第20話「星見島の選ばれなかった道」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
朝食の焼き魚が、二匹に増えた。
「ひなた。オレ、二つ取ったか?」
「取ってないよ」
研修館の食堂。長机へ置かれた皿の上で、焼き魚が頭から尾まできれいに二匹重なっている。
一匹は焦げ目が薄い。
もう一匹は、腹の側へ大根おろしが載っていた。
「どっちか、隣の皿じゃない?」
藍羽が左右を見る。
隣は先輩だ。魚はある。反対側の蓮にもある。
「当たりだな」
「何の?」
「朝から得した」
箸を伸ばす。
焦げ目の薄い魚へ触れた瞬間、そちらだけ湯気へほどけた。
皿には一匹。
箸の先には何もない。
「……逃げた」
「魚は逃げてません」と蓮。
すぐ横で予定表を見ていた蓮は、皿より腕時計を先に確認した。
「午前七時十二分、残響らしき重複。食堂内。継続二秒」
「味見すれば残響か分かったのに」
「消えた物をどうやって食べるんです」
「先に食う」
鈴華が自分の味噌汁へ蓋を戻した。
「昨夜から、同様の報告が十一件あります。開けなかった菓子袋、選ばなかった浴衣の柄、就寝前に送らなかった文面など」
「送らなかった文面?」
「高等部の生徒が、端末に入力して消した告白です」
先輩が身を乗り出す。
「相手は?」
「個人情報です」
「成就率は?」
「会計の管轄外です」
「鈴華にも管轄外があるんだな」
「京一の恋愛収支は最初から範囲外です」
藍羽が笑い、ひなたが焼き魚をひっくり返す。
「今日の道、ちゃんと一つかな」
「ハミンが来る前、道が一本かなんて確かめたことなかったんだけど」
「二本あったら、その時考えればいい」
「そういう返事が普通に返ってくるのも、おかしいよね」
普通の調子で言ったひなたの一言が、妙に残った。
*
オリエンテーリングの地図には、山を一周する青い道が一本だけ描かれていた。
港を出て松林へ入り、三つの観測地点で札を押し、旧観測所の下を通って海岸へ戻る。制限時間は三時間。速さではなく、班全員で記録をそろえる研修だ。
「走るのは禁止です」と蓮。
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあります」
「オレの顔を読むな」
「お兄ちゃんの考えることは三択」とハヨン。「走る、戦う、食べる」
「四つ目もある」
「何?」
「勝つ」
「走るか戦うに含まれる」
ひなたが班札を配りながら吹き出した。
オレたちの班は、オレ、藍羽、ひなた、ハヨン、委員会の三人。人数が多いのは、安全補助と異常計測を兼ねて最後尾を進むからだ。
目黒教授は出発地点の机で全班へ声をかけていた。
「標識を見失ったら、その場から動かないこと。地図にない道は使わないこと。何か二つに見えた場合も、自分だけで判断しないこと」
「二つに見える前提なんだな」
「昨夜の報告を受けての注意だよ。君たちなら、違いに気づけるだろう」
目黒教授は笑って、オレの班札を指で弾いた。
「特にハミンくん。面白そうな道ほど、一度立ち止まりたまえ」
「立ち止まったあとなら行っていい?」
「相談してからにしなさい」
「止めても行く顔ね」と藍羽。
「顔を読むやつが増えた」
出発の笛が鳴る。
最初の三十分は普通だった。
松の匂い。落ち葉。海から吹き上がる風。ひなたが植物名を記録し、ハヨンが地磁気を測り、鈴華が班の水筒を一本ずつ数える。
先輩は先頭で枝を払い、蓮は予定より三分遅いと二度言った。
「三分なら誤差だろ」
「全十二班で三分ずつ遅れれば、最後は三十六分です」
「同時に遅れるから三分だ」とハヨン。
蓮が黙る。
「今のはハヨンが正しい」
「分かっています」
「顔が悔しそう」
「顔を読まないでください」
一つ目の観測地点で、青い札を地図へ押した。
道はそこで二つになった。
分かれ道ではない。
地図の上だ。
さっきまで一本だった青線が、目を離したあいだに左右へ分かれている。右は予定どおり尾根を通る。左は地図の白い場所へ伸び、海岸まで近道していた。
「印刷不良?」ひなたが首をかしげる。
「インクがいま動いた」
ハヨンが端末で撮る。
画面には一本しか映らない。
もう一度地図を見ると、二本。
「選択残響です」と鈴華。
鈴を袖から出す。鳴らす前に、左の道の奥から声がした。
『こっちのほうが早いぞ』
オレの声だ。
少し低い。
満月の男の身体で出る声に似ていた。
「お兄ちゃん?」
「言ってない」
藍羽は左の林を見た。
「私には、私の声で聞こえた。こっちなら全国大会に間に合ったって」
先輩の眉が寄る。
「オレは、先に一人で行けって言われた」
「僕には予定どおりです」と蓮。
「本当に?」
「……予定を変えれば事故が起こる、と」
鈴華の鈴が小さく震えた。
「皆さん、ご自身が聞きたくない言葉ほど強く聞こえます。返事はなさらないで」
「鈴華は?」
「帳簿へない声は数えるな、と」
声は静かだったが、鈴を握る指が白い。
ひなただけは耳を澄ませ、首を振った。
「私は何も聞こえない」
「それが普通」とハヨン。
「普通担当でよかった」
ひなたは笑ったあと、地図へ鉛筆を置いた。
「でも道は二本見えるよ」
蓮が公式の青線を指す。
「右へ進みます。規定経路です。左は残響として立入禁止標を」
鈴華が赤い立入札を出した。
その上から、オレは一本に編んだ赤い三つ編みの先につけていた予備の紐を外した。
左の枝へ結ぶ。
「何をしているんです」
「右を選ぶ。左は消さない」
「後続班が誤認します」
「だから印を分ける。赤い紐は、通れるけど今日は選ばなかった道。立入札は入口へ置く」
「通れる保証がありません」
「ない。通れない保証もない」
蓮は反論しようとした。
昨日の同意書を思い出したのか、言葉を止める。
「記録だけなら」と鈴華が言った。「進入しない限り、規則違反ではありません」
「残す意味は?」
「分からない」
「分からないから?」と藍羽。
「選ばなかったのと、なかったことにするのは違うだろ」
地図の左線は、聞いていたように一度だけ揺れた。
オレたちは右へ進んだ。
*
二つ目の観測地点までに、道は五回増えた。
岩の左右へ同じ階段。上りと下りのどちらからも頂上が見える坂。歩く前の足跡が続く獣道。
そのたび蓮が公式経路を確認し、ハヨンが増えた線を記録し、オレが選ばなかった入口へ赤い紐を残した。
「髪、ほどけない?」
ひなたが聞く。
「全部使ったらな」
「私の予備も使って」
鞄から赤い毛糸を一玉出した。
「何で持ってる?」
「班の札が切れた時用」
「普通担当、強いな」
不思議な道より、準備のいいひなたのほうが頼もしい。
二つ目の札を押した時、蓮の無線が鳴った。
『こちら四班。道を見失いました』
後続の中等部一年班だ。声の後ろで、誰かが泣いている。
「現在地を」と蓮。
『第二地点の手前です。青い標識を右へ行ったら、道が消えて――一人、足をひねりました』
地図では一本道だ。
オレたちが通った時も、右が公式だった。
「戻るぞ」
「待ってください。全員で戻れば、こちらの班も予定外になります」
「怪我人がいる」
「救助班を分けます。西能寺先輩、僕、閑崎先輩。残りは如月さんの指示で第二地点に待機を」
「私も行く」と藍羽。
「気配を探せる」と言う。
ハヨンが地図を二枚重ねた。
「公式経路が消えたなら、同じ道を戻っても着かない可能性が高い。昨日の地磁気記録と現在値を比較する」
ひなたは救急鞄を持ち上げる。
「怪我を見られる人も必要」
結局、全員が戻る理由を持っていた。
蓮は予定表を見た。
紙を閉じる。
「班行動を維持して救助へ向かいます。帰着遅延は僕が報告します」
「最初からそう言え」
「順番が必要なんです」
「分かってる」
今度は走った。
公式の右道へ戻る。
途中で途切れていた。
崖があるわけでも、木が倒れたわけでもない。道だった場所へ松が何十年も立っている。昨日からそこに道などなかった顔だ。
無線の声は近い。
姿は見えない。
鈴華が鈴を鳴らす。
「四班の皆さん。聞こえますか」
『聞こえ――ます』
言葉が頭の内側へ直接届いた。弱い。波のように遠くなったり近くなったりする。
「全員、その場へ座ってください。立っている方は、隣の方の肩へ触れて」
鈴華の顔から血の気が引く。
選ばれなかった声が多すぎるらしい。鈴を通すたび、四班の恐怖と一緒に、別の道にいる何十人もの声まで流れ込んでくる。
「長く使うな」と先輩。
「位置を取るまでです」
ハヨンが鈴の反応方向と地磁気を重ねる。
「公式道の西、直線百十四メートル。でも間に地図上の空白」
「左の道だ」
最初に赤い紐を結んだ場所へ戻る。
入口には立入札。
その奥で、ひなたの毛糸が風に揺れていた。
道は残っている。
「選ばなかったほうが救助路になるなんて」と藍羽。
「道は、オレたちが使わなくても道だ」
入る。
蓮も止めなかった。
赤い毛糸を追うと、林の向こうへ四班がいた。公式道とそっくりの青い標識が地面へ落ち、その先だけ輪のように同じ景色を繰り返している。
中等部一年の六人。男子一人が足首を押さえ、他の五人が囲んでいた。
「もう大丈夫」
ひなたが最初にしゃがむ。腫れを確認し、靴紐を緩め、冷却材を当てる。手が迷わない。
先輩が倒れた標識を持ち上げる。
「これを道へ戻せば出られるか?」
「待って」とハヨン。「輪の節点になってる。向きを変えると全員の位置がずれる」
「じゃあどうする」
「同じ景色の切替は十一秒周期。時任さん、測って」
蓮が懐中時計を開く。
能力は使わない。普通の秒針で、木の影が元へ戻る間隔を測る。
「十・九、十一・一、十一・〇。ほぼ十一秒」
「次の切替直前に全員、赤い道へ移る。閑崎さんは離れた子へ合図。藍羽さんは気配の境界を探して」
「先輩は怪我人を背負え」
「ハミンさんが決めるんですか」と鈴華。
「現場担当だ」
先輩が笑って、男子の前へ背を向けた。
「乗れ」
「でも先輩も荷物が」
「荷物より軽い」
「比較がおかしくない?」とひなた。
藍羽が輪の端へ立つ。目を閉じ、足裏で地面の気を読む。
「ここ。赤い毛糸の手前だけ、風が外へ流れてる」
「十秒前」と蓮。
全員が一列になる。
鈴華の鈴が、頭の中へ一音を置く。
『三、二、一』
景色が薄くなる。
「行け!」
オレが先に境界を踏む。
紅燕歩で振り返り、次の手を取る。藍羽が一年生を送り、ひなたが足元を見て、先輩が怪我人を背負って最後に走る。
蓮は切替の瞬間まで残った。
「蓮!」
青い標識が起き上がりかける。
手を伸ばす。
蓮が予定表を投げた。
紙をつかんだオレの手へ、その手が重なる。
引く。
二人で赤い毛糸の外へ転がった。
背後で道が閉じる。
松林には、最初から一本の道しかなかった。
*
救助は成功した。
四班の男子は軽い捻挫。帰着は四十二分遅れ。蓮は報告書を三枚書くことになったが、顔は予定どおり進んだ時より明るかった。
「赤い印を残したことは、規定外でした」と蓮が言う。
「怒るのか?」
「いいえ。規定へ追記します。分岐が重複した場合、選ばなかった経路も識別保存する」
「最初からそうしろ」
「最初は、あなたの思いつきでしょう」
「使えたなら規則にしていい」
蓮は小さくうなずいた。
選ばなかった道は、間違いとは限らない。
今日通らなくても、誰かを帰す道になるかもしれない。
救助された四班を先に研修館へ送り、オレたちは遅い昼飯を取った。
予定では海岸の休憩所を使うはずだったが、増えた道を抜けた先は名もない草地だった。松の間から海が見え、地面へ座ると波の音が足の裏まで来る。
「十二時三十分の昼食が、十四時七分」と蓮。
「腹は時刻を読まないぞ」
「胃には周期があります」
「なら急いで食え」
朝のおにぎりの残りを渡す。
蓮は包装を外したことを確かめてから受け取った。
「学習しましたね」
「オレが?」
「僕がです」
先輩が笑い、自分の弁当から卵焼きを一つ奪った。
「救助成功の取り分」
「先輩は僕の指示を二度無視しました」
「三度だ。最後の一回を見落とすな」
「報告書へ追記します」
鈴華は水筒の蓋へ温かい茶を注ぎ、鈴を握った手へ当てていた。指先の白さは戻ったが、目の下に薄い影がある。
「鈴華、大丈夫か」
「はい。四班の皆さんの声は離れました」
「ほかの声は?」
聞くと、鈴華は草地の向こうを見る。
「まだ、道ごとに残っています」
『あの時、右を選べばよかった』
『戻れば間に合う』
『一人なら先へ行ける』
オレには聞こえない。だが鈴華の鈴が、それぞれ違う方向へ引かれるように小さく動く。
「全部聞こうとするなよ」
「会計の仕事ですから」
「今日は研修だろ」
「残響は予算表を待ってくれません」
「なら、せめて飯を食ってから聞け」
魚の唐揚げを差し出す。
「これは口へ入れないのですか」
「蓮で学習した」
「お兄ちゃんが?」とハヨン。
「そこ驚くな」
鈴華は少し笑い、唐揚げを受け取った。
藍羽は隣で、救助に使った赤い毛糸を巻き直している。土と葉が絡んだ部分も捨てず、一本の玉へ戻していた。
「汚れたところ、切らないのか?」
「次に道を探す時、この色のほうが見つけやすいかもしれない」
「私もそう思う」とひなた。
「最初から考えてた?」
「あとから思った」
ひなたはあっさり言った。
「準備って、使ってから意味が増えることもあるでしょ」
蓮がその言葉を予定表の端へ書く。
「何て書いた?」
「規定外物品の事後有効性」
「ひなたの言葉が固くなった」
「時任先輩語だね」とひなた。
「僕の言語を勝手に分類しないでください」
笑いながら食べる。
道はまだおかしい。写真には映らず、自分の声で誘ってくる。
それでも七人で同じ草地へ座ると、怖さの輪郭が見えた。
一人なら自分の声を信じるしかない。
違う声が隣にあれば、立ち止まって比べられる。
そのあと、海岸の第三地点へ着いた。
干潮で岩場にいくつもの潮だまりができている。覗くと、小魚と空が同じ水の中にいた。
ハヨンが測定器を近づける。
水面が鏡みたいに平らになった。
『観測所の下に、私の――訂正。原型が残した扉がある』
女の声。
長い黒髪が、水の底へ広がる。
「キャリーの観測像!」
文化祭の鏡で見た女だ。
『零頁は、帰る数を――』
波が岩を越えた。
像が砕ける。
「いまの、全員聞いた?」
藍羽がうなずく。鈴華は鈴を押さえ、ハヨンは録音波形を確認した。
「観測所の下に扉」と先輩。
「言い直して、原型が残した扉と言った」とハヨン。
少し離れた岩場に、目黒教授が立っていた。
救助報告を受け、迎えに来たらしい。
「教授も聞いたよな?」
「波の音なら」
「女の声だ」
「私には、波が岩穴を抜けただけに聞こえたよ」
目黒教授は潮だまりを見る。
水面には、もうオレたちの顔しかない。
「長い一日だった。研修館へ戻ろう。怪我人を先に診てもらわないと」
正しい言葉だ。
ハヨンが目黒教授を見た。
何も言わず、録音を三つの場所へ保存した。
*
研修館へ戻ると、ひなたが班写真を撮ろうと言った。
「今日、全員ちゃんと帰ってきた記念」
海を背に、七人で並ぶ。
先輩が棒を持ち、蓮が予定表を持ち、鈴華が鈴を袖へ隠し切れず、藍羽とオレは補助員の腕章。ハヨンは画面を見たまま、ひなたが無理やり中央へ引いた。
「目黒教授も」
ひなたが呼ぶ。
「私は引率だよ」
「引率も一緒に帰ってきた人です」
朝、ハヨンへ言ったのと同じだ。
目黒教授は笑い、列の端へ入った。
宿の人が撮影ボタンを押す。
白い光。
画面を確認する。
八人いた。
オレたち七人と、目黒教授。
その後ろ、旧観測所の丸い窓にも目黒教授が立っている。
同じ紫のスーツ。同じサングラス。
窓の中の教授は、赤いペンをこちらへ向けていた。
「撮影時刻は?」と蓮。
「午後四時四十四分」とひなた。
「教授はここにいた」
先輩が端の本人を見る。
目黒教授は画面を覗き込み、困ったように眉を上げた。
「残響写真かな。期待した像が重なることはある」
その言葉が終わる前に、写真の中で赤いペンが動いた。
窓の目黒教授へ一本の線を引く。
赤線の下から、もう一人が消えた。
画像には七人と目黒教授。
最初から、それだけだったように。
ただ欄外に、赤い文字が一つ残っていた。
『片方を選択』
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




