第12話「満月、天道王を越える」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
満月まで、あと三日。
オレはおっさんに負けた。
満月まで、あと二日。
やっぱり負けた。
満月まで、あと一日。
「今日は勝負せん」
道場の中央で構えたオレへ、おっさんは背を向けた。
「何でだ!」
「明日に疲れを残す」
「一日で治る」
「その左膝は三日では治っておらん」
蓮との再戦で、時間流の境界をまたいだ時にひねったところだ。
歩くぶんには痛くない。紅燕歩で深く回ると、内側へ細い痛みが走る。
「見てたのか?」
「見ておらん」
「じゃあ何で分かる」
「床を踏む音が、右と左で違う」
「おっさんといい、蓮といい、数えてばっかりだな」
「数えぬ者ほど、一を使い切る」
おっさんは道場の隅から雑巾を投げてきた。
「本日の修行は床磨きじゃ」
「膝が悪い相手へやらせることか?」
「膝を使わず腰を落とす方法を覚えよ」
「結局、修行じゃねえか」
「道場で修行でないものを探すほうが難しいわ」
反対側から、藍羽も雑巾を持ってきた。
「私もやる」
「藍羽は休んでろ。明日、審判だろ」
「審判に疲労は関係ないでしょ」
「おっさんの負けを間近で見る大事な役だ」
「勝ってから言いなさい」
藍羽は床へ雑巾を置き、オレの隣へ並んだ。
十三重の円を、二人で外側から磨いていく。
押す時に息を吐く。引く時に吸う。女の身体は男の時より一度に入る空気が少ない。だから短く使い切らず、次へ半分残す。
「昨日と一昨日、父さんの呼吸を数えてたでしょ」
藍羽が小声で聞いた。
「気づいたか」
「私も何年見てると思ってるの」
「分かったことがある」
「なに?」
「おっさんは、ほとんど息を止めない」
「当たり前じゃない。止めたら苦しいでしょ」
「普通は打つ時、一瞬止まる。腹へ力を集めるからな。でもおっさんは、吸う途中でも吐く途中でも動く。呼吸と攻撃の境目がない」
天道宗の完成形、円天。
おっさんの周りを気が巡り続ける。始まりも終わりも見せないから、どこへ入っても先に触れられる。
「じゃあ隙がないってこと?」
「完全ならな」
「あるの?」
「たぶん」
「たぶんで明日行くの?」
「確かめる」
藍羽の雑巾が止まった。
「男の身体へ戻ったら?」
「何が?」
「いま数えた感覚、変わらない?」
腕が長くなる。脚も伸びる。肺の大きさも、重心の位置も、肩の幅も戻る。
紅燕歩は、今の小さな回転半径に合わせて作った。
男へ戻れば、そのままでは使えない。
「変わるだろうな」
「怖くない?」
「楽しみだ」
「本当に勝負のことになると、そればっかり」
藍羽は呆れたように言い、雑巾をまた押し出した。
「でも、前と違う」
「何が?」
「満月まで待てば全部元通りになる、って顔じゃなくなった」
オレは磨いた床を見る。
赤い髪の小さな姿が、薄く映っている。
嫌いじゃない。
自分だと認めたくないわけでもない。
ただ、オレは男だ。元の身体へ戻りたい。
その二つは、喧嘩しなくても同時にあっていいらしい。
「今日のオレが、明日のオレへ技を渡す」
「うん」
「明日のオレが勝ったら、半分は今日のオレの勝ちだ」
「私の教えた紅燕歩も入ってるから、私の勝ちでもある」
「それは違う」
「何でよ!」
雑巾が飛んできた。
*
満月の夜。
月が昇る十五分前から、身体の奥で低い音が始まった。
自分の鼻歌なのに、自分で鳴らしていない。
骨の内側を細い振動が通る。指先の距離が揺れる。目を閉じると、いまの手より少し大きな手が重なって感じられた。
「始まった?」
道場の縁側で、藍羽が聞く。
「ああ」
今日は最初から、いつもの緋天衣を着ている。女相では明るい朱赤のチャイナ服風上着と黒いズボン。身体相に合わせて寸法を変えるこいつなら、途中で身体が伸びても破れない。
「気分は?」
「腹減った」
「それはいつも」
「じゃあ普通だ」
おっさんは庭の中央に立っていた。
雲一つない。庭石の間に白い月光がたまり、木々の影を濃くしている。
学校の雲上闘技場じゃない。
時間も止まらない。
商店街を走る自転車の音。遠くの犬。風に鳴る竹。普通の夜の全部が、これから始まる勝負の周りにある。
山の端から月が出た。
低い音が一段深くなる。
視線の高さが上がった。
足の裏へかかる重さが変わる。膝、骨盤、背骨の順に位置が戻り、肩を追って緋天衣の布が音もなく広がった。朱赤の上着は男相の黒へ変わり、黒いズボンは色を変えないまま裾だけが長い脚へ沿って伸びる。指が伸びる。腕が長くなる。
赤い一本の三つ編みはほどけず、黒に近い長髪へ色を変えた。同じ位置、同じ編み方のまま、男の背中へ落ちる。
息を吸う。
肺が広い。
一度に入ってくる夜の匂いが多すぎて、少しくらくらした。
「戻った」
声も低い。
拳を握る。
これだ。
何千回、何万回と作ってきた形。肩から拳までの距離も、足を置いた時の重心も、考えなくていいほど知っている。
嬉しい。
なのに、完全に元通りという感じはしなかった。
身体は前と同じでも、中にある距離が増えている。
短い腕で届くところまで入った感覚。軽さを次へ残した感覚。負けた時に見たおっさんの呼吸。
全部、ここにある。
「ハミン?」
藍羽がこちらを見上げていた。
「どうした?」
「何でもない」
「顔、赤いぞ」
「月の光!」
「白いだろ」
「うるさい。早く行きなさい!」
背中を押された。
女の身体の時より力の差があるせいで、ほとんど動かなかった。
藍羽がさらに悔しそうな顔をする。
「あとで押し方も教えてやる」
「いらない!」
笑いながら庭へ出た。
おっさんと向かい合う。
これまで五度、女の身体で挑んだ。
一度目は、何をされたか分からないまま倒れた。
二度目は、回り込んだ足ごと軸を崩された。
三度目は、紅燕歩で道衣へ肘をかすらせ、その直後に額を弾かれた。
四度目と五度目は、勝ち急がずに円天の呼吸を数えた。吸う途中と吐く途中、そのどちらへ踏み込んでも先に触れられ、二度とも床へ転がされた。
男の身体で、最初から最後まで戦うのは今夜が初めてだ。
「六度目だ、おっさん」
「身体が変われば、一から数え直すか?」
「数え直さない。負けた五度もオレのものだ」
おっさんの髭が、わずかに上がった。
「ならば六度目じゃ」
「勝ったら、一つ教えろ」
「勝てばな」
「おっさんが勝ったら?」
「明朝の掃除を一人でせい」
「いつもと変わらないだろ!」
「負けても修行が残る。得な条件じゃ」
「オレが損してる!」
藍羽が二人の間へ立った。
「道場勝負。武器なし。どちらかが続行できないと認めるか、先に十数えて立てなければ終わり。いい?」
「いいぞ」
「異存なしじゃ」
藍羽が右手を上げる。
風が止まったわけでもないのに、庭の音が遠くなる。
「始め!」
おっさんの周囲で、空気が円を描いた。
円天。
今までより深い。
庭全体がおっさんの肺になったみたいに、砂、草、竹の葉が一緒に呼吸する。
正面へ踏み込む。
以前の間合いが戻っている。
拳が遠くまで届く。
力もある。
だから、その力を使わない。
一撃目は途中で引いた。
おっさんの掌が、拳の先に置かれる。その手へ当たる前に肘を畳み、懐へ入る。
女の身体で覚えた距離。
肩を小さく回し、肘を打つ。
おっさんの腕が円を描く。肘は流され、オレの身体だけが前へ出る。
膝が来る。
長くなった脚で地面を蹴り、外へ逃げた。
「ほう」
勝負が始まってから初めて、おっさんが声を漏らす。
「何だ?」
「足が増えたかと思うた」
「二本のままだ!」
右へ回る。
紅燕歩。
女の身体の時と同じ小ささでは回れない。長い脚が外へ余り、半歩ぶん膨らむ。
なら、無理に縮めない。
大きくなった円の内側へ、上半身だけ小さく残す。
おっさんの掌が肩を狙う。肩は外へ逃がし、拳は内側へ。
道衣へ触れた。
今度はかすっただけじゃない。
拳の第二関節が、おっさんの脇腹へ当たる。
硬い。
肉を殴ったというより、張った革へ拳を置いた感触だ。
気が衝撃を全身へ流している。
「入った!」
藍羽の声。
「浅い」
おっさんの低い声が、目の前からした。
脇腹へ当てた拳を、そのまま腕で巻かれた。
逃げる前に引かれる。
額がおっさんの胸へ近づく。次に来るのは肘か膝。
身体をひねる。
長い腕を取られたなら、腕を中心に回ればいい。
足をおっさんの外へ置き、背中へ回ろうとする。
おっさんは追わない。
掴んだ腕を離し、肩へ掌を置いた。
最初の敗北と同じ位置。
衝撃。
庭が遠ざかる。
背中から地面へ落ち、肺の空気が一度に抜けた。
「いち!」
藍羽が数え始める。
すぐ横へ転がる。
おっさんの踵が、さっきまで頭のあった地面へ落ちた。砂が円に飛ぶ。
「に!」
立つ。
「まだだ!」
「知っておる」
おっさんは追ってきた。
速い。
大きな身体が、距離を感じさせない。纏った気が足から腰、腰から肩へ流れ、動作の継ぎ目を消している。
掌を受ける。
腕が痺れる。
二撃目を外へ流す。三撃目が腹へ入る。身体が折れる前に息を吐き、衝撃を背へ抜く。
肺が大きい。
前なら、その大きさを全部力へ変えた。
今は半分残す。
おっさんの四撃目へ、残した息で踏み込んだ。
拳と掌が交差する。
頬へ熱い線。
オレの拳は、また道衣へ止められた。
おっさんが息を吸う。
ここだ。
三度目の敗北で見つけ、昨日と一昨日の二度で確かめた。
吐きながら攻めた気を、次の円へ戻すための吸気。円天は止まらない。だが、外へ向いた流れが内へ返る半拍だけ、身体の表面が薄くなる。
オレは右拳を深く入れた。
おっさんの胸へ当たる。
今度は硬い革じゃない。
衝撃が中へ通った。
おっさんが一歩下がる。
「やった!」
藍羽が叫ぶ。
おっさんの口元が笑った。
「見つけたか」
次の吸気が来る。
同じ隙。
飛び込む。
罠だった。
薄くなったはずの気が、胸の一点へ集まっている。
おっさんはわざと隙を見せた。
オレの拳を胸で受け、両腕を上から挟む。動けない。額のすぐ前に、おっさんの額がある。
「勝ち方を一つに決めれば、その道を待てばよい」
頭突き。
星が散った。
膝が落ちる。
続けて胸へ掌。
身体が庭石の手前まで飛んだ。
「いち! に!」
藍羽の声が遠い。
起きろ。
腕を地面へつく。
力が入らない。
「さん!」
視界の端で月が二つに割れている。
男の身体へ戻った。
力も、間合いも戻った。
それでもおっさんは強い。
「よん!」
楽しい。
負けそうなのに、口元が勝手に上がる。
「ご!」
地面へ額をつけ、息を吸う。
全部じゃない。
半分。
残りで立つ。
「ろく!」
片膝。
「なな!」
立った。
「まだやる」
藍羽が息を吐く。
おっさんは待っていた。
追い打ちできたはずなのに、十を数える間は来なかった。
そういう勝負だ。
だから、オレも正面から戻る。
「おっさん」
「何じゃ」
「いまの、痛え」
「頭突きは頭が痛むものじゃ」
「次は返す」
「来い」
足を置く。
鼻歌を鳴らす。
んー、と低く。
女の身体で呼吸をそろえた音より、胸の広さぶん深い。それでも拍は同じだ。
一つ、二つ。
蓮の時計を数えた拍。
おっさんの呼吸を、その上へ重ねる。
吐く。吸う。纏う。打つ。戻す。
切れ目のない円。
切れ目がないなら、切れ目を待たない。
おっさんが動く。
オレも動く。
右拳を見せる。おっさんの掌が外へ流す。
流される。
逆らわない。
右肩を中心に身体を回す。
女の身体で覚えた、小さな回転。
男の長い腕を畳み、肘を内へ残す。
おっさんの膝が来る。左脚で受ける。骨まで響く。足を下ろさず、そのままおっさんの外へ絡める。
紅燕歩は、足で歩くだけじゃない。
触れたところを足場にする。
おっさんの身体を円の床にして、その内側へ回る。
背中が見えた。
おっさんの肘が後ろへ飛ぶ。
頬をかすめる。
オレの拳は脇腹へ入る。
一発。
気が流す。
もう一発。
同じ場所じゃない。胸、肩、腹。円天が衝撃を散らす先を追って、次の拳を置く。
おっさんの呼吸が乱れた。
初めてだ。
オレの鼻歌も切れる。
酸素が足りない。大きな肺へ戻ったからといって、気は無限じゃない。脚が重い。拳が熱い。左膝の痛みが戻る。
おっさんも額へ汗を浮かべている。
円天の圧が、一度弱まった。
庭の竹が普通の風で揺れる。
「ここからじゃな」
「ああ」
どちらも笑っていた。
最後の距離へ入る。
おっさんの右掌。
オレの左拳。
互いに見えている。
避ければ次がある。
でも次を選べば、相手も次を選ぶ。
オレは避けない。
おっさんも避けない。
掌が胸へ入った。
拳がおっさんの顎へ届いた。
音が一つ。
身体が反対方向へ飛ぶ。
月が回る。
背中へ地面。
息がない。
指も動かない。
「いち!」
藍羽の声が割れる。
おっさんも倒れている。
長い髭が庭へ広がり、右手だけが月へ向いていた。
「に!」
起きろ。
「さん!」
男の身体だから、じゃない。
「よん!」
女の身体で負けたオレが、ここまで連れてきた。
「ご!」
右手を地面へつく。
おっさんの指も動く。
「ろく!」
おっさんが肘を立てた。
オレは片膝を立てる。
「なな!」
視界が黒くなる。
鼻歌を一音。
呼吸を戻す。
「はち!」
おっさんが上体を起こす。
オレも起こす。
「きゅう!」
足の裏を地面へ置いた。
立つ。
膝は伸び切らない。腰も曲がっている。それでも、両足で立った。
おっさんは片膝。
一瞬遅れて立ち上がりかけ、そのまま大きな尻を庭へ落とした。
「じゅ――」
藍羽の声が止まる。
おっさんが手を上げた。
「それまでじゃ」
オレは笑おうとした。
「勝っ……」
言い終わる前に脚が折れた。
前へ倒れる。
藍羽が飛び込んできた。
「ハミン!」
受け止めた藍羽ごと、二人で庭へ転がる。
「重い!」
「女の子へ言う台詞じゃないぞ」
「いまは男でしょ!」
「そうだった」
笑うと胸が痛い。
おっさんが座ったまま、腹の底から笑った。
「見事じゃ、小僧」
「勝ったぞ」
「今宵はな」
「一回は一回だ」
「その通り」
おっさんが素直に認めた。
それだけで、胸の痛みが少し軽くなった気がした。
*
縁側へ三人で並び、藍羽に手当てをされた。
オレの胸には大きな掌の痕。おっさんの顎は赤く腫れている。藍羽はどちらにも同じ強さで湿布を貼った。
「痛っ」
「我慢して」
「勝者へもっと優しくしろ」
「父さんへあんな拳を入れた人に、充分優しい」
「負けた父さんが悔しいか?」
「悔しい」
藍羽はすぐ答えた。
「でも、嬉しい」
「どっちだ」
「両方。父さんが負けたのは悔しい。ハミンが勝ったのは嬉しい。変?」
「いや」
オレが男へ戻りたいことと、女の身体で覚えたものを大事に思うことも、両方ある。
藍羽の気持ちだって、二つあっていい。
「次は私が勝つ」
「おっさんに?」
「二人とも」
「欲張りだな」
「ハミンに言われたくない」
藍羽は包帯を切り、父親の大きな手へ巻き始めた。
「私、父さんの天道宗をそのまま継ぐだけじゃ嫌」
おっさんが娘を見る。
「私の動き、私の教え方、私が選んだ人たちで、自分の天道宗を作りたい」
「藍羽宗か?」
「名前はあとで考える!」
「はっはっは!」
おっさんが笑い、顎を押さえてうめいた。
「笑うと痛むぞ」
「誰のせいじゃ」
「オレの拳だ」
「誇るな!」
藍羽の包帯がさらにきつく巻かれた。
「それで、勝った条件」
オレはおっさんへ向き直る。
「一つ教えろ。父さんを知ってるな」
最初に名前を出した時、おっさんは構えた。
知らない相手の反応じゃなかった。
「何があった?」
おっさんは月を見る。
「若い頃の話じゃ」
「どのくらい若い?」
「髭がここまで短かった」
指で胸の上を示した。今の半分くらいだ。
「それでも充分長い」
「黙って聞けい」
「はいはい」
「わしが若い頃、インドで修業し、呼吸から気――オーラを全身へ纏う術を学んだ。そのあと各地の武術を巡っておった頃、旅の途中のハガンと会うた」
「父さん、白熊だった?」
「白熊じゃった」
「あれ、着ぐるみじゃなくて白沢衣っていう法宝だぞ」
「道理で一手も布へ通らなんだ」
若いおっさんが、旅先で白熊姿の白沢衣へ勝負を申し込む姿を想像する。
「怪しいと思わなかったのか?」
「怪しかったゆえ、腕を見たくなった」
「分かる」
「分かるの?」
藍羽だけが理解できない顔をした。
「勝負は一度。わしは一手も届かず負けた」
「おっさんが?」
「今のハミンより、きれいにの」
「余計だ」
「ハガンは何も言わず、紙へ『息が先、力は後』と書いた。わしは腹が立ち、もう一度を求めた」
「父さん、受けた?」
「受けなんだ」
「らしいな」
「代わりに短いあいだ、朝ごと隣へ座り、呼吸だけを共にした。教えたとも、教わったとも言わぬ。ただ同じ山道を歩き、同じ場所で息をした」
父さんは喋らない。
紙の言葉も短い。
それでも誰かと呼吸を合わせる姿は、簡単に想像できた。
「天道宗は、父さんから教わったのか?」
「違う。わしが選び、わしが作った。じゃが、円天の最初の一息に、あの白熊と過ごした朝がある」
おっさんは包帯の巻かれた拳を開く。
「知っておるのはそれだけじゃ。ハガンがどこから来て、どこへ行く旅であったか、わしは聞いておらん」
答えは少なかった。
でも、父さんとおっさんを結ぶ一本の道が見えた。
「もう一つ」
「条件は一つじゃ」
「そこを何とか」
「ならば明朝の掃除を一人で――」
「やっぱいい」
「切替が早いね、ハミン」
藍羽が笑う。
おっさんは髭を撫で、オレの胸の掌痕を見た。
「では、これは条件の外じゃ。覚えておけ」
「何を?」
「女の身体が弱かったのではない」
低い声が、夜の庭へ落ちる。
「おぬしが、あの身体の強さをまだ知らなんだだけじゃ。今宵の勝ちは、男へ戻ったからだけではない。女の身体で五度負けた小僧が、男の身体へ五度ぶんを持ち帰ったからじゃ」
「分かってる」
「本当に分かる者は、すぐ口へせん」
「じゃあ黙る」
「もう言うたあとじゃ」
藍羽が吹き出す。
オレも笑った。
月は高い。
夜明けまで、この身体でいられる。
限られた時間を、前ならもっと特別なことへ使おうとしたかもしれない。
でも今夜は、三人で縁側に座り、勝ったあとの痛みを味わうので充分だった。
「腹減った」
「やっぱりそれ?」
「勝ったからな。祝い飯だ」
「この時間に?」
おっさんが立ち上がる。
「勝者へ一杯、敗者へ二杯じゃ」
「何で負けたほうが多い!」
「傷が大きい」
「オレも胸に痕あるぞ!」
「では三杯食え」
「そうこなくちゃ」
「二人とも加減を覚えて!」
普通の夜の音が戻ってくる。
竹の葉。遠い自転車。台所へ向かうおっさんの大きな足音。
オレは立ち上がろうとして、藍羽へ肩を借りた。
「勝者なんでしょ」
「勝者も痛い時は痛い」
「じゃあ、ちゃんと掴まって」
「ありがとな」
藍羽の肩は、男の身体のオレにはずいぶん低い。
それでも歩幅を合わせれば、一緒に歩けた。
幕間・目黒教授
同じ月が、私立星環学園の旧天文塔を白く照らしていた。
目黒教授は誰もいない委員会室で、月齢表を開いた。
机の時計が一度止まる。
紙の上へ、二つ目の赤い環が浮かんだ。
帰還枝。実現二回。
その下には、今夜の戦いを見た者などいないはずなのに、細い文字で勝者の名が記されている。
――ハミン。
目黒教授は赤ペンで名を囲んだ。
「おめでとう、ハミンくん」
祝う声は、授業で正解を出した生徒へ向けるものと同じだった。
頁の余白へ、次の満月、その次、そのまた次の満月を示す三つの円が並ぶ。
目黒教授は三つ先まで数え、ペン先を止めた。
「自覚完了まで、あと三回」
塔の下から、低いハミングが返った。
窓へ映る目黒教授の背後で、現実にはない扉が一枚だけ開く。
青い海の向こうから、艶のある長い黒髪の女の影がこちらを見ていた。手にした透明な板を上下逆に眺め、気づいて慌てて持ち直す。その仕草だけは、異様な景色に似合わないほど人間くさかった。
目黒教授が振り返る前に、扉は閉じた。
月齢表には、赤い円だけが残っていた。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




