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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第三章「文化祭は世界の継ぎ目で」
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16/48

第16話「笑顔のまま止まる客」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 文化祭当日の星環学園は、朝から匂いが多い。


 焼きそば。


 砂糖。


 ペンキ。


 新しい布。


 誰かが焦がした段ボール。


「最後のは何だ」


「美術部のスモーク実験」


 ひなたは廊下を走りながら答えた。


「火事じゃない?」


「時任先輩が確認済み。安全」


「蓮、今日は何人いるんだ?」


「一人です」


 背後から声がした。


 振り向くと、蓮が両手いっぱいに工程表を持っている。首から三つの時計を下げ、耳には連絡用の小型機。昨日より少しやつれている。


「でも仕事は五人分あります」


「寝たか?」


「二時間」


「寝ろ」


「文化祭が終わった予定表には、八時間入っています」


「予定より先に寝ていいぞ」


「いま寝たら進行が止まります」


「オレがやる」


「開始時刻を聞いても覚えていなかった人へは任せません」


「十時」


「九時四十分」


「近い」


「二十分を近いと言わないでください」


 蓮はオレの胸へ赤い札を留めた。


 《はみんぐ・ふれあ》出演者。


「集合、九時二十分。最終安全確認、九時二十五分。開場、九時三十分」


「分かった」


「復唱」


「集合九時二十。安全二十五。開場三十。開始四十」


「正解です」


「オレを何だと思ってる」


「信用していないわけではありません。予定に関してだけ信用していません」


 ひなたが戻ってきた。


「ハミン、衣装」


「これでいいだろ」


 明るい朱赤のチャイナ服風上着に黒いズボン。いつもの緋天衣だ。髪も男の時と同じ、一本の三つ編み。


「帽子は?」


「演武で飛ぶ」


「袖へ置いて。あと西能寺先輩を探して。正門で勝手に客引きしてる」


「客が増えるならいいんじゃないか?」


「『赤い編み髪の最強美少女と褐色の貴公子による愛の決闘』って宣伝してる」


「よし、殴ってくる」


「本番前に怪我させないで!」


     *


 先輩は正門前で、棒を旗みたいに掲げていた。


「本日九時四十分より、体育館横の特設舞台! 絶対に見逃すな!」


 高い声が人混みを越える。


 黒いスポーツシャツ。


 褐色の腕。


 黒髪の一部に紫。


 黙って立っていれば格好いいのに、口を開くと全部台無しになる先輩だ。


「先輩」


「ハミン! ちょうどいい。二人で――」


 腹へ拳を止めた。


 触れる直前。


 先輩のシャツだけが揺れる。


「宣伝文句を直せ」


「美少女が嫌か?」


「そこだけじゃない」


「最強は事実」


「愛の決闘って何だ」


「客が来る」


「嘘で集めるな」


「オレの愛は本物だ」


「決闘の内容が嘘だ」


 近くにいた小学生くらいの女の子が、母親の手を引いた。


「お母さん、愛の決闘見たい」


 母親が困っている。


 オレはしゃがんだ。


「愛はないけど、光る格闘はあるぞ」


「お姉ちゃんが戦うの?」


「オレは兄ちゃんだ」


「お兄ちゃん?」


「見た目はこうだけどな」


 女の子は少し考えたあと、笑った。


「じゃあ、赤いお兄ちゃん」


「そう。九時四十分から」


「行く!」


 手を振ってくれる。


 赤いお兄ちゃん。


 その子は三秒考え、赤い上着と「兄ちゃん」をそのまま一緒にした。どっちかを直せとは言わなかった。


 鈴の幻で胸に残った棘が、一本だけ抜けた気がした。


 立ち上がると、先輩が胸を押さえていた。


「ハミンが子どもへ見せる笑顔を、いつかオレにも」


「おまえも大体子どもだろ」


「三歳差は大きいぞ」


「精神年齢はオレより下」


「そこまで言うか?」


 鈴華が正門の内側から歩いてきた。


「京一。無許可宣伝による来場者動線の変更、看板追加、声量規定違反を確認しました」


「鈴華。文化祭は楽しむものだ」


「ええ。決算も楽しみにしております」


 先輩の顔が真面目になった。


「ハミン、戻ろう。集合時刻だ」


「逃げるな」


     *


 特設舞台の前には、開演十分前で百人以上いた。


「先輩の宣伝、効いてるな」


「認めたくない」


 ひなたは舞台袖から客席をのぞき、深呼吸した。


 クラスの仲間が受付と誘導へ立っている。大きな看板の前で写真を撮る客。鼻歌の参加方法を読む子ども。おっさんは最後列に座っていた。


 大きな身体。


 長い髭。


 紫の道衣。


 周囲の人が少しずつ距離を空けている。


「父さん、普通にしてれば怖くないのに」


 藍羽が衣装の帯を直しながら言う。


「普通に座ってるぞ」


「存在感の話」


「小さくなれないだろ」


 ハヨンは操作卓で六本の細い帯を確認していた。


 オレ。


 藍羽。


 先輩。


 蓮。


 鈴華。


 ハヨン自身。


 前の異常共鳴を受け、選塔の固定へ引かれにくくする位相帯だ。


「ひなたのは?」


「一般気脈では帯の出力が負担になる。つけないほうが安全」


「私、普通でごめんね」


 ひなたが冗談めかして言う。


「普通の人に見せる企画だろ。ひなたが平気じゃないと意味ない」


「そう言われると責任が重い」


「重くない。危なかったら逃げろ」


「ハミンがそう言う時、大体もう危ないの」


 ひなたはオレの編み髪を一度整えた。


「でも、今日は成功させよう」


「おう」


 拳を合わせる。


 蓮が指を三本上げた。


「三十秒前。全員位置へ」


 鈴華の小さな鈴。


 舞台裏へ澄んだ音が広がる。


「十秒」


 客席が暗くなる。


「五、四、三、二」


 ハヨンの指が操作盤へ触れる。


「一」


 舞台へ出た。


     *


 最初の掌打で、青い光が走った。


 藍羽の腕から肩、長い髪の先へ。


 オレが受け、回る。


 赤い線が床へ円を描く。


 客席から声が上がる。


 型どおり十手。


 自由演武、三十五秒。


 藍羽の目が変わった。


 予定の攻撃は右。


 来たのは左。


「やっぱり変えたな」


「ハミンも」


 笑う。


 赤と青が交差する。


 拳は当てない。


 当てる直前まで本気で進み、本気で止める。


 止めた気が光になる。


 三十五秒。


 蓮の合図。


 互いに一歩引き、礼。


 拍手が来た。


 次は先輩。


 棒が風を切る。


 初戦でオレを追い詰めた棒術。今日は白木の演武棒を使い、観客の近い舞台で型と間合いだけを見せる。


「この線の内側へ入らないでくれ!」


 先輩が台本どおり言った。


 ひなたが舞台袖で安心する。


「ただしハミンは――」


 マイクの音量がゼロになった。


 先輩の口だけが動く。


 客席が笑う。


 蓮が冷静に音量を戻した。


「安全説明を続けてください」


「……棒は振り下ろす方向だけでなく、戻る軌道も危険だ。演者が収めるまで近づかない」


「正解です」


 鈴華の鈴が重なる。


 幻惑は使わない。


 光の拍をそろえる小さな音だけ。


 最後に六人が舞台へ並ぶ。


 ひなたは袖から観客へ説明する。


「上手に歌う必要はありません。好きな一音を、自分の好きな長さで鳴らしてください」


 最初はまばら。


 子どもの高い声。


 男の低い声。


 笑って音にならない人。


 オレは呼吸を整える。


 ん――。


 鼻歌を入れた。


 藍羽。


 先輩。


 蓮。


 鈴華。


 ハヨン。


 ひなたも舞台袖から。


 客席の音が増える。


 観測器の輪へ光が走った。


 赤。


 青。


 金。


 同じ色に揃わない。


 違うまま触れ、光の粒を客席の上へ広げる。


 小学生の女の子が両手を伸ばした。


 粒は触れる前に消える。


 熱くない。


 痛くない。


 ただ、そこにいた全員が自分で鳴らした音のぶんだけ、光る。


 舞台袖のひなたが泣きそうな顔で笑っていた。


 ハヨンは計測画面を見ている。


 数字を追いながら、ほんの少し鼻歌を続けている。


 最後の光が消える。


 一拍遅れて、大きな拍手が来た。


「成功」


 藍羽が小声で言う。


「当たり前だ」


「昨日まで企画書を読んでなかったのに?」


「舞台に立てばオレのものだ」


「みんなのもの」


「そうだな」


 礼をする。


 顔を上げた時、客席の最後列で目黒教授が拍手していた。


 その隣でおっさんが腕を組み、ほんの少しうなずいた。


     *


 午前の公演が終わったあと、オレは文化祭を食べ歩いた。


「正確には、企画の巡回確認です」


 鈴華が言う。


「焼きそば三皿が?」


「味の確認」


「たこ焼き二舟は?」


「温度」


「クレープは?」


「女子生徒が一生懸命作ってた」


「最後だけ理由の分類が違います」


 鈴華は小さな帳簿へ金額を書いた。


「ハミンさんの食費は、文化祭予算から出ません」


「自分で払ってるぞ」


「念のため」


 先輩が紙皿を持って追いつく。


「ハミン、オレのクラスで肉を焼いている」


「行く」


「二人で」


「藍羽とハヨンも呼ぶ」


「一度くらい二人で食べてもいいだろ」


「鈴華がいる」


「鈴華は会計確認だ」


「わたくしはお邪魔でしたか」


「そんなことはない!」


「なら三人で」


「ハミン、交渉が上手くなったな」


「おまえが下手なんだ」


 廊下の向こうで、藍羽とハヨンが歩いてきた。


 藍羽は大きな虹色のアイスを抱えている。


 正しくは、ハヨンが両手で抱えるには大きすぎるため、藍羽が持っていた。七段。上から赤、橙、黄、緑、青、紫、白。


「何だ、それ」


「ハヨンちゃんが全部の味を比較したいって」


「一口ずつなら合理的」


「溶けるほうが早いだろ」


「お兄ちゃん、下から支えて」


「オレが持つのか」


「食べてもいい」


「なら持つ」


 七段アイスを受け取る。


 重い。


 上の赤が傾く。


 先輩が棒の先で支えた。


「オレの棒術を、こう使う日が来るとは」


「食べ物へ道具を触れないで」


 藍羽が止める。


 笑いながら中庭へ出た。


 空は高い。


 校内のどこからでも音楽と呼び込みが聞こえる。


 普通の文化祭だった。


 だから、午後の公演が始まる直前まで、三週間前の異常共鳴を怖いと思っていなかった。


     *


 二回目の公演。


 客席は午前より多い。


 正門の女の子も最前列へ座っていた。赤いお兄ちゃん、と手を振る。


 オレも振り返す。


「開演三分前」


 蓮が告げる。


 位相帯を確認。


 ハヨンが六本すべての表示を緑にした。


「朝より固定波が高い」


「危険か?」


「設定範囲内。でも上昇理由が不明」


「止める?」


 ひなたが聞く。


 ハヨンは画面を見た。


「出力を三パーセント下げる。続行可能」


「決めるの早いな」


 オレが言うと、ハヨンはこちらを見た。


「出演者全員に確認する。固定波が午前比一二パーセント高い。光量を落とせば安全基準内。続ける?」


 前なら自分一人で決めた。


 いまは聞く。


「オレはやる」


「私も」と藍羽。


「オレも」


「予定内です」と蓮。


「異常があれば停止します」と鈴華。


 ひなたがうなずく。


「続けよう」


「了解」


 ハヨンが出力を下げた。


 開演。


 演武は順調だった。


 自由演武へ入る。


 藍羽の拳を流す。


 赤と青の光。


 先輩の棒術。


 鈴華の鈴。


 最後の鼻歌。


 観客が自分の音を鳴らす。


 光が上がった。


 午前より弱いはずだった。


 なのに、金色の粒は天井を越えるほど高く噴き上がった。


「出力異常!」


 ハヨンが操作卓へ走る。


「停止する」


 蓮が音を切る。


 鼻歌が止まる。


 拍手が始まった。


 最前列の女の子が笑う。


 母親が隣で笑う。


 ひなたが舞台袖で胸を撫で下ろす。


 その笑顔のまま、全員が止まった。


 音が消える。


 拍手の手と手が触れる直前。


 空中の光が、落ちずに固まる。


 舞台袖から飛び出しかけたひなたの髪も止まった。


 逆向きの鐘は鳴っていない。


 挑戦もない。


 選塔へ問う声もない。


「異常停止」


 蓮が言う。


 動ける。


 オレ、藍羽、先輩、蓮、鈴華、ハヨン。


 位相帯の六人だけ。


「ひなた」


 舞台袖へ駆ける。


 ひなたの目は動かない。


 笑ったまま。


 呼吸も止まっている。


「代謝停止。通常の選闘静止と同じ」


 ハヨンが帯の端末をかざした。


「傷はついてない」


「解除方法は?」


「分からない」


「選塔の記録は」


 蓮が委員章を見る。


「選闘なし。審判環なし。請求なし。これは制度外です」


 客席の後ろで、何かが動いた。


 人じゃない。


 文化祭の看板。


 《はみんぐ・ふれあ》の文字が裏返る。


 お化け屋敷。


 喫茶店。


 格闘大会。


 クラスで選ばなかった企画名が、一秒ごとに入れ替わる。


 中庭の焼きそばが、たこ焼きへ変わる。


 クレープへ変わる。


 食べ物でなく、紙で作った試作品へ変わる。


 選ばれなかった案が、現在へ重なっている。


「舞台の裏!」


 藍羽が叫んだ。


 白い紙の人影が立ち上がる。


 顔がない。


 胸に「廃案」と赤い文字。


 一体。


 三体。


 十体。


 教室で捨てた企画書、直した台本、使わなかった衣装の布が集まり、人の形になる。


「選択殻」


 鈴華が鈴を構えた。


「体育祭の時より濃い」


 紙の人影が客席へ向かう。


 触れた客の服が変わった。


 制服。


 私服。


 存在しない舞台衣装。


 笑顔だけは同じ。


「触らせるな!」


 オレと藍羽が同時に飛び出す。


 さっきまでの演武。


 藍羽の掌打を、オレが受けて流す。


 流した力で紙の一体へ回し蹴り。


 赤と青の位相帯が光る。


 紙が散る。


 散った紙は床へ落ちず、別の案へ変わりながら集まり直す。


「倒せない」


 藍羽が言う。


「中心を切る必要がある」


 ハヨンは端末を走らせた。


「固定節が三つ。舞台装置、校舎中央の鏡面展示、選塔」


「塔へは行けるか?」


「最後。先に近い二つを落とす」


「役割を」


 蓮の声が震えたが、指示は速い。


「ハミンと如月さんは客席防衛。西能寺先輩、舞台装置の切断。閑崎先輩は殻の誘導。僕とハヨンさんで鏡面節へ行きます」


「蓮、おまえは時計を使い過ぎるな」


「必要な秒だけです」


「先輩、雷綴は」


「使わん。客が近い」


 棒だけで紙の影を払う。


 鈴華が音を鳴らした。


 ちりん。


 幻の舞台が反対側へ現れる。


 紙の人影がそちらを向く。


〈ハミンさん。右から五〉


 心へ声が届く。


「分かった、鈴華」


 右へ走る。


 五体。


 紅燕歩で最初の腕をかわす。


 藍羽が後ろから纏気を上げた。


「ハミン、低く!」


 しゃがむ。


 青い脚が頭上を通り、三体をまとめて払う。


 オレは残り二体の足元へ入る。


 紙の足をつかみ、互いへぶつけた。


 散る。


 また戻る。


「何度でも来るぞ!」


「だったら何度でも!」


 藍羽が笑った。


「文化祭中に言う台詞じゃねえな!」


「ハミンが言う?」


 舞台装置の下で、先輩が棒を差し込んだ。


「ハヨン! どの線だ!」


「赤以外」


「全部赤い!」


「その赤じゃない。位相表示で赤」


「見えん!」


「お兄ちゃん、右から二本目!」


「オレに言うな!」


「伝えて!」


「先輩、右から二本目!」


 先輩が棒をねじる。


 銀色の線が切れた。


 観測器の輪から光が消える。


 一つ目の固定節が落ちた。


 紙の人影が半分になる。


「次、鏡!」


 蓮とハヨンが走る。


 紙の人影が一体、舞台装置の梁へ這い上がった。白い指を照明用の横木の留め金へかけ、引く。


 止まっていた金具が、触れられた箇所から動く時間へ引き込まれる。留め金が、ゆっくり歪み始めた。


「蓮!」


 蓮が時計を開く。


 ち、ち、――ち。


 三度のためらい。


「針合わせが終わるまで、前へ!」


 ハヨンが床を転がり、落下線を外れる。蓮は留め金へ領域の中心を合わせたまま、最後までその場に残った。


 留め金の歪みが横木へ伝わる。横木まで動く時間へ引き込まれて、二人のいた場所へ外れた。


 ほとんど同時に針合わせが終わり、落下線を囲む空気が円く歪んだ。


 横木の落下が五分の一になる。


 蓮の唇から色が引く。


「蓮、いま!」


 蓮が横へ跳ぶ。


 ハヨンが先へ走り、蓮も続く。二人とも領域を出てから、蓮が時計を閉じた。


 速さを取り戻した横木が床へ叩きつけられた。鈍い音と振動が、動ける六人だけの時間へ響く。


 その振動で、ひなたの身体が舞台袖から傾く。


 紙の影が一体、そちらへ伸びた。


「ひなた!」


 間に入る。


 紙の指が肩へ触れた。


 景色が揺れる。


 オレの赤い髪が黒へ変わりかける。


 男の身体。


 すぐ女へ戻る。


 選ばなかった企画だけじゃない。


 選ばなかった身体まで引き出そうとしている。


「人のを勝手にめくるな!」


 紙の腕をつかむ。


 気を流す。


 鼻歌。


 自分の呼吸を置く。


 赤い髪が戻る。


 紙の影を舞台へ投げた。


 藍羽が蹴り抜く。


「ひなたは?」


「止まってるだけだ」


「ハミンの肩」


 紙で切れたらしい。


 緋天衣の朱赤の上着へ血がにじむ。汚れを弾く法宝なのに、傷口から流れ続ける血までは消せず、赤の上をさらに濃くしていた。


「あとだ」


 オレはひなたの身体を舞台の内側へ運んだ。


 笑顔のままのひなたは軽い。


 軽いのが怖い。


 いつもなら文句を言う。


 何も言わない。


「絶対戻す」


 聞こえていなくても言った。


     *


幕間・ハヨン


 校舎中央の鏡面展示は、美術部の企画だった。


 大小百枚の鏡をつなぎ、見る場所によって別の絵になる。


 いまは全部の鏡へ、違う星環学園が映っていた。


 制服の色が違う。


 校舎の形が違う。


 誰もいない。


 一枚だけ、海が映っている。


「ここ」


 ハヨンが走り込む。


 蓮は壁へ手をつき、荒い息をしていた。


「固定節は」


「鏡の奥」


「割る?」


「割った時の反応が不明」


「では、どうする」


「観測を切る。見なければ像は固定できない」


 ハヨンは白雲衣を脱いだ。身体から離れた袖とポケットの保管口が閉じたのを確かめ、鏡へかける。下にはいつもの黒いインナーが残った。


 一枚。


 二枚。


 蓮も制服の上着を外す。


 百枚は覆えない。


「目を閉じるだけでは?」


「鏡同士が互いを見てる」


「面倒な展示ですね」


「文化祭だから」


「その説明で納得していいのかな」


 蓮は時門時計の鎖を伸ばし、展示台の固定環へ掛けた。回転軸の横で領域の中心を定める。


「全部の鏡が互いを向かない瞬間を作ります」


「時計の残りは?」


「二十秒相当」


「使えるのは?」


「十五。残り五は退避」


「了解」


 ハヨンは位相校正器から細い導線を伸ばし、回転軸を囲む時間領域の外へ下がった。校正器の先端だけが軸の溝へ届く。


 時計が開く。


 ち、ち、――ち。


 三度のためらいと二秒の針合わせが終わるまで、ハヨンは導線端も境界の外へ残した。


 回転軸と周囲の駆動部を包む領域が五倍になる。内側にいるものを、時計は鏡だけと見分けていない。


 駆動力が軸から鏡枠へ伝わり、百枚の鏡も動く時間へ引き込まれる。


 百枚の像が流れる。


 互いを映さない角度。


「いま!」


 ハヨンが領域の外から、位相校正器の導線端を軸へ押し込んだ。


 青い火花。


 鏡の海が消える。


 二つ目の固定節が落ちた。


 蓮が時計の蓋を閉じる。回転軸と駆動部の速さが通常へ戻った。


 固定節を失った管理機構の反動が校舎の骨組みへ伝わり、学校全体を一度揺らした。


 舞台の紙人形が崩れた。


 だが、時間は戻らない。


 残る節は選塔。


 その時。


 上着をかけていない一枚の鏡へ、女が立った。


 艶のある長い黒髪。


 青緑の瞳。


 濃紺と白の外套。


 道場の鏡で一瞬見た人。


「あなたは」


 ハヨンが近づく。


 女は鏡の内側から掌を当てた。


 海の匂いがした。


 ここは校舎の中央だ。


 窓もない。


「聞いて」


 声が割れている。


 遠い水の底から話しているみたいだ。


「その本を、閉じて」


「本?」


「魔械文書(まかいもんじょ)」


 女の輪郭へ白い罅が走る。


「零頁(れいページ)を、総司に渡さないで」


 蓮が息を止めた。


「教授を知っているんですか」


「私の――」


 鏡へ赤い線が走った。


 女の声が切れる。


「待って!」


 ハヨンが鏡へ触れた。


 冷たいガラスだけ。


 ハヨンは鏡から白雲衣を回収し、もう一度羽織った。蓮も床へ落ちた制服の上着へ腕を通す。


 後ろで拍手が一度鳴った。


「見事な応急処置だ」


 目黒教授が、鏡の並ぶ廊下に立っていた。


 色のついた眼鏡。


 紫のスーツ。


 右手に赤いペン。


「教授」


 蓮が呼ぶ。


「どうして動けるんです」


「緊急管理者は、制度外停止へ入れる。君たちが二つの節を切ってくれた。残りは私が閉じよう」


 目黒教授は赤いペンを上げた。


 空中へ線を引く。


 遠くの選塔へ、見えない頁が重なる。


 赤線が一文字を消した。


 何の文字かは読めない。


 鐘が鳴った。


 順向きに、一度。


     *


ハミン


 音が戻った。


 最初に聞こえたのは、拍手だった。


 客席の手と手が触れる。


 最前列の女の子が笑ったまま、続きを言う。


「きれい!」


 止まっていた光が落ち、消える。


 ひなたが舞台袖から一歩踏み出した。


「ハミン?」


 オレはその前に立っていた。


 肩から血を流し、紙屑まみれで。


「何、その傷」


「舞台裏で切った」


「一秒で?」


 ひなたは周囲を見る。


 照明の横木が床へ落ちている。


 観測器の線が切れている。


 先輩の棒に紙が巻きついている。


 蓮とハヨンの姿は舞台袖にない。二人は、止まっているあいだに走った校舎中央へ残ったままだ。


「また止まったの?」


「おう」


 嘘をつけなかった。


「私、何も覚えてない」


「覚えてなくていい」


「よくない」


 ひなたはオレの肩へ清潔な布を押し当てた。


「一緒に作ったのに、危ない時だけ置いていかれるの、よくない」


「止めたのはオレじゃない」


「分かってる。でも、怖い」


「ごめん」


「ハミンが謝ること?」


「分からない」


「じゃあ、分からないって一緒に言って」


 ひなたの手が震えていた。


「分からない」


 オレは言った。


「でも、戻した」


「それは分かる」


 ひなたは客席の拍手を見た。


「ハミンが来る前、文化祭で心配するのは、台詞を忘れることと、予算が足りなくなることくらいだった」


「前のほうがよかったか?」


「分からない。怖いのは嫌。でも、ハミンがいなかった学校へ戻りたいわけじゃない」


 ひなたは布を結んだ。


 客席には異常を覚えている人はいない。


 公演が終わったと思い、拍手を続けている。


 目黒教授が舞台へ上がった。


「機材トラブルにより、午後公演はここで終了します。皆さん、落ち着いて係員の案内へ従ってください」


 教師の声。


 誰も疑わず立ち上がる。


 最前列の女の子だけが、オレの肩を見た。


「赤いお兄ちゃん、痛い?」


「これくらい平気」


「演武、すごかった」


「ありがとな」


 手を振る。


 女の子は母親と一緒に帰っていった。


 笑顔は、もう止まっていなかった。


     *


 保健室で傷を縫われた。


 三針。


 ハヨンは隣で経過を記録し、藍羽は窓際で腕を組んでいる。先輩は扉の外。男子は処置中へ入れないと養護の先生に追い出された。


「オレも男なんだけどな」


「今日は患者」


 藍羽が言う。


「先輩も負傷してる」


「かすり傷」


 扉の外から声がした。


「聞こえてるぞ」


「静かにしてください」


 蓮の声。


 鈴華もいる。


 誰も帰っていない。


 目黒教授は異常停止の後処理をしている。


「鏡の女、何て言った?」


 オレはハヨンに聞いた。


「魔械文書を閉じろ。零頁を教授へ渡すな、って」


「魔械文書」


 初めて聞く言葉だ。


「名前?」


「本の種類か固有名。まだ分からない」


「目黒教授を知ってた」


「知ってた」


「何者だと思う?」


「情報不足」


 ハヨンは記録端末を閉じた。


「でも、目黒教授が来た瞬間に通信が切れた」


「教授が助けた」


 藍羽が言う。


「あの人が最後の停止を解いた。私たちだけじゃ戻せなかった」


「そうだな」


「だから警告が嘘?」


「それも分からない」


 目の前で救ってくれた教授。


 鏡の中から、教授へ渡すなと言った女。


 どちらか一つだけを、すぐ正しいと決める必要はない。


 まだ。


「録音は?」


「赤線の直前まで」


「消すなよ」


「当然」


「誰にも渡すな」


 ハヨンはオレを見る。


「お兄ちゃんにも?」


「オレには聞かせろ」


「範囲が矛盾」


「じゃあ、渡す前に一緒に決める」


「了解」


 少し間があった。


「お兄ちゃん」


「何だ」


「さっき、私へ指示しなかった」


「何の話だ」


「続行するか、全員へ聞かせた」


「おまえが聞いたからだろ」


「……そう」


 ハヨンは赤いリボンへ触れた。


「文化祭、成功だった?」


「途中までは」


「途中だけ」


「最後も客は喜んでた」


「異常停止を除外すれば、午前公演の満足度推定九二パーセント」


「なら成功だ」


「八パーセントは?」


「次に埋める」


 藍羽が笑う。


「ハミンらしい」


「失敗したまま終われるか」


「明日も公演あるよ」


「機材は?」


「直せる」


 ハヨンが即答した。


「安全は?」


 ひなたの問いを思い出す。


 ハヨンも少し考えた。


「全員で確認して、決める」


「よし」


 保健室の外で、先輩が声を上げた。


「なら明日は予定どおり、ハミンとオレの再戦だ!」


「怪我人へ何言ってるの!」


 藍羽が扉を開ける。


「三針だぞ。戦える」


「ハミンも乗らないで」


 蓮が工程表を見せた。


「再戦は公演終了後。午後五時です。負傷状態を確認し、双方が続行へ同意した場合のみ」


「予定に入ってるのか」


「前からです」


 先輩が笑う。


「今度こそ、雷綴を見せる」


 肩の傷が少し痛んだ。


 それでも、身体の奥が熱くなる。


「いいな」


「ハミン」


 藍羽がにらむ。


「分かってる。明日、全員で決める」


「決闘する二人で決めるの」


「同じだろ」


「違う」


 違うらしい。


 保健室の鏡へ、赤い編み髪のオレが映っている。


 その肩越し。


 長い黒髪の女が一瞬だけ立っていた。


 唇が動く。


 総司。


 音は聞こえない。


 鏡の中へ海の青が広がり、すぐ保健室の白い壁へ戻った。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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