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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第五章「逆因果のカード使い」
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28/48

第28話「女の身体で勝つ」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 満月の十五分前、身体の奥で低い倍音が鳴った。


 道場の庭へ出る。


 空は晴れている。冬の月は白く、同じ満月でも夏より近く見えた。天気予報は、今夜遅くにこの冬一番の寒波と南岸を進む低気圧が重なり、東京の平地でも朝から雪が積もるおそれがあると繰り返していた。風はもう、昼よりずっと冷たい。


 指先の距離が揺れる。


 いまの小さな手へ、男の時の長い指が重なる。肩幅が二つになる。朱赤の緋天衣の中で、骨が戻る場所を探しているように疼いた。身体相に合わせて寸法を変え、上着を男相の黒と女相の朱赤へ染め分ける服は、今夜も先回りするように微かに揺れている。黒いズボンだけは、どちらでも色を変えない。


「計測、始めていい?」


 縁側でハヨンが聞く。


 端末はまだ伏せている。


「いいぞ」


「映像も?」


「いい」


「痛みの触診は?」


「変化が終わってから聞け」


「了解」


 ハヨンが端末を上げた。


 藍羽は少し離れたところで、オレの緋天衣の色を見ている。前なら男へ戻った瞬間、衣服は体格に合って伸び、上着は明るい朱赤から黒へ変わった。


 月が山の端から完全に出る。


 倍音が深くなる。


 庭へ影が伸びた。


 影だけが、背の高い少年になる。


 オレの身体は変わらなかった。


 一本の長い赤い三つ編み。


 低い重心。


 短い腕。


 小さい肺。


 全部そのままだ。


「相転換なし」


 ハヨンが数値を読む。


「帰還前兆は発生。二相波形も残存。切替経路だけが封鎖されてる」


 前の満月なら、胸の中へ穴が開いた。


 今夜も痛くないわけじゃない。


 月へ向かって拳を伸ばす。男の腕なら、あと五・七センチ遠くへ届いた。


 でも今日は、その距離に相手はいない。


「ハミン」


 藍羽がオレの上着から視線を上げた。


「残念?」


「ああ」


「そっか」


 慰めない。


 元の身体へ戻りたい気持ちを、いまの身体が嫌いなのだと言い換えない。


 藍羽はオレの前へ立ち、長い濃紺の髪を結んだ。


「じゃあ、今日はどうする?」


「勝ちに行く」


 自分の長い赤髪を一本の三つ編みに結び直した。


「男の身体を待ってからじゃない。今日は、この身体で勝つ」


 道場の奥で、おっさんが髭を撫でた。


「ようやく、今夜の足を選んだか」


「選ばない足だ」


「ほう」


「相手へ触れるまで、次を一つに決めない。触れてから押された方向を足場にする」


「名は」


「いるか?」


「名をつけると必殺技らしくなるのじゃろう」


「覚えてたのか」


 おっさんが床の十三重円を指す。


「無より選ぶ歩。無選歩(むせんほ)でよかろう」


「おっさんがつけるのか?」


「命名料は夕餉一品」


「高い!」


「勝てば払える」


「オレの財布からだろ!」


 藍羽が笑う。


 ハヨンも、端末の向こうで口元を少し緩めた。


 満月の庭で、オレも笑った。


 男へ戻れなかった夜に笑うのは、初めてだった。


     *


 再戦は同じ夜、選塔で行った。


 紫苑の一晩二十二枚が、まだ一枚も使われていない時間を選んだのだ。


 扉の前には藍羽、ハヨン、先輩、蓮、鈴華。それからひなたもいる。


 藍羽、ハヨン、ひなたは蓮から、一晩だけの同行資格札を渡されていた。紫苑は塔に残る過去の直接認証で通る。資格のない普通の生徒は七階から先で階数を失い、屋上扉へ着けない。けれど接続資格を持つ委員が同行登録すれば、選闘をしない時にもこの雲上闘技場まで来られる。


 ひなたは腕へ紫色の紐を巻いていた。


「霧崎先輩を見る。忘れたら紐を見る。もう一回見る」


「忙しいな」と紫苑。


「誰のせいですか」


「教授」


 軽く答えたが、笑ってはいなかった。


 条件は全員の前で確認した。


「ハミンが勝てば、俺は一回だけ軽い命令を聞く。俺が勝てば、ハミンは逆因果事故と帰還枝について一週間、独自調査を休む」


「後半は継続行動です」と蓮。「いま、期間と対象を全員で確認します」


 オレの腕輪と委員章だけへ、《レベル2条件》の分類が出た。一般生徒へは伏せられている区分。オレには前に露見しているが、蓮はその名をここで新しく広げなかった。


「データは賭けない」とオレ。


「成長した」


「おまえが言うな」


「一週間の休止は長いです」と蓮。


「身体の危険を避けるための調査停止に限ります。記憶、交友、学業は対象外です」


 鈴華が条件文へ追記する。


「第三者へ調査停止を命じることもできません。ハミンさん個人の行動一件です」


「勝てば関係ない」


 オレが言うと、藍羽が肩を叩いた。


「勝つ前に条件を聞いた。それでいい」


 ハヨンが端末を閉じる。


「私は同意する。お兄ちゃん自身の一週間だから」


「よし」


 紫苑は黒い札入れを逆さにした。


 白い札が二十二枚、雲床へ扇形に並ぶ。


「数えろ」


「二十二」


「一枚一結果。一度に有効なのは一枚。八拍で原因が追いつかなければ、結果は俺へ返る。文字が消え始めたら残り二拍ほど。二十二枚を越えれば、俺自身の連続性が保たない」


「全部、自分から言うのか」


「前の勝負で見せた。隠したことにして負けたくない」


「いいな」


「俺が勝つ結果が?」


「公平なところ」


 紫苑は一瞬、目を丸くした。


 すぐ人を食った笑みへ戻る。


「その賞賛は、勝ってから受け取る」


 二人で内円へ入った。


「選塔に問う。霧崎紫苑とハミンの選択を」


 条件が床へ刻まれる。


「選ぶ」


「俺も選ぶ」


 鐘が逆に鳴る。


 最初に音が遠のく。


 次に、ひなたの上げた手が止まった。藍羽の髪、蓮の秒針、鈴華の袖も動きを失う。色が薄れ、六人は輪郭ごと姿を消した。入口扉だけが外縁に残り、暗い膜で閉ざされる。


 雲上闘技場へ残ったのは、オレと紫苑だけだ。


 仲間の助けはない。


 声も、攻撃も、残響記録へ入らない。


『選択権移譲決闘を開始します。制限時間、十三分』


 紫苑が一枚目を取った。


 《ハミンの右足が止まる》


 破る。


 右足だけが、すでに床へ縫いつけられた感触になる。


 紫苑が数え始める。


 一。


 オレは右足を無理に上げない。


 左へ倒れる可能性、右膝を曲げる可能性、床へ手をつく可能性を残す。


 二、三。


 紫苑が足元へカードを投げた。


 踏めば滑る。


 避ければ右足へ体重が残る。


 四。


 カードが右靴の下へ入る。


 原因が一つへ絞られた。


 五、六、七。


 文字が薄れる。


 八。


 右足が止まった。


 紫苑の掌が肩へ当たる。


『有効打、霧崎紫苑』


「一枚」


「前と同じじゃないか?」


「いまのは確認だ」


 二枚目。


 《ハミンが一撃を受ける》


「広い結果だな」


「だから一番小さくなる」


 紫苑の拳が頬へ来る。


 避けようと先に決めない。


 触れる直前、首を押された方向へ回す。


 拳がかすめる。


 当たった。


 けれど力は流れた。


 八拍目、紫苑の拳だけが痛む。


「一撃は一撃だ」


「有効打へは届かない」


 審判音は鳴らない。


「結果の定義が小さくなった」


「そこも覚えたか」


 三枚目。《ハミンの左手が札を掴む》。


 紫苑が白い札を投げる。


 掴まなければいい。


 だが札の向こうから蹴りが来る。避ければ手が上がる。受ければ指が触れる。


 オレはどちらも決めず、札そのものへ肩から入った。


 胸へ当たり、落ちる。


 左手は開いたまま。


 五拍。


 紫苑が落ちた札を蹴り上げる。


 六。


 左手へ飛ぶ。


 触れてから、手首を小さく回した。


 紅燕歩を足ではなく手で使う。


 札は掌を滑り、右肩へ抜ける。


 七。


 文字が消える。


 原因が、掴むか、弾くか、落とすかで揺れる。


 八。


 札に書かれた結果が反転した。


 紫苑の左手が、自分の札を掴んだ。


「三枚」


 その指が強く閉じる。


「返ったぞ」


「まだ軽い」


 紫苑は掴まされた札を捨てる。


 指へ赤い切り傷が一本増えた。


 四枚目。《紫苑は拳の外にいる》。


 オレは拳を作らない。


 肘、肩、頭、膝。どれで触れるか決めず近づく。


 紫苑は下がる。


 結果は簡単だ。拳さえ外せばいい。


 八拍目、紫苑は拳の外にいた。


 でも肩の内側にいる。


 額を胸へ当てる。


『有効打、ハミン』


「結果へ書いてないところは自由だ」


「一対一」


 紫苑が嬉しそうに笑った。


 五枚目。《ハミンが三歩下がる》。


 後ろから、三歩ぶんの床が先に近づいてくる。


 一拍。


 紫苑の掌で押される可能性。


 二拍。自分から間合いを外す可能性。


 三拍。床が傾く可能性。


 オレは全部を同じだけ残す。


 紫苑が右から押せば左肩を落とし、左から来れば右足を浮かせる。まだ選ばない。


 四、五。


 紫苑が正面から来た。


 胸へ触れた瞬間、その力へ逆らわず半歩下がる。同時に床の傾きへ腰を回し、もう半歩は横へ流す。


 自分から下がったのか。


 押されたのか。


 床に運ばれたのか。


 六。


 結果の文字が三つへぶれる。


 七。


 紫苑の眉が動く。


「選べ」


「選ばない」


 八。


 結果が反転する。


 紫苑が三歩下がった。


 場外線まで、あと二歩。


「無選歩」


「名前をつけたのか」


「おっさんが」


「負けたら命名料を返せ」


「夕飯一品だぞ」


「安いな」


「オレには大事だ!」


 六枚目。


 七枚目。


 紫苑は結果を小さくした。


 《ハミンの右踵が浮く》。


 《ハミンが左を向く》。


 曖昧さが少ないほど、原因は一つへ集まりやすい。


 右踵は床の溝へ乗って浮いた。左を向いた瞬間、カードの縁が肩へ当たる。


『有効打、霧崎紫苑』


 二対一。


 八枚目。《ハミンの鼻歌が切れる》。


 喉へカードが飛ぶ。


 避ければ息が止まる。受けても止まる。


 オレは音程を上げた。


 低い鼻歌は切れ、高い音へつながる。


 結果は成立した。


 呼吸は切れなかった。


「言葉どおりでも、意味どおりとは限らない」


「屁理屈が強くなった」


「おっさんに鍛えられた」


 九枚目。《ハミンの両足が円の外へ向く》。


 十枚目。《紫苑の右手が自由になる》。


 札は必ず、一枚ずつ。


 九枚目の八拍が終わり、両足が外を向く。そこから紅燕歩で内側へ回る。


 十枚目が破られる頃には、紫苑の右手首を取っていた。


 結果が右手を自由にする。


 なら左手を取る。


 右手は自由になり、左手が床へついた。


 肩を押さえる。


『有効打、ハミン』


 二対二。


「十枚」


 残り十二。


 紫苑の呼吸が少し速い。


 カードを破るたび、先に借りた結果の請求が身体へ戻っている。右手の切り傷。左の靴紐が理由なく切れる。札入れの留め具が外れ、残りの札が床へ散りかける。


 紫苑は拾わず、爪先でまとめた。


「手伝おうか?」


「決闘中だぞ」


「札がなくなったら勝負が終わる」


「優しいんじゃなく、続きを見たいだけだな」


「よく分かったな」


「そういう顔をしてる」


 十一枚目から十五枚目。


 紫苑は連続では破らない。一つの結果が成立するか反転するまで、次を待つ。


 《ハミンの右肩が下がる》。成立。


 《ハミンが中央線を踏む》。オレは左足、右足、紫苑に押される三つの原因を残し、反転。紫苑が中央を踏む。


 《ハミンの視線が札へ向く》。成立。視線だけで身体は渡さない。


 《ハミンの背が床へ触れる》。紫苑の足払い、オレの受け身、床の傾き。三つが競り合い、反転。紫苑が背から落ちる。


 《紫苑が内円に立つ》。成立。


 札は強い。


 結果が具体的で小さければ、ほとんど外せない。


 けれど結果そのものが勝利じゃなければ、そのあとの選択は残る。


 右肩が下がったなら、左で行く。


 中央を踏まされたなら、そこから回る。


 視線が札へ向いたなら、紫苑の足は気配で読む。


 女の身体は、動きを途中で変えやすい。


 軽い手足は、一度始めても止められる。


 低い重心は、押されたあとでも別の足を床へ置ける。


 短い腕は遠くへ届かない。


 だから、届くまで入ってから選ぶ。


 これは男へ戻るまでの代用品じゃない。


 この身体で、何度も負けて作ったオレの動きだ。


 十六枚目。《ハミンが場外線へ近づく》。


 十七枚目。《ハミンの左膝が曲がる》。


 十八枚目。《紫苑の胸へ打撃が届かない》。


 少しずつ、オレは外へ運ばれる。


 結果一つでは落とせない。だが三つ、四つを順に積めば、最後の原因を簡単にできる。


 場外まで一歩。


 紫苑は結果を先に置くだけじゃない。


 結果を並べて、次の結果が起こりやすい現在を作っている。


「そこまで考えられるなら、原因もちゃんと選べるじゃねえか」


「説教か?」


「感想だ」


「なら勝ってから聞く」


 十九枚目。


 《ハミンの左足が場外へ出る》。


 破れる。


 左足の裏へ、すでに雲の冷気が触れた。


 一拍。


 紫苑が右から肩を押す。


 先に避けない。


 触れた力へ肩を預ける。


 二、三。


 左足を浮かせる。場外へ出る原因にも、内へ回る原因にもなる高さ。


 四。


 紫苑の膝が軸足へ来る。


 受ければ左足が外へ出る。避ければ押された肩が外へ流れる。


 五。


 右手で紫苑の膝へ触れる。


 押さない。


 触れた方向を足場にする。


 六。


 小さく回る。


 七。


 文字が消える。


 左足は一度、線の外へ着いた。


 でも体重は乗せない。紫苑の膝と肩を円にして、右足を内側へ残す。


 八。


 結果は成立した。


 左足が場外へ出た。


 両足ではない。


 倒れてもいない。


 オレは紫苑の腕を取り、内側へ戻った。


「十九」


「結果が小さすぎたな」


「次で広げる」


 二十枚目。《ハミンは場外線へ背を向ける》。


 背後へ場外の冷気が来る。


 紫苑は正面。


 逃げ道を内円側へ一つ残したつもりだろう。


 オレは紫苑へ近づいた。


 触れる。


 前へ押せば紫苑へぶつかる。後ろへ引けば場外。横へ回れば線に沿う。


 選ばない。


 紫苑の呼吸を手のひらで感じる。


 八拍目、背は場外へ向いたまま。身体は紫苑の懐へ入っていた。


「二十」


 残り二枚。


 紫苑の右手は、はっきり震えている。


「降参するか?」


「俺が決める」


「そうだな」


 二十一枚目。


 《紫苑の両手が自由になる》。


 いまオレは、紫苑の右手首を左で、左肘を肩で押さえている。


 結果は強い。


 八拍以内に両手を自由にする原因が必要だ。


 紫苑は頭突きを選んだ。


 額が来る。


 避ければ腕がほどける。


 避けない。


 こちらも額を当てる。


 痛い音がした。


「っ……!」


 二人とも目がくらむ。


 三拍。


 紫苑が膝を上げる。


 四拍。腹で受ける。


 五。


 押された力へ小さく回る。


 左手は右手首から滑り、紫苑の肩へ移る。肩は手じゃない。


 右肩は左肘から胸へ移る。


 六。


 紫苑の両手が自由になった。


 結果成立。


 七拍目より前だ。


 でもオレも、両手を自由にしている。


 最後の一枚が、紫苑の指へ入った。


 文字を見た。


 《ハミンが場外へ落ちる》


「二十二枚目」


「これで終わりだ」


「俺が勝つ」


 紫苑が札を破った。


 身体が、すでに雲の上へ落ちている。


 白い床が遠い。


 結果だけが先に来た。


 一拍。


 現実の足は、まだ線の内側にある。


 紫苑の掌が胸へ触れる。


 押されれば落ちる。


 二拍。


 床の縁が細く崩れる。


 足場を失っても落ちる。


 三拍。


 さっき切れた紫苑の靴紐が足首へ絡む。紫苑が転べば、掴んでいるオレも落ちる。


 四拍。


 原因が三つ。


 どれか一つへ寄せられる前に、オレは自分から場外へ跳ぶよう膝を曲げた。


 四つ目。


「自分で落ちる気か!」


「まだ決めてない!」


 五拍。


 胸を押す掌へ手を重ねる。


 押し返せば、紫苑が落ちる原因。


 引けば、オレが落ちる原因。


 横へ回れば、二人とも残る原因。


 六拍。


 無選歩。


 足だけの技じゃない。


 触れたところを足場にし、相手が原因を一つ選ぶまで、オレも一つへならない。


 札の文字が薄くなる。


 七拍。


 紫苑の目が見開く。


 押す、崩れる、絡む、跳ぶ、引く、回る。


 六つの原因が同じ強さで残った。


「選べ、ハミン!」


「結果を先に決めるのは、おまえだろ!」


 八拍。


 札から文字が消えた。


 場外へ落ちていたオレの像が、紫苑へ反転する。


 現実が追いついた。


 紫苑の身体が線の外へ引かれる。


 オレはその掌へ触れたまま、小さく回った。


 女の身体の低い重心。


 短い回転半径。


 紫苑の力を足場に、オレだけが内側へ残る。


 紫苑が場外へ落ちた。


 全身が白い外縁を越えた瞬間、姿が青く裏返る。次には百二十メートルの円を飛び越え、入口扉の階段側踊り場へ転送されていた。暗い膜が、闘技場へ戻る扉を閉ざしている。


 オレは内側へ両足で立っている。


「一、二、三――」


 審判の計数。


 紫苑は石の踊り場で起きようとした。


 右手が震え、床を掴めない。二十二枚ぶんの因果債が一度に返っている。


「七、八」


 片膝をつく。


「九」


 紫苑は扉の暗い膜越しにオレを見た。


 笑った。


「見事」


「十三」


 鐘が鳴る。


『勝者、ハミン。選択権の移譲を確認します』


 息を吐く。


 肺は小さい。


 腕も短い。


 身体は女のまま。


 だから勝てた。


 男へ戻れなくても勝てた、じゃない。


 この身体で積んだものを使ったから勝てた。


 オレは一本の赤い三つ編みを握り、笑った。


「勝ったぞ、紫苑」


「先に言われた」


     *


 時間が戻る。入口扉の暗い膜が消え、選闘中に姿を消した六人が円の入口側へ再び現れた。


「ハミン!」


 藍羽が止まる前の姿勢から駆けてくる。


 紫苑は屋上扉の階段側踊り場へ座り、切れた靴紐を見ていた。ひなたは紫色の紐を確認してから、本人へ目を合わせる。


「霧崎先輩、負けたんですか?」


「そういう結果らしい」


「二十二枚、全部使わせた」


 オレが言うと、ハヨンが紫苑の右手を見る。


「因果債。処置していい?」


「薬は嫌いだ」


「消毒だけ」


「なら頼む」


 ハヨンは本人へ聞いてから、切れた指へ布を巻いた。


「勝者請求を確認します」


 鈴華が台帳を開く。


「軽微命令、一回。何を指定しますか」


 紫苑を見る。


「明日一回、オレたちと昼飯を食え」


「また飯か」と先輩。


「重要だぞ」


「オレは賛成だ」


 紫苑は包帯を巻かれながら眉を寄せた。


「情報を吐け、と言わないのか」


「言ってほしいなら言うぞ」


「言うな」


「じゃあ飯だ」


「選択を一つ使ってまで、俺を席へ座らせたい?」


「一度座れば、次に立つか残るかはおまえが選べる」


「甘いな」


「飯は辛いのも好きだ」


「味の話じゃない」


 紫苑は笑い、条件へ同意した。


「明日一回。それで請求を終える」


「ああ」


 次に、紫苑は胸元から黒いカードを出した。


 初戦で奪ったHF―001の複製。


「これは勝者請求じゃない」


 ハヨンへ差し出す。


「教授へ渡したのと同じ複製が、俺の札入れにも残っていた。自分で破棄する」


「復元できる?」とハヨン。


「結果を《破棄された》へ置く。原因は俺が折る。八拍もいらない」


「待って」とオレ。


「何だ」


「それを使えば、おまえが覚えられる選択を返してもらえるんじゃないのか」


「そういう取引だった」


「いいのか」


「よくない」


 紫苑は即答した。


「返してほしい。いまもな。けど、生徒へ事故を起こす材料だと知ったあとで渡し続ければ、俺が忘れられた原因を、ほかのやつへ増やす」


 カードを二つに折る。


 黒い表面から白い光が抜けた。


 ハヨンの端末で、流出複製の一つが消える。


「教授は帰還枝をどこへ置いた」


 オレは命令せず聞いた。


 紫苑は自分で答えた。


「零頁と呼ばれる管理面。その中の《時間・循》の保管欄だ」


「時間、循?」


「周期ごと戻る選択を扱う場所。俺が知るのは名前だけだ。直接開ける権限はない」


「頁は何枚ある」


「四十八。教授は、全部が満ちれば世界の固定が始まると言った」


 それ以上の意味は話さなかった。


 どの世界を、何のために固定するのか。星見島で目黒教授は一部を語ったが、紫苑も全部を知らないのだろう。


「目黒教授は、返すつもりか?」


 紫苑は塔の白い床を見る。


「教授は約束した」


 少し間を置く。


「でも、教授は結果を変えない。そのためなら、約束の原因を消す」


 呼び方は「教授」のままでも、その音から恩人への信頼が落ちた。


 紫苑の足元で、最後の札の切れ端が風もないのに裏返った。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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