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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第四章「教授が月を盗む日」
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23/52

第23話「オレが賭けるもの」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

「レベル3(原典級)って何だ。レベル2の次、だけじゃ説明にならないぞ」


 最初に聞いたのは、勝てるかどうかじゃなかった。


 目黒教授が、ほんの少しだけ笑う。


「良い質問だ。公開されたレベル1の選闘より先に、そこを確かめるようになった」


「教授の授業を受けたからな」


「まだ特別授業は始めていないよ」


「勝手に始まった」


 足元の雲上闘技場への位相接続は、途中で止まっている。


 黒い水と白い床が半分ずつ。空には観測所の天井と青空が重なり、周囲の白い扉もまだ近い。


 時間は動いていた。


 藍羽の髪も、先輩の上着も揺れている。ハヨンは端末を操作し、蓮と鈴華は委員章の表示を同時に開いた。


 選闘は、まだ始まっていない。


「公開されているレベル1は、一度の軽微選択だけです。レベル2は、部活、立入、関係上の行動といった条件選択を最長一学期まで継続できます。一般生徒へは非公開で、委員会と教授だけが扱ってきました」と蓮。


「そしてレベル3(原典級)は、才能、所属、身体へ戻る周期のような固有選択――人生や運命の幹を変え得る契約です。存在と承認規約は知っていました。ですが、具体的な全能力も、教授が単独で使える起動経路も、僕たちは知らされていません」


「何でも願いが叶うのか?」


「いいえ。すでに対象へつながる枝を定義し、勝敗条件を先に固定する必要があります。心そのものなどの保護領域まで、無制限に書き換えられるわけではありません」


「承認したのか?」


「していません」


 蓮が目黒教授を見る。


「申請記録もありません。僕たちへ開示された規約では、レベル3の起動権限は学園の選塔にしかないはずです」


「ここは星見観測所だぞ」


「だから、成立するはずがない」


「正確には、学園の選塔とここは同じ原典へ接続している」と目黒教授。「星見島は古い地上端末だ。私は暫定管理者権限で、緊急観測を申請した」


「緊急観測に勝敗請求は付けられません」


「通常の規約ではね」


 教授が赤ペンを開く。


 空中へ二枚の長い頁が現れた。


 片方は青。


 片方は赤。


「全文を見せよう。レベル3(原典級)は、勝ったあとで請求を決めることができない」


 青い頁へ文字が並ぶ。


『ハミン勝利時――目黒総司の管理下にある全選片を、封鎖を含め正当所有者へ返却する』


『絶対運命補完委員会を解散し、現行の選択権移譲決闘を停止する』


『同一制度を、同一目的で再起動しない』


「全部返す?」


 鈴華の鈴が震えた。


 周囲の白い扉が一斉に透ける。


 中に並ぶ選片。


 その間にいる人影。


 制服を着ている。今の星環学園と、少し違う制服もある。立っているだけの影。顔は見えない。


 それでも声は聞こえた。


〈左へ行きたかった〉


 最初に選片倉庫で聞いた声だ。


〈休みたかった〉


〈言わないと決めたかった〉


〈退部したくなかった〉


 鈴華が両耳を押さえる。


「この方々は魂ではありません。選べなかった瞬間の影です。けれど、封鎖はまだ持ち主へ続いている」


「オレが勝てば戻る」


「条件文どおりなら」と蓮。


「負けたら?」


 赤い頁が開いた。


 ハヨンの呼吸が止まる。


『目黒総司勝利時――ハミンが毎満月、月の出から月の入りまで出生時の男の身体相へ帰還する周期未来枝一件を、期限なく目黒総司へ移譲する』


『対象分類――時間・循(作用参照――身体・還)』


『通称――帰還枝』


 読めない言葉はない。


 意味も分かる。


 毎月一度、男の身体へ戻れる夜。


 次だけじゃない。


 その先の満月も全部。


「お兄ちゃん」


 ハヨンの声が震えた。


「目黒教授が言っていた『戻る日を安定させる』と逆。これは安定じゃない。お兄ちゃんから所有権を切り離す」


「見れば分かる」


「分かるだけじゃ足りない。帰還枝は、身体相そのものじゃなくても、お兄ちゃんが元の身体へ戻る唯一の周期。失ったら、次の満月でも戻れない」


「教授が自分で使うのか?」


 目黒教授へ聞く。


「私が男の身体になるわけではない。帰還という太い周期を、別の固定先へ用いる」


「どこへ」


「勝った時に話そう」


「そこは条件に書かないのか」


「君から奪う内容は全て書いた。使途は私の選択だ」


 正直だ。


 隠しているが、言葉でだましてはいない。


 だから余計に嫌だった。


 赤い頁の下へ、さらに小さな文字が出た。


『均衡補填――顧問管理領域・小選択一〇八件』


「百八?」


 蓮が委員章を近づける。


「そんな担保枠は委員会台帳にない」


「倉庫外の保留残響を含む」と目黒教授。


「持ち主の承認は?」


「保管規約に従い、管理者判断で用いる」


「返却に使うことはあっても、第三者の請求へ担保充当する規約はありません」


「零頁の暫定条項が上位にある」


「僕たちは、その零頁を見せられていない」


「だから、いま全文を見せている」


 教授と蓮の声は、どちらも静かだった。


 静かなまま、間にあるものだけが大きくなる。


「釣り合ってないのか?」と聞く。


 ハヨンが答える。


「お兄ちゃんの帰還枝は、五回以上反復して本人が自覚した固有周期。百八件を燃料にしても、目黒教授の負担が大きい。普通なら一対一の決闘へ載せない」


「教授も怪我する?」


「校正側へ反動が返るはず」


「私も無傷では済まない」と目黒教授。


「それでも欲しい?」


「必要だ」


 迷いがない。


 先輩がオレと教授の間へ入った。


「ハミン。受けるな」


「先輩が言うのか?」


「決闘なら何でも受けるおまえへ、オレが言う。これは勝負の顔をした収穫だ」


「なら、君が代わるかい、西能寺くん」


 目黒教授が聞く。


 先輩は棒を握る。


「代われるなら」


「条件にならない。君は帰還枝を持っていない」


「だったら、条件を変えろ。オレの雷綴でも、委員章でも賭ける」


「それでは足りない」


「百八件を他人から出すよりましだ!」


 先輩の声が黒い水へ響く。


 目黒教授は怒らなかった。


「君の法宝(ファーバオ)は私が与えた。返してもらうために決闘は要らないよ」


 先輩の手が止まる。


 藍羽がオレの肩をつかんだ。


「ハミン。勝ちたいのは分かる。でも、受けなくていい」


「怖いと思ってる?」


「思ってる。あんたが怖がらないぶんまで、私が怖い」


 まっすぐ言われた。


 女の身体になってから、負けることは何度もあった。


 おっさんへ。蓮へ一度。幻の中で鈴華へ何度も。勝てないかもしれないと思う相手ほど、胸が明るくなった。


 でも、今回は負けたあとが違う。


 次がなくなる。


「勝率を出した」とハヨン。


 端末へ数字。


「現時点、〇・八パーセント以下。欄外校正の上限と速度が未知だから、さらに下がる可能性がある」


「ゼロじゃない」


「お兄ちゃん!」


「分かってる。いつもの言い方をしただけだ」


 ハヨンが端末を下ろす。


「私に止める権利はない。前なら機械を壊してでも止めた。でも、それは違う」


 言葉を一つずつ選ぶ。


「だから全部言う。私は受けてほしくない。勝てるデータがない。帰還枝を失えば、薬だけでは戻せない。私がまた勝手に薬を作っても、直せない」


「作るなよ」


「作らない。お兄ちゃんが選ぶまで」


 蓮は契約文を写し終えた。


「レベル3(原典級)の承認手順に不備があります。僕は進行担当として成立を認められません」


「塔は認める」と目黒教授。


「塔が認めても、僕は認めない」


 初めて、蓮が規則より先に自分を主語にした。


「ハミン。拒否してください。戻って監査します。時間はかかっても、別の返却方法を探します」


 鈴華が鈴を胸へ押し当てる。


「わたくしにも、受けてほしくありません」


「選片の声があるのに?」


「あるからです。こちらの方々は選べなかった。それを返すために、今度はハミンさんが選べなくなるのでは同じです」


「オレは、いま選べる」


「選べることと、選ぶべきことは別です」


「分かってる」


 全員の言葉を聞いた。


 目黒教授へ向く。


「断ったら、どうなる」


「今夜は全員、研修館へ帰れる。私は君へ強制起動を使わない」


「選片は?」


「保管を続ける。今日のような残響が出ないよう、必要な分は校正する」


「また燃やす?」


「必要なら」


「ほかの生徒と決闘して増やす?」


「制度を止めない限り、選闘は続く」


 断れば、今は安全だ。


 次の満月、オレは男へ戻れる。


 おっさんへまた挑める。家の身体で走れる。月が沈めば女へ戻り、学校へ来て、藍羽と戦い、ひなたと飯を食う。


 そのあいだ、白い扉の影は立ったままだ。


 左へ行きたかった声は、次の角でも足を止められる。


 目黒教授は別の小さな選択を集める。


 オレが全部を背負う必要はない。


 父さんなら、代わりに選ぶなと紙に書く。


 母さんなら、観測を増やせと言う。


 おっさんなら、選んだ足で立てと言う。


 誰の答えも、ここにはない。


「教授」


「何だい」


「オレが勝ったら、本当に全員へ返す。委員会も解く。言い換えなしだな」


「契約文どおりに」


「負けたら、オレの満月は全部教授へ行く。次の一回だけじゃない」


「そのとおり」


「百八件を燃やす。持ち主へ聞いてない」


「そうだ」


「教授も傷つく」


「避けられない」


「全部分かった」


 藍羽の手が、肩へ強くなる。


「ハミン」


「聞いた。みんなの言ったことも」


 手の上へ自分の手を重ねる。


「怖くないわけじゃない」


 口にすると、やっと分かった。


 オレは怖い。


 戻れなくなる夜が。


 勝負のあと、次がないことが。


「それでも、オレの枝を賭けて、あいつらの枝を返せるならやる」


「誰も頼んでない!」


「分かってる。頼まれたからじゃない。オレが、あのまま立たせておくのが嫌なんだ」


「負けたら?」


「悔しがる」


「それだけ?」


「それから、取り返す方法を探す」


 藍羽は怒っていた。


 泣きそうでもあった。


 それでも手を離した。


「勝って」


「おう」


 先輩が拳を出す。


「オレが代われないなら、戻ってこい。勝っても負けても」


「負ける前提を入れるな」


「条件全文を言っただけだ」


 拳を合わせる。


 蓮は認めないと言ったまま、契約記録をオレの腕輪へ送った。


「あとで、読んでいなかったとは言わせません」


「読んだ」


「三回保存しました」


 鈴華は鈴を一度鳴らした。


「これは進行音ではありません。わたくし個人の、帰ってきてほしいという音です」


「聞こえた」


 ハヨンが最後に端末を下ろす。


「お兄ちゃん」


「なんだ」


「計測していい?」


 前なら、もう始めていた。


「外からできる範囲だけ。危なかったら機械を守るな」


「分かった」


 目黒教授が赤い環へ入る。


 オレも青い環へ入った。


 契約全文がもう一度、空へ開く。


 一字も変わっていない。


「ハミンくん。君は選ぶか」


「選ぶ」


「私も選ぶ」


 遠くで鐘が鳴った。


 一音だけ、後ろ向きに吸い込まれる。


 風が止まる。


 藍羽の髪が、肩から浮いた形で固まった。先輩の拳も、蓮の頁も、鈴華の飾り紐も、ハヨンの画面を走る波形も止まる。


 色が薄くなる。


 仲間の姿が白い影へ変わり、輪郭ごと消える。


 声も、そこにいた痕跡も消える。


 動くのは、オレと目黒教授だけ。


 床下から一定の低音。


 廊下も洞窟も観測所も、一度だけあり得ない角度へ折れる。


 次の一歩で、二人は雲上闘技場へ立っていた。


 十二歩。


 直径百二十メートルの、平らで円い白床。


 二千五百メートル級の高さを思わせる雲海が下にある。呼吸は観測所と同じで、空気は薄くない。外縁の入口扉だけが暗い膜に閉ざされて残っていた。


 空には太陽と、まだ満ち切らない月が同時にある。


『レベル3(原典級)・選択権移譲決闘』


 観測像と同じ、キャリーを写した声が空から告げた。


『双方の条件、全文確認。均衡は管理担保により補完されています』


『制限時間、十三分。対価を数え、始めます』


 目黒教授が赤ペンを抜く。


 黒い短杖へ伸びる。


「先ほどの質問に答えよう。これは、アトランティス製校正魔械(こうせいまかい)《エラッタ》」


 短杖の表面を、赤い校正記号が一度だけ走る。


「魔械文書へ校正命令を通す端末だ。必要に応じて筆記形と短杖形を切り替える。崑崙の法宝ではない」


「授業を始めよう、ハミンくん」


「教授に勝ったら、成績上がる?」


「科目によるね」


「じゃあ格闘」


「私は厳しいよ」


『始め』


 踏む。


 正面へ最短。


 拳を出す前に、左へ回る考えを置く。右の蹴りを本命にする。


 三つの道。


 床へ三人のオレの影が出た。


 正面の拳。


 左の回転。


 右の蹴り。


 短杖が一度動く。


 三人へ線。


 正面の腕から力が抜けた。


 左足が床をつかめない。


 右の腰が回らない。


「全部かよ!」


「全部、君が本気で考えた」


 短杖が胸の中心へ来る。


 避ける。


 上体を反らす選択へ赤線。


 腕で払う選択へ二本目。


 下へ潜る選択へ三本目。


 三つとも消える。


 残ったのは後ろへ下がる道だけ。


 そこへ教授の足がある。


 踵を払われ、床へ落ちた。


 受け身は取れる。


 転がり、立つ。


「候補を三つ消せる」


「よく数えた」


 雲の中で、三枚の選片が燃えていた。


「一つに一枚」


「そのとおり」


 教授は追ってこない。


 おっさんみたいに、立つだけで圧があるわけじゃない。


 先輩みたいに、棒の間合いで床を埋めるわけでもない。


 なのに、踏み込む場所がない。


 自分で考えた瞬間、その場所がなくなる。


「四つなら?」


 右拳。


 左掌。


 足払い。


 紅燕歩で背後。


 影が四人。


 赤線は三本。


 残った足払いを出す。


 目黒教授は普通に下がった。


 短杖が足首へ触れ、軌道を外す。


 転びかけた頭へ、杖の端。


 首をひねって避ける。


 肩へ当たった。


 骨までしびれる。


「校正がなくても強いな」


「キャリー先生は、弟子へ理論だけ教える人ではなかった」


 杖が縦に落ちる。


 受ける場所を考えない。


 反射で腕を上げる。


 赤線が遅れた。


 前腕で杖を受け、外へ流す。


「反射は読みづらい?」


「選択になる前だからね」


 いける。


 思った瞬間、反射ではなくなる。


 肘で入る道へ赤線。


 肩で押す道へ赤線。


 離れる道へ赤線。


 目黒教授の膝が腹へ入った。


 息が抜ける。


 身体が浮き、白い床を転がった。


「考えるな、は無理だぞ」


「人は、選ばずに動けない」


「なら、考えるより速く選ぶ」


 鼻歌を鳴らす。


 ん――。


 床下の低音へ、自分の呼吸を重ねる。


 蓮の時計と戦ったあと、ハヨンがこの聞き方を勝手に聴脈(ちょうみゃく)と名づけた。音を聞くんじゃない。音へ混じる時間と気の脈を拾う。


 目黒教授の呼吸。


 短杖が空気を押す音。


 赤線の先で、紙が焼ける音。


 校正の直前だけ、半拍の空白がある。


「そこだ」


 紅燕歩。


 右へ回る。


 赤線。


 止まる前に左へ返す。


 また赤線。


 正面へ踏む。


 三本目。


 そこで一度、全部の力を抜いた。


 転びそうになる。


 転ばないよう出た足は、考えた候補じゃない。


 教授の内側へ半歩入った。


「近い」


 拳。


 目黒教授は短杖だけで受けた。


 硬い音。


 指がしびれる。


 続く蹴りは考えたので消された。


 杖の石突が脇腹へ刺さる。


 床へ膝をつく。


「一度は入った」


「そうだね」


「教授、嬉しそうだな」


「教えた以上に進む生徒は好きだよ」


「奪おうとしてるくせに」


「それとこれは両立する」


 立つ。


 聴脈を続ける。


 一分。


 三分。


 何度入っても、三本の赤線で最善の道が消える。四つ目を残しても、教授の短杖が待つ。五つ、六つと思い描けば、それだけ決断が遅れる。


 肩。


 腿。


 脇腹。


 致命傷ではない場所へ、正確に打たれる。


 教授はオレを壊そうとしていない。


 勝てないと教えようとしている。


 それが腹立つ。


「まだ笑えるかい」


「勝負中だぞ」


「そうだったね」


「教授こそ、余裕なくしてやる」


 鼻歌を強くする。


 呼吸が苦しい。


 女の身体は肺が小さい。長く気を使えば先に酸素が切れる。分かっていても、聴脈をやめれば半拍まで失う。


 十二通りを一度に考えた。


 拳。


 掌。


 肘。


 膝。


 足払い。


 回し蹴り。


 紅燕歩、右。


 紅燕歩、左。


 正面。


 後退。


 跳ぶ。


 伏せる。


 十二人の影が床へ並ぶ。


「多いね」


「教授が読める限界、これくらいだろ」


 サングラスの奥で目が細くなる。


「なぜそう思う?」


「さっきから、十二人より増えた影は薄い。教授が見てない」


「正解だ」


 赤線は三本。


 十二のうち、教授に届く三つが消える。


 残り九つ。


 その全部を出すには、身体が九つ必要だ。


 オレは一人しかいない。


 選んだ瞬間、その影へ赤線が来る。


「見えることと、動けることは別だ」


「やってみなきゃ分からない!」


 紅燕歩、左。


 消える。


 拳へ変更。


 消える。


 足払い。


 消える。


 残った勢いで、頭から入る。


 短杖が肩へ当たる。


 弾かれる。


 床へ手をつき、倒れる方向へ回る。


 目黒教授が追う。


 校正線を引く音。


 鼻歌が一瞬、裏返った。


 痛みで息がずれただけだ。


 自分でも、次の拍を選んでいなかった。


 教授の赤線が空を切る。


 初めて、何も消えない。


 身体が勝手に小さく回った。


 狭い肩幅。


 軽い手足。


 女の身体で覚えた半歩。


 教授の短杖の内側へ入る。


 拳は間に合わない。


 伸ばした指が、頬へ触れた。


 サングラスの端にひびが入る。


 細い一本。


 有効打にもならない。


 それでも届いた。


「触った!」


 目黒教授が目を見開く。


 喜んでいない。


 驚きのあと、何かを確信した顔。


「その揺らぎだ」


「何が?」


「零頁が君を選んだ理由」


 短杖を左手へ持ち替える。


「もう充分だ。鍵は観測できた」


「授業を勝手に終わらせるな」


「では、試験へ進もう」


 目黒教授が短杖で空へ大きな四角を描いた。


 雲上闘技場の端に、四十八枚の暗い扉が現れる。


 その前へ、十二人のオレが並んだ。


 影じゃない。


 一本の長い赤い三つ編み。


 同じ緋天衣。赤いチャイナ風の上着と黒いズボン。


 違う構え。


 それぞれが、次にオレが選べた十二通りだ。


「校正領域、十二候補」


 教授の左腕へ赤い文字が走る。


「読めるのは十二。閉じられるのは、一度に三つまで」


 最初のオレへ赤線。


 拳が消える。


 二人目。


 紅燕歩が消える。


 三人目。


 聴脈が消える。


 四人目へ線が移ると、最初の拳は戻りかけた。


 だが腕へ力が戻るより先に、教授の短杖が肩を打つ。拳が遅れる。その一拍で、次の三候補が閉じる。


 一人ずつ、影が白紙へ戻る。


 消えた動きは順に戻る。けれど、戻った時には使うべき間合いが過ぎている。全部を一度に奪われているわけじゃない。毎拍、必要な三つだけがない。


 四人。


 五人。


 六人。


 立っている道が少なくなる。


 七人。


 八人。


 九人。


 膝が震える。


 十人。


 十一人。


 最後の一人は、何も構えていなかった。


 ただ立つオレ。


 短杖の先が、その胸へ触れる。


 一本の線。


 最後のオレが消えた。


 白い床へ、膝がついた。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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