第28話「女の身体で勝つ」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
満月の十五分前、身体の奥で低い倍音が鳴った。
道場の庭へ出る。
空は晴れている。冬の月は白く、同じ満月でも夏より近く見えた。天気予報は、今夜遅くにこの冬一番の寒波と南岸を進む低気圧が重なり、東京の平地でも朝から雪が積もるおそれがあると繰り返していた。風はもう、昼よりずっと冷たい。
指先の距離が揺れる。
いまの小さな手へ、男の時の長い指が重なる。肩幅が二つになる。朱赤の緋天衣の中で、骨が戻る場所を探しているように疼いた。身体相に合わせて寸法を変え、上着を男相の黒と女相の朱赤へ染め分ける服は、今夜も先回りするように微かに揺れている。黒いズボンだけは、どちらでも色を変えない。
「計測、始めていい?」
縁側でハヨンが聞く。
端末はまだ伏せている。
「いいぞ」
「映像も?」
「いい」
「痛みの触診は?」
「変化が終わってから聞け」
「了解」
ハヨンが端末を上げた。
藍羽は少し離れたところで、オレの緋天衣の色を見ている。前なら男へ戻った瞬間、衣服は体格に合って伸び、上着は明るい朱赤から黒へ変わった。
月が山の端から完全に出る。
倍音が深くなる。
庭へ影が伸びた。
影だけが、背の高い少年になる。
オレの身体は変わらなかった。
一本の長い赤い三つ編み。
低い重心。
短い腕。
小さい肺。
全部そのままだ。
「相転換なし」
ハヨンが数値を読む。
「帰還前兆は発生。二相波形も残存。切替経路だけが封鎖されてる」
前の満月なら、胸の中へ穴が開いた。
今夜も痛くないわけじゃない。
月へ向かって拳を伸ばす。男の腕なら、あと五・七センチ遠くへ届いた。
でも今日は、その距離に相手はいない。
「ハミン」
藍羽がオレの上着から視線を上げた。
「残念?」
「ああ」
「そっか」
慰めない。
元の身体へ戻りたい気持ちを、いまの身体が嫌いなのだと言い換えない。
藍羽はオレの前へ立ち、長い濃紺の髪を結んだ。
「じゃあ、今日はどうする?」
「勝ちに行く」
自分の長い赤髪を一本の三つ編みに結び直した。
「男の身体を待ってからじゃない。今日は、この身体で勝つ」
道場の奥で、おっさんが髭を撫でた。
「ようやく、今夜の足を選んだか」
「選ばない足だ」
「ほう」
「相手へ触れるまで、次を一つに決めない。触れてから押された方向を足場にする」
「名は」
「いるか?」
「名をつけると必殺技らしくなるのじゃろう」
「覚えてたのか」
おっさんが床の十三重円を指す。
「無より選ぶ歩。無選歩でよかろう」
「おっさんがつけるのか?」
「命名料は夕餉一品」
「高い!」
「勝てば払える」
「オレの財布からだろ!」
藍羽が笑う。
ハヨンも、端末の向こうで口元を少し緩めた。
満月の庭で、オレも笑った。
男へ戻れなかった夜に笑うのは、初めてだった。
*
再戦は同じ夜、選塔で行った。
紫苑の一晩二十二枚が、まだ一枚も使われていない時間を選んだのだ。
扉の前には藍羽、ハヨン、先輩、蓮、鈴華。それからひなたもいる。
藍羽、ハヨン、ひなたは蓮から、一晩だけの同行資格札を渡されていた。紫苑は塔に残る過去の直接認証で通る。資格のない普通の生徒は七階から先で階数を失い、屋上扉へ着けない。けれど接続資格を持つ委員が同行登録すれば、選闘をしない時にもこの雲上闘技場まで来られる。
ひなたは腕へ紫色の紐を巻いていた。
「霧崎先輩を見る。忘れたら紐を見る。もう一回見る」
「忙しいな」と紫苑。
「誰のせいですか」
「教授」
軽く答えたが、笑ってはいなかった。
条件は全員の前で確認した。
「ハミンが勝てば、俺は一回だけ軽い命令を聞く。俺が勝てば、ハミンは逆因果事故と帰還枝について一週間、独自調査を休む」
「後半は継続行動です」と蓮。「いま、期間と対象を全員で確認します」
オレの腕輪と委員章だけへ、《レベル2条件》の分類が出た。一般生徒へは伏せられている区分。オレには前に露見しているが、蓮はその名をここで新しく広げなかった。
「データは賭けない」とオレ。
「成長した」
「おまえが言うな」
「一週間の休止は長いです」と蓮。
「身体の危険を避けるための調査停止に限ります。記憶、交友、学業は対象外です」
鈴華が条件文へ追記する。
「第三者へ調査停止を命じることもできません。ハミンさん個人の行動一件です」
「勝てば関係ない」
オレが言うと、藍羽が肩を叩いた。
「勝つ前に条件を聞いた。それでいい」
ハヨンが端末を閉じる。
「私は同意する。お兄ちゃん自身の一週間だから」
「よし」
紫苑は黒い札入れを逆さにした。
白い札が二十二枚、雲床へ扇形に並ぶ。
「数えろ」
「二十二」
「一枚一結果。一度に有効なのは一枚。八拍で原因が追いつかなければ、結果は俺へ返る。文字が消え始めたら残り二拍ほど。二十二枚を越えれば、俺自身の連続性が保たない」
「全部、自分から言うのか」
「前の勝負で見せた。隠したことにして負けたくない」
「いいな」
「俺が勝つ結果が?」
「公平なところ」
紫苑は一瞬、目を丸くした。
すぐ人を食った笑みへ戻る。
「その賞賛は、勝ってから受け取る」
二人で内円へ入った。
「選塔に問う。霧崎紫苑とハミンの選択を」
条件が床へ刻まれる。
「選ぶ」
「俺も選ぶ」
鐘が逆に鳴る。
最初に音が遠のく。
次に、ひなたの上げた手が止まった。藍羽の髪、蓮の秒針、鈴華の袖も動きを失う。色が薄れ、六人は輪郭ごと姿を消した。入口扉だけが外縁に残り、暗い膜で閉ざされる。
雲上闘技場へ残ったのは、オレと紫苑だけだ。
仲間の助けはない。
声も、攻撃も、残響記録へ入らない。
『選択権移譲決闘を開始します。制限時間、十三分』
紫苑が一枚目を取った。
《ハミンの右足が止まる》
破る。
右足だけが、すでに床へ縫いつけられた感触になる。
紫苑が数え始める。
一。
オレは右足を無理に上げない。
左へ倒れる可能性、右膝を曲げる可能性、床へ手をつく可能性を残す。
二、三。
紫苑が足元へカードを投げた。
踏めば滑る。
避ければ右足へ体重が残る。
四。
カードが右靴の下へ入る。
原因が一つへ絞られた。
五、六、七。
文字が薄れる。
八。
右足が止まった。
紫苑の掌が肩へ当たる。
『有効打、霧崎紫苑』
「一枚」
「前と同じじゃないか?」
「いまのは確認だ」
二枚目。
《ハミンが一撃を受ける》
「広い結果だな」
「だから一番小さくなる」
紫苑の拳が頬へ来る。
避けようと先に決めない。
触れる直前、首を押された方向へ回す。
拳がかすめる。
当たった。
けれど力は流れた。
八拍目、紫苑の拳だけが痛む。
「一撃は一撃だ」
「有効打へは届かない」
審判音は鳴らない。
「結果の定義が小さくなった」
「そこも覚えたか」
三枚目。《ハミンの左手が札を掴む》。
紫苑が白い札を投げる。
掴まなければいい。
だが札の向こうから蹴りが来る。避ければ手が上がる。受ければ指が触れる。
オレはどちらも決めず、札そのものへ肩から入った。
胸へ当たり、落ちる。
左手は開いたまま。
五拍。
紫苑が落ちた札を蹴り上げる。
六。
左手へ飛ぶ。
触れてから、手首を小さく回した。
紅燕歩を足ではなく手で使う。
札は掌を滑り、右肩へ抜ける。
七。
文字が消える。
原因が、掴むか、弾くか、落とすかで揺れる。
八。
札に書かれた結果が反転した。
紫苑の左手が、自分の札を掴んだ。
「三枚」
その指が強く閉じる。
「返ったぞ」
「まだ軽い」
紫苑は掴まされた札を捨てる。
指へ赤い切り傷が一本増えた。
四枚目。《紫苑は拳の外にいる》。
オレは拳を作らない。
肘、肩、頭、膝。どれで触れるか決めず近づく。
紫苑は下がる。
結果は簡単だ。拳さえ外せばいい。
八拍目、紫苑は拳の外にいた。
でも肩の内側にいる。
額を胸へ当てる。
『有効打、ハミン』
「結果へ書いてないところは自由だ」
「一対一」
紫苑が嬉しそうに笑った。
五枚目。《ハミンが三歩下がる》。
後ろから、三歩ぶんの床が先に近づいてくる。
一拍。
紫苑の掌で押される可能性。
二拍。自分から間合いを外す可能性。
三拍。床が傾く可能性。
オレは全部を同じだけ残す。
紫苑が右から押せば左肩を落とし、左から来れば右足を浮かせる。まだ選ばない。
四、五。
紫苑が正面から来た。
胸へ触れた瞬間、その力へ逆らわず半歩下がる。同時に床の傾きへ腰を回し、もう半歩は横へ流す。
自分から下がったのか。
押されたのか。
床に運ばれたのか。
六。
結果の文字が三つへぶれる。
七。
紫苑の眉が動く。
「選べ」
「選ばない」
八。
結果が反転する。
紫苑が三歩下がった。
場外線まで、あと二歩。
「無選歩」
「名前をつけたのか」
「おっさんが」
「負けたら命名料を返せ」
「夕飯一品だぞ」
「安いな」
「オレには大事だ!」
六枚目。
七枚目。
紫苑は結果を小さくした。
《ハミンの右踵が浮く》。
《ハミンが左を向く》。
曖昧さが少ないほど、原因は一つへ集まりやすい。
右踵は床の溝へ乗って浮いた。左を向いた瞬間、カードの縁が肩へ当たる。
『有効打、霧崎紫苑』
二対一。
八枚目。《ハミンの鼻歌が切れる》。
喉へカードが飛ぶ。
避ければ息が止まる。受けても止まる。
オレは音程を上げた。
低い鼻歌は切れ、高い音へつながる。
結果は成立した。
呼吸は切れなかった。
「言葉どおりでも、意味どおりとは限らない」
「屁理屈が強くなった」
「おっさんに鍛えられた」
九枚目。《ハミンの両足が円の外へ向く》。
十枚目。《紫苑の右手が自由になる》。
札は必ず、一枚ずつ。
九枚目の八拍が終わり、両足が外を向く。そこから紅燕歩で内側へ回る。
十枚目が破られる頃には、紫苑の右手首を取っていた。
結果が右手を自由にする。
なら左手を取る。
右手は自由になり、左手が床へついた。
肩を押さえる。
『有効打、ハミン』
二対二。
「十枚」
残り十二。
紫苑の呼吸が少し速い。
カードを破るたび、先に借りた結果の請求が身体へ戻っている。右手の切り傷。左の靴紐が理由なく切れる。札入れの留め具が外れ、残りの札が床へ散りかける。
紫苑は拾わず、爪先でまとめた。
「手伝おうか?」
「決闘中だぞ」
「札がなくなったら勝負が終わる」
「優しいんじゃなく、続きを見たいだけだな」
「よく分かったな」
「そういう顔をしてる」
十一枚目から十五枚目。
紫苑は連続では破らない。一つの結果が成立するか反転するまで、次を待つ。
《ハミンの右肩が下がる》。成立。
《ハミンが中央線を踏む》。オレは左足、右足、紫苑に押される三つの原因を残し、反転。紫苑が中央を踏む。
《ハミンの視線が札へ向く》。成立。視線だけで身体は渡さない。
《ハミンの背が床へ触れる》。紫苑の足払い、オレの受け身、床の傾き。三つが競り合い、反転。紫苑が背から落ちる。
《紫苑が内円に立つ》。成立。
札は強い。
結果が具体的で小さければ、ほとんど外せない。
けれど結果そのものが勝利じゃなければ、そのあとの選択は残る。
右肩が下がったなら、左で行く。
中央を踏まされたなら、そこから回る。
視線が札へ向いたなら、紫苑の足は気配で読む。
女の身体は、動きを途中で変えやすい。
軽い手足は、一度始めても止められる。
低い重心は、押されたあとでも別の足を床へ置ける。
短い腕は遠くへ届かない。
だから、届くまで入ってから選ぶ。
これは男へ戻るまでの代用品じゃない。
この身体で、何度も負けて作ったオレの動きだ。
十六枚目。《ハミンが場外線へ近づく》。
十七枚目。《ハミンの左膝が曲がる》。
十八枚目。《紫苑の胸へ打撃が届かない》。
少しずつ、オレは外へ運ばれる。
結果一つでは落とせない。だが三つ、四つを順に積めば、最後の原因を簡単にできる。
場外まで一歩。
紫苑は結果を先に置くだけじゃない。
結果を並べて、次の結果が起こりやすい現在を作っている。
「そこまで考えられるなら、原因もちゃんと選べるじゃねえか」
「説教か?」
「感想だ」
「なら勝ってから聞く」
十九枚目。
《ハミンの左足が場外へ出る》。
破れる。
左足の裏へ、すでに雲の冷気が触れた。
一拍。
紫苑が右から肩を押す。
先に避けない。
触れた力へ肩を預ける。
二、三。
左足を浮かせる。場外へ出る原因にも、内へ回る原因にもなる高さ。
四。
紫苑の膝が軸足へ来る。
受ければ左足が外へ出る。避ければ押された肩が外へ流れる。
五。
右手で紫苑の膝へ触れる。
押さない。
触れた方向を足場にする。
六。
小さく回る。
七。
文字が消える。
左足は一度、線の外へ着いた。
でも体重は乗せない。紫苑の膝と肩を円にして、右足を内側へ残す。
八。
結果は成立した。
左足が場外へ出た。
両足ではない。
倒れてもいない。
オレは紫苑の腕を取り、内側へ戻った。
「十九」
「結果が小さすぎたな」
「次で広げる」
二十枚目。《ハミンは場外線へ背を向ける》。
背後へ場外の冷気が来る。
紫苑は正面。
逃げ道を内円側へ一つ残したつもりだろう。
オレは紫苑へ近づいた。
触れる。
前へ押せば紫苑へぶつかる。後ろへ引けば場外。横へ回れば線に沿う。
選ばない。
紫苑の呼吸を手のひらで感じる。
八拍目、背は場外へ向いたまま。身体は紫苑の懐へ入っていた。
「二十」
残り二枚。
紫苑の右手は、はっきり震えている。
「降参するか?」
「俺が決める」
「そうだな」
二十一枚目。
《紫苑の両手が自由になる》。
いまオレは、紫苑の右手首を左で、左肘を肩で押さえている。
結果は強い。
八拍以内に両手を自由にする原因が必要だ。
紫苑は頭突きを選んだ。
額が来る。
避ければ腕がほどける。
避けない。
こちらも額を当てる。
痛い音がした。
「っ……!」
二人とも目がくらむ。
三拍。
紫苑が膝を上げる。
四拍。腹で受ける。
五。
押された力へ小さく回る。
左手は右手首から滑り、紫苑の肩へ移る。肩は手じゃない。
右肩は左肘から胸へ移る。
六。
紫苑の両手が自由になった。
結果成立。
七拍目より前だ。
でもオレも、両手を自由にしている。
最後の一枚が、紫苑の指へ入った。
文字を見た。
《ハミンが場外へ落ちる》
「二十二枚目」
「これで終わりだ」
「俺が勝つ」
紫苑が札を破った。
身体が、すでに雲の上へ落ちている。
白い床が遠い。
結果だけが先に来た。
一拍。
現実の足は、まだ線の内側にある。
紫苑の掌が胸へ触れる。
押されれば落ちる。
二拍。
床の縁が細く崩れる。
足場を失っても落ちる。
三拍。
さっき切れた紫苑の靴紐が足首へ絡む。紫苑が転べば、掴んでいるオレも落ちる。
四拍。
原因が三つ。
どれか一つへ寄せられる前に、オレは自分から場外へ跳ぶよう膝を曲げた。
四つ目。
「自分で落ちる気か!」
「まだ決めてない!」
五拍。
胸を押す掌へ手を重ねる。
押し返せば、紫苑が落ちる原因。
引けば、オレが落ちる原因。
横へ回れば、二人とも残る原因。
六拍。
無選歩。
足だけの技じゃない。
触れたところを足場にし、相手が原因を一つ選ぶまで、オレも一つへならない。
札の文字が薄くなる。
七拍。
紫苑の目が見開く。
押す、崩れる、絡む、跳ぶ、引く、回る。
六つの原因が同じ強さで残った。
「選べ、ハミン!」
「結果を先に決めるのは、おまえだろ!」
八拍。
札から文字が消えた。
場外へ落ちていたオレの像が、紫苑へ反転する。
現実が追いついた。
紫苑の身体が線の外へ引かれる。
オレはその掌へ触れたまま、小さく回った。
女の身体の低い重心。
短い回転半径。
紫苑の力を足場に、オレだけが内側へ残る。
紫苑が場外へ落ちた。
全身が白い外縁を越えた瞬間、姿が青く裏返る。次には百二十メートルの円を飛び越え、入口扉の階段側踊り場へ転送されていた。暗い膜が、闘技場へ戻る扉を閉ざしている。
オレは内側へ両足で立っている。
「一、二、三――」
審判の計数。
紫苑は石の踊り場で起きようとした。
右手が震え、床を掴めない。二十二枚ぶんの因果債が一度に返っている。
「七、八」
片膝をつく。
「九」
紫苑は扉の暗い膜越しにオレを見た。
笑った。
「見事」
「十三」
鐘が鳴る。
『勝者、ハミン。選択権の移譲を確認します』
息を吐く。
肺は小さい。
腕も短い。
身体は女のまま。
だから勝てた。
男へ戻れなくても勝てた、じゃない。
この身体で積んだものを使ったから勝てた。
オレは一本の赤い三つ編みを握り、笑った。
「勝ったぞ、紫苑」
「先に言われた」
*
時間が戻る。入口扉の暗い膜が消え、選闘中に姿を消した六人が円の入口側へ再び現れた。
「ハミン!」
藍羽が止まる前の姿勢から駆けてくる。
紫苑は屋上扉の階段側踊り場へ座り、切れた靴紐を見ていた。ひなたは紫色の紐を確認してから、本人へ目を合わせる。
「霧崎先輩、負けたんですか?」
「そういう結果らしい」
「二十二枚、全部使わせた」
オレが言うと、ハヨンが紫苑の右手を見る。
「因果債。処置していい?」
「薬は嫌いだ」
「消毒だけ」
「なら頼む」
ハヨンは本人へ聞いてから、切れた指へ布を巻いた。
「勝者請求を確認します」
鈴華が台帳を開く。
「軽微命令、一回。何を指定しますか」
紫苑を見る。
「明日一回、オレたちと昼飯を食え」
「また飯か」と先輩。
「重要だぞ」
「オレは賛成だ」
紫苑は包帯を巻かれながら眉を寄せた。
「情報を吐け、と言わないのか」
「言ってほしいなら言うぞ」
「言うな」
「じゃあ飯だ」
「選択を一つ使ってまで、俺を席へ座らせたい?」
「一度座れば、次に立つか残るかはおまえが選べる」
「甘いな」
「飯は辛いのも好きだ」
「味の話じゃない」
紫苑は笑い、条件へ同意した。
「明日一回。それで請求を終える」
「ああ」
次に、紫苑は胸元から黒いカードを出した。
初戦で奪ったHF―001の複製。
「これは勝者請求じゃない」
ハヨンへ差し出す。
「教授へ渡したのと同じ複製が、俺の札入れにも残っていた。自分で破棄する」
「復元できる?」とハヨン。
「結果を《破棄された》へ置く。原因は俺が折る。八拍もいらない」
「待って」とオレ。
「何だ」
「それを使えば、おまえが覚えられる選択を返してもらえるんじゃないのか」
「そういう取引だった」
「いいのか」
「よくない」
紫苑は即答した。
「返してほしい。いまもな。けど、生徒へ事故を起こす材料だと知ったあとで渡し続ければ、俺が忘れられた原因を、ほかのやつへ増やす」
カードを二つに折る。
黒い表面から白い光が抜けた。
ハヨンの端末で、流出複製の一つが消える。
「教授は帰還枝をどこへ置いた」
オレは命令せず聞いた。
紫苑は自分で答えた。
「零頁と呼ばれる管理面。その中の《時間・循》の保管欄だ」
「時間、循?」
「周期ごと戻る選択を扱う場所。俺が知るのは名前だけだ。直接開ける権限はない」
「頁は何枚ある」
「四十八。教授は、全部が満ちれば世界の固定が始まると言った」
それ以上の意味は話さなかった。
どの世界を、何のために固定するのか。星見島で目黒教授は一部を語ったが、紫苑も全部を知らないのだろう。
「目黒教授は、返すつもりか?」
紫苑は塔の白い床を見る。
「教授は約束した」
少し間を置く。
「でも、教授は結果を変えない。そのためなら、約束の原因を消す」
呼び方は「教授」のままでも、その音から恩人への信頼が落ちた。
紫苑の足元で、最後の札の切れ端が風もないのに裏返った。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




