↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第四章「教授が月を盗む日」
PR
24/48

第24話「満月のない夜」

 立て。


 そう考えた。


 床へ赤い線が走った。


 右足が動かない。


 なら左。


 二本目。


 膝へ力が入らない。


 両手で床を押す。


 三本目。


 指が白い床を滑った。


「まだだ」


 声は出る。


 目黒教授が十二歩先へ立っている。


 サングラスの端に細いひび。頬には、オレの指が触れた赤い跡が一つ。


 それだけだ。


 息も乱れていない。


 紫のスーツへ土もついていない。


 オレは肩、脇腹、腿の感覚が薄い。右腕は杖を受けすぎて上がらず、聴脈を続けた肺が熱い。


 差は、見なくても分かる。


 それでも勝負は、立たなければ終わる。


「考えた道を消されるなら――」


 歯を食いしばる。


「考えない」


「それも一つの考えだよ」


 短杖が動く。


 頭を空にする、という候補へ線。


 雑念が一度に戻った。


 痛い。


 息が苦しい。


 藍羽が怒っていた。


 ハヨンが止めた。


 先輩が帰れと言った。


 蓮は認めないと言った。


 鈴華の鈴が鳴った。


 全部覚えている。


 覚えているから、立つ。


 選択じゃなく、約束だ。


 床を殴る。


 痛みで身体を跳ねさせる。


 右足が半歩出た。


「おおっ!」


 赤線が遅れる。


 立ち上がりかける。


 目黒教授が初めて間合いへ入った。


 短杖の先が、胸の中心へ触れる。


 強く押してはいない。


 気の流れだけを止められた。


 息が途切れる。


 腕から力が抜ける。


 また膝をつく。


「君は充分に示した」


「教授が決めるな」


「では、塔に決めてもらおう」


 目黒教授が一歩下がる。


 空から、キャリーを写した判定音声。


『戦闘続行不能計数。一』


 立つ。


 右、左、両手。


 考えるたび赤線。


「二」


 鼻歌。


 息が音にならない。


「三」


 床へ額がつきそうになる。


 左肘で支える。


 そこへ赤線は来なかった。


 考える前に身体が選んだ。


「四」


 肘から肩へ重さを移す。


 腰を上げる。


「五」


 片膝が立つ。


 目黒教授は動かない。


 待っている。


「六」


 視界の端へ、止まった仲間が白い影で見えた。


 観客じゃない。


 ここにはいない。


 それでも帰る場所だ。


「七」


 立て。


 今度は赤線が来ない。


 校正しなくても、身体が動かないと教授は知っている。


 その判断が悔しい。


「八」


 足裏が床へつく。


 膝を伸ばす。


 一センチ。


 二センチ。


「九」


 立てる。


 そう思った瞬間、教授の短杖が一度だけ振られた。


 最後の候補が消える。


 身体が床へ落ちた。


「十」


 青い環が消えた。


『戦闘終了』


『勝者、目黒総司』


 言い訳できない声だった。


 有効打はない。


 頬へ触れ、サングラスをひび割れさせただけ。


 圧勝された。


 おっさんに初めて負けた時より、ずっと長く戦った。


 なのに、届いた距離はあの時より遠い。


「負けた」


 口に出す。


 目黒教授が短杖を赤ペンへ戻した。


「そうだ」


「強いな、教授」


「君もね」


「勝ったやつが言うと腹立つ」


「覚えておこう」


 いつもの教授の返事だった。


 空へ赤い契約頁が開く。


『勝者請求、確定』


『ハミンが毎満月、出生時の男の身体相へ帰還する周期未来枝一件』


『移譲を実行します』


 昼飯を奢らせるレベル1でも、一学期まで行動を縛るレベル2でもない。


 これが、レベル3が人生の幹へ触れる最初の実演だった。オレの心や存在を好きに書き換える願望器じゃない。契約で切り出した《満月ごとに男の身体へ帰る機会》だけを、これから先の人生からまとめて移す。


 狭く定義されているからこそ、逃げ場がなかった。


「待て」


 立てないまま手を伸ばす。


「勝負は終わったぞ。もう校正しなくていい」


「していない」


 腕は動く。


 届かないだけだ。


 目黒教授の周りへ、半透明の選片が現れた。


 十二枚ずつ、九つの輪。


 百八枚。


 一枚目へ火がつく。


〈今日は右へ帰りたかった〉


 二枚目。


〈部活を休みたかった〉


 三枚目。


〈もう一度、話したかった〉


 声が次々重なる。


 小さい選択。


 昼飯一食より小さいものもある。


 けれど、選べなかった瞬間が百八件ぶんある。


「教授、それは教授のじゃない」


「分かっている」


「分かって燃やすのか」


「君の帰還枝を移す対価として必要だ」


「なら教授が払え」


「私も払う」


 二十四枚目が燃えた時、目黒教授の左手へ赤い線が浮かんだ。


 ペンの跡ではない。


 皮膚の下から焼ける線。


 三十六枚。


 手の甲から手首へ。


 四十八枚。


 赤い火傷が袖の内側へ伸びる。


 教授の眉が初めて動いた。


 それでもペンを離さない。


 闘技場の端に並んだ四十八枚の扉へ、順番に明かりが消えていく。


 一枚。


 八枚。


 十六枚。


 扉の表面には、身体、関係、所属、行動、記憶、時間と読める文字があった。さらに細かい文字は、暗くなる前に消える。


 二十四枚。


 三十二枚。


 空が夕方みたいに暗くなる。


 七十二枚の選片。


 教授の左腕から、焼けた紙の匂いがした。


「やめろ。腕が焼けてる」


「ここで止めれば、燃えた選片も君の枝も戻らない」


「だからって」


「選んだのは私だ」


 キャリーの観測像が洞窟で言った言葉と同じ。


 自分の選択だから、止めるな。


 教授はそう言いながら、他人の百八件を燃やしている。


 九十六枚。


 左の袖が裂けた。


 赤黒い火傷が肘まで走る。


 教授は声を上げなかった。


 百八枚目。


〈左へ行きたかった〉


 最初に聞いた声が、最後に消えた。


 全ての扉が暗転する。


 目黒教授の前へ、一本の選片が生まれた。


 ほかより太い。


 透明な栞の中に満月があり、その下へ二つの影が立っている。


 一本の赤い三つ編みを垂らした女の影。


 長い黒紫の髪を同じ一本の三つ編みにした男の影。


 男の影だけが、月へ向かって歩いている。


「それが、オレの?」


「帰還枝だ」


 教授が右手で選片を取る。


 左腕はもう動かない。


「君の身体を奪うわけではない。君が男だと名乗ることも、記憶も、誰を好きになるかも変えない」


「分かってる」


「満月ごとに帰る機会だけだ」


「それが大事なんだよ」


 目黒教授は、ほんの一瞬だけ答えなかった。


「知っている」


「知らない」


 声が低くなる。


「知ってたら、取らない」


 教授は選片を胸元へ収めた。


「返してほしければ、もう一度私へ勝ちなさい」


「言われなくても」


 立てない身体で、拳だけ握る。


 教授のひび割れたサングラスに、一本の赤い三つ編みを垂らしたオレが映った。


 その背後に、満月はもうなかった。


     *


 世界が戻る。


 まず四十八の暗い扉が消えた。雲上闘技場そのものは縮まず、入口扉の膜だけがほどける。


 白い円の景色が遠ざかり、二人は観測所へ返された。


 音が戻る。


 色が戻る。


 止まっていた髪と袖が落ちる。


「お兄ちゃん!」


 ハヨンの声。


 床へ倒れる前に、藍羽が肩を支えた。


「ハミン、返事して!」


「負けた」


「見れば分かる!」


「なら聞くな」


「そういう返事ができるなら意識はある」


 怒りながら、背中へ腕を回す。


 ハヨンが反対側から脈を測る。端末を胸へ当て、気道、骨、内出血を一度に見る。


「肋骨は折れてない。右肩に打撲。酸素飽和度低下。お兄ちゃん、ゆっくり吸って」


「帰還枝は?」


 聞くと、ハヨンの手が止まった。


 画面には赤い空欄。


「ない」


 その二文字が、負けより重かった。


 先輩の棒が目黒教授へ向いた。


 布で補強した曲がった棒。


 握りの金具から、細い電光が走る。


「教授」


 目黒教授は左腕を押さえ、立っている。


 裂けた袖の下は赤黒く焼けていた。


「返してください」


「決闘の正当な勝者請求だ」


「百八件は正当じゃない!」


 先輩の棒へ光が強くなる。


「あれは、オレたちが守るために預かった選片だ。教授の勝負へ使うためじゃない」


「西能寺くん。ここで私へ棒を振れば、それは選闘ではない」


「分かってます」


「安全機構もない」


「分かってる!」


 踏み込もうとする。


「先輩」


 呼ぶ。


 足が止まった。


「いまやるな」


「ハミン」


「曲がった棒で、教授の短杖に勝てるか?」


「勝てなくても――」


「勝てない勝負を止めたの、おまえだろ」


 さっき、オレへ受けるなと言った。


 先輩は歯を食いしばる。


 電光が消えた。


 棒は下ろさない。


 でも、振らなかった。


「レベル3(原典級)承認規約、第三条」と蓮が言う。


 声は静かだが、委員章を持つ手が白い。


「固有選択の移譲には、顧問と委員全員の事前承認。緊急観測条項は、勝敗請求を伴わない隔離に限る。百八件の担保充当には、各台帳責任者の署名が必要。どれもありません」


「零頁の暫定管理権限を用いた」


「君たちもレベル2を必要な秘匿として運用してきた。いま初めて制度の外へ立ったように振る舞うのかい」


「振る舞いません。条件選択を一般生徒へ知らせず、教授の指示で使った責任は僕たちにもあります。だからこそ台帳を開きます。僕たちの責任は、教授がレベル3の承認を迂回してよい理由にはなりません」


「その原文を僕たちは確認していない」


「いずれ見せよう」


「いま見せてください」


「今は観測所が不安定だ」


「また、あとですか」


 蓮の目が、初めて教授を責める色になった。


 それでも「敵」とは言わない。


 鈴華はその場へ膝をつき、両手で鈴を包んでいた。


「百八の声が、消えました」


「鈴華」と言う。


「最後の一人は、左へ行きたかった方です」


 声が震える。


「教授は、わたくしへ声を数える方法をくださいました。聞こえすぎる夜から救ってくださいました。それは本当です」


 顔を上げる。


「では、いま聞こえなくなった百八件も、救ったと呼ぶのでしょうか」


「より大きな返却のために使った」


「返却された方は、まだ一人もおりません」


 目黒教授は答えなかった。


 藍羽がオレをハヨンへ預け、一歩出る。


「私は委員会じゃない。教授に助けられた覚えもない」


 拳へ青い気が集まる。


「だから殴れる」


「藍羽」


「止めないで」


「止める」


「何で!」


「オレが勝負で負けた。いま殴って返させたら、オレまで教授と同じになる」


「同じじゃない!」


「違う。だから、違う勝ち方をする」


 自分で言いながら、悔しくて吐きそうだった。


 決闘に勝って奪った教授。


 決闘の外で殴って奪い返すオレたち。


 同じではない。


 でも、いま怒りだけで進めば、誰の選択を守るのか見えなくなる。


 藍羽の拳から気が消える。


「じゃあ、どうするの」


「帰る」


 答えたのは先輩だった。


 棒を下ろし、オレの前へ立つ。


「まずハミンをここから出す。ハヨンの検査を受けさせる。如月、歩けるか」


「私は平気」


「蓮、退路」


「地上までの経路を確保します。異常停止は解除済み。残響反応、減少中」


「鈴華、生徒の声は」


「研修館側の点呼に欠員はありません。現在の恐怖反応はあります」


 三人が動く。


 目黒教授を倒すためではない。


 オレを撤退させるために、自分の担当を選ぶ。


「教授」と先輩が言う。


「オレは、あなたに助けられました。今日まで、何度も。それを嘘にはできない」


「嘘ではないよ」


「でも、いまハミンにしたことを正しいとも言えない。だから、ここではあなたの命令を聞きません」


 目黒教授は、焼けた左腕を右手で支えた。


「命令はしていない。君が選びなさい」


「そうします」


 先輩が背を向ける。


 蓮も続く。


 鈴華は最後に、目黒教授へ深く頭を下げた。


 礼は、信頼が残っているからだ。


 そのまま一歩、こちらへ来た。


     *


 地上へ出るまで、目黒教授は追ってこなかった。


 白い扉も、選択殻も消えている。


 第一保守室には、オレたち六人が脱出した時の傷だけが残っていた。曲がった扉、藍羽の手形、先輩の棒が削った跡。


 残せた道の証拠だ。


 ひなたは観測所の入口で待っていた。


 オレを見るなり、持っていた点呼表を落とす。


「ハミン」


「全員いるか?」


「研修館側は全員。こっちで待っている先生たちも。そっちは?」


「七人で入って、六人で出た。教授は中に残ってる」


「でも負けた」


 ひなたは傷と、ハヨンの画面と、委員会三人の顔を見る。


 詳しいことを聞かなかった。


「じゃあ、帰ろう」


 それだけ言い、落とした点呼表を拾う。


「帰りの船、明日の九時。今夜はみんな研修館。ハミンは保健担当室の隣の個室。ご飯はお粥に変更してもらった」


「唐揚げは?」


「元気になってから」


「元気だ」


「歩く時、藍羽に半分持ってもらってる人は元気って言わない」


「半分じゃない。三割だ」


「西能寺先輩の船酔いと同じ言い訳」


 先輩が少し笑った。


 笑えたのは、その一度だけだった。


     *


 翌朝、船は予定どおり島を出た。


 低気圧は東へそれた。海は静かで、先輩も酔わなかった。


 普通の生徒たちは、地下設備の故障で研修が短縮されたと思っている。選択殻を見た生徒も、避難訓練の一部だったと説明された。


 誰も嘘を信じたというより、怖かったものへ普通の名前がついて安心したかったのだと思う。


 甲板へ出る。


 星見島が遠ざかる。


 旧観測所の丸い窓だけが、いつまでもこちらを向いていた。


 目黒教授は残った。


 施設の安全確認と、燃えた選片の処理をするためだという。


「左腕、あのままで大丈夫かな」と藍羽。


「心配するのか?」


「する。嫌いになれば、怪我までどうでもよくなるわけじゃない」


「オレも」


 負けた相手だ。


 満月を取った相手だ。


 それでも、焼けた腕を見て止めようとした。


 感情は一本にならない。


 教授がやったことが間違いなら、教授へ感じる全部を嫌いにそろえなくても、間違いだと言えるはずだ。


「帰ったら監査記録を作ります」と蓮。


「教授を告発するのか?」と先輩が聞く。


「まだ、何をどこへ告発すれば帰還枝が戻るか分かりません。規約違反は記録します。ただ、教授の説明どおり救助対象が実在する可能性も残っている」


「百八件を燃やしても?」


「だから確認するんです。善意なら規約を破ってよいとも、規約違反なら目的まで全て嘘だとも、いまは決めません」


 鈴華が海へ鈴を向ける。


「声はありません。燃えた選片の持ち主が消えたわけではない。それだけは分かります」


「なら探せる」と言う。


「ええ。帳簿の空白は残っています」


 ハヨンは隣で、オレの波形をずっと見ていた。


 女の身体相、一本。


 その周りを回っていた帰還の細い線だけがない。


「今夜が満月」とハヨン。


「知ってる」


「奪われた枝が本当に作動しないか、まだ観測できてない」


「戻れるかもしれない?」


「分からない。契約どおりなら戻れない。でも自然側の反応が、移譲を拒む可能性はゼロではない」


 期待させない言い方を選んでいる。


 それでも、胸の中へ小さい火がついた。


 満月はまだ来ていない。


 来るまでは、結果を決めなくていい。


     *


 その夜、天道宗道場の庭に全員がいた。


 オレ、ハヨン、藍羽、おっさん。


 先輩、蓮、鈴華。


 ひなたまで、大きな水筒と八人ぶんの紙コップを持ってきた。


「私は普通担当だから、温かい飲み物」


「満月で身体が変わるの、怖くないのか?」


「文化祭の鏡で半分見たし、ハミンはハミンでしょ」


「驚くかもしれないぞ」


「その時は驚く」


 簡単だ。


 庭の中央、十三重円へ立つ。


 初めて男へ戻った夜もここだった。


 次の満月にはおっさんへ勝った。


 それから五回、月は間違えずオレを元の身体へ戻した。


 肩が広くなる。


 手足が伸びる。


 腰近くまで伸びた黒紫の髪を、女の時と同じ一本の三つ編みにした姿。


 低い声。


 一晩だけの、出生時から知っている身体。


「月の出、一分前」とハヨン。


 計測器が庭を囲む。


「お兄ちゃん。苦しくなったら言って」


「前も平気だった」


「今日は違う」


「分かった」


 ハヨンが聞いてから機械を動かす。


 藍羽は円の外で拳を握っている。


 先輩は棒を置いた。蓮は二つの時計を並べる。鈴華の鈴は鳴らない。ひなたが紙コップへ茶を注ぐ。


 おっさんだけ、いつもと同じように腕を組んでいた。


 東の屋根から、満月が昇る。


 白い光が庭へ落ちる。


 鼻歌が出た。


 ん――。


 倍音は返らない。


 手を見る。


 小さいまま。


 一本の長い赤い三つ編みが肩へ触れる。


「十秒」とハヨン。


「いつもは?」


「天文学上の月の出から三・二秒で開始。七・八秒で完了」


「遅れてるだけかもしれない」


「二十秒」


 肩を回す。


 何も変わらない。


「一分」


 月は高くなる。


 身体は女の姿のまま。


 影だけが動いた。


 足元へ落ちたオレの影。


 最初は今の小さい輪郭。


 その横から、もう一つの影が立ち上がる。


 背が高い。


 肩が広い。


 男の身体のオレ。


「影だけ……」


 藍羽の声。


 男の影が、月へ顔を上げる。


 オレも同じように上げようとした。


 影は合わせない。


 一人で庭の外へ歩き出す。


 床を離れ、壁を上り、空へ細く伸びる。


 海のある方角。


 星見島の方角へ。


「止められる?」


「触れない!」


 ハヨンが測定光を当てる。光は影を通り抜ける。


 藍羽が手を伸ばす。


 先輩の棒が影の道を塞ぐ。


 蓮が時計を開きかける。


「やめろ」


 オレが言う。


「決闘の結果だ」


「でも!」


「いま止めたら、誰かの選片をまた燃やすかもしれない」


 男の影が細い線になった。


 空へ吸われる。


 庭には、女の身体の影だけが残った。


 月光は明るい。


 身体は変わらない。


「五分」とハヨン。


 もう数字に意味はなかった。


 分かっていた。


 契約全文を読んだ。


 負けた。


 それでも、ほんの少しだけ期待していた。


 月なら、塔の文字を無視してくれるかもしれない。


 オレの身体なら、帰り道を覚えているかもしれない。


 戻らない。


「お兄ちゃん」


「分かってる」


「まだ月は――」


「分かってるって」


 声が強くなった。


 ハヨンが黙る。


 誰も何も言わない。


 いつもなら、男へ戻った瞬間に走った。


 おっさんへ勝負を申し込んだ。


 藍羽と歩幅を試した。


 次の相手を考えた。


 今夜は、何もしたくない。


 決闘を思い出す。


 赤い線。


 百八の声。


 教授の焼けた左腕。


 胸が明るくならない。


「オレ、あの勝負を楽しいって言えない」


 初めて口にした。


 負けたからじゃない。


 おっさんへ負けても、先輩へ殴られても、蓮の時間に倒されても楽しかった。


 次があったから。


 相手が、自分の技で立っていたから。


 目黒教授との決闘には、他人の百八件が燃えていた。


 オレの次の満月まで、勝敗の皿へ載っていた。


「楽しくなくていい」と藍羽。


 隣へ座る。


「勝負を好きなハミンでも、全部の勝負を好きになる必要ない」


「逃げみたいだ」


「嫌なものを嫌って言うのが?」


「負けたあとだから」


「勝ってたら、百八件の選択が持ち主へ戻った。負けたらハミンが失った。どっちでも軽くない。笑えないのは普通よ」


「普通担当はひなただぞ」


「そこ?」


 ひなたが反対側へ座った。


「普通は一人一個じゃないから、分けていいよ」


 温かい茶を渡す。


「飲める?」


「それくらいできる」


「できるかじゃなくて、飲みたいか」


 聞かれる。


「飲む」


 自分で答え、受け取った。


 熱い。


 少し甘い。


 身体が変わらなくても、腹の中は温かくなる。


 おっさんが、円の向こうで言った。


「奪われた道を、なかったことにするでない」


「戻れないのに?」


「今宵、歩けぬだけじゃ」


「次も、その次もだ」


「ならば長い道じゃ」


「簡単に言うなよ」


「簡単とは言うておらぬ」


 おっさんはそれ以上、答えを出さなかった。


 勝つ方法も、取り返す場所も。


 ただ、道が長くなったと言った。


     *


 ハヨンは縁側へ計測器を運び、画面を閉じた。


 閉じたあと、すぐ別の画面を開く。


「何してる」


「相転換触媒の上書き式」


 式が高速で組み上がる。


「帰還枝を使わず、薬理側から男体相を強制励起する。お母さんの原式へ、私の補助式と島の波形を――」


「ハヨン」


「成功率はまだ低い。でも、観測を増やせば。帰還枝がなくても身体の記録は残ってる。外部から男相を固定すれば、目黒教授の選片を経由しなくていい」


 指が止まらない。


 涙が眼鏡の下から落ち、画面へ当たる。


「私が最初に変えた。なら私が戻す」


 端末を閉じる。


 ハヨンの指が挟まりそうになり、手を添えて止めた。


「勝手に変えたのもおまえなら、勝手に戻すのも違う。今度は一緒に考えろ」


「でもお兄ちゃんが」


「戻りたい。すぐ戻れるなら戻りたい」


「だったら!」


「だからって、またオレ抜きで身体を決めるな」


 ハヨンの肩が震える。


「私がやったせいで、お兄ちゃんの帰還枝ができた。私が薬を飲ませなければ、目黒教授に奪われるものもなかった」


「そうだな」


 否定しない。


「おまえが悪くないとは言わない。最初の薬は、まだ全部許してない」


 ハヨンが泣きながらうなずく。


「でも、目黒教授との決闘を選んだのはオレだ。負けたのもオレ。全部をおまえ一人の失敗へ戻すな」


「じゃあ、どうすればいい」


「聞け」


「何を」


「薬を作る前。機械を当てる前。オレが戻りたいって言った時も、戻りたくないって言った時も」


 ハヨンは眼鏡を外した。


 袖で涙を拭く。


「お兄ちゃん。帰還枝を使わない位相刺激の研究をしていい?」


「研究だけ。身体へ使うのは、式と危険を一緒に見てから」


「分かった」


「いま計測していい?」


 聞き直す。


「月が沈むまで。痛くない範囲」


「分かった」


 ハヨンは端末をもう一度開いた。


 今度は、先にオレの腕へ触れなかった。


 計測帯を差し出し、待った。


 自分で受け取って巻く。


 小さな違いだ。


 でも、最初の夜にはなかった道だった。


     *


 先輩、蓮、鈴華は帰らなかった。


 委員章を外してはいない。


 目黒教授を敵だとも、委員会を辞めるとも言わない。


 縁側の端で、三人の法宝と台帳を広げている。


「百八件の名簿は復元できます」と鈴華。「声は消えましたが、会計上の欠番が残っています」


「レベル3(原典級)契約も、僕の委員章に全文が残っています」と蓮。「同意自体は明確でした。ハミンが内容を理解したうえで、自分で選んだことは否定できません」


「じゃあ取り返せない?」


 藍羽が聞く。


「違反は同意以外にあります。委員承認なし。担保の無断充当。安全同意書の範囲外利用。順番に証明します」


「証明したら?」


「監査で返却を要求できます。ただし、零頁の上位権限が本当にあるなら、規約だけでは足りません」


 先輩が曲がった棒を床へ置いた。


「オレは、教授に助けられた」


 また言う。


「あの人がいなければ、年々強くなる電気を抑えられず、誰かを傷つけてた。気の流れを整えてもらって、余った力を逃がすために雷綴をもらった。鈴華も眠れなかった。蓮も時計を持っていない」


「ええ」と鈴華。


「だから、あの人が全部悪かった、最初から騙してたって言えば楽だ。でも、たぶん違う」


「楽ではないでしょう」と蓮。


「言い方だ」


「分かっています」


 先輩はオレを見る。


「助けてくれた人が、別のやつから奪うこともある。どっちかを消したら、今日の写真と同じになる」


「片方へ赤線」と言う。


「そうだ。だから両方残して調べる」


「教授を信じたまま?」


「信じたい気持ちは残る。命令を聞くかは別だ」


 蓮もうなずいた。


「明日から、顧問決裁を自動承認しません。全て保留して原文を要求します」


「わたくしは、選片を一件も追加支出しません」と鈴華。


「レベル2の秘匿台帳も封じません。わたくしたち自身の使用分まで、対象者へ説明できる形に戻します」


「オレは、教授に言われてもハミンへ棒を向けない」


「それは前からだろ」


「初対面では向けた」


「負けたけどな」


「いま言うか?」


 少しだけ、いつもの顔になる。


 すぐ消えたが、なくならなかった。


「三人とも、オレのために委員会を捨てるなよ」


「捨てません」と蓮。「中にいなければ、記録へ届かない」


「わたくしたちは、まだ判断の途中です」と鈴華。


「オレは難しいことは二人に任せる」と先輩。


「先輩も考えてください」


「考えた上で任せる」


「それを考えていないと言うんです」


 鈴華が小さく笑った。


 敵か味方か。


 正しいか間違いか。


 三人は、どちらか一つへ急がなかった。


 でも、今夜はオレの側にいた。


     *


幕間・目黒教授


 同じ満月が、星見島の旧観測所を照らしていた。


 目黒教授は誰もいない観測室へ立っている。


 左腕は肩から指先まで包帯に覆われ、赤い熱が布越しににじんでいた。


 右手に、太い選片。


 栞の中の満月へ、男の影が吸い込まれてくる。


 黒紫の髪。


 長い手足。


 影は一度、外へ戻ろうと選片の内側を叩いた。


 透明な表面へ細いひびが走る。


 目黒教授は右手へ力を込めた。


「強い帰還だ」


 包帯の下で、左腕の火傷がまた赤く光る。


「だから、あの日へ届く」


 四十八枚の扉は暗いまま。


 鏡の奥で、腰を越すまっすぐな黒髪の観測像が揺れた。


『返しなさい』


 声は、ほとんど音にならなかった。


 目黒教授は鏡を見ない。


「まだです、先生」


 選片を月齢表へ差し込む。


 満月の日付が、赤い線でつながった。


     *


ハミン


 月が西へ傾いても、オレの身体は変わらなかった。


 誰も帰らない。


 ひなたの茶は二回なくなり、おっさんが夜食の粥を作った。先輩は三杯食べ、蓮は一杯の途中で眠りかけ、鈴華は帳簿を枕にしそうになった。藍羽は何度も朝稽古を申し込もうとして、そのたび口を閉じた。


 オレも勝負を申し込まなかった。


 腹は減った。


 粥は食べた。


 笑えないからといって、息まで止める必要はない。


 月が沈む直前、立ち上がる。


「どこ行くの?」


 藍羽が聞く。


「庭を一周」


「走る?」


「歩く」


「私も」


 ひなたも水筒を持ち、ハヨンは計測器を抱え、委員会三人まで立つ。


「一周だぞ」


「全員で歩けば遅れます」と蓮。


「急いでない」


 言うと、蓮は予定表を閉じた。


 八人で庭を歩く。


 女の身体の歩幅。


 男の影はもう出ない。


 それでも足は、昨日と同じ場所にある。


 一歩ずつ、自分で出せる。


 道場の門を回り、井戸の横を通り、十三重円へ戻る。


 一周した時、満月が屋根の向こうへ沈んだ。


 夜が明ける。


 月は最後まで明るかった。


 今夜だけ、オレを思い出さなかった。

24話敗戦後エンディングテーマ

「HUMMING:再起」

https://youtu.be/74OL3BODhPw

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。