第18話「鏡の女は本を閉じろと言う」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
文化祭が終わると、学校は急に小さくなった。
空より広い舞台も、世界の継ぎ目も消えたわけじゃない。
模擬店の看板を外し、机を教室へ戻し、壁に残ったテープを指で丸めていると、学校は学校くらいの大きさにしか見えなくなる。
「ハミン、その机は持たないで」
「片手で持てる」
「持てるかじゃなくて、持っていいかの話」
ひなたに言われ、持ち上げた机を戻した。
肩はもう縫い直してある。
昨日の決闘から戻ったあと、保健室の先生と藍羽とハヨンに三方向から怒られた。おっさんには傷の上から指一本で額を押され、そのまま板間の端まで滑らされた。
勝負は引き分け。
説教は全敗だった。
「じゃあ何をやればいい」
「テープを取る。紙を集める。口を動かさず手を動かす」
「最後だけ難しい」
「知ってる」
教室の前では、先輩が机を三つ重ねて運んでいた。
「ハミン! オレの半分を持つか!」
「水守さんの指示を聞いてください」
蓮がその後ろから椅子を運ぶ。
「西能寺先輩は机一つ。傷のある二人で競争しない。時任先輩は椅子四脚まで」
ひなたが指示するたび、委員会の戦闘係と進行係が素直に数を減らした。
「わたくしは?」
鈴華は黒い和装の袖をたすきで上げ、段ボール箱を持っている。
「閑崎先輩は領収書の確認をお願いします。捨てていい箱と駄目な箱が分からないので」
「適切な配分ですわ」
「私は?」
ハヨンが聞いた。
「何も爆発させない」
「作業ではない」
「一番大事な作業」
ハヨンは不満そうに、手の中の小型溶接機をしまった。
敵だった委員会が、うちのクラスの机を運んでいる。
クラスのやつらも、もういちいち驚かない。先輩へ重いものを渡し、蓮へ終了時刻を聞き、鈴華へ余った紙皿を売れるか相談していた。
命令でそうしている者はいない。
決闘で奪った手伝いでもない。
昨日一緒に舞台をやったから、今日も一緒に片づけている。
それだけだ。
「昼にしよう!」
ひなたの声で、全員が手を止めた。
机を輪に並べ、模擬店で余ったものを真ん中へ出す。焼きそば一パック、形の崩れたクッキー、辛さを間違えたカレー、鈴華が予算を守るため保管していた未開封のパン。ハヨンの七色氷は溶けて、紫色の液体だけ残っていた。
「飲めるのか、これ」
「成分は水、糖、果汁、食用色素」
「なんで全部混ぜると紫になるんだ」
「可視光の吸収波長が――」
「聞いたオレが悪かった」
紙皿を取ろうとしたら、藍羽に手を叩かれた。
「ハミンは座る」
「紙皿くらい取れる」
「取るのはいい。人のぶんまで運ばない」
「細かいな」
「細かく言わないと聞かないから」
藍羽がオレの隣へ座る。
反対側へハヨンが座った。
先輩は向かい。蓮と鈴華はその左右。ひなたは人数ぶんの箸があるか数えてから最後に座った。
「これ、委員会との共同昼食として予算に入るか?」
先輩が焼きそばを持ち上げる。
「入りません。残品処理です」
「残品処理にしては楽しそうだな」
「楽しく処理することを禁じる規則はありません」
鈴華がクッキーを一つ取った。
「それ、ハート型だぞ」
「焼成時に崩れた円形ですわ」
「どう見てもハートだ」
「会計上は円形です」
「会計、強いな」
オレもクッキーへ手を伸ばした。
藍羽と同時になった。
「半分」
「先に触った」
「私が」
「オレだ」
「二つに割ればいい」
ハヨンがクッキーを取り、定規を出した。
「質量差〇・一グラム以内で分割する」
「そこまでしなくていい!」
ひなたが笑う。
オレたちは、昨日までと同じ学校で昼飯を食べた。
一昨日、笑ったまま止まった人がいた。
鏡の向こうに女がいた。
目黒教授はオレたちを助け、その女は目黒教授を止めろと言った。
何も解決していない。
それでも、飯は食う。
分からないことがある時に腹まで減らす必要はない。
「そうだ、ハミン」
先輩がカレーの辛さにむせながら言った。
「昨日の飯、いつにする?」
「引き分けだから義務はないんだろ」
「頼んでる。断ってもいい」
「行くって言った」
「それを聞きたかった」
「何度も聞くな」
「如月とハヨンも来るんだったな」
「私が行くと困るんですか、西能寺先輩」
藍羽が笑顔で聞く。
「困難があるほうが燃える」
「食事で燃えないで」
「店は?」
ハヨンが端末を出した。
「栄養、価格、移動距離、会話継続率から最適化する」
「最適じゃなくて、食いたいものを出せ」
「お兄ちゃんは何が食べたい?」
聞かれた。
ハヨンなら、前は聞く前に決めていたかもしれない。
「肉」
「範囲が広い」
「骨がついてるやつ」
「さらに選択肢が増えた」
「増えたならいいだろ」
ハヨンは端末へ何か入力し、小さくうなずいた。
*
昼食のあと、ハヨンは何も爆発させなかった。
その代わり、鏡を十三枚並べた。
「こっちのほうが危なくない?」
ひなたが言った。
場所は文化祭の鏡面展示を置いていた第二理科室。窓には遮光布。机の上に大小の鏡が半円を作り、中央へハヨンの位相観測器が置かれている。
文化祭初日の停止で割れなかった鏡だけを使った。どれも普通の鏡に見える。
ただし、十三枚すべてに映るオレの顔が、ほんの少しずつ違う向きを見ていた。
「通信を再現する」
ハヨンが言う。
「一昨日の異常停止中、鏡面へ外部信号が入った。波形は保存済み。学校の固定場を経由してるけど、発信源は不明。あの人へもう一度つなぐ」
「教授へ知らせましたか」
鈴華が聞いた。
「時任さんが設備残留波の再測定として申請した」
蓮が端末の画面を見せた。
「隠してはいません。文化祭設備は今日の午後三時に撤去されます。それまでに読取り試験をするのは委員会の通常権限です。ただ、教授から承認の返事はまだない」
「返事がないなら待つべきだろ」
先輩が腕を組む。
「午後三時を過ぎれば、同じ配置は再現できない」
ハヨンが答える。
「許可を無視したくはない。でも、一昨日に現れた人との通信は、目黒教授が来た時に切断された。先に知らせれば、また切られる可能性がある」
「教授が切ったと決まったわけじゃない」
「決まってない。だから観測する」
ハヨンはそこで言葉を止め、オレたちを見た。
「ただし、一人ではできない。お兄ちゃんの鼻歌、閑崎さんの鈴、時任さんの時計、全員の異なる位相が要る。前なら、必要なところだけ説明して手伝わせたと思う」
「自分で言うのか」
「事実だから」
ハヨンは机の上へ手順書を並べた。
「今回は、先に全部説明する」
鏡の配置。
予想される負荷。
中止条件。
記録される身体データ。
あの女から精神へ直接干渉された場合の危険。
「お兄ちゃんには基準音を三十秒。肩の気脈へ負担が出たら即中止。閑崎さんは鈴の心話を使わず、音を一回だけ鏡へ向ける。時任さんは鏡の内側だけを〇・九倍速にして、最大二秒。先輩は雷綴を使わない。接地線を持って過電流を逃がす。藍羽さんはお兄ちゃんの呼吸が乱れた場合に気を切る」
「私は?」
ひなたが聞いた。
「水守さんは特殊な観測帯がない。だから中央へ入らないで、主電源の切断役を頼みたい」
「普通だからできる役?」
「そう」
「それならやる」
ひなたは赤い切断レバーの前へ立った。
ハヨンが一人ずつ確認する。
「閑崎さん。鈴の使用と残留記録の保存に同意する?」
「読取りに限るなら。異変を感じた時は、わたくしの判断で止めますわ」
「時任さん」
「二秒以内。僕の時計の内部記録は複製せず、時刻差だけ保存。それで同意します」
「先輩」
「電気は流さない。教授から停止指示が来たら一度止める。その条件ならやる」
「藍羽さん」
「ハミンを止める判断は私がする。それから、私の気脈データを別の研究に使わない」
「使わない」
「水守さん」
「私が怖いと思った時にも切る。それでいい?」
「いい」
最後に、ハヨンがオレを見る。
「お兄ちゃん。鼻歌と二つの身体相のデータを通信鍵に使っていい?」
こいつは、オレを男好きに変えるつもりで、黙って薬を飲ませた。
今は、鼻歌一つ使うのにも聞いてくる。
「いい」
「途中で嫌になったら?」
「止める」
「分かった」
ハヨンは手順書の全項目へ、参加者の答えを記録した。
「ねえ」
藍羽が聞く。
「ハヨンちゃん自身は?」
「私は実施者」
「実施者だって、やりたくないならやらなくていいでしょ」
ハヨンが瞬きをした。
「私は、やりたい。あの人が誰か知りたい。お兄ちゃんの相を知っている理由も、目黒教授を止めろと言った理由も」
「じゃあ全員ね」
藍羽が言った。
ハヨンはもう一度、うなずいた。
*
理科室の時計は、午後二時十三分を指していた。
蓮が時門時計を開く。秒針が三度ためらうあいだに、中央の鏡の内側だけを〇・九倍にする領域を合わせた。二秒の針合わせが終わっても、まだ発動はしない。設定を変えず、竜頭へ親指を置いて合図を待つ。
「開始」
ハヨンが中央の輪へ電源を入れる。
低い振動が机から足へ伝わった。
オレは息を吸う。
肩を上げない。腹の底まで入れ、ゆっくり吐く。
ううん。
鼻歌が、十三枚の鏡へ別々の高さで返ってくる。
右端は少し高い。
左端は一拍遅い。
中央の鏡だけ、音を返さない。
「位相差、増大。閑崎さん」
鈴華が小さな鈴を持ち上げる。
「鳴らします」
ちりん。
澄んだ音がした。
音は理科室へ広がらず、中央の鏡へ吸い込まれた。
鏡の中に映る鈴華だけが、鈴を下ろさない。
本物の鈴華はもう腕を下ろしている。
鏡の中では、全員が一つ前の動きを続けていた。
先輩は息を吸ったまま。
蓮は時計へ触れる前。
藍羽はオレの背へ手を伸ばしている。
ひなたは赤いレバーを見ている。
オレの鏡像だけが、今のオレと同じ速さで動いた。
だが、顔が違う。
右半分は赤い編み髪の女のオレ。
左半分は長い黒髪を一本に編んだ男のオレ。
二つが水面みたいに揺れ、重なる。
「時任さん、〇・九倍」
「一秒だけ」
蓮が時門時計の竜頭を押した。
かち。
中央の鏡の中で、水滴が下から上へ落ちた。
海の匂いがする。
祭りの食べ物も、理科室の薬品も消え、塩と、雨の前の石みたいな匂いが鼻へ入った。
「接続率四十二。五十。六十一」
ハヨンの声が速くなる。
一秒。決めた時間で蓮が蓋を閉じた。鏡の内側の遅延は消えたが、開いた接続は残っている。
「無理するな」
「お兄ちゃんの心拍は許容範囲」
「おまえの息だ」
ハヨンは一度だけ呼吸し直した。
「続ける」
鏡の奥が青くなる。
青空じゃない。
深い水の色。
その中から、艶のある長い黒髪が浮かび上がった。
見た目は二十代の終わりくらい。青緑の瞳。濃紺と白の外套をまとい、胸元には見たことのない幾何学模様の留め具がある。
一昨日より、はっきり見える。
女は鏡の向こうから手を当てた。
こっちの鏡へ手のひらが重なる。
『き、聞こえ……聞こえる?』
女は一度口を閉じ、長い黒髪を耳へかけ直した。
『いまのは回線障害ではなく、私が噛んだだけよ』
音は遠い。
水の中から話しているみたいだった。
「聞こえる!」
『よかった。今回は、ずいぶん賑やかな回線ね』
女はオレたちを一人ずつ見た。
『鼻歌、時間差、幻惑波、導電路、身体の気。違う方式を無理に一つへそろえず、接点だけ作った。誰の設計?』
「私」
ハヨンが一歩出る。
『いい設計だわ。それに、時門時計、心響鈴、雷綴。どれも法宝ね。崑崙の道士や仙人が使った術具を、魔械文書で今の使い手へ合わせて再錬成してある』
『名前は?』
「ハヨン。あなたは?」
『キャリー・アイ。アトランティス最高の錬金術師――』
女は少し笑った。
『――の、自律観測像。ごめんなさい、名乗る順番が逆だったわ。原型に似せすぎて、ときどき本人のつもりになるの』
「本人じゃない?」
『ええ。キャリー・アイ本人の記憶と判断式を写して、独立して観測し、応答する像。こうして新しい情報も整理できる。でも、生身の本人ではないわ』
「本人はどこ?」
『現在位置は観測範囲外。私が本人回線で受け取れた最後の記録は、退避転送を起動した途中で切れている。成功判定を受け取る前に、私の回線が先に落ちたの。肝心なところだけ抜けていて、ごめんなさい』
『いい回路よ、ハヨン。いいえ、その年でここまで組んだなら、ハヨン博士と呼ぶべきね』
「キャリー博士。一昨日言った魔械文書って何?」
ハヨンは褒められたところを飛ばした。
キャリーの観測像はさらに楽しそうに笑う。
『話が速くて助かるわ。魔械文書は――あら、いま零頁の説明を先に開いた。順番を戻すわね。機械とじゅちゅ……術式を分けなかった時代の記録体系。紙の本だけを指す名前ではない。規則、観測器、記憶媒体、それを扱う手順の総体よ』
「決闘システムを作ったのは、あなた?」
蓮が聞く。
『今の形を作ったのは原型ではない。でも、その土台を書いたのはキャリー・アイ本人よ』
あの声。
言葉の終わりを少し上げる話し方。
「決闘で勝敗を言う声も、この観測像か?」
オレが聞く。
観測像は目を細めた。
『まだ残っていたのね。安全判定に、私の声を使ったの。対価を数えない奇跡は、ただの盗みだから』
「では、選闘を認めていらっしゃるのですか」
鈴華の声は静かだった。
『いい質問ね、閑崎』
「わたくしの名を?」
『鈴に管理名が残っている。西能寺、時任、あなたたちの道具にも』
先輩が接地線を握り直す。
『原型は、危険な争いを隔離する仕組みと、そこで選ばれなかった可能性を記録する器を設計した。選ばなかった答えを消さず、何を失ったか観測し、最後には持ち主へ返すために』
「返す?」
『ええ。文書は本来、選択を残すもの。奪うものではなかった』
鏡の青が揺れる。
観測像の顔へ、細い横線が入った。
『今の回路は返却の道が閉じている。勝者へ渡ったように見せて、別の場所へ流している。だから残響があふれた。止まった笑顔も、別案へ変わった展示も、その――』
「誰が変えた」
先輩が聞いた。
観測像は、すぐ答えなかった。
青緑の瞳が、先輩の雷綴を見る。
『その棒を与えた人を、あなたは知っているでしょう』
「教授が、文書を変えたのか」
『総司は、原型の弟子よ』
鏡の外で、誰も動かなかった。
決闘の停止じゃない。
全員が、自分で止まった。
「目黒教授が、あなたの弟子」
ハヨンが繰り返す。
『優秀な弟子。私が一つ教えると、十の使い道を考えた。私が見落とした危険も、よく見つけた』
「なら、どうして止めろと言うんだ」
『方法を教えたのは原型。目的を選んだのは総司だから』
観測像の手が、鏡の向こうで少し下がった。
『総司は、選ばれなかったものを失敗だと思っている。痛みのない一つだけを残せば、誰も後悔しないと――』
赤い線が鏡を横切った。
映像が一度消える。
「接続へ外部校正!」
ハヨンが操作盤へ手を走らせた。
「遮断する?」
ひなたがレバーを握る。
「まだ負荷は低い。待って」
観測像の顔が戻る。
半分だけ。
『時間がない。零頁を渡さないで』
「零頁はどこにある」
『場所ではなく、最初の――』
また赤い線。
今度は縦に走る。
『ハミン』
観測像がオレを見た。
『あなたには二つの姿がある。一つを本物、一つを間違いと決める前に、どちらで何を選んだか数えなさい』
「オレは男に戻りたい」
『それを否定しなくていい』
声が途切れる。
『ただ、その願いを誰へ渡すかは――』
理科室の扉が開いた。
「そこまでだ」
目黒教授が立っていた。
いつもの声。
いつもの笑顔。
右手に赤いペンを持っている。
「水守くん、主電源を切ってくれ。この接続は鏡の向こうだけでなく、君たちの身体相を開きすぎる」
ひなたはレバーを握ったまま、ハヨンを見る。
「ハヨンちゃん」
「心拍上昇。鏡面差が逆流を始めてる」
ハヨンが悔しそうに言った。
「切って」
ひなたが赤いレバーを下ろす。
光が消えた。
最後の鏡へ、キャリーの観測像の唇だけが映った。
総司。
声にならない名前を呼び、青い水の中へ消えた。
十三枚の鏡が、同時にオレたちを映す。
全部、今の姿だった。
*
「教授」
先輩が最初に呼んだ。
責める声じゃない。
だが、いつもの明るさもなかった。
「キャリー・アイは、教授の師匠なんですか」
「そうだよ」
目黒教授は隠さなかった。
「私が若い頃、文書理論と錬金機関を教わった。彼女はアトランティス最高の錬金術師で、私が知る中でも最も優れた研究者だ。少々、言葉と手順が先を争うことはあったけれどね」
「一昨日、目黒教授を止めろと言った」
ハヨンが言う。
「今日も、魔械文書は奪うためのものじゃないって」
「それも聞いた」
「否定しないの?」
「文書が元は保存装置だったことは否定しない。けれど、保存するだけでは救えない事態がある」
教授は中央の鏡へ赤いペンの先を触れた。
鏡の端に残っていた青い光が、赤い線へ吸われて消える。
「キャリー先生は、古い都市アトランティスの崩壊に巻き込まれた。崩壊記録では、彼女の身体反応はそこで途絶えている。私は、先生が亡くなったと判断している」
「観測像は、退避転送の途中で記録が切れたと言った。死亡の確定とは違う」
ハヨンがすぐ返す。
「転送に成功した記録もない。崩壊後、私はあらゆる受信域を探した。希望を証拠の代わりにはできないよ、ハヨンくん」
ハヨンが消えた鏡を指した。
「今のは、自律観測像だと言った」
「その設計名は知っている。先生が自分の記憶と判断式から作った、自分で観測し応答する像だ。ただ、崩壊の際に先生の残留意識まで混ざったと、私は考えている。だから今の意思と過去の記録と、壊れた警告が混在する」
「じゃあ、本物は死んだって言うの?」
藍羽が聞く。
「少なくとも、私が確認できた記録ではね」
「分からない言い方で逃げないでください」
「逃げているつもりはないよ、如月くん。観測像は考え、話す。だが、生身のキャリー先生がここへ来ることはない。通信が長引けば、こちらの人間を鏡面へ引き込む危険もある」
「それで切った?」
オレが聞く。
「一昨日も今日も、安全のために」
「一昨日、助けたのも?」
「私にできる仕事だったからね」
目黒教授は、少しも怒っていなかった。
無断に近い実験をしたオレたちへ、規則違反だとも言わない。
その静かさが、かえって答えを見えなくする。
「教授が文書を変えたんですか」
蓮が聞く。
「学園で安全に運用するため、多くの校正を加えた。選闘がなければ、普通の争いで重傷者が出たこともある。選択残響を放置すれば、一昨日のような事故になる」
「一昨日の事故は、選闘が集めたもののせいでは?」
「一つの見方だ。だが、原因と対処を同じ言葉で片づけてはいけない」
蓮は黙った。
鈴華が鈴へ触れる。
「キャリー博士の観測像による通信が誤情報だという証拠はございますか」
「今の通信だけで示すのは難しい。同じように、すべて正しいという証拠もない」
「では、記録を消さず保留しても?」
「もちろん。会計も研究も、異なる記録を残すことで正確になる」
目黒教授は、鈴華の問いさえ認めた。
先輩が雷綴を見る。
「教授は、オレに嘘をつきましたか」
「君の力を流す道具だと説明した。戦闘記録が委員会へ送られることも、規約にある。私が説明しなかったことはある。嘘だと感じたなら、謝ろう」
「……分かりません」
「今すぐ決めなくていい」
その言葉だけなら、観測像と同じだった。
オレは、十三枚の鏡を見る。
今は全部、女のオレを映している。
「目黒教授」
「何だい、ハミンくん」
「オレが満月に男へ戻ること、知ってるだろ」
藍羽が息を止めた。
ハヨンは教授の指を見る。
目黒教授は、驚かなかった。
「観測していたよ。君の身体相は、月の周期に合わせて大きく揺れる」
「戻れる日を増やせるか」
「可能性はある」
すぐ返ってきた。
胸の中を、強くつかまれた気がした。
「本当に?」
「少なくとも、戻る時刻を安定させ、短すぎる変化を長く保つ訓練はできる。君は昨日の選闘で、自分の鼻歌を使ってしびれた身体へ指令を戻した。二つの身体相をつなぐ技術へ発展できる」
男へ戻れる。
満月の一晩だけじゃなく。
道場で朝起きた時、手の大きさに驚かなくていい。緋天衣が朱赤へ変わるのを見なくていい。父さんや母さんが知っている、元のオレの姿でいられる。
「お兄ちゃん」
ハヨンの声がした。
「やるな」と言うと思った。
こいつなら、自分で方法を調べると言うと思った。
ハヨンは唇を結び、それから開いた。
「私は、目黒教授のデータを全部確認できてない。危険があると思う」
「うん」
「でも、決めるのはお兄ちゃん。受けるなら、私は観測して安全条件を出したい。断るなら、別の方法を探す」
言い直さなかった。
止めるとも、勝手に直すとも言わなかった。
オレの答えを待った。
「目黒教授。考える」
「それでいい。次の満月までに、放課後の特別授業を用意しよう。参加するかは、その都度君が決めればいい」
「藍羽も入れるか」
「もちろん。ハヨンくんも、観測者として歓迎する」
「私は?」
ひなたが聞いた。
「水守くんは、通常授業へ遅れない範囲なら」
「そこだけ急に教授らしい」
ひなたが口を尖らせる。
張っていた空気が、少しだけほどけた。
目黒教授は十三枚の鏡を一枚ずつ確認し、危険な残留波だけ赤い線で封じた。壊さない。記録も消さない。
そういうところを見ると、キャリーの観測像の警告が間違っているように思える。
鏡へ映った赤い線を見ると、あの女の言葉が本当のように思える。
オレの中で、答えは二つのままだった。
*
鏡を片づけたあと、蓮が目黒教授を呼び止めた。
「教授。報告が二件あります」
「聞こう」
「体育祭で発生した十三秒の計時差。それから文化祭の全域異常停止です。一昨日の停止では正式選闘の挑戦、相互請求、受諾がありません。決闘記録にも載っていない。けれど選択残響は実体化しました」
蓮の手には、厚い進行台帳がある。
「関連性を含めて再調査を申請します」
「必要ない。どちらも処理済みだ」
目黒教授の答えは短かった。
「体育祭は時門時計と観測装置の同期ずれ。文化祭は大量の未処理残響が、鏡面装置を出口にした事故。再発防止の校正は終えた」
「原因データを見せてもらえますか」
「顧問管理領域を含む。今は開示できない」
「いつなら?」
「必要になれば、私から知らせる」
蓮の指が、台帳の角で止まった。
予定表に入らない答えだ。
「承知しました」
それでも蓮は頭を下げた。
目黒教授が理科室を出る。
足音が廊下の向こうへ消えてから、蓮は台帳を開いた。
【体育祭計時差――処理済み】
【文化祭異常停止――処理済み】
二本の線を引く。
いつもなら、そこで頁を閉じる。
蓮は閉じなかった。
欄外の、予定を書かない狭い場所へ小さく記す。
【顧問回答のみ。原因資料未確認。検証保留】
「蓮」
鈴華が呼んだ。
「規則なら、無断の保留記載は改竄になりますか」
「なります。ただ、処理済みと断定するのも、確認していない僕には改竄です」
蓮は消さなかった。
鈴華は台帳をのぞき込み、黒い袖で文字を隠すように立った。
「収支が確定していないなら、締め切るべきではありませんわ」
「鈴華?」
先輩が驚いた顔をする。
「わたくしは会計上の原則を述べただけです」
「オレは教授を信じたい」
先輩は言った。
「信じるよ。昨日話したことは変わらない。あの人がオレを助けたことも、今日、危ない通信を止めたことも」
「では、この記録を消しますか」
鈴華が聞く。
先輩は台帳を見た。
「消さない。信じるのと、何も見ないのは違うだろ」
蓮が頁を閉じた。
三人はまだ、絶対運命補完委員会だった。
目黒教授を顧問と呼び、もらった道具を持っている。
それでも、教授の答えへ小さな保留を一つ残した。
敵から味方へ、一本の線を飛び越えたわけじゃない。
同じ机を運び、同じ舞台で失敗し、同じ鏡へ首を突っ込んで、少しずつ立つ場所が近くなった。
「帰るぞ」
オレが言った。
「その前に教室の紙飾りを外す」
ひなたが言う。
「まだあるのか」
「いっぱいある。委員会の皆さんも手伝ってくれますよね」
「もちろんだ!」
先輩が答える。
「工程上は三十分です」
蓮が言う。
「テープを壁紙ごとはがした場合、修繕費を請求しますわ」
鈴華が言う。
「私は溶接機を使っていい?」
「使わない!」
ひなたと藍羽の声が重なった。
ハヨンがオレの横へ来た。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「特別授業、本当は止めたい」
「やっぱりか」
「目黒教授の狙いが分からない。キャリー博士の観測像による警告もある。私がもっと早く解析すれば、お兄ちゃんが行かなくて済むかもしれない」
「また勝手に決めるのか?」
「決めない」
ハヨンは、すぐ答えた。
「止めたいのは私の考え。行くかはお兄ちゃんの選択。行くなら、危険だと思った時に言う。それを聞いて続けるかも、お兄ちゃんに決めてもらう」
「ずいぶん面倒になったな」
「選択肢を残すと、計算量が増える」
「嫌か?」
ハヨンは首を振った。
「時間はかかる。でも、前より正しい」
「薬のことは、まだ許してないぞ」
「分かってる」
「謝るのも途中だ」
「分かってる」
「でも、鏡はよくできてた」
ハヨンがオレを見る。
「それは褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「次はもっと安全にしろ」
「分かった」
ハヨンの口元が、ほんの少し上がった。
廊下の窓へ、夕方の学校が映っていた。
赤い編み髪のオレ。
長い濃紺の髪の藍羽。
眼鏡を直すハヨン。
紙飾りを抱えたひなた。
雷綴を肩へ載せた先輩と、台帳を持つ蓮と、黒い和装の鈴華。
全員が同じ方向へ歩いている。
鏡の奥、誰もいないはずの青い場所で、長い黒髪が一度だけ揺れた。
幕間・目黒教授
午後十一時五十九分。
目黒教授の研究室には、時計が四つあった。
壁の時計。
机の時計。
蓋のない懐中時計。
赤い線だけで描かれた、針のない時計。
四つは違う時刻を示している。
窓の外には、欠けた月。
机の上には、次の満月までの日数を記した表があった。
一つ目の満月へ黒い丸。
二つ目へ赤い丸。
三つ目と四つ目へ、小さな黒い丸。
五つ目へ、黒と赤と金の三重円。
その横に、ハミンの二つの身体図。女の輪郭と男の輪郭をつなぐ細い金色の波形。文化祭で初めて測定された鼻歌の線が、満月表を横切っている。
目黒教授は赤いペンで、金の線へ小さな印を付けた。
机の端には、島の地図が開かれている。
【星見島・旧観測所】
学園の校外研修先。
海沿いの廃道、地下観測室、立入り禁止の洞窟。古い図面へ、現在は存在しない十三番目の階段が描かれていた。
教授は満月表と観測所図面を重ねる。
赤い文字を書く。
【帰還枝、自覚五回。現地で収穫】
研究室の鏡に、長い黒髪の女は映っていない。
それでも教授は、鏡へ向かって言った。
「先生。彼は自分で扉を選びます」
返事はない。
「選べる形に整えるのが、私の仕事です」
赤いペンから、インクが一滴落ちた。
紙へ落ちる前に止まる。
壁の時計が十二時を指した。
机の時計は十一時五十九分のまま。
懐中時計は十三秒だけ逆へ進む。
針のない時計の中央に、赤い零が浮かんだ。
止まったインクだけが、ゆっくり空中を上り、ペン先へ戻っていった。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




