。


 ううん。


 赤い観測線が揺らいだ。


 父さんの指の周りに、黒い谷と白い塔が交互に映る。


 ハヨンが機械を床へ置いた。


「計測経路を閉じる。観測圧を白沢衣の表面で切って、中のお父さんへ住所をつなげない」


 白熊の背中にある縫い目が光った。


 塔のような三角形と、重なった円。


 来日の朝、空港で見た模様。


 赤い線が白熊の外形と中の着用者を一つに閉じようとするたび、縫い目へ吸われて分かれる。白い外形、足跡、床へ流れた力。装置は最後まで、父さんを一人の存在として数えられない。


「いまだ!」


 おっさんが両足を踏む。


 父さんは梁から指を離し、今度は床の一点へ爪先を置いた。


 折れていた道場が、順番に戻る。


 雲が畳の下へ沈む。


 校舎の廊下が壁の向こうへ閉じる。


 天井が天井へ、壁が壁へ、床が足の下へ戻った。


 最後に、食卓の味噌汁がこぼれた。


「熱っ!」


 先輩が飛び上がる。


 異界から戻った最初の言葉がそれだった。


 ひなたは全員の顔を数え、九まで行って首をかしげた。


「九人?」


「十人だ」と紫苑。


「あ、ごめんなさい。霧崎先輩」


「慣れた」


「慣れないでください」


 おっさんは倒れた椀を起こした。


「朝食を粗末にするとは、まだ修行が足りん」


「いま世界が折れたんだぞ!」


「だから腹が減る」


 父さんも座り直し、自分の魚を確認した。


 骨まで無事だった。


     *


 朝食のあと、道場の板間へ全員で座った。


 父さんは白熊の背中をこちらへ向けた。


 ハヨンが裏地の縫い目へ光を当てる。普通の布に見えた生成り色が、角度を変えるたび黒、青、金へ変わった。一本の糸の中へ、細かな円と谷の形が編み込まれている。


「正式名、白沢衣(はくたくい)。分類、崑崙由来の衣服型法宝(ファーバオ)。ランク、至宝(ジーバオ)」


「至宝?」


 藍羽が聞いた。


「法宝の中でも最上位の格だ。白沢衣が法宝なのは知ってたけど、至宝ってランクまでは初耳だ」


 オレが答える。


「世界に数個しか確認されていない、神話級の法宝」とハヨン。


 ハヨンが母さんの古い設計署名を見つけた。


「法宝は、崑崙の道士が気と術式を道具へ定着させたものだ。白熊に見えるのは表だけで、父さんが脱ぐと決めない限り、誰にも脱がせられない」


「そこから先が今回の解析」とハヨン。「法宝の基礎層と中の着用者は、外から一人の存在としては観測が一切成立しない。完全観測不可」


「じゃあ、いま測れてるのは?」


 藍羽が計測端子を見る。


「お母さんが追加した現代素材の裏地と計測端子だけ。お父さんが同意した範囲で、外装の数値を返す。白沢衣の基礎層も、中のお父さんも、一件も数値を返してない」


 ハヨンが別の記録を開いた。


「防護上限も実測不能。崑崙の古い耐久記録を現代の単位へ直すと、核ミサイルの直撃でも、白沢衣と着用者は破壊できないとされてる」


「試したのか?」


「試せない。神話級の伝承値。でも、採血針が折れた理由は分かった」


「じゃあ父さんの後ろへ全員隠れれば」


「白沢衣が守るのは着用者一人だけ。周囲へ防護壁は出ない。抱えた相手も、道場も、選片も守らない」


「どうして白熊なんだ」


 父さんが紙へ書く。


【紙面:子どもが怖がらない。】


「もっとあるだろ。普通の服とか」


【紙面:白熊が好きだ。】


「それが一番の理由か!」


 父さんは大きくうなずいた。


 藍羽がオレの朱赤の袖へ目を移した。


「ハミンのそれも、同じ衣服型法宝?」


「緋天衣だ。同じ衣服型法宝で、生まれた時から着てる。体格に合わせて、男のオレなら上着が黒、今は明るい朱赤になる。ズボンはどっちでも黒だ。汚れや水も弾く」


「分類は同じ。でも、ランクと機能は違う」とハヨン。「緋天衣は至宝じゃない。白沢衣の観測拒否も防護もない」


「だからいつも洗濯へ出さなくていいのね」


「そのくらいは知ってる。十四年着てるんだぞ」


【紙面:便利。】


「父さんは便利としか説明しなかったけどな!」


 ひなたが口元を押さえている。笑うのを我慢しているらしい。


「ハガンさんが強すぎるから、隠していたんですね」


 蓮が言った。


「さっき端子から外へ漏れた分だけで、選塔の年間蓄積を一人で上回っていました」


 父さんは丸を書き、その下へ言葉を続けた。


【紙面:力だけではない。顔を上げる。手を伸ばす。右へ行く。左へ行く。強い者ほど、小さな選択にも多くの道が集まる。魔械文書は、それを燃料として見る。】


「魔械文書を知ってたのか」


 丸。


「教授も」


 丸。


「オレが狙われることも?」


 父さんのペンが止まった。


 長い沈黙。


 もともと喋らない人の沈黙は、普段なら変わらない。


 その時だけ、白熊の中にいる父さんが遠く見えた。


【紙面:可能性は知っていた。ここまで早いとは思わなかった。】


「だから、出発前に金属片を持たせた?」


【紙面:帰る道を残すため。】


 ハヨンが金属片の裏面刻印を拡大した。


「正式名、帰山盤(きざんばん)。崑崙の主門座標を十三の輪と八本の路へ刻んだ、帰路標識型の法宝。お兄ちゃんを勝手に連れ戻す道具じゃない。帰ると決めた時、道を見失わないための標識」


「名前まであるなら、最初から書けよ」


【紙面:聞かれなかった。】


「物の名前を当ててから聞けるか!」


「説明しないで?」


 父さんは紙をめくった。


【紙面:子どもへ大きな使命を置けば、それも道を狭めると思った。普通に選んでほしかった。】


「結果、オレは何も知らないまま教授と決闘した」


 藍羽が隣で動いた。


 止めようとしたのかもしれない。


 オレは父さんから目をそらさなかった。


「男へ戻れる日を賭けた。危険がどのくらい大きいかも知らずに」


 父さんは言い訳を書かなかった。


 新しい紙へ、ゆっくり太い字を置いた。


【紙面:守ることと、隠すことを間違えた。】


 もう一行。


【紙面:説明しなかった責任は、私にある。すまない。】


 腹の中にあった怒りが、消えたわけじゃない。


 父さんが謝ったから、奪われた月が戻るわけでもない。


「許した、とは言わないぞ」


 父さんは丸を書いた。


【紙面:言ってはいけない。】


「そこは、言ってもいいだろ」


【紙面:許すかは、ハミンが決める。】


 やっぱり、たまに鋭い。


「もう一つ」


 オレは聞いた。


「どうして喋らない」


 父さんの熊の手が、喉へ触れた。


 紙へ書く。


【紙面:私の声には、気が乗り過ぎる。】


【紙面:昔、迷う人へ『進め』と言った。その人は自分で止まれなくなった。道は正しかった。押したことが間違いだった。】


【紙面:それから、声を使わないと決めた。】


 先輩がいつもの半分の声で言った。


「命令になるから、ですか」


 父さんは丸を描く。


「話せないんじゃない。話さないのか」


 もう一つ、丸。


「オレへも?」


【紙面:家族ほど、押しやすい。だから押さない。】


 紙なら命令にならないわけじゃない。


 それでも、読まない選択が残る。伏せることも、破ることもできる。声みたいに耳へ入って身体を押さない。


 父さんの紙がいつも短かった理由を、初めて知った。


「でも、隠したら同じだ」


【紙面:学んだ。遅かった。】


「本当に遅い」


 父さんの丸い耳が下がる。


 着ぐるみなので動くはずがない。


 たぶん、そう見えただけだ。


     *


「なら、話を全部続けよう」


 ハヨンが計測器を閉じた。


「お父さんは、何を止めに来たの?」


 父さんは一枚の紙へ、四十八の小さな四角を描いた。


 一つだけ黒く塗る。


【紙面:零頁が満ちる。教授は、奪った帰還枝を時計にして、閉じた都へ道を固定しようとしている。】


「閉じた都。アトランティス?」


 ハヨンの問いに、丸。


 おっさんが髭を撫でた。


「そのアトランティスというのは、海の魚か?」


 全員がおっさんを見る。


「知らないのか?」


「知らん」


「父さん、ハガンさんと知り合いだったでしょ」


「拳を交えた。飯を食った。出身地の講義は受けとらん」


 おっさんは本当に知らない顔をしている。


 父さんが紙へ書いた。


【紙面:天道王は知らない。巻き込んだのはこちらだ。】


「それも明日聞く」


「今日聞け」と藍羽。


「紙の量が足りない」


 父さんは胸元から新品のスケッチブックを三冊出した。


「準備いいな!」


 最後の問いを、先輩が口にした。


「お父上が教授を倒せば、終わるんじゃないですか。選闘の外なら、教授でもお父上には勝てない」


 父さんはすぐに首を横へ振った。


【紙面:白沢衣を閉じたままでは、選塔が私を登録できない。】


 次の紙には、選塔の絵。外側に白熊。内側に四十八の小さな箱。


【紙面:開いて文書へ触れれば、持っている未選択可能性が一度に零頁へ流れる。四十八欄が満ちる。】


【紙面:塔を外から壊せば、中の選片と生徒の記憶、閉じた都の人々も壊れる。】


「世界最強でも、殴れない相手がいるのか」


 父さんは少し考えた。


【紙面:殴れる。殴ってはいけない。】


「それ、もっと腹立つな」


 熊肩が上下する。


「じゃあ父さんは何をする」


【紙面:外を支える。道を残す。中は、入れる者へ任せる。】


「オレに?」


 父さんは丸を描かなかった。


 代わりに、真っ白な紙を一枚だけ差し出した。


 何も書いていない。


「答えを書けってことか」


 父さんは首を横へ振る。


「父さんの答えを写せってことでもない」


 今度は大きく丸。


 空白の紙を受け取る。


 軽い。


 男へ戻る帰路を奪われた時の選片より、ずっと軽い。


 なのに、何を書くか決まっていないぶんだけ重かった。


 父さんは最後の紙を掲げた。


【紙面:道は示す。足は奪わない。】


 窓の外で、朝の雪が止んだ。


 庭には誰の足跡もない。


 白熊が昨日どこから歩いてきたのか、その道だけは最後まで見えなかった。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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