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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第三章「文化祭は世界の継ぎ目で」
PR
18/48

第18話「鏡の女は本を閉じろと言う」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 文化祭が終わると、学校は急に小さくなった。


 空より広い舞台も、世界の継ぎ目も消えたわけじゃない。


 模擬店の看板を外し、机を教室へ戻し、壁に残ったテープを指で丸めていると、学校は学校くらいの大きさにしか見えなくなる。


「ハミン、その机は持たないで」


「片手で持てる」


「持てるかじゃなくて、持っていいかの話」


 ひなたに言われ、持ち上げた机を戻した。


 肩はもう縫い直してある。


 昨日の決闘から戻ったあと、保健室の先生と藍羽とハヨンに三方向から怒られた。おっさんには傷の上から指一本で額を押され、そのまま板間の端まで滑らされた。


 勝負は引き分け。


 説教は全敗だった。


「じゃあ何をやればいい」


「テープを取る。紙を集める。口を動かさず手を動かす」


「最後だけ難しい」


「知ってる」


 教室の前では、先輩が机を三つ重ねて運んでいた。


「ハミン! オレの半分を持つか!」


「水守さんの指示を聞いてください」


 蓮がその後ろから椅子を運ぶ。


「西能寺先輩は机一つ。傷のある二人で競争しない。時任先輩は椅子四脚まで」


 ひなたが指示するたび、委員会の戦闘係と進行係が素直に数を減らした。


「わたくしは?」


 鈴華は黒い和装の袖をたすきで上げ、段ボール箱を持っている。


「閑崎先輩は領収書の確認をお願いします。捨てていい箱と駄目な箱が分からないので」


「適切な配分ですわ」


「私は?」


 ハヨンが聞いた。


「何も爆発させない」


「作業ではない」


「一番大事な作業」


 ハヨンは不満そうに、手の中の小型溶接機をしまった。


 敵だった委員会が、うちのクラスの机を運んでいる。


 クラスのやつらも、もういちいち驚かない。先輩へ重いものを渡し、蓮へ終了時刻を聞き、鈴華へ余った紙皿を売れるか相談していた。


 命令でそうしている者はいない。


 決闘で奪った手伝いでもない。


 昨日一緒に舞台をやったから、今日も一緒に片づけている。


 それだけだ。


「昼にしよう!」


 ひなたの声で、全員が手を止めた。


 机を輪に並べ、模擬店で余ったものを真ん中へ出す。焼きそば一パック、形の崩れたクッキー、辛さを間違えたカレー、鈴華が予算を守るため保管していた未開封のパン。ハヨンの七色氷は溶けて、紫色の液体だけ残っていた。


「飲めるのか、これ」


「成分は水、糖、果汁、食用色素」


「なんで全部混ぜると紫になるんだ」


「可視光の吸収波長が――」


「聞いたオレが悪かった」


 紙皿を取ろうとしたら、藍羽に手を叩かれた。


「ハミンは座る」


「紙皿くらい取れる」


「取るのはいい。人のぶんまで運ばない」


「細かいな」


「細かく言わないと聞かないから」


 藍羽がオレの隣へ座る。


 反対側へハヨンが座った。


 先輩は向かい。蓮と鈴華はその左右。ひなたは人数ぶんの箸があるか数えてから最後に座った。


「これ、委員会との共同昼食として予算に入るか?」


 先輩が焼きそばを持ち上げる。


「入りません。残品処理です」


「残品処理にしては楽しそうだな」


「楽しく処理することを禁じる規則はありません」


 鈴華がクッキーを一つ取った。


「それ、ハート型だぞ」


「焼成時に崩れた円形ですわ」


「どう見てもハートだ」


「会計上は円形です」


「会計、強いな」


 オレもクッキーへ手を伸ばした。


 藍羽と同時になった。


「半分」


「先に触った」


「私が」


「オレだ」


「二つに割ればいい」


 ハヨンがクッキーを取り、定規を出した。


「質量差〇・一グラム以内で分割する」


「そこまでしなくていい!」


 ひなたが笑う。


 オレたちは、昨日までと同じ学校で昼飯を食べた。


 一昨日、笑ったまま止まった人がいた。


 鏡の向こうに女がいた。


 目黒教授はオレたちを助け、その女は目黒教授を止めろと言った。


 何も解決していない。


 それでも、飯は食う。


 分からないことがある時に腹まで減らす必要はない。


「そうだ、ハミン」


 先輩がカレーの辛さにむせながら言った。


「昨日の飯、いつにする?」


「引き分けだから義務はないんだろ」


「頼んでる。断ってもいい」


「行くって言った」


「それを聞きたかった」


「何度も聞くな」


「如月とハヨンも来るんだったな」


「私が行くと困るんですか、西能寺先輩」


 藍羽が笑顔で聞く。


「困難があるほうが燃える」


「食事で燃えないで」


「店は?」


 ハヨンが端末を出した。


「栄養、価格、移動距離、会話継続率から最適化する」


「最適じゃなくて、食いたいものを出せ」


「お兄ちゃんは何が食べたい?」


 聞かれた。


 ハヨンなら、前は聞く前に決めていたかもしれない。


「肉」


「範囲が広い」


「骨がついてるやつ」


「さらに選択肢が増えた」


「増えたならいいだろ」


 ハヨンは端末へ何か入力し、小さくうなずいた。


     *


 昼食のあと、ハヨンは何も爆発させなかった。


 その代わり、鏡を十三枚並べた。


「こっちのほうが危なくない?」


 ひなたが言った。


 場所は文化祭の鏡面展示を置いていた第二理科室。窓には遮光布。机の上に大小の鏡が半円を作り、中央へハヨンの位相観測器が置かれている。


 文化祭初日の停止で割れなかった鏡だけを使った。どれも普通の鏡に見える。


 ただし、十三枚すべてに映るオレの顔が、ほんの少しずつ違う向きを見ていた。


「通信を再現する」


 ハヨンが言う。


「一昨日の異常停止中、鏡面へ外部信号が入った。波形は保存済み。学校の固定場を経由してるけど、発信源は不明。あの人へもう一度つなぐ」


「教授へ知らせましたか」


 鈴華が聞いた。


「時任さんが設備残留波の再測定として申請した」


 蓮が端末の画面を見せた。


「隠してはいません。文化祭設備は今日の午後三時に撤去されます。それまでに読取り試験をするのは委員会の通常権限です。ただ、教授から承認の返事はまだない」


「返事がないなら待つべきだろ」


 先輩が腕を組む。


「午後三時を過ぎれば、同じ配置は再現できない」


 ハヨンが答える。


「許可を無視したくはない。でも、一昨日に現れた人との通信は、目黒教授が来た時に切断された。先に知らせれば、また切られる可能性がある」


「教授が切ったと決まったわけじゃない」


「決まってない。だから観測する」


 ハヨンはそこで言葉を止め、オレたちを見た。


「ただし、一人ではできない。お兄ちゃんの鼻歌、閑崎さんの鈴、時任さんの時計、全員の異なる位相が要る。前なら、必要なところだけ説明して手伝わせたと思う」


「自分で言うのか」


「事実だから」


 ハヨンは机の上へ手順書を並べた。


「今回は、先に全部説明する」


 鏡の配置。


 予想される負荷。


 中止条件。


 記録される身体データ。


 あの女から精神へ直接干渉された場合の危険。


「お兄ちゃんには基準音を三十秒。肩の気脈へ負担が出たら即中止。閑崎さんは鈴の心話を使わず、音を一回だけ鏡へ向ける。時任さんは鏡の内側だけを〇・九倍速にして、最大二秒。先輩は雷綴を使わない。接地線を持って過電流を逃がす。藍羽さんはお兄ちゃんの呼吸が乱れた場合に気を切る」


「私は?」


 ひなたが聞いた。


「水守さんは特殊な観測帯がない。だから中央へ入らないで、主電源の切断役を頼みたい」


「普通だからできる役?」


「そう」


「それならやる」


 ひなたは赤い切断レバーの前へ立った。


 ハヨンが一人ずつ確認する。


「閑崎さん。鈴の使用と残留記録の保存に同意する?」


「読取りに限るなら。異変を感じた時は、わたくしの判断で止めますわ」


「時任さん」


「二秒以内。僕の時計の内部記録は複製せず、時刻差だけ保存。それで同意します」


「先輩」


「電気は流さない。教授から停止指示が来たら一度止める。その条件ならやる」


「藍羽さん」


「ハミンを止める判断は私がする。それから、私の気脈データを別の研究に使わない」


「使わない」


「水守さん」


「私が怖いと思った時にも切る。それでいい?」


「いい」


 最後に、ハヨンがオレを見る。


「お兄ちゃん。鼻歌と二つの身体相のデータを通信鍵に使っていい?」


 こいつは、オレを男好きに変えるつもりで、黙って薬を飲ませた。


 今は、鼻歌一つ使うのにも聞いてくる。


「いい」


「途中で嫌になったら?」


「止める」


「分かった」


 ハヨンは手順書の全項目へ、参加者の答えを記録した。


「ねえ」


 藍羽が聞く。


「ハヨンちゃん自身は?」


「私は実施者」


「実施者だって、やりたくないならやらなくていいでしょ」


 ハヨンが瞬きをした。


「私は、やりたい。あの人が誰か知りたい。お兄ちゃんの相を知っている理由も、目黒教授を止めろと言った理由も」


「じゃあ全員ね」


 藍羽が言った。


 ハヨンはもう一度、うなずいた。


     *


 理科室の時計は、午後二時十三分を指していた。


 蓮が時門時計を開く。秒針が三度ためらうあいだに、中央の鏡の内側だけを〇・九倍にする領域を合わせた。二秒の針合わせが終わっても、まだ発動はしない。設定を変えず、竜頭へ親指を置いて合図を待つ。


「開始」


 ハヨンが中央の輪へ電源を入れる。


 低い振動が机から足へ伝わった。


 オレは息を吸う。


 肩を上げない。腹の底まで入れ、ゆっくり吐く。


 ううん。


 鼻歌が、十三枚の鏡へ別々の高さで返ってくる。


 右端は少し高い。


 左端は一拍遅い。


 中央の鏡だけ、音を返さない。


「位相差、増大。閑崎さん」


 鈴華が小さな鈴を持ち上げる。


「鳴らします」


 ちりん。


 澄んだ音がした。


 音は理科室へ広がらず、中央の鏡へ吸い込まれた。


 鏡の中に映る鈴華だけが、鈴を下ろさない。


 本物の鈴華はもう腕を下ろしている。


 鏡の中では、全員が一つ前の動きを続けていた。


 先輩は息を吸ったまま。


 蓮は時計へ触れる前。


 藍羽はオレの背へ手を伸ばしている。


 ひなたは赤いレバーを見ている。


 オレの鏡像だけが、今のオレと同じ速さで動いた。


 だが、顔が違う。


 右半分は赤い編み髪の女のオレ。


 左半分は長い黒髪を一本に編んだ男のオレ。


 二つが水面みたいに揺れ、重なる。


「時任さん、〇・九倍」


「一秒だけ」


 蓮が時門時計の竜頭を押した。


 かち。


 中央の鏡の中で、水滴が下から上へ落ちた。


 海の匂いがする。


 祭りの食べ物も、理科室の薬品も消え、塩と、雨の前の石みたいな匂いが鼻へ入った。


「接続率四十二。五十。六十一」


 ハヨンの声が速くなる。


 一秒。決めた時間で蓮が蓋を閉じた。鏡の内側の遅延は消えたが、開いた接続は残っている。


「無理するな」


「お兄ちゃんの心拍は許容範囲」


「おまえの息だ」


 ハヨンは一度だけ呼吸し直した。


「続ける」


 鏡の奥が青くなる。


 青空じゃない。


 深い水の色。


 その中から、艶のある長い黒髪が浮かび上がった。


 見た目は二十代の終わりくらい。青緑の瞳。濃紺と白の外套をまとい、胸元には見たことのない幾何学模様の留め具がある。


 一昨日より、はっきり見える。


 女は鏡の向こうから手を当てた。


 こっちの鏡へ手のひらが重なる。


『き、聞こえ……聞こえる?』


 女は一度口を閉じ、長い黒髪を耳へかけ直した。


『いまのは回線障害ではなく、私が噛んだだけよ』


 音は遠い。


 水の中から話しているみたいだった。


「聞こえる!」


『よかった。今回は、ずいぶん賑やかな回線ね』


 女はオレたちを一人ずつ見た。


『鼻歌、時間差、幻惑波、導電路、身体の気。違う方式を無理に一つへそろえず、接点だけ作った。誰の設計?』


「私」


 ハヨンが一歩出る。


『いい設計だわ。それに、時門時計、心響鈴、雷綴。どれも法宝ね。崑崙の道士や仙人が使った術具を、魔械文書で今の使い手へ合わせて再錬成してある』


『名前は?』


「ハヨン。あなたは?」


『キャリー・アイ。アトランティス最高の錬金術師――』


 女は少し笑った。


『――の、自律観測像。ごめんなさい、名乗る順番が逆だったわ。原型に似せすぎて、ときどき本人のつもりになるの』


「本人じゃない?」


『ええ。キャリー・アイ本人の記憶と判断式を写して、独立して観測し、応答する像。こうして新しい情報も整理できる。でも、生身の本人ではないわ』


「本人はどこ?」


『現在位置は観測範囲外。私が本人回線で受け取れた最後の記録は、退避転送を起動した途中で切れている。成功判定を受け取る前に、私の回線が先に落ちたの。肝心なところだけ抜けていて、ごめんなさい』


『いい回路よ、ハヨン。いいえ、その年でここまで組んだなら、ハヨン博士と呼ぶべきね』


「キャリー博士。一昨日言った魔械文書って何?」


 ハヨンは褒められたところを飛ばした。


 キャリーの観測像はさらに楽しそうに笑う。


『話が速くて助かるわ。魔械文書は――あら、いま零頁の説明を先に開いた。順番を戻すわね。機械とじゅちゅ……術式を分けなかった時代の記録体系。紙の本だけを指す名前ではない。規則、観測器、記憶媒体、それを扱う手順の総体よ』


「決闘システムを作ったのは、あなた?」


 蓮が聞く。


『今の形を作ったのは原型ではない。でも、その土台を書いたのはキャリー・アイ本人よ』


 あの声。


 言葉の終わりを少し上げる話し方。


「決闘で勝敗を言う声も、この観測像か?」


 オレが聞く。


 観測像は目を細めた。


『まだ残っていたのね。安全判定に、私の声を使ったの。対価を数えない奇跡は、ただの盗みだから』


「では、選闘を認めていらっしゃるのですか」


 鈴華の声は静かだった。


『いい質問ね、閑崎』


「わたくしの名を?」


『鈴に管理名が残っている。西能寺、時任、あなたたちの道具にも』


 先輩が接地線を握り直す。


『原型は、危険な争いを隔離する仕組みと、そこで選ばれなかった可能性を記録する器を設計した。選ばなかった答えを消さず、何を失ったか観測し、最後には持ち主へ返すために』


「返す?」


『ええ。文書は本来、選択を残すもの。奪うものではなかった』


 鏡の青が揺れる。


 観測像の顔へ、細い横線が入った。


『今の回路は返却の道が閉じている。勝者へ渡ったように見せて、別の場所へ流している。だから残響があふれた。止まった笑顔も、別案へ変わった展示も、その――』


「誰が変えた」


 先輩が聞いた。


 観測像は、すぐ答えなかった。


 青緑の瞳が、先輩の雷綴を見る。


『その棒を与えた人を、あなたは知っているでしょう』


「教授が、文書を変えたのか」


『総司は、原型の弟子よ』


 鏡の外で、誰も動かなかった。


 決闘の停止じゃない。


 全員が、自分で止まった。


「目黒教授が、あなたの弟子」


 ハヨンが繰り返す。


『優秀な弟子。私が一つ教えると、十の使い道を考えた。私が見落とした危険も、よく見つけた』


「なら、どうして止めろと言うんだ」


『方法を教えたのは原型。目的を選んだのは総司だから』


 観測像の手が、鏡の向こうで少し下がった。


『総司は、選ばれなかったものを失敗だと思っている。痛みのない一つだけを残せば、誰も後悔しないと――』


 赤い線が鏡を横切った。


 映像が一度消える。


「接続へ外部校正!」


 ハヨンが操作盤へ手を走らせた。


「遮断する?」


 ひなたがレバーを握る。


「まだ負荷は低い。待って」


 観測像の顔が戻る。


 半分だけ。


『時間がない。零頁を渡さないで』


「零頁はどこにある」


『場所ではなく、最初の――』


 また赤い線。


 今度は縦に走る。


『ハミン』


 観測像がオレを見た。


『あなたには二つの姿がある。一つを本物、一つを間違いと決める前に、どちらで何を選んだか数えなさい』


「オレは男に戻りたい」


『それを否定しなくていい』


 声が途切れる。


『ただ、その願いを誰へ渡すかは――』


 理科室の扉が開いた。


「そこまでだ」


 目黒教授が立っていた。


 いつもの声。


 いつもの笑顔。


 右手に赤いペンを持っている。


「水守くん、主電源を切ってくれ。この接続は鏡の向こうだけでなく、君たちの身体相を開きすぎる」


 ひなたはレバーを握ったまま、ハヨンを見る。


「ハヨンちゃん」


「心拍上昇。鏡面差が逆流を始めてる」


 ハヨンが悔しそうに言った。


「切って」


 ひなたが赤いレバーを下ろす。


 光が消えた。


 最後の鏡へ、キャリーの観測像の唇だけが映った。


 総司。


 声にならない名前を呼び、青い水の中へ消えた。


 十三枚の鏡が、同時にオレたちを映す。


 全部、今の姿だった。


     *


「教授」


 先輩が最初に呼んだ。


 責める声じゃない。


 だが、いつもの明るさもなかった。


「キャリー・アイは、教授の師匠なんですか」


「そうだよ」


 目黒教授は隠さなかった。


「私が若い頃、文書理論と錬金機関を教わった。彼女はアトランティス最高の錬金術師で、私が知る中でも最も優れた研究者だ。少々、言葉と手順が先を争うことはあったけれどね」


「一昨日、目黒教授を止めろと言った」


 ハヨンが言う。


「今日も、魔械文書は奪うためのものじゃないって」


「それも聞いた」


「否定しないの?」


「文書が元は保存装置だったことは否定しない。けれど、保存するだけでは救えない事態がある」


 教授は中央の鏡へ赤いペンの先を触れた。


 鏡の端に残っていた青い光が、赤い線へ吸われて消える。


「キャリー先生は、古い都市アトランティスの崩壊に巻き込まれた。崩壊記録では、彼女の身体反応はそこで途絶えている。私は、先生が亡くなったと判断している」


「観測像は、退避転送の途中で記録が切れたと言った。死亡の確定とは違う」


 ハヨンがすぐ返す。


「転送に成功した記録もない。崩壊後、私はあらゆる受信域を探した。希望を証拠の代わりにはできないよ、ハヨンくん」


 ハヨンが消えた鏡を指した。


「今のは、自律観測像だと言った」


「その設計名は知っている。先生が自分の記憶と判断式から作った、自分で観測し応答する像だ。ただ、崩壊の際に先生の残留意識まで混ざったと、私は考えている。だから今の意思と過去の記録と、壊れた警告が混在する」


「じゃあ、本物は死んだって言うの?」


 藍羽が聞く。


「少なくとも、私が確認できた記録ではね」


「分からない言い方で逃げないでください」


「逃げているつもりはないよ、如月くん。観測像は考え、話す。だが、生身のキャリー先生がここへ来ることはない。通信が長引けば、こちらの人間を鏡面へ引き込む危険もある」


「それで切った?」


 オレが聞く。


「一昨日も今日も、安全のために」


「一昨日、助けたのも?」


「私にできる仕事だったからね」


 目黒教授は、少しも怒っていなかった。


 無断に近い実験をしたオレたちへ、規則違反だとも言わない。


 その静かさが、かえって答えを見えなくする。


「教授が文書を変えたんですか」


 蓮が聞く。


「学園で安全に運用するため、多くの校正を加えた。選闘がなければ、普通の争いで重傷者が出たこともある。選択残響を放置すれば、一昨日のような事故になる」


「一昨日の事故は、選闘が集めたもののせいでは?」


「一つの見方だ。だが、原因と対処を同じ言葉で片づけてはいけない」


 蓮は黙った。


 鈴華が鈴へ触れる。


「キャリー博士の観測像による通信が誤情報だという証拠はございますか」


「今の通信だけで示すのは難しい。同じように、すべて正しいという証拠もない」


「では、記録を消さず保留しても?」


「もちろん。会計も研究も、異なる記録を残すことで正確になる」


 目黒教授は、鈴華の問いさえ認めた。


 先輩が雷綴を見る。


「教授は、オレに嘘をつきましたか」


「君の力を流す道具だと説明した。戦闘記録が委員会へ送られることも、規約にある。私が説明しなかったことはある。嘘だと感じたなら、謝ろう」


「……分かりません」


「今すぐ決めなくていい」


 その言葉だけなら、観測像と同じだった。


 オレは、十三枚の鏡を見る。


 今は全部、女のオレを映している。


「目黒教授」


「何だい、ハミンくん」


「オレが満月に男へ戻ること、知ってるだろ」


 藍羽が息を止めた。


 ハヨンは教授の指を見る。


 目黒教授は、驚かなかった。


「観測していたよ。君の身体相は、月の周期に合わせて大きく揺れる」


「戻れる日を増やせるか」


「可能性はある」


 すぐ返ってきた。


 胸の中を、強くつかまれた気がした。


「本当に?」


「少なくとも、戻る時刻を安定させ、短すぎる変化を長く保つ訓練はできる。君は昨日の選闘で、自分の鼻歌を使ってしびれた身体へ指令を戻した。二つの身体相をつなぐ技術へ発展できる」


 男へ戻れる。


 満月の一晩だけじゃなく。


 道場で朝起きた時、手の大きさに驚かなくていい。緋天衣が朱赤へ変わるのを見なくていい。父さんや母さんが知っている、元のオレの姿でいられる。


「お兄ちゃん」


 ハヨンの声がした。


「やるな」と言うと思った。


 こいつなら、自分で方法を調べると言うと思った。


 ハヨンは唇を結び、それから開いた。


「私は、目黒教授のデータを全部確認できてない。危険があると思う」


「うん」


「でも、決めるのはお兄ちゃん。受けるなら、私は観測して安全条件を出したい。断るなら、別の方法を探す」


 言い直さなかった。


 止めるとも、勝手に直すとも言わなかった。


 オレの答えを待った。


「目黒教授。考える」


「それでいい。次の満月までに、放課後の特別授業を用意しよう。参加するかは、その都度君が決めればいい」


「藍羽も入れるか」


「もちろん。ハヨンくんも、観測者として歓迎する」


「私は?」


 ひなたが聞いた。


「水守くんは、通常授業へ遅れない範囲なら」


「そこだけ急に教授らしい」


 ひなたが口を尖らせる。


 張っていた空気が、少しだけほどけた。


 目黒教授は十三枚の鏡を一枚ずつ確認し、危険な残留波だけ赤い線で封じた。壊さない。記録も消さない。


 そういうところを見ると、キャリーの観測像の警告が間違っているように思える。


 鏡へ映った赤い線を見ると、あの女の言葉が本当のように思える。


 オレの中で、答えは二つのままだった。


     *


 鏡を片づけたあと、蓮が目黒教授を呼び止めた。


「教授。報告が二件あります」


「聞こう」


「体育祭で発生した十三秒の計時差。それから文化祭の全域異常停止です。一昨日の停止では正式選闘の挑戦、相互請求、受諾がありません。決闘記録にも載っていない。けれど選択残響は実体化しました」


 蓮の手には、厚い進行台帳がある。


「関連性を含めて再調査を申請します」


「必要ない。どちらも処理済みだ」


 目黒教授の答えは短かった。


「体育祭は時門時計と観測装置の同期ずれ。文化祭は大量の未処理残響が、鏡面装置を出口にした事故。再発防止の校正は終えた」


「原因データを見せてもらえますか」


「顧問管理領域を含む。今は開示できない」


「いつなら?」


「必要になれば、私から知らせる」


 蓮の指が、台帳の角で止まった。


 予定表に入らない答えだ。


「承知しました」


 それでも蓮は頭を下げた。


 目黒教授が理科室を出る。


 足音が廊下の向こうへ消えてから、蓮は台帳を開いた。


【体育祭計時差――処理済み】


【文化祭異常停止――処理済み】


 二本の線を引く。


 いつもなら、そこで頁を閉じる。


 蓮は閉じなかった。


 欄外の、予定を書かない狭い場所へ小さく記す。


【顧問回答のみ。原因資料未確認。検証保留】


「蓮」


 鈴華が呼んだ。


「規則なら、無断の保留記載は改竄になりますか」


「なります。ただ、処理済みと断定するのも、確認していない僕には改竄です」


 蓮は消さなかった。


 鈴華は台帳をのぞき込み、黒い袖で文字を隠すように立った。


「収支が確定していないなら、締め切るべきではありませんわ」


「鈴華?」


 先輩が驚いた顔をする。


「わたくしは会計上の原則を述べただけです」


「オレは教授を信じたい」


 先輩は言った。


「信じるよ。昨日話したことは変わらない。あの人がオレを助けたことも、今日、危ない通信を止めたことも」


「では、この記録を消しますか」


 鈴華が聞く。


 先輩は台帳を見た。


「消さない。信じるのと、何も見ないのは違うだろ」


 蓮が頁を閉じた。


 三人はまだ、絶対運命補完委員会だった。


 目黒教授を顧問と呼び、もらった道具を持っている。


 それでも、教授の答えへ小さな保留を一つ残した。


 敵から味方へ、一本の線を飛び越えたわけじゃない。


 同じ机を運び、同じ舞台で失敗し、同じ鏡へ首を突っ込んで、少しずつ立つ場所が近くなった。


「帰るぞ」


 オレが言った。


「その前に教室の紙飾りを外す」


 ひなたが言う。


「まだあるのか」


「いっぱいある。委員会の皆さんも手伝ってくれますよね」


「もちろんだ!」


 先輩が答える。


「工程上は三十分です」


 蓮が言う。


「テープを壁紙ごとはがした場合、修繕費を請求しますわ」


 鈴華が言う。


「私は溶接機を使っていい?」


「使わない!」


 ひなたと藍羽の声が重なった。


 ハヨンがオレの横へ来た。


「お兄ちゃん」


「なんだ」


「特別授業、本当は止めたい」


「やっぱりか」


「目黒教授の狙いが分からない。キャリー博士の観測像による警告もある。私がもっと早く解析すれば、お兄ちゃんが行かなくて済むかもしれない」


「また勝手に決めるのか?」


「決めない」


 ハヨンは、すぐ答えた。


「止めたいのは私の考え。行くかはお兄ちゃんの選択。行くなら、危険だと思った時に言う。それを聞いて続けるかも、お兄ちゃんに決めてもらう」


「ずいぶん面倒になったな」


「選択肢を残すと、計算量が増える」


「嫌か?」


 ハヨンは首を振った。


「時間はかかる。でも、前より正しい」


「薬のことは、まだ許してないぞ」


「分かってる」


「謝るのも途中だ」


「分かってる」


「でも、鏡はよくできてた」


 ハヨンがオレを見る。


「それは褒めてる?」


「半分」


「残り半分は?」


「次はもっと安全にしろ」


「分かった」


 ハヨンの口元が、ほんの少し上がった。


 廊下の窓へ、夕方の学校が映っていた。


 赤い編み髪のオレ。


 長い濃紺の髪の藍羽。


 眼鏡を直すハヨン。


 紙飾りを抱えたひなた。


 雷綴を肩へ載せた先輩と、台帳を持つ蓮と、黒い和装の鈴華。


 全員が同じ方向へ歩いている。


 鏡の奥、誰もいないはずの青い場所で、長い黒髪が一度だけ揺れた。


幕間・目黒教授


 午後十一時五十九分。


 目黒教授の研究室には、時計が四つあった。


 壁の時計。


 机の時計。


 蓋のない懐中時計。


 赤い線だけで描かれた、針のない時計。


 四つは違う時刻を示している。


 窓の外には、欠けた月。


 机の上には、次の満月までの日数を記した表があった。


 一つ目の満月へ黒い丸。


 二つ目へ赤い丸。


 三つ目と四つ目へ、小さな黒い丸。


 五つ目へ、黒と赤と金の三重円。


 その横に、ハミンの二つの身体図。女の輪郭と男の輪郭をつなぐ細い金色の波形。文化祭で初めて測定された鼻歌の線が、満月表を横切っている。


 目黒教授は赤いペンで、金の線へ小さな印を付けた。


 机の端には、島の地図が開かれている。


【星見島・旧観測所】


 学園の校外研修先。


 海沿いの廃道、地下観測室、立入り禁止の洞窟。古い図面へ、現在は存在しない十三番目の階段が描かれていた。


 教授は満月表と観測所図面を重ねる。


 赤い文字を書く。


【帰還枝、自覚五回。現地で収穫】


 研究室の鏡に、長い黒髪の女は映っていない。


 それでも教授は、鏡へ向かって言った。


「先生。彼は自分で扉を選びます」


 返事はない。


「選べる形に整えるのが、私の仕事です」


 赤いペンから、インクが一滴落ちた。


 紙へ落ちる前に止まる。


 壁の時計が十二時を指した。


 机の時計は十一時五十九分のまま。


 懐中時計は十三秒だけ逆へ進む。


 針のない時計の中央に、赤い零が浮かんだ。


 止まったインクだけが、ゆっくり空中を上り、ペン先へ戻っていった。


エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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