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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第五章「逆因果のカード使い」
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26/54

第26話「忘れられた霧崎紫苑」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

「ここにいる」


 オレは紫苑の肩を指した。


 ひなたの目が、ようやくそこへ合う。


「あ」


 紫苑は缶を上げた。


「初めまして、水守」


「さっき会いましたよね?」


「会った」


「でも私、いま……」


 ひなたは額へ手を当てた。


「霧崎先輩。紫の髪。高等部。覚えた」


「努力は認める」


「何で偉そうなんですか」


「俺が先輩だから」


 ひなたは図書室の本を抱え直した。背表紙を確認するため、紫苑から視線を外す。


 三秒。


「ハミン。この人、誰?」


 声が震えた。


 冗談じゃない。


 紫苑は慣れた顔をしている。


「霧崎紫苑だ」


「霧崎、紫苑」


 ひなたはノートを出し、名前を書いた。


 書いた瞬間は読める。


 頁を閉じ、もう一度開く。


「……何も書いてない」


 紙は白い。


 斜めから見ると、鉛筆で押した溝だけが残っていた。


 四文字ぶんの筆圧。


 黒鉛だけが消えている。


「俺は、そういう結果になってる」


 紫苑は空になった缶を捨てた。


「原因を聞きたきゃ、忘れないやつだけで来い」


「待て」


 腕を掴もうとする。


 指が届く前に、自動販売機の横で足音がした。


 足音へ追いつくように紫苑が一歩下がる。


 校舎の角へ入った。


 追う。


 誰もいない。


「消えた……?」


 ひなたがオレの隣へ来る。


「違う。逃げた」


「誰が?」


 もう忘れていた。


     *


 翌朝、オレは黒板へ大きく書いた。


 霧崎紫苑。


「今日の転入生?」


 ひなたが聞く。


「違う。昨日会った」


「私も?」


「二回な」


「二回も初対面したの?」


「いま三回目だ」


 教室へ入ってきた藍羽が黒板を見る。


「霧崎先輩……星見島にいた紫の髪の人?」


「覚えてるか」


「顔は。でも名前は一昨日初めて聞いた」


 藍羽は黒板の前へ立ち、声に出した。


「きりさき、しおん」


 振り返る。


「それで、この名前がどうしたの?」


「誰の名前だと思う」


「え?」


 もう結びついていない。


 教室のほかの生徒は、もっと変だった。


 文字が見えていないわけではない。日直が黒板を消そうとして、《霧崎紫苑》のところだけ手を避ける。先生は出席番号を書き、その文字の上へ重ねても気づかない。目で追わせれば読めるのに、一度端まで行くと内容が頭から落ちる。


「気持ち悪い」


 ひなたが正直に言った。


「本人は、これが毎日か」


「本人?」


「黒板の名前のやつ」


「ああ」


 ひなたはまた忘れないよう、名前の代わりに紫色の線をノートへ引いた。


 線なら消えなかった。


 その横へ、人の形を描く。


「名前を書かなければ残るかもしれない」


「やってみよう」


 オレは藍羽とひなたを並べ、黒板を背に写真を撮った。


 真ん中に、紫苑がいるつもりで一人ぶん空ける。


 写真には当然、空席だけが写った。


「本人を撮らないと分からないね」とひなた。


「見つける」


「誰を?」


「紫の線のやつだ!」


「怒らないでよ。忘れたくて忘れてるんじゃないんだから」


 その通りだ。


 忘れられる側へ腹を立てるのも違うが、忘れる側へ怒鳴るのはもっと違う。


「悪い」


「何回でも聞くから、何回でも教えて」


 ひなたは紫の線を指で叩いた。


「普通の友達にできるの、それくらいでしょ」


     *


 放課後、道場は観測実験室になった。


 ハヨンが床へ体重計、三脚へカメラ、壁へ音響計を並べている。赤いリボンを片手で押さえながら、もう片方で端末を三台同時に操作していた。


「被験者は?」


「見つけてない」


「非効率」


「忘れるやつを探す方法があれば言え」


「忘れないお兄ちゃんを追跡器にする」


「人を機械へ入れるな」


「入れない。持たせる」


 手のひらほどの黒い箱を渡された。


「目で確認した人物へ番号を振る。名前は保存できなくても、質量、音、位置の欠番は残るかもしれない」


「欠番?」


「十三人測ったのに、記録が十二人なら、一人いる」


「名前がなくてもか」


「ゼロと欠けている一は違う」


 ハヨンは丸眼鏡を押し上げる。


「お兄ちゃんが覚えている理由も測りたい。していい?」


「見るだけなら」


「採血なし。接触電極もなし。了解」


 ハヨンが端末を向けた。


 画面へ、オレの身体を示す二本の細い波が出る。


 女の身体の現在波形。その下に、満月のたび照合されていた男の身体の残響。


「ほかの人は一つの人物を一つの照合で覚える。お兄ちゃんは自分の中に、同じ人物を二つの形で照合している」


「だから紫苑を忘れない?」


「仮説。お兄ちゃんは一度記憶が滑っても、もう一つの照合が同じ人を戻す」


「便利だな」


「身体が戻らない現状を便利で済ませないで」


 声が少し強くなる。


 オレは画面を見た。


「戻らないから残ってるものもある、ってだけだ」


「それを決めるのはお兄ちゃん」


「そうだな」


 引き戸が開いた。


「楽しそうな検査だな」


 紫苑が立っていた。


「どうやって入った」


「門を開けた」


「鍵は?」


「開いている、を先に置けば原因はあとから見つかる」


「家の鍵へ札を使うな!」


 藍羽が廊下から走ってきた。紫苑を見る。眉を寄せ、腕へ書いた紫色の線を見る。


「霧崎先輩」


「今日は一回目だな、藍羽」


「昨日も会ったんですか?」


「昨日は会ってない。一昨日に一回だ」


 藍羽が悔しそうに唇を噛む。


「忘れてるなら、名乗り直してください」


「霧崎紫苑。十七歳。人を食った美男子」


「最後はいりません」


「霧崎さん、中央の体重計へ」


 ハヨンは忘れていない。


「おまえも覚えるのか」


「名前は落ちる。でも測定対象番号十七の欠番を見れば戻せる。お兄ちゃんほど自然じゃない」


「ハヨン博士。噂どおり、数字へ人を縛るのが得意だ」


「博士はまだ正式学位じゃない」


「そのうち取る結果を先に呼んだ」


 紫苑が体重計へ乗る。


 数字が出る。


 カメラのシャッター。音響計へ呼吸の波。


「名前を言って」とハヨン。


「霧崎紫苑」


 録音へ声が入る。


 五秒後。


 体重計は数値を残した。音響計も一人ぶんの波を残す。録画には、床板が体重でわずかに沈んでいるのに人物だけが映らず、向こうの障子が続いていた。


 音声はこうなっている。


『――――』


 人が話した長さの無音。


「結果は消える。でも原因の圧力は残る」


 ハヨンが記録へ印をつける。


「写真を撮るぞ」


 オレは端末を構えた。


 紫苑を真ん中に、藍羽とハヨンが左右へ立つ。


「笑え」とオレ。


「命令するな」と紫苑。


「おまえ、いつも笑ってるだろ」


「忘れられる前に、感じよくしておくためだ」


 初めて、軽口じゃない声が混じった。


 撮る。


 画面を確認する。


 藍羽とハヨンの間に、細い空白があった。背景の障子は続いているが、格子が一本だけ不自然に曲がっている。誰かの肩を避けた形だ。


「霧崎先輩は?」


 藍羽が画面を見て聞く。


 顔を上げる。


 本人が目の前にいる。


「そこだ」


「あ……」


 藍羽は拳を握った。


「ごめんなさい」


「謝られると、俺がかわいそうな人みたいだ」


「忘れたことへの謝罪です」


「覚え続ける約束はするなよ」


「どうして」


「破られる結果を知ってるからだ」


     *


 翌日の昼、ひなたは学食の丸テーブルへ紫色の札を置いた。


 《ここは一人ぶんの席》


 名前は書かない。固有名が消えるなら、結果だけ残す作戦だ。


「霧崎先輩を呼んでみて」


「どこにいるか分からない」


「さっき廊下にいたよ」


「覚えてるのか?」


「紫の札を見たら、探してたことは思い出した。顔はまだ」


 ひなたと二人で廊下へ出る。


 生徒の流れに、不自然な空きがあった。誰もいないはずの場所を、みんな半歩ずつ避けて通る。


「そこだ」


 流れの中央へ紫苑がいた。


 食券を持っているのに、配膳口の人は次の生徒へ料理を渡している。


「注文は?」


「三回言った。金だけ払った結果になった」


「霧崎先輩」


 ひなたが呼ぶ。


 紫苑は少し驚いた。


「今日は何回目だ、水守」


「たぶん一回目。席を作ったから来てください」


 丸テーブルへ戻る。


 紫の札の前だけ、椅子が一脚空いていた。


 紫苑が座る。


 ひなたは配膳口へ戻り、食券の控えと代金記録を見せた。名前を忘れるたびに紫の札を見せ、四回説明して、ようやく定食を一つ受け取る。


「普通の昼飯って大変なんだな」


 オレが言うと、紫苑は箸を割った。


「俺にはな」


 隣の生徒が紫苑の椅子へ鞄を置こうとした。


 ひなたが札を指す。


「そこ、一人います」


「ごめん。見えなくて」


 生徒は謝り、鞄をどける。十秒後には、何へ謝ったか分からない顔になった。


 紫苑は一口食べる。


「席は、俺を覚えない」


「でも空けておける」とひなた。


「人がいない日も?」


「その日は片づける。来た日にまた出す」


「俺が来たと、どうやって分かる」


「ハミンに聞く。ハミンが忘れたら、もう一回考える」


 ひなたは簡単に言った。


 紫苑は定食へ目を落とす。


「覚え続けるとは言わないんだな」


「言ってもできないから。でも今日、一緒に食べることはできる」


 紫苑はそれ以上、試すようなことを聞かなかった。


 紫の札の前で、定食を最後まで食べた。


     *


 委員会室には、古い在籍簿が積まれていた。


「二年前、高等部一年の在籍記録。霧崎という姓はありません」


 蓮が一覧をめくる。


 鈴華は選片台帳、先輩は卒業アルバムと部活動名簿を担当している。


 オレは三人を、先輩、蓮、鈴華と呼ぶ。


 体育祭で背中を預け、文化祭で本当の声を聞き、昼飯を同じ卓で食った。目黒教授に帰還枝を奪われた夜も、三人はすぐ恩人を敵と呼べなかった代わりに、オレを置いていかなかった。


 委員会として何を選ぶかは、まだ分からない。


 それでも三人を呼ぶ言葉は、腕章の向こうにいる本人へつながっている。一度知った距離を、組織への迷いだけで名字へ戻したくはなかった。


「霧崎」と先輩が口にした。


「何かあったか?」


「いや。いま名前を読んだのに、次の頁へ行ったら誰を探してたか分からなくなった」


 先輩は腕へ太い字で《紫髪・十七・カード》と書いている。固有名でなければ残る。


「記憶と氏名は保護領域です」


 鈴華の声から、いつもの柔らかさが減っていた。


「公開されているレベル1はもちろん、条件選択を扱うレベル2でも、勝者が奪える領域ではありません。心響鈴も、認識を一時的に重ねるだけ。本人の記憶そのものは消せない」


「じゃあ誰ならできる」


 答えは分かっている。


 蓮はすぐ言わなかった。レベル3の存在を知らないからではない。存在と承認規約しか知らされなかった自分たちが、教授の隠した実装を口にする責任まで量っていた。


「レベル3の実装へ触れられる原典管理者です」


「目黒教授か」


「ただし僕たちは、教授一人が保護領域を開けるとは知らされていませんでした。試験制度の不具合だった可能性も、まだ捨てません」


「二年も放っておく不具合か?」


「だから調べています」


 蓮の指は止まっている。


 教授をかばいたいのではない。疑うなら、疑った結果まで自分で持とうとしている。


「試作決闘の記録は?」


「該当年度だけ、顧問保管です」


「便利だな」


「便利すぎます」


 蓮は在籍簿を閉じた。


 鈴華の鈴が、小さく鳴った。


〈ここにいた〉


 頭の中へ声が届く。


「紫苑か?」


「いいえ」


 鈴華は台帳の一枚を押さえた。


「頁そのものの声です。記載を消されても、綴じられていた痕が残っています」


 頁番号は、二〇七の次が二〇九。


 二〇八がない。


 背の糸には、切り取られた紙の毛羽が残っている。


「二年前の試作決闘台帳、第二区画、第八頁」


 蓮が読む。


「顧問保管庫の索引と一致します」


「取りに行こう」


「教授の認証が必要です」


「本人へ聞く」


「答えると思いますか」


「聞かなきゃ答えない」


 先輩が立ち上がった。


「オレも行く」


 鈴華は台帳を閉じず、切れた頁の位置へ薄紙を挟んだ。


「わたくしは、こちらの残響を複写します」


 三人はもう、教授の説明を待つだけではなかった。


     *


 紫苑を見つけたのは、使われていない視聴覚室だった。


 椅子が一脚だけ引かれている。


 机には開けたパンの袋。出席札の箱には、番号のない札が一枚。


「いるんだろ」


「結果だけ見て人を探せるようになったな」


 カーテンの影から紫苑が出る。


 オレは自分の腕へ書いた紫の線を見る。名前は何度書いても薄くなるから、《会ったら聞く》とだけ残した。


「名前は」


「忘れたのか?」


「覚えてる。でも聞く」


「霧崎紫苑」


「何があった」


 紫苑は笑った。


「先に結果を言う。俺は学校から消えた」


「原因は」


「二年前の試作選闘だ」


 窓の外では部活動が始まっている。校庭を走る生徒の列が、この教室だけ避けて流れているように見えた。


「当時、俺は高等部一年だった。決まった部活も、卒業後の予定もなかった。教授は、選びきれない生徒を助ける制度を試していた」


「おまえも委員会だったのか?」


「候補だ。結果を先に決められる俺の癖を、教授は面白がった」


 紫苑は番号のない札を指で回す。


「試験は、一般生徒へ伏せられたレベル2だった。俺が勝てば、どの部へ入っても一か月で辞められる。教授側が勝てば、一学期間、補助員をする」


「それで何で記憶が消える」


「試作機が壊れた、という説明だった」


 紫苑の笑みが薄くなる。


「俺は負けた。教授は補助員の所属を固定しようとして、保護されていた頁まで開いた。固定されたのは委員会への所属じゃない。《誰かの記憶と記録へ所属し続ける選択》のほうだった」


 窓の外でボールが跳ねた。


 誰かが拾い、何もないこの窓へ一度だけ頭を下げた。すぐに首を傾げて走り去る。


「教授は戻すと言った。協力して、原典を完成させれば、俺の頁も元へ戻る」


「だからデータを渡したのか」


「そうだ」


「信じてる?」


「結果が必要なんだ。信じる原因はあとでいい」


 言い方は軽い。


 右手だけが、机の下で札を数えている。


「札があると忘れられないのか」


「完全には無理だ。《誰かが俺を見る》《俺の席が一つある》《名前を一度呼ばれる》。小さい結果を置けば、八拍ぶんは原因が追いつく」


「二十二枚を使い切ったら?」


「今日の俺は終わりだ」


「死ぬのか」


「大げさだな。立っていた場所、持っていた札、言った言葉の順に連続性がなくなる。明日になれば戻る。忘れられることに変わりはない」


「だから先に離れるのか」


 紫苑の指が止まった。


「俺を忘れる前に、俺が相手を切る。そのほうが結果を選んだ気になれる」


「かわいそうって言ってほしいか?」


「言ったら殴る」


「安心した。オレも言いたくない」


 椅子を引き、向かいへ座る。


「覚え続ける約束もしない」


「賢明だ」


「忘れたら、また名前を聞く」


 紫苑が目を上げる。


「おまえも、また答えろ」


「毎回?」


「毎回」


「面倒なやつだな」


「忘れられるやつに言われたくない」


 紫苑はしばらく黙った。


 それから番号のない札を机へ置く。


「霧崎紫苑」


「ハミン」


「知ってる」


「オレも知ってる」


「明日は?」


「また聞く」


 紫苑は小さく笑った。


 忘れられる前に作る笑顔じゃなく見えた。


     *


 その夜、鈴華から道場へ連絡が来た。


 選片台帳の切断面へ薄紙を当て、鈴の振動を通すと、消された頁番号だけが浮かんだらしい。


 端末の画面へ、複写が映る。


 《レベル2試験二〇八》


 《レベル3実装・保護領域例外承認》


 《対象――》


 名前の欄は赤く消えている。


 けれど、その下へ紫色の指紋が一つ残っていた。


「霧崎紫苑」


 オレが声に出す。


 画面の向こうで、蓮が同じ名を記録する。


 先輩は腕へ書く。


 鈴華は切れた頁の場所へ、名前でなく紫色の紐を結ぶ。


 全員が明日には忘れるかもしれない。


 それでも、欠けている一頁はもう、なかったことにはできなかった。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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