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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第五章「逆因果のカード使い」
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25/48

第25話「先に転んでから殴ってくる男」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 満月が過ぎた翌朝も、オレの髪は赤かった。


 目を開ける前から分かっていた。


 背中から枕へ流れる、長い一本の三つ編み。胸の狭さ。布団の中で曲げた膝までの距離。何か月も使ってきた身体だ。いまさら確かめなくても、自分の形くらい分かる。


 それでもオレは、両手を顔の前へ持ち上げた。


 小さい手だった。


「お兄ちゃん。起床を確認。採血はしない」


 襖の向こうからハヨンの声がした。


「聞いてないぞ」


「だから、しないと言った」


「前ならもう針を持って入ってきたな」


「前の私なら」


 少し間があった。


「いまは、お兄ちゃんに聞いてからにする」


「じゃあ今日はなし」


「了解」


 足音が遠ざかる。


 その素直さへ礼を言おうとして、やめた。礼を言えば、こいつは許されたと思うかもしれない。オレも、言っただけで全部済んだことにしたくなるかもしれない。


 目黒教授に奪われたのは、男だった記憶じゃない。


 満月ごと、元の身体へ戻れる未来だ。


 昨夜、月はちゃんと昇った。身体の奥では低い倍音が鳴り、庭へ伸びた影だけが男の形になった。けれど骨も、髪も、腕の長さも変わらなかった。


 自分の身体が、月の向こうにいる誰かへ引かれていく感じだけが残った。


 オレは布団を蹴った。


 緋天衣(ひてんい)へ腕を通す。女相では明るい朱赤になるチャイナ風上着と、色の変わらない黒いズボン。男だった時は上着も黒だった同じ一着なのに、いまの体格へ隙間なく合う。泥も汗も残らない、昔から変な服だ。


 今日は学校だ。


 月がどうなろうと、一時間目の英語は待ってくれない。


     *


「ここ、先週の範囲」


 ひなたがノートを机へ置いた。


 色の違う付箋が五枚。字は小さいが、先生の脱線まで端へ書いてある。


「目黒教授の授業じゃないぞ」


「知ってる。目黒教授がいなくなってから、代わりの先生が二人来たの。英語と理科を一人で代講できる先生、普通はいないから」


「あいつ、普通じゃなかったな」


 教授、と呼ぶ。


 その二文字が、前より喉に引っかかった。


 星見島から戻って、目黒教授は授業へ出ていない。学園側の説明は海外学会への急な出張。委員会室には顧問として連絡を送っているらしいが、オレたちの前へは姿を見せなかった。


「ハミン、前にも同じ理由で休んだでしょ」


「月例の体調不良だ」


「その説明で毎月通すつもり?」


「通ってる」


「先生たちが深く聞かないだけ」


 ひなたはオレの机を見た。


 弁当箱がまだ開いていない。


「お昼、食べないの?」


「あとで」


「ハミンが?」


「オレでも食わない時くらいある」


「初めて見た」


 自分でも初めてだった。


 腹は減っている。なのに蓋を開ければ、満月の庭でみんなが黙っていた顔まで出てきそうだった。


「ハミン」


 教室の後ろから藍羽が呼んだ。


 水色の運動着。長い濃紺の髪をもう結んでいる。


 星環学園には制服もあるが、授業に支障がなければ服装は自由だ。だからオレは体育のあとも、朱赤の緋天衣へ戻っていた。


 一時間前の五十メートル走では、女の身体のまま学年男子の一位を二秒近く置き去りにした。投球も跳躍も、普通の生徒なら相手にならない。それでも昔のオレを基準にすれば、速度も力も半分に届いていなかった。


「体育であれだけ勝って、まだ不満そうね」


「普段の半分も出てない。嘆くくらい許せ」


「放課後、一本」


 いつもの誘いだ。


 前なら昼飯を飲み込んででも受けた。


「あとでな」


「放課後があとででしょ」


「もっとあと」


 藍羽の眉が寄る。


「私に負けるのが怖い?」


「それはない」


「じゃあ、笑いなさいよ」


「何で命令されて笑うんだ」


「勝負の話をしたら、いつも勝手に笑ってたから」


 そうだったらしい。


 顔へ力を入れてみた。うまくいかなかった。


 藍羽はそれ以上言わず、結んだ髪をほどいた。


「待ってるから」


「何を」


「ハミンが自分から、もう一回って言うの」


 席へ戻っていく。


 ひなたはノートの端へ、赤い丸を一つ足した。


「何だ、それ」


「今日やること。ノートを返す。お弁当を食べる。藍羽に返事をする」


「勝手に予定へ入れるな。蓮みたいだぞ」


「じゃあ、最初の二つだけ」


 オレは弁当箱の蓋を開けた。


 卵焼きを一つ口へ入れる。


 味はした。


 それだけで少し安心した。


     *


 放課後、旧天文塔の前に見知らぬ足跡があった。


 正しくは、足跡だけが先にあった。


 乾いた石段へ、濡れた靴底の形が一つ浮かぶ。


 雨は降っていない。


 次の瞬間、肩へ冷たい滴が落ちた。


 見上げる。


 塔の手すりから、誰かが水を一滴こぼしている。


「遅い」


 声がした。


 上の踊り場へ、紫の髪の男が立っていた。


 褐色の肌。高くて細い身体。黒い開襟シャツの袖から、長い指がのぞく。短い紫髪の一房だけ、青緑色に光っていた。


 その顔を、オレは星見島で見ている。


 砂浜へ足跡だけ残し、振り向いた時にはいなかった男。


「おまえ――」


「霧崎紫苑(きりさき・しおん)。十七歳。おまえはここで俺と戦う」


「勝手に結果まで言うな」


「理由はこれから話す」


 男――紫苑は、銀色の硬貨を長い指の上で転がした。拳を握って開くと、硬貨は消え、代わりに黒いカードが指の間へ挟まっている。


「いまの消失は、ただの奇術だ。こっちが法宝(ファーバオ)・逆因果札(ぎゃくいんがふだ)」


 紫苑は黒い契約札を一枚投げた。


 受け取る。


 表へ赤い文字が浮かんだ。


 《ハミンは選闘を受ける》


「もう決まってるみたいに書くな」


「決まるさ。おまえは、戻る方法を知りたい」


 笑えなかったはずの胸が、わずかに動いた。


「知ってるのか」


「知っている場所を知っている」


「同じだろ」


「全然違う。答えの値段が上がる」


 階段の下から足音がした。


「その人物から離れてください、ハミン」


 蓮が上がってくる。先輩と鈴華も一緒だ。三人とも腕章をつけているが、以前より布の色が暗く見えた。


「臨時登録者、霧崎紫苑。登録申請は本日十六時十三分、顧問権限で受理されています」


「接続欄には、過去に塔が出した直接認証も残っています。経緯は照会中です」


「目黒教授が?」


「申請上は教授の認証です。ただし僕は事前承認していません」


「俺の名前を読めるのか、時任」


 紫苑が面白そうに聞く。


「申請書に記載されています」


「そうか。いまはまだ」


 意味の分からない言い方だった。


 先輩が肩へ担いだ棒を下ろす。


「教授の命令か?」


「俺は教授と取引してる。命令じゃない」


「何を取引した」


「それを話すのは、ハミンが勝ったあとだ」


 結論を先に置き、理由をあとへ回す。


 話し方まで、さっきの足跡みたいだ。


「条件を出せ」


 オレが言うと、蓮がこちらを見た。


「待ってください。相手の登録も能力も確認できていません」


「確認するために戦う」


「その考え方を止めてくださいと言っています」


「戻る手掛かりがある」


「だからこそです」


 蓮の声が強くなる。


「いまのあなたは、条件を正しく比べられない」


「比べられる」


「では、先に聞いてください」


 紫苑が二枚目のカードを出した。


「ハミンが勝てば、奪われた帰還枝の保管場所を俺が知る範囲で話す。俺が勝てば、ハミンの端末にある位相観測データを一部もらう」


「一部とは、どの範囲ですか」


 鈴華が問う。


「文化祭の共鳴観測、個人識別欄を除く三十秒。周波数帯はここからここ」


 カードへ細かな数値が並ぶ。


 ハヨンのHF―001。


 オレの端末にも、被験者用の複製が入っている。


「ハヨンさんの研究成果です」と鈴華。


「オレの身体の記録でもある」


「所有権を単純化しないでください」


 蓮が言う。


「持っているから渡してよい、とは限らない」


 正しい。


 分かっていた。


 それでも紫苑のカードに書かれた《帰還枝》の三文字から、目を離せなかった。


「受ける」


「ハミン!」


「三十秒だけだ。個人識別もない」


 言い訳が、口から先に出た。


 紫苑は笑う。


「結果どおりだ」


 先輩が棒を強く握った。


「ハミン。せめてこれを持っていけ」


 差し出したのは雷綴ではなく、訓練用の赤い六尺棒だった。塔の用具箱へ入れていたらしい。


「何で?」


「霧崎の最初の札に書いてある」


 紫苑の指の間から、白い札が見えた。


 《棒が手から落ちる》


「挑発か」


「予告だ」と紫苑。


 オレは棒を受け取った。


「落とさなきゃいいんだな」


「原因を作れるものなら」


 胸の奥が、久しぶりに熱くなった。


 蓮は止めようとした。


 階段の下から藍羽の声がした。


「ハミン、待ちなさい!」


 蓮が委員章を振り返る。


「如月さんへ、この一戦限りの同行登録を送ります。受領してから上がってください!」


「受領した! だから先に行かないで!」


 オレはもう、選塔の階段へ足を置いていた。


     *


 雲上闘技場へ上がった時、紫苑の手には二十二枚の札があった。


「数えたのか?」


「見せてる。一晩に使えるのは二十二枚。隠してあとから増やす趣味はない」


「親切だな」


「結果が決まってる勝負には、説明する余裕がある」


 中央の十三重円へ二人で入る。


 扉の前に、先輩、蓮、鈴華。その後ろへ追いついた藍羽が立った。


「ハミン! 返事もしないで別の勝負を始めないで!」


「終わったら一本やる!」


「絶対よ!」


「ハミン」と蓮が呼ぶ。


「条件の範囲を忘れないでください。勝敗と、あなた自身のデータだけです」


「分かってる」


「本当に?」


 答える前に、紫苑が内円へ札を置いた。


「選塔に問う。霧崎紫苑とハミンの選択を」


 青と赤の環が浮かぶ。


 条件が刻まれる。


 ハミン勝利――帰還枝の保管情報を、霧崎紫苑が知る範囲で開示。


 霧崎紫苑勝利――ハミンが所持するHF―001複製から、指定三十秒を一度提供。


 オレは全部読んだ。


 読んだのに、ハヨンの顔を思い浮かべなかった。


「選ぶ」


「俺も選ぶ」


 遠い鐘が逆に鳴る。


 藍羽の口が止まる。先輩の棒が静止し、蓮の工程表と鈴華の黒い袖から色が抜ける。四人は輪郭ごと姿を消した。入口扉だけが円の外縁へ残り、暗い膜で閉ざされる。


 動けるのは、オレと紫苑だけになった。


『選択権移譲決闘を開始します。制限時間、十三分』


 低い一定音が床下で鳴る。


 紫苑が、予告した札を右手へ持った。


 表の文は短い。


 《棒が手から落ちる》


「先に結果を置く。原因なんて、あとから追いつかせりゃいい」


 札を二つに破る。


 からん。


 音が先にした。


 赤い棒が、オレの足元へ落ちている。


 なのに手には、まだ握った重さがあった。


「何だ、これ」


 視界が二重になる。


 床の棒と、手の棒。


 紫苑の唇が動く。


「一、二、三――」


 棒を握り直す。


 四拍目。掌へ急に汗がにじんだ。


 五拍目。紫苑がカードを一枚、目へ向けて投げる。


 避ける。


 六拍目。棒の端が、投げたカードへ触れた。


 滑る。


 七拍目。紫苑の爪先が棒の中央を軽く蹴った。


 八拍目。


 棒が手から抜け、床へ落ちた。


 さっき聞いた音と、同じ音だった。


 最初から床にあった棒は消えている。


 結果へ、いま原因が追いついた。


「一本目」


 紫苑は札の切れ端を捨てた。


「面白い」


 口元が上がる。


 勝負が楽しい。


 そう思えたことに、オレは飛びついた。


 棒を拾わず、紫苑へ踏み込む。


 紅燕歩で外へ回る。カードを扱う指は長いが、拳に固い跡はない。近づけば勝てる。


 紫苑が二枚目を出す。


 《ハミンの左膝が床につく》


 文字を見た瞬間、左膝へ冷たい床の感触が来た。


 まだ立っているのに。


「一」


 紫苑の数え方は口の中だ。声になりきらない。


 札の端から文字が薄くなる。


「二」


 左脚を引く。結果を知っているなら、原因を避ければいい。


「三」


 紫苑は攻めない。


「四」


 床の十三重円が、ほんの少し傾いた。


 雲上闘技場の床が動く。


 紫苑が作ったんじゃない。最初からある床の歪みを、札が原因として引き寄せた。


「五」


 右へ体重を逃がす。


 逃がした先へ、さっき落ちた棒が転がってくる。


「六」


 踵が乗る。


「七」


 紫苑の手が肩へ触れた。


「八」


 左膝が床へ落ちる。


『有効打、霧崎紫苑』


 肩へ置かれただけの掌が、打撃として数えられた。


 結果が先に決まっていたからだ。


「二枚目」


「札一枚で一つか」


「よくできました」


「八つ数えてる」


「耳も悪くない」


 立つ。


 鼻歌を鳴らす。


 一定の拍なら、八拍を数えられる。


 紫苑の三枚目。


 《ハミンの右拳が外れる》


 拳を打たなければいい。


 蹴りへ変える。


 文字が薄れる。


 一、二、三。


 紫苑の脇腹へ左脚を送る。


 四拍目、紫苑が一歩下がる。


 蹴りが届く距離を外れる。


 五拍目。蹴りを途中で止め、右拳へ変える。


 決めていなかったはずの拳が、結果へ引かれる。


 肩が勝手に前へ出た。


 六拍目。足元の棒へ爪先が当たり、身体が半歩ずれる。


 七拍目。右拳が紫苑の頬をかすめる。


 八拍目。外れる。


「原因を避けても、別の原因が寄ってくる」


「札に書いた結果へ行ける道があるかぎりな」


 紫苑は笑う。


 こいつは強い。


 速いわけじゃない。拳も軽い。


 だが、オレが相手の重心や呼吸から次を読むより先に、次の終わりを置いてくる。


 生まれる前の一手は読めても、もう生まれ終わった結果は読めない。


 四枚目。《紫苑はハミンの背後にいる》。


 目の前の紫苑が一瞬薄れ、背中へ息が触れる。


 原因はこれからだ。


 振り向かない。正面の紫苑へ飛び込む。


 一、二。


 紫苑は横へ逃げる。


 三、四。


 追う足が床の細い溝へ取られる。


 五。


 紫苑が肩を押して通り過ぎる。


 六、七。


 オレが振り向く。


 八。


 背後にいる。


 首筋へカードの縁が当たった。


『有効打、霧崎紫苑』


「二対零」


「数え方まで先に言うな」


「事実だ」


 そこから紫苑は札を切らず、オレも決め手を作れないまま間合いを出入りした。


 床下のハミングが少しずつ高くなる。十三分の終わりが近い。


 次の札を出す前に、懐へ入った。


 腹へ拳。


 紫苑が札をかざす。


 破るより早く手首をつかむ。


 札は一度に一枚。


 破れなければ結果は置けない。


 肘を返し、床へ投げる。


 紫苑の身体が宙へ浮く。


 その顔は、まだ笑っていた。


「俺はもう勝った」


 左手に、別の札があった。


 いつ持ち替えた。


 《ハミンが投げられる》


 破れる。


 紫苑を投げたはずの視界が反転した。


 オレの背中が、先に床へある。


 一拍。


 掴んだ紫苑の腕が、妙に重くなる。


 二、三。


 投げる力へ逆らわず、紫苑が空中で身体をひねる。


 四。


 腕が巻き込まれる。


 五、六。


 オレの重心が紫苑の腰を越える。


 七。


 原因が分かった時には遅い。


 八。


 背中から落ちた。


 紫苑の膝が胸の横へ止まる。


『有効打、霧崎紫苑。三対零』


 空の端が白くなり、床下のハミングが高くなる。


『制限時間、終了。有効打差を確認』


 決着音が鳴った。


『勝者、霧崎紫苑。選択権の移譲を確認します』


「俺はもう勝った。おまえは、俺がどう勝ったかをこれから決めるんだ」


 紫苑は上から言った。


 札は五枚しか使っていない。


 残り十七枚。


 もっと見たい。


 どう破るか考えたい。


 胸が熱い。


 なのに、その熱の底へ別のものが落ちてきた。


 ハヨンのデータ。


 オレは戻る手掛かりがほしくて、あいつが何か月も取った記録を賭けた。


 負けたことより、そっちのほうが腹立たしかった。


 紫苑ではなく、自分に。


     *


 時間が戻った。入口扉の暗い膜が消え、選闘中に姿を消した藍羽たち四人が外縁へ再び現れる。


「ハミン!」


 藍羽の声が、止まる前の続きで飛んでくる。


 オレは床へ座っていた。紫苑はもう条件の札を選塔へかざしている。


 端末が勝手に熱を持った。


 HF―001の複製から、指定された三十秒だけが白いカードへ移る。個人名も身体寸法も含まれない。けれど、ハヨンが見つけた共鳴の式は入っている。


「待て」と蓮。


「条件は成立しています。止めればハミン側へ追加の封鎖が――」


 鈴華が台帳を確認する。


「転送範囲は事前定義内です」


 白いカードが黒へ戻った。


 紫苑はそれを胸の内へしまう。


「またな、ハミン」


「次は勝つ」


「なら次の結果も、先に置いておけ」


 紫苑が階段へ向かう。


 先輩が道を塞いだ。


「どこへ持っていく」


「取引相手のところ」


「教授か」


「原因はあとで知る」


 先輩の横を通る瞬間、紫苑の右手が小さく震えた。


 使った札は五枚。


 紙で指を切ったような赤い線が、一本ずつ指へ増えている。


 代価だ。


 追おうとしたが、膝が痛んだ。


 藍羽が肩を支える。


「勝負、楽しかった?」


「ああ」


 答えてから、苦くなった。


「楽しかったから、ほかを見なかった」


     *


 道場へ戻り、オレはハヨンへ全部話した。


 言い訳を先にしないよう、最初から。


「オレが勝手に受けた。おまえのデータを渡した。悪かった」


 ハヨンは端末を受け取り、転送履歴を読んだ。


 眼鏡の奥の目が、一行ずつ動く。


「流出範囲は三十秒。個人識別なし。HF共鳴式の前半が含まれる」


「取り返す」


「命令?」


「違う。オレがそうしたい」


「私に、どうしてほしい?」


 前なら、ハヨンが自分で対策を決めていた。


 いまは聞いた。


 だからオレも、考えてから答えた。


「どこまで危ないか、一緒に確認してくれ」


「了解」


 二人で端末を開いた。


 奪われた記録は消えたわけではない。複製された。三十秒の波形から作れるもの、作れないものを一つずつ数える。


「身体相の直接切替はできない。個人位相鍵がないから」


「じゃあ何ができる」


「複数人の呼吸へ選塔の固定場を重ねる実験。文化祭で一秒未満だった現象を、長くできるかもしれない」


「学校ごと止めるみたいに?」


「可能性はある」


 ハヨンは画面を閉じなかった。


「お兄ちゃんを責めるのは簡単。でも私も、お兄ちゃんの身体に関するデータだから自分だけのものだと思っていた」


「いまはオレの失敗の話だ」


「分けて考える。だから、お兄ちゃんの失敗はお兄ちゃんのもの。私の失敗は私のもの」


「面倒だな」


「必要」


「分かった。まずオレのを片づける」


 流出した帯域へ印をつけ、対策用の観測項目を並べた。


 夜は遅くなった。


 それでもハヨンは、オレに黙って薬も採血も使わなかった。


     *


 翌日の放課後、紫苑は校舎裏の自動販売機にもたれていた。


 缶コーヒーを持っている。


 飲み口はまだ閉じているのに、空き缶入れから同じ缶が落ちる音がした。


「また結果が先か」


「癖みたいなものだ」


「帰還枝の話を聞いてない」


「おまえは負けた」


「だから次に勝つ」


「いい顔へ戻ったな」


「おまえのおかげじゃない」


「原因は誰のものでも、結果は同じだ」


 紫苑は缶を開けた。


 背後からひなたが来る。


「ハミン、図書室へ返す本――」


 オレと紫苑を見た。


「霧崎紫苑。こいつを覚えとけ」


「霧崎先輩?」


 ひなたは紫苑へ頭を下げた。


「高等部の人ですか?」


「そうだった」と紫苑。


「だった?」


 ひなたが聞き返す。


 その時、校舎の時計が一度鳴った。


 ひなたは瞬きをした。


 視線が紫苑の身体を通り過ぎる。


「ハミン」


「何だ?」


「さっき、誰と話してたの?」


 紫苑はそこにいる。


 なのにひなたは、本当に見えていない顔をしていた。


 紫苑が缶コーヒーを飲む。


 空き缶入れから聞こえた音へ、ようやく原因が追いついた。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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