第24話「満月のない夜」
立て。
そう考えた。
床へ赤い線が走った。
右足が動かない。
なら左。
二本目。
膝へ力が入らない。
両手で床を押す。
三本目。
指が白い床を滑った。
「まだだ」
声は出る。
目黒教授が十二歩先へ立っている。
サングラスの端に細いひび。頬には、オレの指が触れた赤い跡が一つ。
それだけだ。
息も乱れていない。
紫のスーツへ土もついていない。
オレは肩、脇腹、腿の感覚が薄い。右腕は杖を受けすぎて上がらず、聴脈を続けた肺が熱い。
差は、見なくても分かる。
それでも勝負は、立たなければ終わる。
「考えた道を消されるなら――」
歯を食いしばる。
「考えない」
「それも一つの考えだよ」
短杖が動く。
頭を空にする、という候補へ線。
雑念が一度に戻った。
痛い。
息が苦しい。
藍羽が怒っていた。
ハヨンが止めた。
先輩が帰れと言った。
蓮は認めないと言った。
鈴華の鈴が鳴った。
全部覚えている。
覚えているから、立つ。
選択じゃなく、約束だ。
床を殴る。
痛みで身体を跳ねさせる。
右足が半歩出た。
「おおっ!」
赤線が遅れる。
立ち上がりかける。
目黒教授が初めて間合いへ入った。
短杖の先が、胸の中心へ触れる。
強く押してはいない。
気の流れだけを止められた。
息が途切れる。
腕から力が抜ける。
また膝をつく。
「君は充分に示した」
「教授が決めるな」
「では、塔に決めてもらおう」
目黒教授が一歩下がる。
空から、キャリーを写した判定音声。
『戦闘続行不能計数。一』
立つ。
右、左、両手。
考えるたび赤線。
「二」
鼻歌。
息が音にならない。
「三」
床へ額がつきそうになる。
左肘で支える。
そこへ赤線は来なかった。
考える前に身体が選んだ。
「四」
肘から肩へ重さを移す。
腰を上げる。
「五」
片膝が立つ。
目黒教授は動かない。
待っている。
「六」
視界の端へ、止まった仲間が白い影で見えた。
観客じゃない。
ここにはいない。
それでも帰る場所だ。
「七」
立て。
今度は赤線が来ない。
校正しなくても、身体が動かないと教授は知っている。
その判断が悔しい。
「八」
足裏が床へつく。
膝を伸ばす。
一センチ。
二センチ。
「九」
立てる。
そう思った瞬間、教授の短杖が一度だけ振られた。
最後の候補が消える。
身体が床へ落ちた。
「十」
青い環が消えた。
『戦闘終了』
『勝者、目黒総司』
言い訳できない声だった。
有効打はない。
頬へ触れ、サングラスをひび割れさせただけ。
圧勝された。
おっさんに初めて負けた時より、ずっと長く戦った。
なのに、届いた距離はあの時より遠い。
「負けた」
口に出す。
目黒教授が短杖を赤ペンへ戻した。
「そうだ」
「強いな、教授」
「君もね」
「勝ったやつが言うと腹立つ」
「覚えておこう」
いつもの教授の返事だった。
空へ赤い契約頁が開く。
『勝者請求、確定』
『ハミンが毎満月、出生時の男の身体相へ帰還する周期未来枝一件』
『移譲を実行します』
昼飯を奢らせるレベル1でも、一学期まで行動を縛るレベル2でもない。
これが、レベル3が人生の幹へ触れる最初の実演だった。オレの心や存在を好きに書き換える願望器じゃない。契約で切り出した《満月ごとに男の身体へ帰る機会》だけを、これから先の人生からまとめて移す。
狭く定義されているからこそ、逃げ場がなかった。
「待て」
立てないまま手を伸ばす。
「勝負は終わったぞ。もう校正しなくていい」
「していない」
腕は動く。
届かないだけだ。
目黒教授の周りへ、半透明の選片が現れた。
十二枚ずつ、九つの輪。
百八枚。
一枚目へ火がつく。
〈今日は右へ帰りたかった〉
二枚目。
〈部活を休みたかった〉
三枚目。
〈もう一度、話したかった〉
声が次々重なる。
小さい選択。
昼飯一食より小さいものもある。
けれど、選べなかった瞬間が百八件ぶんある。
「教授、それは教授のじゃない」
「分かっている」
「分かって燃やすのか」
「君の帰還枝を移す対価として必要だ」
「なら教授が払え」
「私も払う」
二十四枚目が燃えた時、目黒教授の左手へ赤い線が浮かんだ。
ペンの跡ではない。
皮膚の下から焼ける線。
三十六枚。
手の甲から手首へ。
四十八枚。
赤い火傷が袖の内側へ伸びる。
教授の眉が初めて動いた。
それでもペンを離さない。
闘技場の端に並んだ四十八枚の扉へ、順番に明かりが消えていく。
一枚。
八枚。
十六枚。
扉の表面には、身体、関係、所属、行動、記憶、時間と読める文字があった。さらに細かい文字は、暗くなる前に消える。
二十四枚。
三十二枚。
空が夕方みたいに暗くなる。
七十二枚の選片。
教授の左腕から、焼けた紙の匂いがした。
「やめろ。腕が焼けてる」
「ここで止めれば、燃えた選片も君の枝も戻らない」
「だからって」
「選んだのは私だ」
キャリーの観測像が洞窟で言った言葉と同じ。
自分の選択だから、止めるな。
教授はそう言いながら、他人の百八件を燃やしている。
九十六枚。
左の袖が裂けた。
赤黒い火傷が肘まで走る。
教授は声を上げなかった。
百八枚目。
〈左へ行きたかった〉
最初に聞いた声が、最後に消えた。
全ての扉が暗転する。
目黒教授の前へ、一本の選片が生まれた。
ほかより太い。
透明な栞の中に満月があり、その下へ二つの影が立っている。
一本の赤い三つ編みを垂らした女の影。
長い黒紫の髪を同じ一本の三つ編みにした男の影。
男の影だけが、月へ向かって歩いている。
「それが、オレの?」
「帰還枝だ」
教授が右手で選片を取る。
左腕はもう動かない。
「君の身体を奪うわけではない。君が男だと名乗ることも、記憶も、誰を好きになるかも変えない」
「分かってる」
「満月ごとに帰る機会だけだ」
「それが大事なんだよ」
目黒教授は、ほんの一瞬だけ答えなかった。
「知っている」
「知らない」
声が低くなる。
「知ってたら、取らない」
教授は選片を胸元へ収めた。
「返してほしければ、もう一度私へ勝ちなさい」
「言われなくても」
立てない身体で、拳だけ握る。
教授のひび割れたサングラスに、一本の赤い三つ編みを垂らしたオレが映った。
その背後に、満月はもうなかった。
*
世界が戻る。
まず四十八の暗い扉が消えた。雲上闘技場そのものは縮まず、入口扉の膜だけがほどける。
白い円の景色が遠ざかり、二人は観測所へ返された。
音が戻る。
色が戻る。
止まっていた髪と袖が落ちる。
「お兄ちゃん!」
ハヨンの声。
床へ倒れる前に、藍羽が肩を支えた。
「ハミン、返事して!」
「負けた」
「見れば分かる!」
「なら聞くな」
「そういう返事ができるなら意識はある」
怒りながら、背中へ腕を回す。
ハヨンが反対側から脈を測る。端末を胸へ当て、気道、骨、内出血を一度に見る。
「肋骨は折れてない。右肩に打撲。酸素飽和度低下。お兄ちゃん、ゆっくり吸って」
「帰還枝は?」
聞くと、ハヨンの手が止まった。
画面には赤い空欄。
「ない」
その二文字が、負けより重かった。
先輩の棒が目黒教授へ向いた。
布で補強した曲がった棒。
握りの金具から、細い電光が走る。
「教授」
目黒教授は左腕を押さえ、立っている。
裂けた袖の下は赤黒く焼けていた。
「返してください」
「決闘の正当な勝者請求だ」
「百八件は正当じゃない!」
先輩の棒へ光が強くなる。
「あれは、オレたちが守るために預かった選片だ。教授の勝負へ使うためじゃない」
「西能寺くん。ここで私へ棒を振れば、それは選闘ではない」
「分かってます」
「安全機構もない」
「分かってる!」
踏み込もうとする。
「先輩」
呼ぶ。
足が止まった。
「いまやるな」
「ハミン」
「曲がった棒で、教授の短杖に勝てるか?」
「勝てなくても――」
「勝てない勝負を止めたの、おまえだろ」
さっき、オレへ受けるなと言った。
先輩は歯を食いしばる。
電光が消えた。
棒は下ろさない。
でも、振らなかった。
「レベル3(原典級)承認規約、第三条」と蓮が言う。
声は静かだが、委員章を持つ手が白い。
「固有選択の移譲には、顧問と委員全員の事前承認。緊急観測条項は、勝敗請求を伴わない隔離に限る。百八件の担保充当には、各台帳責任者の署名が必要。どれもありません」
「零頁の暫定管理権限を用いた」
「君たちもレベル2を必要な秘匿として運用してきた。いま初めて制度の外へ立ったように振る舞うのかい」
「振る舞いません。条件選択を一般生徒へ知らせず、教授の指示で使った責任は僕たちにもあります。だからこそ台帳を開きます。僕たちの責任は、教授がレベル3の承認を迂回してよい理由にはなりません」
「その原文を僕たちは確認していない」
「いずれ見せよう」
「いま見せてください」
「今は観測所が不安定だ」
「また、あとですか」
蓮の目が、初めて教授を責める色になった。
それでも「敵」とは言わない。
鈴華はその場へ膝をつき、両手で鈴を包んでいた。
「百八の声が、消えました」
「鈴華」と言う。
「最後の一人は、左へ行きたかった方です」
声が震える。
「教授は、わたくしへ声を数える方法をくださいました。聞こえすぎる夜から救ってくださいました。それは本当です」
顔を上げる。
「では、いま聞こえなくなった百八件も、救ったと呼ぶのでしょうか」
「より大きな返却のために使った」
「返却された方は、まだ一人もおりません」
目黒教授は答えなかった。
藍羽がオレをハヨンへ預け、一歩出る。
「私は委員会じゃない。教授に助けられた覚えもない」
拳へ青い気が集まる。
「だから殴れる」
「藍羽」
「止めないで」
「止める」
「何で!」
「オレが勝負で負けた。いま殴って返させたら、オレまで教授と同じになる」
「同じじゃない!」
「違う。だから、違う勝ち方をする」
自分で言いながら、悔しくて吐きそうだった。
決闘に勝って奪った教授。
決闘の外で殴って奪い返すオレたち。
同じではない。
でも、いま怒りだけで進めば、誰の選択を守るのか見えなくなる。
藍羽の拳から気が消える。
「じゃあ、どうするの」
「帰る」
答えたのは先輩だった。
棒を下ろし、オレの前へ立つ。
「まずハミンをここから出す。ハヨンの検査を受けさせる。如月、歩けるか」
「私は平気」
「蓮、退路」
「地上までの経路を確保します。異常停止は解除済み。残響反応、減少中」
「鈴華、生徒の声は」
「研修館側の点呼に欠員はありません。現在の恐怖反応はあります」
三人が動く。
目黒教授を倒すためではない。
オレを撤退させるために、自分の担当を選ぶ。
「教授」と先輩が言う。
「オレは、あなたに助けられました。今日まで、何度も。それを嘘にはできない」
「嘘ではないよ」
「でも、いまハミンにしたことを正しいとも言えない。だから、ここではあなたの命令を聞きません」
目黒教授は、焼けた左腕を右手で支えた。
「命令はしていない。君が選びなさい」
「そうします」
先輩が背を向ける。
蓮も続く。
鈴華は最後に、目黒教授へ深く頭を下げた。
礼は、信頼が残っているからだ。
そのまま一歩、こちらへ来た。
*
地上へ出るまで、目黒教授は追ってこなかった。
白い扉も、選択殻も消えている。
第一保守室には、オレたち六人が脱出した時の傷だけが残っていた。曲がった扉、藍羽の手形、先輩の棒が削った跡。
残せた道の証拠だ。
ひなたは観測所の入口で待っていた。
オレを見るなり、持っていた点呼表を落とす。
「ハミン」
「全員いるか?」
「研修館側は全員。こっちで待っている先生たちも。そっちは?」
「七人で入って、六人で出た。教授は中に残ってる」
「でも負けた」
ひなたは傷と、ハヨンの画面と、委員会三人の顔を見る。
詳しいことを聞かなかった。
「じゃあ、帰ろう」
それだけ言い、落とした点呼表を拾う。
「帰りの船、明日の九時。今夜はみんな研修館。ハミンは保健担当室の隣の個室。ご飯はお粥に変更してもらった」
「唐揚げは?」
「元気になってから」
「元気だ」
「歩く時、藍羽に半分持ってもらってる人は元気って言わない」
「半分じゃない。三割だ」
「西能寺先輩の船酔いと同じ言い訳」
先輩が少し笑った。
笑えたのは、その一度だけだった。
*
翌朝、船は予定どおり島を出た。
低気圧は東へそれた。海は静かで、先輩も酔わなかった。
普通の生徒たちは、地下設備の故障で研修が短縮されたと思っている。選択殻を見た生徒も、避難訓練の一部だったと説明された。
誰も嘘を信じたというより、怖かったものへ普通の名前がついて安心したかったのだと思う。
甲板へ出る。
星見島が遠ざかる。
旧観測所の丸い窓だけが、いつまでもこちらを向いていた。
目黒教授は残った。
施設の安全確認と、燃えた選片の処理をするためだという。
「左腕、あのままで大丈夫かな」と藍羽。
「心配するのか?」
「する。嫌いになれば、怪我までどうでもよくなるわけじゃない」
「オレも」
負けた相手だ。
満月を取った相手だ。
それでも、焼けた腕を見て止めようとした。
感情は一本にならない。
教授がやったことが間違いなら、教授へ感じる全部を嫌いにそろえなくても、間違いだと言えるはずだ。
「帰ったら監査記録を作ります」と蓮。
「教授を告発するのか?」と先輩が聞く。
「まだ、何をどこへ告発すれば帰還枝が戻るか分かりません。規約違反は記録します。ただ、教授の説明どおり救助対象が実在する可能性も残っている」
「百八件を燃やしても?」
「だから確認するんです。善意なら規約を破ってよいとも、規約違反なら目的まで全て嘘だとも、いまは決めません」
鈴華が海へ鈴を向ける。
「声はありません。燃えた選片の持ち主が消えたわけではない。それだけは分かります」
「なら探せる」と言う。
「ええ。帳簿の空白は残っています」
ハヨンは隣で、オレの波形をずっと見ていた。
女の身体相、一本。
その周りを回っていた帰還の細い線だけがない。
「今夜が満月」とハヨン。
「知ってる」
「奪われた枝が本当に作動しないか、まだ観測できてない」
「戻れるかもしれない?」
「分からない。契約どおりなら戻れない。でも自然側の反応が、移譲を拒む可能性はゼロではない」
期待させない言い方を選んでいる。
それでも、胸の中へ小さい火がついた。
満月はまだ来ていない。
来るまでは、結果を決めなくていい。
*
その夜、天道宗道場の庭に全員がいた。
オレ、ハヨン、藍羽、おっさん。
先輩、蓮、鈴華。
ひなたまで、大きな水筒と八人ぶんの紙コップを持ってきた。
「私は普通担当だから、温かい飲み物」
「満月で身体が変わるの、怖くないのか?」
「文化祭の鏡で半分見たし、ハミンはハミンでしょ」
「驚くかもしれないぞ」
「その時は驚く」
簡単だ。
庭の中央、十三重円へ立つ。
初めて男へ戻った夜もここだった。
次の満月にはおっさんへ勝った。
それから五回、月は間違えずオレを元の身体へ戻した。
肩が広くなる。
手足が伸びる。
腰近くまで伸びた黒紫の髪を、女の時と同じ一本の三つ編みにした姿。
低い声。
一晩だけの、出生時から知っている身体。
「月の出、一分前」とハヨン。
計測器が庭を囲む。
「お兄ちゃん。苦しくなったら言って」
「前も平気だった」
「今日は違う」
「分かった」
ハヨンが聞いてから機械を動かす。
藍羽は円の外で拳を握っている。
先輩は棒を置いた。蓮は二つの時計を並べる。鈴華の鈴は鳴らない。ひなたが紙コップへ茶を注ぐ。
おっさんだけ、いつもと同じように腕を組んでいた。
東の屋根から、満月が昇る。
白い光が庭へ落ちる。
鼻歌が出た。
ん――。
倍音は返らない。
手を見る。
小さいまま。
一本の長い赤い三つ編みが肩へ触れる。
「十秒」とハヨン。
「いつもは?」
「天文学上の月の出から三・二秒で開始。七・八秒で完了」
「遅れてるだけかもしれない」
「二十秒」
肩を回す。
何も変わらない。
「一分」
月は高くなる。
身体は女の姿のまま。
影だけが動いた。
足元へ落ちたオレの影。
最初は今の小さい輪郭。
その横から、もう一つの影が立ち上がる。
背が高い。
肩が広い。
男の身体のオレ。
「影だけ……」
藍羽の声。
男の影が、月へ顔を上げる。
オレも同じように上げようとした。
影は合わせない。
一人で庭の外へ歩き出す。
床を離れ、壁を上り、空へ細く伸びる。
海のある方角。
星見島の方角へ。
「止められる?」
「触れない!」
ハヨンが測定光を当てる。光は影を通り抜ける。
藍羽が手を伸ばす。
先輩の棒が影の道を塞ぐ。
蓮が時計を開きかける。
「やめろ」
オレが言う。
「決闘の結果だ」
「でも!」
「いま止めたら、誰かの選片をまた燃やすかもしれない」
男の影が細い線になった。
空へ吸われる。
庭には、女の身体の影だけが残った。
月光は明るい。
身体は変わらない。
「五分」とハヨン。
もう数字に意味はなかった。
分かっていた。
契約全文を読んだ。
負けた。
それでも、ほんの少しだけ期待していた。
月なら、塔の文字を無視してくれるかもしれない。
オレの身体なら、帰り道を覚えているかもしれない。
戻らない。
「お兄ちゃん」
「分かってる」
「まだ月は――」
「分かってるって」
声が強くなった。
ハヨンが黙る。
誰も何も言わない。
いつもなら、男へ戻った瞬間に走った。
おっさんへ勝負を申し込んだ。
藍羽と歩幅を試した。
次の相手を考えた。
今夜は、何もしたくない。
決闘を思い出す。
赤い線。
百八の声。
教授の焼けた左腕。
胸が明るくならない。
「オレ、あの勝負を楽しいって言えない」
初めて口にした。
負けたからじゃない。
おっさんへ負けても、先輩へ殴られても、蓮の時間に倒されても楽しかった。
次があったから。
相手が、自分の技で立っていたから。
目黒教授との決闘には、他人の百八件が燃えていた。
オレの次の満月まで、勝敗の皿へ載っていた。
「楽しくなくていい」と藍羽。
隣へ座る。
「勝負を好きなハミンでも、全部の勝負を好きになる必要ない」
「逃げみたいだ」
「嫌なものを嫌って言うのが?」
「負けたあとだから」
「勝ってたら、百八件の選択が持ち主へ戻った。負けたらハミンが失った。どっちでも軽くない。笑えないのは普通よ」
「普通担当はひなただぞ」
「そこ?」
ひなたが反対側へ座った。
「普通は一人一個じゃないから、分けていいよ」
温かい茶を渡す。
「飲める?」
「それくらいできる」
「できるかじゃなくて、飲みたいか」
聞かれる。
「飲む」
自分で答え、受け取った。
熱い。
少し甘い。
身体が変わらなくても、腹の中は温かくなる。
おっさんが、円の向こうで言った。
「奪われた道を、なかったことにするでない」
「戻れないのに?」
「今宵、歩けぬだけじゃ」
「次も、その次もだ」
「ならば長い道じゃ」
「簡単に言うなよ」
「簡単とは言うておらぬ」
おっさんはそれ以上、答えを出さなかった。
勝つ方法も、取り返す場所も。
ただ、道が長くなったと言った。
*
ハヨンは縁側へ計測器を運び、画面を閉じた。
閉じたあと、すぐ別の画面を開く。
「何してる」
「相転換触媒の上書き式」
式が高速で組み上がる。
「帰還枝を使わず、薬理側から男体相を強制励起する。お母さんの原式へ、私の補助式と島の波形を――」
「ハヨン」
「成功率はまだ低い。でも、観測を増やせば。帰還枝がなくても身体の記録は残ってる。外部から男相を固定すれば、目黒教授の選片を経由しなくていい」
指が止まらない。
涙が眼鏡の下から落ち、画面へ当たる。
「私が最初に変えた。なら私が戻す」
端末を閉じる。
ハヨンの指が挟まりそうになり、手を添えて止めた。
「勝手に変えたのもおまえなら、勝手に戻すのも違う。今度は一緒に考えろ」
「でもお兄ちゃんが」
「戻りたい。すぐ戻れるなら戻りたい」
「だったら!」
「だからって、またオレ抜きで身体を決めるな」
ハヨンの肩が震える。
「私がやったせいで、お兄ちゃんの帰還枝ができた。私が薬を飲ませなければ、目黒教授に奪われるものもなかった」
「そうだな」
否定しない。
「おまえが悪くないとは言わない。最初の薬は、まだ全部許してない」
ハヨンが泣きながらうなずく。
「でも、目黒教授との決闘を選んだのはオレだ。負けたのもオレ。全部をおまえ一人の失敗へ戻すな」
「じゃあ、どうすればいい」
「聞け」
「何を」
「薬を作る前。機械を当てる前。オレが戻りたいって言った時も、戻りたくないって言った時も」
ハヨンは眼鏡を外した。
袖で涙を拭く。
「お兄ちゃん。帰還枝を使わない位相刺激の研究をしていい?」
「研究だけ。身体へ使うのは、式と危険を一緒に見てから」
「分かった」
「いま計測していい?」
聞き直す。
「月が沈むまで。痛くない範囲」
「分かった」
ハヨンは端末をもう一度開いた。
今度は、先にオレの腕へ触れなかった。
計測帯を差し出し、待った。
自分で受け取って巻く。
小さな違いだ。
でも、最初の夜にはなかった道だった。
*
先輩、蓮、鈴華は帰らなかった。
委員章を外してはいない。
目黒教授を敵だとも、委員会を辞めるとも言わない。
縁側の端で、三人の法宝と台帳を広げている。
「百八件の名簿は復元できます」と鈴華。「声は消えましたが、会計上の欠番が残っています」
「レベル3(原典級)契約も、僕の委員章に全文が残っています」と蓮。「同意自体は明確でした。ハミンが内容を理解したうえで、自分で選んだことは否定できません」
「じゃあ取り返せない?」
藍羽が聞く。
「違反は同意以外にあります。委員承認なし。担保の無断充当。安全同意書の範囲外利用。順番に証明します」
「証明したら?」
「監査で返却を要求できます。ただし、零頁の上位権限が本当にあるなら、規約だけでは足りません」
先輩が曲がった棒を床へ置いた。
「オレは、教授に助けられた」
また言う。
「あの人がいなければ、年々強くなる電気を抑えられず、誰かを傷つけてた。気の流れを整えてもらって、余った力を逃がすために雷綴をもらった。鈴華も眠れなかった。蓮も時計を持っていない」
「ええ」と鈴華。
「だから、あの人が全部悪かった、最初から騙してたって言えば楽だ。でも、たぶん違う」
「楽ではないでしょう」と蓮。
「言い方だ」
「分かっています」
先輩はオレを見る。
「助けてくれた人が、別のやつから奪うこともある。どっちかを消したら、今日の写真と同じになる」
「片方へ赤線」と言う。
「そうだ。だから両方残して調べる」
「教授を信じたまま?」
「信じたい気持ちは残る。命令を聞くかは別だ」
蓮もうなずいた。
「明日から、顧問決裁を自動承認しません。全て保留して原文を要求します」
「わたくしは、選片を一件も追加支出しません」と鈴華。
「レベル2の秘匿台帳も封じません。わたくしたち自身の使用分まで、対象者へ説明できる形に戻します」
「オレは、教授に言われてもハミンへ棒を向けない」
「それは前からだろ」
「初対面では向けた」
「負けたけどな」
「いま言うか?」
少しだけ、いつもの顔になる。
すぐ消えたが、なくならなかった。
「三人とも、オレのために委員会を捨てるなよ」
「捨てません」と蓮。「中にいなければ、記録へ届かない」
「わたくしたちは、まだ判断の途中です」と鈴華。
「オレは難しいことは二人に任せる」と先輩。
「先輩も考えてください」
「考えた上で任せる」
「それを考えていないと言うんです」
鈴華が小さく笑った。
敵か味方か。
正しいか間違いか。
三人は、どちらか一つへ急がなかった。
でも、今夜はオレの側にいた。
*
幕間・目黒教授
同じ満月が、星見島の旧観測所を照らしていた。
目黒教授は誰もいない観測室へ立っている。
左腕は肩から指先まで包帯に覆われ、赤い熱が布越しににじんでいた。
右手に、太い選片。
栞の中の満月へ、男の影が吸い込まれてくる。
黒紫の髪。
長い手足。
影は一度、外へ戻ろうと選片の内側を叩いた。
透明な表面へ細いひびが走る。
目黒教授は右手へ力を込めた。
「強い帰還だ」
包帯の下で、左腕の火傷がまた赤く光る。
「だから、あの日へ届く」
四十八枚の扉は暗いまま。
鏡の奥で、腰を越すまっすぐな黒髪の観測像が揺れた。
『返しなさい』
声は、ほとんど音にならなかった。
目黒教授は鏡を見ない。
「まだです、先生」
選片を月齢表へ差し込む。
満月の日付が、赤い線でつながった。
*
ハミン
月が西へ傾いても、オレの身体は変わらなかった。
誰も帰らない。
ひなたの茶は二回なくなり、おっさんが夜食の粥を作った。先輩は三杯食べ、蓮は一杯の途中で眠りかけ、鈴華は帳簿を枕にしそうになった。藍羽は何度も朝稽古を申し込もうとして、そのたび口を閉じた。
オレも勝負を申し込まなかった。
腹は減った。
粥は食べた。
笑えないからといって、息まで止める必要はない。
月が沈む直前、立ち上がる。
「どこ行くの?」
藍羽が聞く。
「庭を一周」
「走る?」
「歩く」
「私も」
ひなたも水筒を持ち、ハヨンは計測器を抱え、委員会三人まで立つ。
「一周だぞ」
「全員で歩けば遅れます」と蓮。
「急いでない」
言うと、蓮は予定表を閉じた。
八人で庭を歩く。
女の身体の歩幅。
男の影はもう出ない。
それでも足は、昨日と同じ場所にある。
一歩ずつ、自分で出せる。
道場の門を回り、井戸の横を通り、十三重円へ戻る。
一周した時、満月が屋根の向こうへ沈んだ。
夜が明ける。
月は最後まで明るかった。
今夜だけ、オレを思い出さなかった。
24話敗戦後エンディングテーマ
「HUMMING:再起」
https://youtu.be/74OL3BODhPw




