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はみんぐ・ふれあ  作者: JING
第三章「文化祭は世界の継ぎ目で」
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13/48

第13話「十二歳の博士がやって来た」

オープニングテーマ「HUMMING」

https://youtu.be/azhMg2sRa5g

第三章「文化祭は世界の継ぎ目で」


 おっさんに一度勝ったからといって、朝の雑巾がけが免除されるわけじゃなかった。


「勝者には、もう少し敬意があってもいいんじゃないか?」


「一度勝っただけの小僧が、床より偉くなる道場はない」


 おっさんは板間の中央で腕を組んでいた。


 窓から入る夏の朝日が、長い黒髪と髭の輪郭を赤くしている。あの満月の夜、オレはこの大男を先に立てないところまで追い込んだ。ほんの一呼吸ぶん先に立って、初めて勝った。


 次の日から、掃除する面積が二倍になった。


「勝ったやつへのご褒美じゃないだろ、これ」


「勝ち方を覚えた者には、負け方を忘れぬ修行が要る」


「雑巾で?」


「雑巾でじゃ」


「父さん。ハミン、口より手が止まってる」


 道場の反対側を拭いていた藍羽が言った。


 濃紺の長い髪を高くまとめ、水色のTシャツに紺のジャージ。朝稽古のあとでも息一つ乱していない。オレが勝った夜から、こいつの稽古量はさらに増えた。


「手は止まってない」


「進んでない」


「床が伸びてる」


「負けた理由を床にしないで」


 雑巾を押す手に力を入れた。


 女の身体で過ごすのも、四か月を越えた。


 朝起きて手が小さいことへ驚く日はもう少ない。一本の三つ編みが寝返りで首へ巻きつくのも、声が思ったより高く出るのも、緋天衣の明るい朱赤の上着を男だった頃と同じ位置で留めようとすると手が一度空を切るのも、だいたい覚えた。


 慣れた、とは少し違う。


 この身体でどう立てばいいかを、毎日覚えている。


 満月だけ男へ戻る。


 月が沈めば、また赤い編み髪の身体になる。


 あの勝負のあと、六月と七月の満月にも男へ戻った。おっさんは「戻れるか確かめる夜を毎度勝敗へ使うな」と再戦を受けず、オレは男の身体で紅燕歩の半径と呼吸だけを測り直した。


 元へ戻れた夜におっさんへ勝てたのは嬉しかった。だが、勝たせたのは男の身体だけじゃない。藍羽に習った低い重心、蓮の時計から覚えた拍、女の身体で五度負けて見つけたおっさんの呼吸。


 全部持って立てたから、一度だけ届いた。


「次は、この身体でも一発入れる」


 雑巾を絞りながら言う。


「一発で満足するの?」


 藍羽がすぐ食いついた。


「最初は一発。次は二発。そのうち勝つ」


「私が先に勝つ」


「オレを秒殺できるようになってから言え」


「今やる?」


「掃除が終わってからじゃ!」


 おっさんの声で、二人そろって雑巾へ戻った。


 その時、道場の外で重いものが落ちた。


 どすん、ではない。


 どがしゃん、がらがら、きゅいーん。


 最後の音だけ機械だった。


「何?」


 藍羽が立つ。


「敵か?」


「朝から荷物を落として攻めてくる敵がいる?」


「油断させる作戦かもしれない」


「おぬしら、まず玄関を見てこい」


 おっさんに言われ、廊下を走った。


 玄関の引き戸を開ける。


 庭に銀色の箱が七つ積まれていた。


 一つはオレより大きい。側面に黄色と黒の縞、赤い文字で「上」と書かれている。上を示す矢印が横を向いていた。さっき落ちたせいだろう。


 箱の山の頂上から、淡い銀髪が出ている。


 丸眼鏡。


 赤いリボン。


 大きすぎる白いパーカー。開いた襟から黒いインナーが見える。


「お兄ちゃん」


 ハヨンは箱の上で膝を抱え、平然とオレを見下ろした。


「来た」


「見れば分かる!」


「そう」


「連絡しろよ!」


「昨日の二十三時四分に送った」


「寝てた」


「お兄ちゃんにしては健全」


「そこから下りろ。あと、その箱、何だ」


「お兄ちゃんを戻すための最低限の機材」


「小さい物なら、白雲衣へ入れればいいだろ」


「もう入ってる」


 ハヨンが白い袖口を持ち上げた。


「管理番号K―一七、基準校正液」


 何もなかった袖の奥から、小瓶が滑り出る。


「白雲衣の固有機能、《袖里乾坤(しゅうりけんこん)》。袖とポケットの内側が、小さな薬品保管庫につながってる。薬品、試料、小型器具なら大量に入る。中では温度、光、振動の影響を受けず、入れた状態が保たれる。容器同士も触れないから、瓶が割れたり中身が混ざったりもしない。私が成分名か管理番号を言えば、指定した物だけが袖から出る」


「なら、七箱も入れろ」


「生き物と大型機械は入らない。これは全部、大型」


「入れ物が賢いだけか」


「保管と検索だけ。薬を作ったり分析したりはしない。使いこなすのは私」


 七箱あって最低限らしい。


 ハヨンは箱の縁へ手をつき、飛び下りた。着地で大きな白いパーカーの裾が膨らむ。十二歳の身体には大きすぎる眼鏡を中指で押し上げ、オレの頭から足までを眺めた。


 顔を見るのは出国した日以来だ。


 画面越しには何度も話した。薬の記録も送らせた。文句も言った。


 それでも、目の前に立たれると、言いたかったことが一度に喉へ詰まった。


「久しぶり」


 先にハヨンが言った。


「おう」


「身長、一四八・二。前回自己申告より一・一センチ高い」


「最初にそこか?」


「安心したから」


 小さい声だった。


 すぐに平らな顔へ戻る。


「でも固定相は変わってない。視認できる範囲で女体相が継続。毛髪色、虹彩色、骨格比にも自然復帰の兆候なし」


「久しぶりの兄へ言うことか、それ」


「治しに来たから」


「治すだけで終わらせる気か?」


 ハヨンの指が、赤いリボンの端へ触れた。


 そこだけ止まる。


「治せば、謝罪の実体になる」


「順番が逆だろ」


「結果のない言葉よりは正確」


「ハヨン」


 銀色の箱が、きゅい、と鳴った。


 二人ともそちらを見た。


「……冷却ユニットが傾いてる」


「逃げたな」


「物理的に危険」


 ハヨンは箱へ駆け寄った。オレも追いかける。


 怒っている。


 心配もしていた。


 会えたのは嬉しい。


 全部いっぺんにあるから、どれか一つだけを口にするのが難しかった。


「ハミン」


 藍羽が玄関から出てきた。


「その子が、ハヨンちゃん?」


 ハヨンは箱を立て直しながら振り返る。


「あなたが藍羽さん」


「私のこと、聞いてる?」


「お兄ちゃんに、開始七秒で投げられた人」


 藍羽の眉が動いた。


「その話から入るの?」


「そのあと毎日再戦して、まだ一度も一本を取れていない」


「余計なことまで言うなよ」


「データは正確に」


 藍羽が笑った。


 明るい笑顔だが、稽古で本気になる直前と同じだった。


「科学者なんだよね」


「そう」


「身体を見れば、格闘も全部分かる?」


「必要な計測が揃えば、改善率は出せる」


「じゃあ、私がハミンに勝つ方法も?」


「現状の映像二百十四試合分を解析済み。踏み込み時の右肩を一・八センチ下げて、二手目の選択を――」


「待て、何で二百十四試合もある」


「道場の防犯記録」


「勝手に見たのか!」


「お母さん経由で取得した」


「母さん!」


 遠い空の下にいる母さんへ叫んでも返事はない。


 藍羽はハヨンの説明を最後まで聞かなかった。


「数字で分かるなら、やってみて」


 右足を半歩引く。


「私は数字にならない動きで返すから」


「数字にならない動きは、まだ計測していない動き」


「二人とも、箱を運んでからにしろ」


 オレは一番大きな箱を持ち上げた。


 見た目より重い。


 腰を落とす位置が少しずれ、箱の角が膝へ当たった。


 ハヨンの目がそこへ向く。


「お兄ちゃん、いま男体時の重心で持った」


「分かってる」


「分かっていて直せてない」


「うるさい」


「藍羽さん。お兄ちゃんは『分かってる』と言う時、だいたい分かってない」


「知ってる」


「仲良くなるな」


 二人は箱の反対側を持った。


 おっさんが玄関に立ち、髭の奥で楽しそうに笑っていた。


     *


 道場の客間は、その日のうちに研究室になった。


 畳の上へ絶縁布が敷かれ、銀色の箱が壁を埋める。半透明の筒、三つの画面、四本の腕がついた台、頭へかぶる輪。仏壇の前だけはおっさんが守った。


 藍羽も、運び終えた機材箱の横に立っていた。


「藍羽さんに、外からの姿勢変化を見てもらう。同席していい?」


「おう」


「じゃあ、ここにいるね」


 藍羽は壁際へ椅子を寄せた。


「宗教施設へ持ち込む見た目じゃないな」


「持ち込み禁止の規定はなかった」


 ハヨンが真顔で聞く。


 廊下でおっさんが咳払いをした。


「聞こえてるぞ」


「天道宗の宗教法人としての登記、活動内容、公開範囲の会計情報も確認済み。高額献金なし、強制勧誘なし、主な収入は月謝と地域イベント。危険度は低い」


「調べたのか」


「居候先だから」


「十二歳が居候先の財務まで見るな」


 黒い和装の誰かなら喜びそうだ。


 オレは上着を脱ぎ、計測台へ立った。


 ハヨンが腕へ細い帯を巻く。胸、腰、足首。帯の内側で青い点が走った。


「痛い?」


「今はない」


「息苦しさ」


「なし」


「満月前後以外の相転換兆候」


「なし」


「恋愛対象の変化」


「かわいい女の子が好き」


「継続」


「そこ、検査項目に入れるな」


「当初目的の失敗確認」


 ハヨンは画面へ印をつけた。


 冗談にしていいのか迷う声だった。


「お兄ちゃん。採血」


「好きにしろ」


「その同意は範囲が広すぎる。採血二十ミリリットル、薬効成分と相転換残留物の検査にだけ使う。保存は三十日。期限後はお兄ちゃんの立会いで無害化する。いい?」


 少し驚いた。


 以前のハヨンなら、針を刺してから目的を説明したかもしれない。


「いい」


「採血セット、管理番号二〇」


 ハヨンが白雲衣の袖へ告げると、密封された採血器具が袖口へ滑り出た。


 続けて消毒綿と三本の採血管を出すうち、ハヨンの指先が少し白くなった。保管口を短時間に何度も開けば、本人の法力と集中を使う。出し入れは一瞬でも、無制限じゃない。


「なんで、そんなに血の扱いに慎重なの?」


 壁際の藍羽が聞いた。


「道士の血は、身体から離れても持ち主の気脈とのつながりが残る。術の媒体にされることがあるから、採血みたいに密封して保存する時は、特に慎重に扱うんだ」


「対応する召喚法宝の契約へ流用されたら、異界の魔族を呼び出す照合鍵にもなり得る。管理番号、用途、期限、処分まで記録して一組」


 ハヨンが三本の採血管を確認する。


「だから道士同士でも、血液や髪は簡単には渡さない。崑崙じゃ最初に習うことだ」


 オレが続けると、藍羽が瞬いた。


「ハミン、そういう修行もしてたんだ」


「そういうって何だ。戦うだけが道士の修行じゃない」


「右腕」


「左にしろ。右は稽古で使う」


「了解」


 消毒綿が冷たい。


 針が入る。


 ハヨンは手元を一度も震わせなかった。採れた赤い血を三本の細い容器へ分け、管理番号と使用期限を刻む。一本ずつ銀の封印環へ通してから、機械へ差し込んだ。


 画面へ数字が流れる。


 一分。


 三分。


 ハヨンの眉が少しずつ寄る。


「遠隔計測で立てた予測と一致」


「何がだ」


「長期徐放担体は、留学終了までの設計範囲で血中を循環してる。指向式も気脈にある。でも主成分と代謝産物、予定外の相転換を起こした触媒は検出限界以下。指向式は恋愛指向に作用してないし、身体相を維持する式でもない」


「飲んだのは四か月前だぞ」


「身体相へ作用が逃げた時点で、通常の半減期から自然復帰日は出せなくなった」


「じゃあ、何で戻ってない」


「それが変」


 ハヨンが別の画面を開いた。


 赤い人型が一つ。


 その外側を、薄い白線が囲んでいる。


「予定外の触媒が消えたあと、残ってる担体と指向式だけなら出生相へ戻る揺れが出てもいい。でも遠隔計測で疑っていた外部場が、いま白い固定波として出てる」


「満月には戻る」


「満月の自然照合だけが、外からの固定を一時的に上回ってる。遠隔では可能性までだった。いま現地の採血と波形で確かめた。普段は、別の何かがお兄ちゃんをこの形へ留めてる」


 客間の空気が少し冷えた。


「誰かが押さえてるってことか?」


「人か、場所か、装置か。まだ分からない」


「じゃあ、残ってる担体を消せば戻るのか?」


「単純な解毒はしない。外部場と二つの身体相が絡んでる。先に担体を消すと、どちらか一方の身体相と気脈まで傷つける可能性がある」


「治しに来たんだろ」


「だから、危険な処置はしない。固定してるものを先に特定する」


 ハヨンは機械の感度を上げた。


 画面の白線が震える。


 低い音がした。


 ん――。


 道場の床下から。


 オレが呼吸を整える時に鳴らす鼻歌より、少し低い。


 ハヨンが顔を上げる。


「聞こえた?」


「おう」


「十三ヘルツ未満。普通の人には、音より振動として感じる帯域」


「前から鳴ってる」


「いつから?」


「日本へ来た日」


「どうして言わなかったの」


「耳鳴りだと思ってた」


「お兄ちゃんの耳鳴りが床から鳴る?」


「耳は頭にあるから、床から鳴らないのか?」


「その疑問を四か月寝かせないで」


 ハヨンは床へ検出器を当てた。


 十三重円が描かれた板間の方向へ、青い波が伸びる。


 白い固定線と同じ周期だった。


「学校でも測る」


「入れるのか、この機械」


「私は星環学園大学部の客員研究協力員になった」


「十二歳だぞ」


「研究協力員に年齢制限はない」


「いつの間に」


「昨日」


「来るって連絡するより先に手続きしたのか」


「入構許可のほうが時間かかるから」


 そういうところは母さんに似ている。


 問題があると、答えへ向かう速さだけは誰より早い。


 その答えを使っていいか、本人へ聞くのを忘れるところも。


 計測台を下り、朱赤の上着を着直した。緋天衣は留め紐を結ぶ前から肩へ沿い、いつもの寸法へ戻った。


     *


 夏休み最後の一週間、星環学園はもう文化祭の準備へ入っていた。


 教室の黒板には企画案が並んでいる。


 お化け屋敷。


 喫茶店。


 迷路。


 演劇。


 格闘大会。


「最後のを書いた人、消して」


 ひなたが教卓の前で言った。


「何でだ」


「学校の文化を見せる祭りだから」


「格闘も文化だろ」


「ハミンの文化、殴る割合が高すぎるの」


「演武なら?」


「怪我人を出さないなら候補」


「出さない」


「即答が一番不安」


 ひなたは黒板へ「演武・安全計画必須」と書き足した。


 藍羽が隣で手を挙げる。


「天道宗として参加できる。子ども向けの護身術も入れられるし」


「それなら文化っぽい」


「オレと藍羽の本気の一本も入れる」


「入れない」


「何でだよ」


「本気の一本は観客が止められないから」


「止めなくていいぞ」


「そういう意味じゃない!」


 教室の後ろで銀色の機械が鳴った。


 ハヨンが机二つを占領し、床、壁、天井へ検出器を向けている。客員用の札を首から下げているせいで、見た目だけなら小学生の科学クラブだ。


「お兄ちゃん。こっち」


「いま文化祭」


「身体相固定と文化祭、優先順位を比較する?」


「どっちも大事」


「お兄ちゃんの優先順位はだいたい食事、格闘、女の子、その他」


「学校行事は女の子が多い」


「分類方法が最低」


 ひなたが額を押さえた。


「その子が妹さん?」


「そう。ハヨン」


「お兄ちゃんを女の子にした」


 ハヨンが自分で言った。


 教室の空気が止まった。


 ひなたはハヨンを見て、オレを見た。


「それ、どこまで聞いていい話?」


「オレが男だってのは、ひなたも知ってるだろ」


「知ってる。でも、原因まで聞くのは別」


「原因はこいつ」


「お兄ちゃんの説明は大きく省略してる」


「じゃあ自分で言え」


 ハヨンは眼鏡へ触れた。


「私が、お兄ちゃんの同意なしに薬を飲ませた。狙った効果と違う相転換が起きた」


 数字の報告みたいな声だった。


 ひなたは笑わなかった。


「それ、だめじゃない?」


「だめだった」


「だった、じゃなくて。今も?」


 ハヨンの口が止まる。


「……治療中」


「治したら、だめじゃなくなるの?」


 今度は、オレも何も言わなかった。


 ひなたはオレの友達だ。


 格闘もできない。気も見えない。委員会の道具も持っていない。


 だからこそ、たまに一番まっすぐなところへ指を置く。


「ごめん。責めたいわけじゃない」


 ひなたは言った。


「でも、ハミンが嫌だったなら、そこは薬が直っても残ると思う」


「分かってる」


 ハヨンが答えた。


 声が少し硬い。


「だから、直す」


「ハヨン」


「計測する」


 機械を持ち上げ、教室を出ていった。


 藍羽が追おうとする。


 オレは手で止めた。


「オレが行く」


 廊下の角で、ハヨンはしゃがんでいた。


 機械の脚を延ばし、床へ押し当てている。逃げたようにも見えるし、本当に計測しているようにも見えた。たぶん両方だ。


「同じ音」


 ハヨンが画面を見たまま言う。


「道場と?」


「同じ。学校のほうが強い。中心はたぶん、あの塔」


 窓の向こうに旧天文塔が見える。


 夏の雲を突く黒い屋根。


「選塔」


「何?」


「委員会はそう呼んでる」


「案内図にない名称」


「資格があるやつだけ、屋上扉から直径百二十メートルの雲上闘技場へ行ける。決闘じゃない時にも入れる」


「その説明を四か月しなかった?」


「聞かれなかった」


 ハヨンがゆっくりこちらを向いた。


「お兄ちゃんは、重要情報の判定基準が壊れてる」


「おまえは重要なことを勝手に決める」


「……知ってる」


「ひなたに言われたから?」


「前から」


「なら、何で今も『治してから』なんだ」


「言葉だけで許されたくない」


「オレが許すかどうかまで、おまえが先に決めるな」


 ハヨンの目が揺れた。


 赤いリボンを触る。


「治したあとで話す」


「また順番を決めた」


「じゃあ、どうすればいいの」


「それをオレ抜きで決めるなって言ってる」


 廊下の床下で、低い音が鳴った。


 ハヨンの機械へ白い線が走る。


 十三の細い波。


 出国前、薬瓶の底へ浮かんだ目形と同じ間隔だった。母さんが未知の応答と呼んだ〇・〇一パーセントまで、学校の固定波と重なっている。


 言い合いの途中でも、二人ともそちらを見た。


「まず、これを調べる」


 ハヨンが言った。


「一緒に?」


「お兄ちゃんの身体だから」


「なら、先に聞け」


 ハヨンは唇を結んだ。


 数秒考える。


「お兄ちゃん。選塔の固定波を調べるため、身体相の観測データを取らせて」


「範囲は?」


「学校と道場での非侵襲計測。採血は必要ならその都度聞く。第三者へ渡さない」


「いい」


「……了解」


 それだけのやり取りに、ハヨンは難しい式を解いたみたいな顔をした。


     *


 満月の夜、道場の客間は銀色の線だらけになった。


 月の出、十五分前。


 手足の距離が揺れる。


 喉の奥で鳴らした鼻歌に、低い倍音が混じった。


「前兆開始」


 ハヨンが記録する。


「心拍七十八。体温三七・一。気脈位相、二本」


「二本?」


「黙って呼吸」


 藍羽は部屋の隅で壁へ寄っていた。


「私、外にいたほうがいい?」


「何でだ」


「何でって……着替えとか」


「緋天衣も身体へ合わせて変わる。男なら黒い上着、女なら明るい朱赤。黒いズボンは色を変えず、寸法だけ合う」


「そういう説明を普通にしないで」


「藍羽さん。観測者は同じ位置にいて」


「はい」


 ハヨンに言われると素直だ。


「オレの時はあんなに反論するのに」


「ハミンは余計なこと言うから」


 月が山の端から出た。


 胸の奥で、糸が引かれる。


 視界が少し高くなる。


 肩の幅が戻る。指が伸びる。朱赤の上着が身体へ合わせて広がり、男相の黒へ変わる。黒いズボンは色を変えないまま裾だけが伸びた。赤い一本の三つ編みは、同じ編み方のまま黒に近い長髪へ変わり、背中へ触れた。


 息を吸う。


 肺が広い。


 床までの距離が違う。


「転相完了」


 ハヨンの声は冷静だった。


 でも、画面へ置いた指が止まっている。


「何だ?」


「波が三本ある」


「男と女で二本じゃないのか」


「二本を包んでる細い波がある。どっちの相でも消えない」


 画面には黒い線と赤い線。


 その外側へ、ほとんど見えない金色の線が揺れていた。


 オレが鼻歌を止めると細くなる。


 また鳴らすと、少し強くなる。


「気か?」


「分からない。選塔の波とも違う。お母さんの式にもない」


「オレのだろ」


「根拠は?」


「オレから出てる」


「科学的説明としては零点」


「でも、分かる」


 男の手を握る。


 この身体は元からオレのだ。


 女の身体も、もう知らないものじゃない。


 そのどちらとも違う細い線が、呼吸へ合わせて動いている。


 藍羽が近づいた。


「前より、気が静か」


「おっさんに勝ったからな」


「一度ね」


「何回言うんだ」


「百回くらい」


 ハヨンは二人の間へ計測棒を差し込んだ。


「稽古禁止。転相後六十分は安静」


「一発だけ」


「禁止」


「軽く」


「禁止」


「藍羽からも言ってやれ」


「今日はやめとく。次に負けた時、転相直後だったって言い訳されたくないから」


「負ける前提か」


「勝つ前提」


 ハヨンが小さく息を吐いた。


「日本へ来ても同じ」


「何が?」


「お兄ちゃんが、強いやつを見つけた時の顔」


「安心したか?」


「少し」


「じゃあ、そう言え」


 ハヨンは答えなかった。


 画面の金色の波を保存し、別の窓を開いた。


 保存先の端へ、赤い線が一瞬だけ走った。


「いまの何だ」


「外部アクセス」


「第三者へ渡さないって言ったぞ」


「学園の研究網から照合要求。私の確認不足。自動応答を止める」


「切れ」


「もう切った。返ったのは機器識別子だけ。身体データは渡ってない」


 赤い線は消えた。


 だが、一瞬だけ表示された文字を、オレは見た。


 観測、五。


 その下に、細い目のような印。


     *


 翌日、目黒教授はハヨンへ大学部の研究室を一つ貸した。


「十二歳の研究協力員へ、ここまで設備を渡していいのか?」


 ガラス壁の向こうに、白い机と大型の分析装置が並んでいる。道場へ運んだ七箱が小さく見えるくらいだ。


「年齢で知性へ蓋をするのは、教育者として美しくない」


 目黒教授は紫のスーツの胸へカードキーを戻した。


 薄い緑の髪。


 色のついた眼鏡。


 いつもと同じ、何を聞いても答えられそうな笑顔。


「ハヨンくん。必要な機材があれば申請したまえ。危険物と、学食のプリンを分析にかけることだけは避けてほしい」


「プリンは分析しない」


「食べるから?」


「検体と食物は分ける」


「優秀だ」


 ハヨンは研究室へ入り、一台ずつ型番を見始めた。


 嬉しそうには見えない。


 でも眼鏡を押し上げる回数が多い時は、かなり喜んでいる。


「教授」


「何かな、ハミンくん」


「昨日、この学校の研究網から観測データへアクセスがあった」


「客員端末は初回接続時に機器構成を照合する。自動応答だろう」


「身体のデータまで?」


「規約上は内容へ触れない。心配なら私が監査しよう」


 答えが速い。


 間違っているようには聞こえない。


「選塔と道場から、同じ低い音が出てる」


 目黒教授の指が、カードキーの縁を一度なぞった。


「興味深いね」


「知ってた?」


「学園の地下には古い観測設備がある。土地の振動を拾っていても不思議ではない」


「道場までつながってるのか」


「地面へ校門はないからね」


 笑う。


「調べてくれるか?」


「もちろん。君の身体へ影響しているなら、教師として見過ごせない」


 目黒教授はガラス越しにハヨンを見た。


「元へ戻りたいのだろう?」


「戻りたい」


 迷わず答えた。


「でも、勝手には戻されたくない」


「なるほど」


 教授の笑顔は変わらなかった。


「よい答えだ。選択は、結果だけでなく手続きにも宿る」


 ハヨンが研究室の中から手を上げた。


「お兄ちゃん。基準値を取る」


「いま?」


「いま」


「文化祭の会議がある」


「三十七秒」


「前にも聞いたな、それ」


「今回は爆発しない」


 目黒教授が横へ退き、道を空けた。


 オレが研究室へ入る直前、教授の眼鏡へ画面の波形が映った。


 黒。


 赤。


 その二つを包む、細い金。


 教授は、それを初めて見る顔をしなかった。

エンディングテーマ「たいようは約束」

https://youtu.be/vCsi3UhBpp8

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