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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第三章「文化祭は世界の継ぎ目で」
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14/48

第14話「金の鈴は心の中で鳴る」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

 文化祭の企画は、強いだけでは通らない。


 面白いだけでも通らない。


 安全で、予算内で、先生が見ても眉間を押さえず、クラスの半分以上が仕事を持てて、一般の客へ説明できる必要がある。


「敵より条件が多い」


「文化祭を敵にしないで」


 ひなたは企画書の一枚目へ赤を入れた。


 演武。


 護身術体験。


 光る気の計測展示。


 オレと藍羽が出した案を、ひなたが学校で通る言葉へ直している。


「『本気で殴る』は削除」


「見せ場だぞ」


「『安全へ配慮した演武』」


「本気のほうが面白い」


「本気で安全にして」


「難しいな」


「文化祭だから」


 教室の後ろでは、ハヨンが位相観測器を組み立てていた。


 細い支柱の上へ透明な輪を三つ重ね、足元に銀色の箱。輪の中へ手を入れると、気の流れに合わせて青い光が走る。藍羽が試した時は、腕から肩へ水みたいな線が昇った。


 オレが試すと、赤い線が二本に分かれた。


「きれい」


 ひなたが言う。


「これ、客も触れる?」


「出力を五パーセント以下へ落とせば」


「爆発しない?」


「しない」


「ハヨンちゃんの『しない』、何パーセント?」


「九九・七」


「残りが怖い」


「一般的な照明器具の発煙確率より低い」


「比較で安心させようとしないで」


「去年の文化祭で確認したの、ホットプレートの数と消火器の場所くらいだったんだけど」


「今年は?」


「格闘家が本気を出さないことと、十二歳の研究機材が爆発しないこと」


「増えたな」


「ハミンが来てから、増えなくていい確認ばっかり増えたの」


 ひなたは安全計画の欄へ「要確認」と書いた。


 その時、教室の前扉が開いた。


 入ってきたのは蓮だった。


 白いシャツに制服のネクタイ。夏でも腕時計は外さない。片手に工程表、もう片方に黒い書類箱を持っている。


「文化祭企画の安全審査に来ました」


「早いな。まだ企画も決まってないぞ」


「決まってから止めるより、決める前に危険を減らしたほうがいい」


「止めに来たのか?」


「確認です」


 蓮の視線がハヨンの観測器へ動いた。


 わずかに困った顔になる。


「その機材の持ち込み届は」


「客員研究協力員の包括申請に含まれてる」


 ハヨンが答えた。


「文化祭で一般公開する届は?」


「まだ」


「なら、公開試験はできません。選塔と同じ波形が出るなら、なおさらです」


 ひなたが企画書を胸へ抱えた。


「危ないものなんですか?」


「分からないから止めます」


「分からないから調べる」


 ハヨンが即座に返す。


「調査は研究室で。一般の生徒がいる教室では封印します」


「観測場所を変えるとデータも変わる」


「安全規則は変わりません」


「規則が現象より正しい根拠は?」


「規則は現象が分からない時に人を守るためにあります」


 二人とも声を荒らげない。


 なのに、空気が固い。


「蓮。委員会で話す」


 オレは立ち上がった。


「ここでやると、ひなたの企画書が進まない」


「もう充分進んでないけどね」


「戻るまでに格闘大会を入れといてくれ」


「入れない」


     *


 委員会室には、黒い和装がよく似合う。


 古い木の机。


 壁一面の帳簿。


 窓から入る午後の光。


 閑崎鈴華は一番奥の席に座り、細い金の鈴を指先へ下げていた。長い金髪の先へ、桃色と水色が混じっている。黒一色の着物の上で、その髪だけが薄い光みたいに見えた。


 先輩は窓際に立ち、オレたちが入るなり笑った。


「ハミン、文化祭でオレと演武するって?」


「おまえが出るとは言ってない」


「戦闘担当を外して、誰を出す」


「藍羽」


「如月は天道宗枠。オレは委員会枠」


「委員会の文化って何だ」


「絶対運命補完」


「客が帰るぞ」


「西能寺先輩、話を増やさないでください」


 蓮が書類箱を机へ置く。


 ハヨンも観測器の小型端末を置いた。


 閑崎が二つを見比べた。


「公開前に、わたくしどもの監査を受けていただきます」


「監査の範囲は?」


 ハヨンが聞く。


「機材の出力、選塔への干渉、来場者へ及ぶ可能性。危険が否定できなければ文化祭終了まで封印します」


「否定できないことと、危険であることは違う」


「はい。けれど、一般公開では立証する側が安全を示す必要があります」


 ハヨンは眼鏡を押し上げた。


「合理的」


「じゃあ問題ないな」


「でも、封印は認めない」


「どっちだよ」


「私の管理下で追加試験をする。機材を渡す必要はない」


 閑崎の鈴が、かすかに揺れた。


 音はしない。


「ハヨンさん。あなたが非常に優秀であることは、教授から伺いました」


「目黒教授が?」


「同時に、未知の装置を単独判断で使用する危険も」


 ハヨンの頬が硬くなる。


「それはお兄ちゃんの薬の話?」


「個人情報は伺っておりません。ただ、現在のハミンさんの身体と機材が関係するなら、わたくしたちにも保護責任があります」


「保護」


 オレはその言葉を繰り返した。


「オレを?」


「ハミンさんだけではありません。文化祭へ来る方々もです」


「なら、オレに決めさせろ」


 閑崎は静かにこちらを見た。


「どのように?」


「選闘」


 蓮がすぐ口を開く。


「文化祭設備の安全審査を、格闘の勝敗で決めるのは反対です」


「安全かどうかは、勝っても変わらない」


「では何を賭けるんです」


「オレが負けたら、機材は文化祭が終わるまで封印。勝ったら、委員会が企画を手伝う。近くで見れば危険も分かるだろ」


 蓮の指が書類の上で止まった。閑崎は会計台帳ではない、黒い薄冊子を棚から抜く。表紙に題名はない。先輩だけが笑うのをやめた。


「文化祭終了までの封印と、組織単位の参加条件」と蓮が低く言う。「通常の欄には収まりません」


「ですが、目黒教授の包括指示には該当します。未知機材が一般来場者へ及ぶ可能性がある場合、必要な条件を確保すること」


「鈴華。そこを使うのか」


「使わず事故を起こした場合、守られないのは事情を知らない生徒と来場者です」


 三人だけが意味を知っている会話だった。オレが黒い薄冊子をのぞこうとすると、閑崎は袖で伏せる。


「何の欄だ?」


「期間と範囲の監査区分です」


 丁寧な答えだった。質問には答えていなかった。


「お兄ちゃん」


 ハヨンがオレを見る。


「おまえの機械を勝手に賭ける気はない。嫌ならやらない」


 言ってから、待った。


 ハヨンは端末へ触れる。


「私が負けるわけじゃない」


「オレが戦う」


「それが問題」


「じゃあ、どうしたい?」


 すぐ答えは来なかった。


「……選闘の残響も測りたい」


「それは賛成ってことでいいか?」


「条件付き。破損した場合は委員会が同等機を弁償」


 閑崎の目が少し細くなった。


「同等機の価格は?」


「試作原価で二百八十六万――」


「封印しましょう」


「まだ壊れてない!」


 先輩が腹を抱えて笑った。


「鈴華の弱点を初めて見た。予算だ」


「京一。あなたの雷綴(らいてつ)の修繕費を別枠から本枠へ戻します」


「雷綴って何だ?」


「オレの委員棒の名前だ。いつか、ちゃんと見せるかもな」


「すまん。笑ってない」


 閑崎は鈴を握った。


「条件を受けます。わたくしがお相手いたしましょう」


「鈴華が?」


 先輩の声から笑いが消えた。


「戦闘執行はおまえの担当だろ」


「これは機材と認識干渉の監査です。わたくしが適任です」


「その鈴を使うのか」


 オレは聞いた。


「はい」


「前に、心へ声を入れたやつ」


「あれは警告だけです。法宝(ファーバオ)・心響鈴(しんきょうりん)。今度は、選闘での機能をお見せします」


 法宝。蓮の時門時計や、オレの緋天衣と同じ、崑崙の道士や仙人が使っていた道具だ。鈴の内側には、宝物庫で見た古い気の文字が幾重にも刻まれている。


 閑崎の黒い袖だけが、窓から入る風と逆へ揺れた。


 鈴はまだ鳴っていない。


 背中が少し冷たくなる。


「面白そうだ」


「お兄ちゃん」


「分かってる。面白いだけで受けるんじゃない」


 ハヨンを見る。


「勝って、近くで調べる」


「負けたら?」


「おまえと別の方法を考える」


「私が決める前提じゃなく?」


「一緒にだ」


 ハヨンは端末を持ち上げた。


「残響記録しか取れない。選闘中は私も止まる」


「知ってる」


「心拍と気脈は帰還後に読む」


「頼む」


 閑崎が立つ。


 蓮が黒い薄冊子へ細い栞を挟んだ。いつもの透明な選片ではなく、灰色の栞だった。


「本当に、この区分で実行するんですね」


「条件を一字も増やしません。勝者が得るのは、いま双方が読み、同意した範囲だけです」


「それは当然だ」と先輩。「当然だから、確認してる」


 三人の声には、戦いの勝敗とは別の緊張があった。けれど、オレへ黒い薄冊子の中身を見せる者はいない。


「塔まで行かなくていいのか?」


「選闘が成立すれば、ここにいる当事者二人の、止まった世界での写しだけが雲上闘技場へ移されます」と蓮。「委員会室そのものが動くわけではありません。終了後は、始めた場所へ戻ります」


「選塔に問います」


 学生証へ赤い線が走った。


「閑崎鈴華が勝利した場合、位相観測器は文化祭終了まで封印。ハミンさんが勝利した場合、絶対運命補完委員会は文化祭企画へ協力する」


 机の周囲の床へ黒と赤、二色の環が広がる。


 文字が浮かぶ。


 期間。


 範囲。


 委員会が行う仕事。


 機材の封印方法。


 全部読んだ。


「選ぶ」


 閑崎も言う。


「選びます」


 遠いチャイムが、逆向きに一音鳴った。


 先輩の髪が止まる。


 蓮が瞬きの途中で止まる。


 ハヨンの指が端末へ触れる直前で止まる。


 部屋から色が抜けた。


 赤い環と、オレと閑崎の色だけが残る。先輩も蓮もハヨンも、止まった像から輪郭ごと薄れ、姿を消した。


 委員会室の床と、扉の向こうの廊下があり得ない角度へ折れる。


 身体を運ばれた感覚はない。次の一歩を置く場所だけが、塔の操作面へ重なった。


 一歩踏む。


 足元は白い床だった。


 雲上闘技場。


 直径百二十メートルの、雲より高い円い屋上。入口扉は外縁に一枚だけ残り、暗い膜で閉ざされている。


 ここにいるのは、オレと閑崎だけだ。


     *


『相互請求を確認しました。対価を数え、選闘を開始します』


 女の声が空から降る。


 聞くたび、知らないはずなのにどこかで会ったような気がする。


 標準距離、十二歩。


 閑崎は黒い草履で白い床へ立っている。武器は右手の鈴だけ。左手は袖の中。


「格闘は得意じゃないんだろ」


「京一ほどではありません」


「蓮よりは?」


「時計のない蓮よりは」


「分かりやすい」


「では、参ります」


 黒い袖が揺れた。


 風は右から左。


 袖だけが左から右。


 鈴が鳴る直前の動き。


 見えた。


 オレは床を蹴った。


 十二歩を一気に詰める。


 音を聞く前に手首を取る。


 そのはずだった。


 ちりん。


 音は耳から入らなかった。


 胸の内側で鳴った。


 白い床が教室の床へ変わる。


 目の前にひなたがいた。


「ハミン、今日から女子更衣室ね」


「何言ってる。いつも端の個室を使ってるだろ」


「だって、女の子なんだから」


 ひなたの後ろで、クラスの女の子たちが笑う。


 藍羽もいる。


 長い髪を口元へ当て、オレを見て笑っている。


「男だって言い張るの、もうやめたら?」


 胸へ何かが刺さった。


 幻だ。


 ひなたはそんな言い方をしない。


 体育倉庫で、「女の子へ言う台詞じゃない」と怒鳴られたことはある。


 あれは、落ちてきたひなたへ「重い」と言ったオレへの反射だ。オレを笑って、行く場所や名乗り方まで決める声じゃない。


 鈴は、似た言葉を一番痛い向きへ曲げている。


 藍羽は、女の身体のオレを最初からハミンとして殴ってくる。


 分かっている。


 それでも、笑い声が近い。


 身体の外側から、呼び名を塗り替えられていく感じがする。


 姉さん。


 彼女。


 女の子。


 誰の声か分からない言葉が増える。


「オレは――」


 肩へ衝撃が来た。


 教室が割れ、白い床が戻る。


 閑崎の掌が肩へ当たっていた。


 力は強くない。


 だが、オレは三歩も下がっている。


 外周まで、あと二十歩。


「大きな幻、一つ」


 閑崎は言った。


「数えてるのか」


「会計ですから」


「趣味が出てるぞ」


「ハミンさんほどではありません」


 また袖が逆へ揺れる。


 今度は見えた瞬間に耳を塞いだ。


 ちりん。


 掌の内側で鳴った。


〈目を閉じても結構。幻は、まぶたの内側へ参ります〉


 声が直接届く。


 景色が暗くなる。


 道場の客間。


 銀色の機械。


 ハヨンが画面を見ている。


「お兄ちゃん。治療は完了」


 オレは手を見る。


 小さい。


 赤い髪が肩へ触れる。


「変わってないぞ」


「これが正しい状態」


「何言ってる」


「男だった記録は誤差として消した」


 画面の黒い人型へ赤線が走る。


 消える。


「待て」


「もう戻らない。戻る必要もない」


「ハヨン」


「私が直したから」


 声が聞こえる。


 先輩がオレを彼女と呼ぶ。


 蓮が女子生徒として記録する。


 教授が笑って、新しい名前を渡す。


 藍羽だけが何も言わず、知らない相手を見る目でこちらを見ている。


「違う」


 分かっている。


 ハヨンは、オレを姉とは呼ばない。


 薬を勝手に飲ませた。


 それでも、女の身体になったオレをお兄ちゃんと呼び続けた。


「違うって言ってるだろ!」


 足元がなくなった。


 白い雲が下にある。


 場外へ片足が出ている。


 閑崎は鈴を下げたまま、すぐ前に立っていた。


「大きな幻、二つ」


「危なかった」


「いまのは、あなたが一瞬でも思い得たものです」


「勝手に決めるな」


「わたくしが作れるのは、あなたが知らない世界ではありません」


「心は読めないんじゃなかったのか」


「読みません。強く意識された扉へ、音を置くだけです」


 白い床へ戻る。


 場外から一歩。


 オレは息を吐いた。


 鼻歌を鳴らす。


 んー。


 音程はどうでもいい。


 吐く長さを一定にする。


 足の裏へ意識を落とす。


 冷たい。


 闘技場の床は、見た目より冷たい。


 左の掌を爪で押す。


 痛い。


 呼吸。


 床。


 痛み。


 三つ。


「基準を作りましたか」


 閑崎が聞く。


「おまえに教えるか」


「表情に出ています」


「嘘だろ」


「はい」


「おまえ、意外と性格悪いな」


「帳簿へは記録しないでください」


 黒い袖が揺れる。


 三つ目。


 大きな幻は一戦で三景まで。


 オレは袖が逆へ動く瞬間を見た。


 今度は音を止めようとしない。


 鼻歌を切らさず、床を蹴った。


 ちりん。


 満月だった。


 男の身体に戻っている。


 道場の庭。


 おっさんを倒した夜の続き。


 藍羽が笑っている。


「ハミン。おめでとう」


「もう一回やろうぜ」


「誰と?」


「おまえと」


「私、あなたを知らない」


 藍羽の姿が遠くなる。


 先輩も、蓮も、ひなたもいる。


 オレの横を通り過ぎる。


「待て」


 声をかけても振り向かない。


 男へ戻ったオレの学生証には、星環学園の名前がない。


 道場の部屋には赤い編み髪の写真だけが残り、そこへいたオレの時間が消えている。


 戻りたかった。


 ずっと戻りたかった。


 なのに戻ったせいで、いまの仲間を失う。


 そんな未来を、一度も考えなかったわけじゃない。


「ハミン」


 藍羽が遠くで呼ぶ。


 女の身体のハミンを。


 オレじゃない誰かを。


 胸が痛い。


 爪が掌へ食い込む痛みとは違う。


 床の冷たさが消える。


 呼吸の音も遠い。


 幻が、三つの基準を上から塗る。


 このまま立ち止まれば、白い床の外へ押される。


 オレは戻りたい。


 オレは、ここで作ったものも失いたくない。


 二つとも本当だ。


 どちらかが本当なら、もう片方が嘘になるわけじゃない。


「勝手に一つにするな」


 鼻から息を吸った。


 長く吐く。


 ん――。


 自分の声が戻る。


「見た目を決めるのがオレじゃない日もある」


 足の裏へ冷たさが戻る。


「戻る日を決めるのも、まだオレじゃない」


 掌が痛い。


「でも、オレを名乗るのはオレだ」


 道場の庭を踏み抜いた。


 景色に亀裂が走る。


 藍羽の背中が割れる。


 満月が白い破片になって落ちる。


 その向こうに閑崎がいた。


 鈴を振り下ろした姿勢。


 三歩先。


 オレはもう走っている。


 幻の中で進んだ足が、現実でも進んでいた。


 紅燕歩。


 小さく回る。


 閑崎は下がった。


 草履の足運びは静かで速い。格闘が不得手という言葉を、そのまま信じるほど遅くない。


 右の鈴へ手を伸ばす。


 左の袖から掌打。


 読んで肩で受ける。


 鈴へ触れた。


 閑崎の目が見開く。


 音が、逆流した。


 教室。


 知らない生徒の顔。


 何十人もの声。


 右へ行きたかった。


 断りたかった。


 まだ選びたかった。


 返して。


 返して。


 返して。


 オレの幻じゃない。


 閑崎の中から流れてきた。


「何だ、これ」


「離れて……ください」


 閑崎の顔から色が消える。


 鈴を重ね過ぎた反動。


 相手の恐れが、自分へ戻る。


 オレが三つの幻で感じたものも、全部。


「もういい」


「降参は、わたくしが決めます」


「それ、蓮も言ってた」


「委員会ですから」


 閑崎が鈴を上げる。


 腕が震えている。


 四つ目の大きな幻は使えない。


 小さな知覚のずれで、オレの足を外へ向けるつもりだ。


 袖が逆へ揺れた。


 オレは音より先に踏み込んだ。


 手首を取る。


 鈴を奪わない。


 鳴らす腕ごと抱え、回る。


 閑崎の重心が浮く。


 投げれば場外へ出せる。


 その前に、身体から力が抜けた。


「おい」


 膝から崩れる。


 オレは腰を支えた。


 黒い袖が白い床へ広がる。


『戦闘続行不能計数。一』


「閑崎」


「まだ……」


「もう鳴らすな」


「二」


 鈴を握る指が開かない。


「三」


「声が」


「四」


「ずっと、聞こえるのです」


「五」


「数えなければ。誰の選択が、どれだけ失われたか」


「六」


「数えても返らないだろ」


 閑崎がオレを見る。


「七」


「でも、数えないよりいい」


「八」


「そうだな」


「九」


 閑崎は目を閉じた。


「……降参します」


 鐘が鳴る。


『勝者、ハミン。選闘レベル2――条件選択の移譲を確認します』


「レベル2?」


 雲上闘技場の景色が白くほどけ、傷と疲労を連れた二人の写しが、選闘を始めた委員会室へ重なった。


     *


 止まっていた委員会室が動き出す。


 止まっていた音が一度に動いた。


 ハヨンの指が端末へ触れる。


 先輩が「鈴華」と呼ぶ。


 蓮が机を回り込む。


 閑崎はオレに支えられたまま、床へ座り込んだ。


「何があった」


 先輩が聞く。


「残響記録を待って」


 蓮は委員章を開く。


 だが映ったのは、割れた満月と、オレが閑崎を支える最後の数秒だけだった。


「記録欠損が大きい」


「幻は外から記録しにくいのかも」


 ハヨンはオレの手首へ計測帯を巻いた。


「心拍一四二。気脈乱れ。掌に自傷性圧痕」


「爪で押しただけだ」


「出血してる」


「基準に使った」


「別の方法を考えて」


 ハヨンは消毒布を当てた。


 前より先に聞くようにはなったが、治療へ入る時の速さは変わらない。


「蓮。レベル2って何だ」


 委員章を閉じかけた蓮の手が止まった。


 先輩はオレから目をそらさない。閑崎は床へ座ったまま、灰色の栞を両手で持っていた。三人とも、知らなかったふりはしなかった。


「一般の生徒が知っている選闘は、内部分類ではレベル1です」と蓮が言う。「一回、または最長七日までの軽微選択。昼食、当番、席、短い練習参加。通常は番号自体を公開していません」


「レベル2は、条件選択です」と閑崎が続けた。「部活動への所属、特定区域への立入り、一定期間の行動。最長で一学期。ですから、文化祭終了まで機材を封印する条件も、委員会が企画へ参加する条件も、こちらへ分類されます」


「最初に言わなかったな」


「これまで存在を知っていたのは、委員会の執行三名と目黒教授だけです」


「秘密なら、同意する相手へ黙って使っていいのか?」


 閑崎が灰色の栞を握る指へ力を入れた。


「いいえ。条件の文章をすべてお見せしたことで、同意は成立すると判断しました。ですが、分類を伏せたまま判断させたことへの不信まで、規則で無効にはできません」


「すみません」と蓮が言った。「事故を止めることを優先しました。説明しないことに、慣れ過ぎていました」


「オレも止めるべきだった」と先輩。「戦うのは鈴華でも、知ってたのは同じだ」


 胸の奥に、幻とは違う冷たさが残った。敵だったころより近くなったと思っていた。その近さの内側に、三人だけの扉があった。


「じゃあ、最初の先輩との選闘も?」


 一つ目の白い枠。登録外。公開範囲。顧問指示。


「目黒教授から、登録外反応を公開範囲で測定するよう指示されていました」と蓮が認めた。「西能寺先輩との一戦はレベル1。聴取だけでなく、塔があなたをどの分類で受け入れるか測る目的もあった」


「勝負をやりたかったのは本当だ」と先輩が言う。「でも、それだけじゃなかった。悪い」


「今すぐ、いいとは言えない」


「それで構いません」と閑崎。


 ハヨンは蓮の委員章へ残った階層表示を見ていた。二段目の下に、黒く塗られたもう一段がある。端に『L3/運――』とだけ浮かび、すぐ消えた。


「レベル3もあるの?」


 蓮は委員章を伏せた。


「ここでは答えられません」


「また秘密か」


 蓮は否定しなかった。


「ハミンさん」


 閑崎が呼んだ。


「条件は成立しました。委員会は、あなた方の文化祭企画へ協力します」


「機械の安全確認も一緒にな」


「はい」


「それから」


 少し迷った。


「鈴華」


 呼び方を変える。


 蓮を初めて名で呼んだ時とも、さっきまで「閑崎」と呼んでいた時とも違う。


 オレがいま聞いた声を抱えている、一人の名前。


「あの声、何だ」


 鈴華は鈴を両手で包んだ。


「選片の残響です」


「選ばれなかったやつらの?」


「正確には、選べなかった瞬間の感情。会計台帳へ選片を登録するたび、鈴へ触れます」


「ずっと聞こえるのか」


「生まれつき、近くにいる方が強く意識した感情や短い言葉が、不意に流れ込むことがありました。この鈴へ適合してからは、学園中と、保管された選片まで範囲が広がり、自分のものと区別できなくなったのです」


 鈴華の声は静かだった。


「教授が、この鈴へ管理印を加えてくださいました。聞く量を減らし、わたくしが声を数字へ置き換えていた方法を濾過へ組み込み、会計という役目にしてくださいました」


 先輩が何も言わず、隣へしゃがむ。


 蓮も委員章を閉じた。


「目黒教授に助けられたんだな」


「はい」


 迷いのない返事。


「ですから、わたくしは教授を信じています」


「いま聞こえた声よりも?」


「同じ秤へ載せるものではありません」


 鈴華は立とうとした。


 ふらつく。


 オレと先輩が左右から腕を出した。


「二人も必要ありません」


「倒れるよりいいだろ」


「予算は取らない」


「京一は黙ってください」


 いつもの鈴華へ少し戻った。


 安心した瞬間。


 鈴が、誰も動かしていないのに鳴った。


 ちりん。


 教室でも、闘技場でもない女の声が、耳のすぐ後ろへ届く。


〈その鈴は、聞くために作ったの〉


 鈴華の肩が固まる。


 オレにも聞こえた。


〈消すためではないわ〉


「誰だ」


 振り向く。


 委員会室の古い鏡へ、艶のある長い黒髪が一瞬だけ映った。


 青緑の目。


 知らない女。


 瞬きの間に消える。


 先輩と蓮は何も見ていなかった。


 ハヨンだけが、端末を鏡へ向けていた。


「記録した」


「映ったか?」


「〇・二秒。画像はたぶん残ってない。でも波は残る」


 鈴華は両手の鈴を見た。


「教授の声では、ありません」


 それは分かる。


 目黒教授は男だ。


 でも、選闘の勝敗を告げる声と同じ言い方だった。


 対価を数え、請求する声。


 奇妙なほど近くて、ずっと遠い声。


 金の鈴の中で、低い鼻歌が一度だけ返った。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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