第14話「金の鈴は心の中で鳴る」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
文化祭の企画は、強いだけでは通らない。
面白いだけでも通らない。
安全で、予算内で、先生が見ても眉間を押さえず、クラスの半分以上が仕事を持てて、一般の客へ説明できる必要がある。
「敵より条件が多い」
「文化祭を敵にしないで」
ひなたは企画書の一枚目へ赤を入れた。
演武。
護身術体験。
光る気の計測展示。
オレと藍羽が出した案を、ひなたが学校で通る言葉へ直している。
「『本気で殴る』は削除」
「見せ場だぞ」
「『安全へ配慮した演武』」
「本気のほうが面白い」
「本気で安全にして」
「難しいな」
「文化祭だから」
教室の後ろでは、ハヨンが位相観測器を組み立てていた。
細い支柱の上へ透明な輪を三つ重ね、足元に銀色の箱。輪の中へ手を入れると、気の流れに合わせて青い光が走る。藍羽が試した時は、腕から肩へ水みたいな線が昇った。
オレが試すと、赤い線が二本に分かれた。
「きれい」
ひなたが言う。
「これ、客も触れる?」
「出力を五パーセント以下へ落とせば」
「爆発しない?」
「しない」
「ハヨンちゃんの『しない』、何パーセント?」
「九九・七」
「残りが怖い」
「一般的な照明器具の発煙確率より低い」
「比較で安心させようとしないで」
「去年の文化祭で確認したの、ホットプレートの数と消火器の場所くらいだったんだけど」
「今年は?」
「格闘家が本気を出さないことと、十二歳の研究機材が爆発しないこと」
「増えたな」
「ハミンが来てから、増えなくていい確認ばっかり増えたの」
ひなたは安全計画の欄へ「要確認」と書いた。
その時、教室の前扉が開いた。
入ってきたのは蓮だった。
白いシャツに制服のネクタイ。夏でも腕時計は外さない。片手に工程表、もう片方に黒い書類箱を持っている。
「文化祭企画の安全審査に来ました」
「早いな。まだ企画も決まってないぞ」
「決まってから止めるより、決める前に危険を減らしたほうがいい」
「止めに来たのか?」
「確認です」
蓮の視線がハヨンの観測器へ動いた。
わずかに困った顔になる。
「その機材の持ち込み届は」
「客員研究協力員の包括申請に含まれてる」
ハヨンが答えた。
「文化祭で一般公開する届は?」
「まだ」
「なら、公開試験はできません。選塔と同じ波形が出るなら、なおさらです」
ひなたが企画書を胸へ抱えた。
「危ないものなんですか?」
「分からないから止めます」
「分からないから調べる」
ハヨンが即座に返す。
「調査は研究室で。一般の生徒がいる教室では封印します」
「観測場所を変えるとデータも変わる」
「安全規則は変わりません」
「規則が現象より正しい根拠は?」
「規則は現象が分からない時に人を守るためにあります」
二人とも声を荒らげない。
なのに、空気が固い。
「蓮。委員会で話す」
オレは立ち上がった。
「ここでやると、ひなたの企画書が進まない」
「もう充分進んでないけどね」
「戻るまでに格闘大会を入れといてくれ」
「入れない」
*
委員会室には、黒い和装がよく似合う。
古い木の机。
壁一面の帳簿。
窓から入る午後の光。
閑崎鈴華は一番奥の席に座り、細い金の鈴を指先へ下げていた。長い金髪の先へ、桃色と水色が混じっている。黒一色の着物の上で、その髪だけが薄い光みたいに見えた。
先輩は窓際に立ち、オレたちが入るなり笑った。
「ハミン、文化祭でオレと演武するって?」
「おまえが出るとは言ってない」
「戦闘担当を外して、誰を出す」
「藍羽」
「如月は天道宗枠。オレは委員会枠」
「委員会の文化って何だ」
「絶対運命補完」
「客が帰るぞ」
「西能寺先輩、話を増やさないでください」
蓮が書類箱を机へ置く。
ハヨンも観測器の小型端末を置いた。
閑崎が二つを見比べた。
「公開前に、わたくしどもの監査を受けていただきます」
「監査の範囲は?」
ハヨンが聞く。
「機材の出力、選塔への干渉、来場者へ及ぶ可能性。危険が否定できなければ文化祭終了まで封印します」
「否定できないことと、危険であることは違う」
「はい。けれど、一般公開では立証する側が安全を示す必要があります」
ハヨンは眼鏡を押し上げた。
「合理的」
「じゃあ問題ないな」
「でも、封印は認めない」
「どっちだよ」
「私の管理下で追加試験をする。機材を渡す必要はない」
閑崎の鈴が、かすかに揺れた。
音はしない。
「ハヨンさん。あなたが非常に優秀であることは、教授から伺いました」
「目黒教授が?」
「同時に、未知の装置を単独判断で使用する危険も」
ハヨンの頬が硬くなる。
「それはお兄ちゃんの薬の話?」
「個人情報は伺っておりません。ただ、現在のハミンさんの身体と機材が関係するなら、わたくしたちにも保護責任があります」
「保護」
オレはその言葉を繰り返した。
「オレを?」
「ハミンさんだけではありません。文化祭へ来る方々もです」
「なら、オレに決めさせろ」
閑崎は静かにこちらを見た。
「どのように?」
「選闘」
蓮がすぐ口を開く。
「文化祭設備の安全審査を、格闘の勝敗で決めるのは反対です」
「安全かどうかは、勝っても変わらない」
「では何を賭けるんです」
「オレが負けたら、機材は文化祭が終わるまで封印。勝ったら、委員会が企画を手伝う。近くで見れば危険も分かるだろ」
蓮の指が書類の上で止まった。閑崎は会計台帳ではない、黒い薄冊子を棚から抜く。表紙に題名はない。先輩だけが笑うのをやめた。
「文化祭終了までの封印と、組織単位の参加条件」と蓮が低く言う。「通常の欄には収まりません」
「ですが、目黒教授の包括指示には該当します。未知機材が一般来場者へ及ぶ可能性がある場合、必要な条件を確保すること」
「鈴華。そこを使うのか」
「使わず事故を起こした場合、守られないのは事情を知らない生徒と来場者です」
三人だけが意味を知っている会話だった。オレが黒い薄冊子をのぞこうとすると、閑崎は袖で伏せる。
「何の欄だ?」
「期間と範囲の監査区分です」
丁寧な答えだった。質問には答えていなかった。
「お兄ちゃん」
ハヨンがオレを見る。
「おまえの機械を勝手に賭ける気はない。嫌ならやらない」
言ってから、待った。
ハヨンは端末へ触れる。
「私が負けるわけじゃない」
「オレが戦う」
「それが問題」
「じゃあ、どうしたい?」
すぐ答えは来なかった。
「……選闘の残響も測りたい」
「それは賛成ってことでいいか?」
「条件付き。破損した場合は委員会が同等機を弁償」
閑崎の目が少し細くなった。
「同等機の価格は?」
「試作原価で二百八十六万――」
「封印しましょう」
「まだ壊れてない!」
先輩が腹を抱えて笑った。
「鈴華の弱点を初めて見た。予算だ」
「京一。あなたの雷綴の修繕費を別枠から本枠へ戻します」
「雷綴って何だ?」
「オレの委員棒の名前だ。いつか、ちゃんと見せるかもな」
「すまん。笑ってない」
閑崎は鈴を握った。
「条件を受けます。わたくしがお相手いたしましょう」
「鈴華が?」
先輩の声から笑いが消えた。
「戦闘執行はおまえの担当だろ」
「これは機材と認識干渉の監査です。わたくしが適任です」
「その鈴を使うのか」
オレは聞いた。
「はい」
「前に、心へ声を入れたやつ」
「あれは警告だけです。法宝・心響鈴。今度は、選闘での機能をお見せします」
法宝。蓮の時門時計や、オレの緋天衣と同じ、崑崙の道士や仙人が使っていた道具だ。鈴の内側には、宝物庫で見た古い気の文字が幾重にも刻まれている。
閑崎の黒い袖だけが、窓から入る風と逆へ揺れた。
鈴はまだ鳴っていない。
背中が少し冷たくなる。
「面白そうだ」
「お兄ちゃん」
「分かってる。面白いだけで受けるんじゃない」
ハヨンを見る。
「勝って、近くで調べる」
「負けたら?」
「おまえと別の方法を考える」
「私が決める前提じゃなく?」
「一緒にだ」
ハヨンは端末を持ち上げた。
「残響記録しか取れない。選闘中は私も止まる」
「知ってる」
「心拍と気脈は帰還後に読む」
「頼む」
閑崎が立つ。
蓮が黒い薄冊子へ細い栞を挟んだ。いつもの透明な選片ではなく、灰色の栞だった。
「本当に、この区分で実行するんですね」
「条件を一字も増やしません。勝者が得るのは、いま双方が読み、同意した範囲だけです」
「それは当然だ」と先輩。「当然だから、確認してる」
三人の声には、戦いの勝敗とは別の緊張があった。けれど、オレへ黒い薄冊子の中身を見せる者はいない。
「塔まで行かなくていいのか?」
「選闘が成立すれば、ここにいる当事者二人の、止まった世界での写しだけが雲上闘技場へ移されます」と蓮。「委員会室そのものが動くわけではありません。終了後は、始めた場所へ戻ります」
「選塔に問います」
学生証へ赤い線が走った。
「閑崎鈴華が勝利した場合、位相観測器は文化祭終了まで封印。ハミンさんが勝利した場合、絶対運命補完委員会は文化祭企画へ協力する」
机の周囲の床へ黒と赤、二色の環が広がる。
文字が浮かぶ。
期間。
範囲。
委員会が行う仕事。
機材の封印方法。
全部読んだ。
「選ぶ」
閑崎も言う。
「選びます」
遠いチャイムが、逆向きに一音鳴った。
先輩の髪が止まる。
蓮が瞬きの途中で止まる。
ハヨンの指が端末へ触れる直前で止まる。
部屋から色が抜けた。
赤い環と、オレと閑崎の色だけが残る。先輩も蓮もハヨンも、止まった像から輪郭ごと薄れ、姿を消した。
委員会室の床と、扉の向こうの廊下があり得ない角度へ折れる。
身体を運ばれた感覚はない。次の一歩を置く場所だけが、塔の操作面へ重なった。
一歩踏む。
足元は白い床だった。
雲上闘技場。
直径百二十メートルの、雲より高い円い屋上。入口扉は外縁に一枚だけ残り、暗い膜で閉ざされている。
ここにいるのは、オレと閑崎だけだ。
*
『相互請求を確認しました。対価を数え、選闘を開始します』
女の声が空から降る。
聞くたび、知らないはずなのにどこかで会ったような気がする。
標準距離、十二歩。
閑崎は黒い草履で白い床へ立っている。武器は右手の鈴だけ。左手は袖の中。
「格闘は得意じゃないんだろ」
「京一ほどではありません」
「蓮よりは?」
「時計のない蓮よりは」
「分かりやすい」
「では、参ります」
黒い袖が揺れた。
風は右から左。
袖だけが左から右。
鈴が鳴る直前の動き。
見えた。
オレは床を蹴った。
十二歩を一気に詰める。
音を聞く前に手首を取る。
そのはずだった。
ちりん。
音は耳から入らなかった。
胸の内側で鳴った。
白い床が教室の床へ変わる。
目の前にひなたがいた。
「ハミン、今日から女子更衣室ね」
「何言ってる。いつも端の個室を使ってるだろ」
「だって、女の子なんだから」
ひなたの後ろで、クラスの女の子たちが笑う。
藍羽もいる。
長い髪を口元へ当て、オレを見て笑っている。
「男だって言い張るの、もうやめたら?」
胸へ何かが刺さった。
幻だ。
ひなたはそんな言い方をしない。
体育倉庫で、「女の子へ言う台詞じゃない」と怒鳴られたことはある。
あれは、落ちてきたひなたへ「重い」と言ったオレへの反射だ。オレを笑って、行く場所や名乗り方まで決める声じゃない。
鈴は、似た言葉を一番痛い向きへ曲げている。
藍羽は、女の身体のオレを最初からハミンとして殴ってくる。
分かっている。
それでも、笑い声が近い。
身体の外側から、呼び名を塗り替えられていく感じがする。
姉さん。
彼女。
女の子。
誰の声か分からない言葉が増える。
「オレは――」
肩へ衝撃が来た。
教室が割れ、白い床が戻る。
閑崎の掌が肩へ当たっていた。
力は強くない。
だが、オレは三歩も下がっている。
外周まで、あと二十歩。
「大きな幻、一つ」
閑崎は言った。
「数えてるのか」
「会計ですから」
「趣味が出てるぞ」
「ハミンさんほどではありません」
また袖が逆へ揺れる。
今度は見えた瞬間に耳を塞いだ。
ちりん。
掌の内側で鳴った。
〈目を閉じても結構。幻は、まぶたの内側へ参ります〉
声が直接届く。
景色が暗くなる。
道場の客間。
銀色の機械。
ハヨンが画面を見ている。
「お兄ちゃん。治療は完了」
オレは手を見る。
小さい。
赤い髪が肩へ触れる。
「変わってないぞ」
「これが正しい状態」
「何言ってる」
「男だった記録は誤差として消した」
画面の黒い人型へ赤線が走る。
消える。
「待て」
「もう戻らない。戻る必要もない」
「ハヨン」
「私が直したから」
声が聞こえる。
先輩がオレを彼女と呼ぶ。
蓮が女子生徒として記録する。
教授が笑って、新しい名前を渡す。
藍羽だけが何も言わず、知らない相手を見る目でこちらを見ている。
「違う」
分かっている。
ハヨンは、オレを姉とは呼ばない。
薬を勝手に飲ませた。
それでも、女の身体になったオレをお兄ちゃんと呼び続けた。
「違うって言ってるだろ!」
足元がなくなった。
白い雲が下にある。
場外へ片足が出ている。
閑崎は鈴を下げたまま、すぐ前に立っていた。
「大きな幻、二つ」
「危なかった」
「いまのは、あなたが一瞬でも思い得たものです」
「勝手に決めるな」
「わたくしが作れるのは、あなたが知らない世界ではありません」
「心は読めないんじゃなかったのか」
「読みません。強く意識された扉へ、音を置くだけです」
白い床へ戻る。
場外から一歩。
オレは息を吐いた。
鼻歌を鳴らす。
んー。
音程はどうでもいい。
吐く長さを一定にする。
足の裏へ意識を落とす。
冷たい。
闘技場の床は、見た目より冷たい。
左の掌を爪で押す。
痛い。
呼吸。
床。
痛み。
三つ。
「基準を作りましたか」
閑崎が聞く。
「おまえに教えるか」
「表情に出ています」
「嘘だろ」
「はい」
「おまえ、意外と性格悪いな」
「帳簿へは記録しないでください」
黒い袖が揺れる。
三つ目。
大きな幻は一戦で三景まで。
オレは袖が逆へ動く瞬間を見た。
今度は音を止めようとしない。
鼻歌を切らさず、床を蹴った。
ちりん。
満月だった。
男の身体に戻っている。
道場の庭。
おっさんを倒した夜の続き。
藍羽が笑っている。
「ハミン。おめでとう」
「もう一回やろうぜ」
「誰と?」
「おまえと」
「私、あなたを知らない」
藍羽の姿が遠くなる。
先輩も、蓮も、ひなたもいる。
オレの横を通り過ぎる。
「待て」
声をかけても振り向かない。
男へ戻ったオレの学生証には、星環学園の名前がない。
道場の部屋には赤い編み髪の写真だけが残り、そこへいたオレの時間が消えている。
戻りたかった。
ずっと戻りたかった。
なのに戻ったせいで、いまの仲間を失う。
そんな未来を、一度も考えなかったわけじゃない。
「ハミン」
藍羽が遠くで呼ぶ。
女の身体のハミンを。
オレじゃない誰かを。
胸が痛い。
爪が掌へ食い込む痛みとは違う。
床の冷たさが消える。
呼吸の音も遠い。
幻が、三つの基準を上から塗る。
このまま立ち止まれば、白い床の外へ押される。
オレは戻りたい。
オレは、ここで作ったものも失いたくない。
二つとも本当だ。
どちらかが本当なら、もう片方が嘘になるわけじゃない。
「勝手に一つにするな」
鼻から息を吸った。
長く吐く。
ん――。
自分の声が戻る。
「見た目を決めるのがオレじゃない日もある」
足の裏へ冷たさが戻る。
「戻る日を決めるのも、まだオレじゃない」
掌が痛い。
「でも、オレを名乗るのはオレだ」
道場の庭を踏み抜いた。
景色に亀裂が走る。
藍羽の背中が割れる。
満月が白い破片になって落ちる。
その向こうに閑崎がいた。
鈴を振り下ろした姿勢。
三歩先。
オレはもう走っている。
幻の中で進んだ足が、現実でも進んでいた。
紅燕歩。
小さく回る。
閑崎は下がった。
草履の足運びは静かで速い。格闘が不得手という言葉を、そのまま信じるほど遅くない。
右の鈴へ手を伸ばす。
左の袖から掌打。
読んで肩で受ける。
鈴へ触れた。
閑崎の目が見開く。
音が、逆流した。
教室。
知らない生徒の顔。
何十人もの声。
右へ行きたかった。
断りたかった。
まだ選びたかった。
返して。
返して。
返して。
オレの幻じゃない。
閑崎の中から流れてきた。
「何だ、これ」
「離れて……ください」
閑崎の顔から色が消える。
鈴を重ね過ぎた反動。
相手の恐れが、自分へ戻る。
オレが三つの幻で感じたものも、全部。
「もういい」
「降参は、わたくしが決めます」
「それ、蓮も言ってた」
「委員会ですから」
閑崎が鈴を上げる。
腕が震えている。
四つ目の大きな幻は使えない。
小さな知覚のずれで、オレの足を外へ向けるつもりだ。
袖が逆へ揺れた。
オレは音より先に踏み込んだ。
手首を取る。
鈴を奪わない。
鳴らす腕ごと抱え、回る。
閑崎の重心が浮く。
投げれば場外へ出せる。
その前に、身体から力が抜けた。
「おい」
膝から崩れる。
オレは腰を支えた。
黒い袖が白い床へ広がる。
『戦闘続行不能計数。一』
「閑崎」
「まだ……」
「もう鳴らすな」
「二」
鈴を握る指が開かない。
「三」
「声が」
「四」
「ずっと、聞こえるのです」
「五」
「数えなければ。誰の選択が、どれだけ失われたか」
「六」
「数えても返らないだろ」
閑崎がオレを見る。
「七」
「でも、数えないよりいい」
「八」
「そうだな」
「九」
閑崎は目を閉じた。
「……降参します」
鐘が鳴る。
『勝者、ハミン。選闘レベル2――条件選択の移譲を確認します』
「レベル2?」
雲上闘技場の景色が白くほどけ、傷と疲労を連れた二人の写しが、選闘を始めた委員会室へ重なった。
*
止まっていた委員会室が動き出す。
止まっていた音が一度に動いた。
ハヨンの指が端末へ触れる。
先輩が「鈴華」と呼ぶ。
蓮が机を回り込む。
閑崎はオレに支えられたまま、床へ座り込んだ。
「何があった」
先輩が聞く。
「残響記録を待って」
蓮は委員章を開く。
だが映ったのは、割れた満月と、オレが閑崎を支える最後の数秒だけだった。
「記録欠損が大きい」
「幻は外から記録しにくいのかも」
ハヨンはオレの手首へ計測帯を巻いた。
「心拍一四二。気脈乱れ。掌に自傷性圧痕」
「爪で押しただけだ」
「出血してる」
「基準に使った」
「別の方法を考えて」
ハヨンは消毒布を当てた。
前より先に聞くようにはなったが、治療へ入る時の速さは変わらない。
「蓮。レベル2って何だ」
委員章を閉じかけた蓮の手が止まった。
先輩はオレから目をそらさない。閑崎は床へ座ったまま、灰色の栞を両手で持っていた。三人とも、知らなかったふりはしなかった。
「一般の生徒が知っている選闘は、内部分類ではレベル1です」と蓮が言う。「一回、または最長七日までの軽微選択。昼食、当番、席、短い練習参加。通常は番号自体を公開していません」
「レベル2は、条件選択です」と閑崎が続けた。「部活動への所属、特定区域への立入り、一定期間の行動。最長で一学期。ですから、文化祭終了まで機材を封印する条件も、委員会が企画へ参加する条件も、こちらへ分類されます」
「最初に言わなかったな」
「これまで存在を知っていたのは、委員会の執行三名と目黒教授だけです」
「秘密なら、同意する相手へ黙って使っていいのか?」
閑崎が灰色の栞を握る指へ力を入れた。
「いいえ。条件の文章をすべてお見せしたことで、同意は成立すると判断しました。ですが、分類を伏せたまま判断させたことへの不信まで、規則で無効にはできません」
「すみません」と蓮が言った。「事故を止めることを優先しました。説明しないことに、慣れ過ぎていました」
「オレも止めるべきだった」と先輩。「戦うのは鈴華でも、知ってたのは同じだ」
胸の奥に、幻とは違う冷たさが残った。敵だったころより近くなったと思っていた。その近さの内側に、三人だけの扉があった。
「じゃあ、最初の先輩との選闘も?」
一つ目の白い枠。登録外。公開範囲。顧問指示。
「目黒教授から、登録外反応を公開範囲で測定するよう指示されていました」と蓮が認めた。「西能寺先輩との一戦はレベル1。聴取だけでなく、塔があなたをどの分類で受け入れるか測る目的もあった」
「勝負をやりたかったのは本当だ」と先輩が言う。「でも、それだけじゃなかった。悪い」
「今すぐ、いいとは言えない」
「それで構いません」と閑崎。
ハヨンは蓮の委員章へ残った階層表示を見ていた。二段目の下に、黒く塗られたもう一段がある。端に『L3/運――』とだけ浮かび、すぐ消えた。
「レベル3もあるの?」
蓮は委員章を伏せた。
「ここでは答えられません」
「また秘密か」
蓮は否定しなかった。
「ハミンさん」
閑崎が呼んだ。
「条件は成立しました。委員会は、あなた方の文化祭企画へ協力します」
「機械の安全確認も一緒にな」
「はい」
「それから」
少し迷った。
「鈴華」
呼び方を変える。
蓮を初めて名で呼んだ時とも、さっきまで「閑崎」と呼んでいた時とも違う。
オレがいま聞いた声を抱えている、一人の名前。
「あの声、何だ」
鈴華は鈴を両手で包んだ。
「選片の残響です」
「選ばれなかったやつらの?」
「正確には、選べなかった瞬間の感情。会計台帳へ選片を登録するたび、鈴へ触れます」
「ずっと聞こえるのか」
「生まれつき、近くにいる方が強く意識した感情や短い言葉が、不意に流れ込むことがありました。この鈴へ適合してからは、学園中と、保管された選片まで範囲が広がり、自分のものと区別できなくなったのです」
鈴華の声は静かだった。
「教授が、この鈴へ管理印を加えてくださいました。聞く量を減らし、わたくしが声を数字へ置き換えていた方法を濾過へ組み込み、会計という役目にしてくださいました」
先輩が何も言わず、隣へしゃがむ。
蓮も委員章を閉じた。
「目黒教授に助けられたんだな」
「はい」
迷いのない返事。
「ですから、わたくしは教授を信じています」
「いま聞こえた声よりも?」
「同じ秤へ載せるものではありません」
鈴華は立とうとした。
ふらつく。
オレと先輩が左右から腕を出した。
「二人も必要ありません」
「倒れるよりいいだろ」
「予算は取らない」
「京一は黙ってください」
いつもの鈴華へ少し戻った。
安心した瞬間。
鈴が、誰も動かしていないのに鳴った。
ちりん。
教室でも、闘技場でもない女の声が、耳のすぐ後ろへ届く。
〈その鈴は、聞くために作ったの〉
鈴華の肩が固まる。
オレにも聞こえた。
〈消すためではないわ〉
「誰だ」
振り向く。
委員会室の古い鏡へ、艶のある長い黒髪が一瞬だけ映った。
青緑の目。
知らない女。
瞬きの間に消える。
先輩と蓮は何も見ていなかった。
ハヨンだけが、端末を鏡へ向けていた。
「記録した」
「映ったか?」
「〇・二秒。画像はたぶん残ってない。でも波は残る」
鈴華は両手の鈴を見た。
「教授の声では、ありません」
それは分かる。
目黒教授は男だ。
でも、選闘の勝敗を告げる声と同じ言い方だった。
対価を数え、請求する声。
奇妙なほど近くて、ずっと遠い声。
金の鈴の中で、低い鼻歌が一度だけ返った。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




