第10話「止まったリレー」
オープニングテーマ「HUMMING」
https://youtu.be/azhMg2sRa5g
体育祭の朝、星環学園はいつもより早く目を覚ました。
選闘で奪われた一回の警備は、あの日の夕方に終わっている。手首の赤い印も、その場で消えた。それでもオレは翌日からも警備腕章を返さなかった。先輩と時任と閑崎が、普通の生徒を変な塔や歩く倉庫から守ろうとしているのを見たからだ。今日ここへいるのは、もう命令のせいじゃない。
赤、青、黄、白。四色の旗が校舎から校庭へ渡され、昨日までただの砂地だった場所を大きな四つの陣地に分けている。入場門には中等部の作った紙の星、高等部美術部の描いた巨大な空、大学部工学科がなぜか本気で組んだ電動得点板。
朝六時半の時点で、すでに焼きそばの匂いがした。
「食べたい」
「まだ火入れ確認です」
時任がオレの襟を掴む。
「一口だけ」
「駄目です」
「毒見だ」
「学校行事で毒見役は設定していません」
「予定にないなら、いま足せばいい」
「足しません」
体育祭前日の準備を、一応は予定どおり終えた。
オレは一度も遅刻しなかった。正しくは、藍羽が毎朝オレの布団を剥がし、時任が集合十分前に道場へ確認の電話を入れた。本人の努力が何割かと聞かれたら答えに困るが、結果は結果だ。
腕の「警備補助」という文字にも慣れた。
競技に出たかったのは本当だ。でも準備へ入って分かったこともある。体育祭は、スタートの笛が鳴る前に半分できている。
誰かが白線を引く。誰かがテントの杭を打つ。放送機材の線を踏まれないよう板で覆う。体調の悪い生徒が休める日陰を作る。何百人もが好きに動いているように見えて、その好きに動ける場所を委員会が朝から作っていた。
「ハミン、入場門の固定終わった!」
ひなたが脚立の上から手を振る。頬へ赤い絵の具をつけ、クラスの応援旗を抱えていた。
「片側が少し下がってるぞ」
「誰かさんが昨日ぶつかったからね」
「先輩だな」
「ハミンだよ!」
「オレだった」
「普通の転校生だと思っていた私の期待はもう諦めたけど、普通に反省はして」
「直せばいいんだろ」
脚立へ飛び乗る。最上段で梁を持ち上げると、身体が軽いぶん板の反動に揺さぶられた。
「危ない!」
ひなたが下で脚立を押さえる。
「平気だ」
「止まった倉庫から助け出された人間の忠告は聞いて!」
「それは聞く」
梁を結び直す。ひなたは普通の生徒だ。気も、法宝も、選闘の記憶もない。それでも倉庫の位置が変だったこと、自分があり得ない数の大玉を見たことは覚えている。
「ねえ、ハミン」
「ん?」
「体育祭、普通に終わるよね?」
明るく聞こうとして、少しだけ失敗した声だった。
オレは結び目を強く引いた。
「終わらせる」
「委員会みたいな言い方」
「オレはもっと強いぞ」
「そこを張り合わなくていいの」
入場門の星が朝日に光った。
*
開会式が始まる頃には、観客席まで埋まっていた。
中等部と高等部の保護者、大学部の学生、近所の人。道場からはおっさんも来た。紫の道衣と長い髭のせいで、保護者席の中でもかなり目立つ。
おっさんは開会の挨拶が終わる前から弁当を食べていた。
「父さん、恥ずかしいからやめて」
藍羽が観客席の下から睨む。
「腹が減った時が食事時じゃ」
「まだ朝の九時!」
「朝餉じゃ」
オレはおっさんの重箱へ手を伸ばした。
「ハミンもやめなさい!」
藍羽に手の甲を叩かれる。
「競技前の補給だ」
「警備でしょ」
「そうだった」
その時、時任が工程表を持って走ってきた。
「ハミンさん。中等部混合リレー最終組、赤組第四走者が足を痛めました」
「大丈夫か?」
「医務室で診察中。軽い捻挫です。それで、代走をお願いします」
「オレが?」
時任は少し不満そうにうなずいた。
「警備要員を競技へ出すのは予定外です。ただ、あなたは事前登録があり、年齢区分も同じ。赤組の希望者でもっとも記録が速い」
「選闘では、通常競技は許可制だったな」
「許可します」
「いいのか?」
「勝ったからといって、あなたの走る選択を全部奪ったわけではありません。必要な時まで見える場所にいてもらう条件です」
時任の言い方は相変わらず固い。
でも、オレを外す理由じゃなく、出す理由を予定の中から探したらしい。
「ありがとな、時任」
「礼は、警備へ戻ってからにしてください」
「勝って戻る」
「代走に勝敗まで要求していません」
「オレが要求してる」
赤い鉢巻きを受け取る。
最終走者の欄を見ると、青組に如月藍羽と書いてあった。
目が合う。
藍羽は一瞬驚き、それから髪を結び直した。
「負けない」
「それ、オレの台詞だ」
「先に言ったほうのもの」
「じゃあ勝つはオレが先に言う。勝つ」
「子どもみたい」
「同い年だろ」
拳を合わせた。
おっさんが観客席で、重箱の蓋を太鼓みたいに叩いている。
*
午前の競技は、学校が学校らしく騒がしかった。
綱引きでは高等部の列へ混ざろうとしたおっさんを藍羽が止めた。借り物競走では先輩が「好きな人」と書かれた札を引き、迷わずオレを抱えて走ろうとして失格になった。
「自分で走れる!」
「借りる競技だろ」
「本人の同意が先です」
閑崎がゴール係の机から告げ、先輩の記録へ赤い失格印を押した。
「同意なら今から取る。ハミン、借りていいか?」
「もう終わったあとだぞ」
「次の機会に」
「何のだ」
「人生の」
意味が分からない。
中等部の障害物競走では、ひなたが網へ髪を絡ませた。藍羽が助けようとして自分も絡まり、二人で巨大な魚みたいに暴れた。オレが近づくと、藍羽は網の中から怒鳴った。
「見てないで外して!」
「面白いからあと十秒」
「ハミン!」
ちゃんと助けた。
十秒後に。
閑崎は迷子の案内、落とし物の記録、売店の釣り銭確認を同時にこなしていた。黒い和装で校庭を歩く姿は目立つのに、泣いている子どもへ目線を合わせる時だけ周りの音から溶ける。
時任は本部席で全競技の時刻を見ている。走者が転べば三十秒延ばし、放送が遅れれば入場曲を短くする。秒単位で予定を守りながら、予定より人を先に見ていた。
先輩は力仕事と警備を行き来し、誰より大きく応援した。
敵だと思っていた三人が、それぞれ違うやり方で体育祭を支えている。
それを見るのは、強いやつの新しい技を見るのと少し似ていた。
昼休み、赤組のテントで弁当を開く。
おっさんが作った重箱は、五段あった。
「多すぎない?」とひなた。
「オレとおっさんがいる」
「足りないって意味?」
「よく分かったな」
藍羽が卵焼きを取り分ける。
「午後はリレーなんだから、食べすぎないで」
「走れば軽くなる」
「走る前に重いでしょ」
先輩が自分の青組テントから堂々とやってきた。
「ハミン、これも食え」
差し出したのは肉の挟まった大きなパン。
「敵組へ食料供給は禁止です」
本部から閑崎の声が飛ぶ。
「鈴華、聞こえてるのか!」
「会計は不自然な物資移動を見逃しません」
「選闘の鈴をこんなことに使うなよ」
「使っておりません。京一の声が大きいだけです」
周囲が笑った。
その笑いの中で、校舎の大時計が一度だけ十三分進んだように見えた。
瞬きをすると元へ戻っていた。
オレは重箱を閉じる。
「どうしたの?」
藍羽が気づく。
「いや」
工程表にあった、存在しない十三分。
今日はまだ、何も起きていない。
それがかえって、嵐の前の息止めみたいに感じた。
*
午後二時四十分。
中等部混合リレー、最終組。
赤組と青組は同点。リレーの順位で総合順位が入れ替わる。
校庭の熱が、一本のトラックへ集まっていた。
「位置について!」
第一走者がしゃがむ。
オレと藍羽は、反対側のアンカー待機線へ立っている。赤い鉢巻きと青い鉢巻き。風で二本が同じ方向へなびく。
「ハミン」
「なんだ?」
「途中で身体が合わないなんて言い訳、なしだからね」
「言うわけないだろ」
「男へ戻ったら本気を出す、もなし」
おっさんの言葉を思い出した。
今日の己を、明日の己の出来損ないにするな。
「今日のおまえを、今日のオレが抜く」
「上等」
号砲。
歓声が弾ける。
第一走者、第二走者。赤が半歩先、青が追う。第三走者へバトンが渡る。赤組の走者はひなた。朝まで旗を作り、倉庫で怖い目に遭っても、参加をやめなかった。
「ひなた、走れ!」
オレの声に、ひなたが歯を見せる。
青組の第三走者が横へ並ぶ。
最後のカーブ。
オレは右手を後ろへ伸ばした。
「はい!」
ひなたの声。
手のひらへバトンの硬さが来る。
同時に藍羽も飛び出した。
オレが半歩先。
最初から全力にしない。肺は男の時より小さい。百メートルを四つに分け、最後へ息を残す。
足を真下へ置く。
地面を後ろへ流す。
藍羽が外側から上がってくる。女子格闘で鍛えた重心移動は、走りでもぶれない。腕の振りが小さく、速い。
こいつ、走るのも強い。
笑いが出た。
「何笑ってるの!」
「楽しい!」
「私も!」
並ぶ。
ただ、同じ余裕ではない。藍羽の肩はもう上がり始め、呼吸も短くなっている。オレは最後の二十五メートルで使う一呼吸を、まだ残していた。
観客席が立ち上がる。
おっさんの髭が風に揺れ、先輩が旗を振り、時任が時計を握り、閑崎の鈴が陽を反す。
五十メートル。
残していた一呼吸を開く。
紅燕歩は走る技じゃない。だが、小さな回転で次の一歩へ重さを渡す感覚は同じだ。
藍羽の前へ肩が出る。
その時。
音が消えた。
号砲も、歓声も、足音も、全部。
風が止まる。
藍羽の髪が宙で固まった。
ひなたはバトンを渡した姿勢のまま、笑っている。観客席では何百人もが口を開き、手を叩く直前で止まっていた。
時間停止。
けれど、鐘は鳴らなかった。
挑戦もしていない。
雲上闘技場への道も開かない。
「藍羽!」
「動ける!」
藍羽が自分の手を見る。
本部席で三人が立ち上がった。先輩、時任、閑崎。動けるのはオレたち五人だけ。
目黒教授は来賓席にいる。
サングラスの奥の目を閉じたまま、完全に止まっていた。
「正規選闘ではありません!」
時任の声が無音の校庭へ響く。
「挑戦印なし、請求なし、審判環なし。どうして……」
「考えるのはあとだ!」
先輩が観客席を指す。
影が動いていた。
止まった観客の足元から、黒い人型が一つずつ剥がれている。騎馬戦の帽子をかぶった影。大玉を押す影。綱を引く影。借り物競走の札を持つ影。
選ばれなかった競技の選手たち。
顔はない。
胸へ白い字で「もし」と書かれている。
「選択殻です」
閑崎が鈴を構えた。
「選ばれなかった競技案へ残った像。通常なら形を持ちません」
「触られるとどうなる?」
「分かりません」
時任が答える。
分からないなら、触らせない。
最初の一体が、止まったひなたへ手を伸ばしていた。
オレは走る。
ゴールは反対だ。
首位も赤組の点も背中へ置いて、ひなたの前へ滑り込む。黒い手を腕で払う。
冷たい。
触れた場所へ、自分ではない走り方が流れ込んできた。大玉を押し、転び、観客が笑う。存在しなかった競技の記憶。
「ひなたに入るな!」
影の軸を崩し、地面へ叩きつける。黒い身体は砂にならず、薄い紙片へほどけた。
観客席から、さらに十、二十と降りてくる。
「多いぞ!」
「五人で全部止めます!」
時任が工程表を投げ捨てた。
予定表を捨てるこいつを、初めて見た。
「西能寺先輩、南側! 閑崎先輩は中央の誘導! 如月さん、旗柱の控え綱へ選択殻が!」
入場門の脇で、借り物競走の札を持つ影が、旗柱を支える控え綱へ黒い手をかけた。
止まっていた麻縄が、触れられた箇所から急にしなった。影が結び目ごと強く引く。固定杭が砂を跳ね上げ、引く力が綱から柱へ伝わった。
太い旗柱まで動く時間へ引き込まれる。支えを失った柱が、止まった中等部の生徒たちへ向かって傾き始めた。
「止まってるのに、物が動くのか!」
「動けるものが力を加えれば、その可動部分も同じ時間へ引き込まれます! 僕たちの服や武器と同じです!」
「任せて!」
藍羽が走り、気を纏う。
水色のジャージの周りで空気が震えた。旗柱へ両手を当てる。細い腕へ太い木が食い込み、靴が砂を削る。
「う、ああっ!」
止まった。
だが動けない。藍羽が手を離せば落ちる。
選択殻が三体、背後から近づく。
「藍羽!」
「如月!」
オレと先輩の声が重なった。
先輩の棒が、一体目の膝を払う。返す先で二体目の胸を打つ。三体目は棒の内へ潜った。
「右!」
気づいていない。
「先輩、右だ!」
声が勝手に出た。
先輩が振り向く。
オレは紅燕歩でその背中へ入り、右から来た影へ肩をぶつけた。先輩の棒が頭上を通り、オレの編み髪だけを揺らす。
互いの背中が一瞬触れた。
「助かった、ハミン!」
「前見ろ、先輩!」
「いま、オレに背中を預けたな!」
「戦ってる時に喜ぶな!」
「嬉しいものは仕方ない!」
先輩が笑い、棒を大きく回す。
影が近づけない円ができた。
反対側では、閑崎の鈴が鳴る。
澄んだ一音。
校庭が三つに割れて見えた。入場門脇の旗柱から六メートル離れた、人のいない空地へ、動いているオレたちの幻が何十人も走る。選択殻は一斉に向きを変え、偽物の生徒を追い始めた。
「すごいな、閑崎!」
「長くは保ちません」
閑崎の額へ汗がにじむ。
幻の一人が転ぶと、彼女自身の肩が跳ねた。影の感触が逆に流れ込んでいる。
「時任、あいつらを一か所へ集めろ!」
「簡単に言わないでください!」
それでも時任は懐中時計を開いた。
ち、ち、――ち。
三度のためらいを使う二秒で、影の群れと旗柱の倒れる側へ二つの領域を合わせる。
閑崎の幻を追う影たちの時間が、五分の一へ落ちる。黒い腕、黒い脚が水の中みたいに重くなる。
同時に、藍羽の手より上で、旗柱の倒れる側を包む二つ目の領域が開き、倒れる速度も遅くなった。
「領域を二つ……!」
時任の息が一気に白くなる。五月の校庭なのに、指先から熱が消えていく。
影の群れと旗柱。その二つを囲む空気が、別々の円を描いて薄く歪んでいた。時任は、影の群れを挟んだ向こう側にいる。
二つの円は旗柱と空地の中点から、どちらも八メートル以内へ収まっている。
影たちは互いの輪郭を重ねるほど、狭い円へ押し込まれていた。
「何秒もつ!」
「二十……いえ、十五!」
「充分だ!」
オレはひなたの応援旗を拾った。
赤い布を広げ、遅くなった選択殻の群れへ走る。
けれど、時間領域の一歩手前で止まった。
中へ入れば、オレも五分の一になる。時門時計が遅くするのは敵じゃない。選ばれた場所そのものだ。一度領域を置けば、あとから中へ入ったものだけを除くことはできない。
「ハミン、何をするの!」
藍羽が柱を支えたまま叫ぶ。
「こいつら、選ばれなかった競技だろ!」
倉庫で見た。
大玉、騎馬、借り物。形を与えたのは、体育祭で使われるはずだった道具だ。
「なら、今日選ばれたものへ戻す!」
領域の外から、応援旗を振る。
赤い布だけが内側へ入る。境界を越えたところから五分の一へ折れ、空中へ長い赤の波を残した。
ひなたが何日もかけて作った旗。赤組全員の手形が星を作り、一人ずつ名前が書かれている。
命令された競技じゃない。
みんなが今日やると決めた応援だ。
選択殻の胸の「もし」が揺れる。
「先輩!」
「分かってる!」
先輩は棒の石突を下ろしかけ、半歩だけ踏み変えた。散水で黒く濡れた砂を避け、乾いた場所へ。
先輩の棒が地面を叩く。
砂が円に舞う。境界を越えた粒だけが急に遅くなり、影たちの黒い足へまとわりついた。オレは領域の縁へ旗の柄を突き立てた。
低い鼻歌が、喉の奥からこぼれた。
床下――いや、校庭の下から、半音低い音が返ってくる。
旗の赤が一瞬だけ燃えるように明るくなった。
選択殻が、順番に薄い紙へほどける。
大玉の影も、騎馬の影も、最後には小さな栞みたいな欠片になり、遅い領域の内側へ落ちた。
全部消えた。
だが、時間領域は消えなかった。
境界の内側では、舞った砂と栞の欠片が、まだ水の中みたいにゆっくり落ち続けている。対象が消えても、時門時計は勝手に領域を閉じてくれない。
「時任、時計を閉じろ!」
返事がない。
時任は立ったまま、二領域ぶんの累積使用秒を、青い唇で数えていた。
「二十……」
時計の針が震える。
時任まで二歩。そのあいだに、影を遅らせていた領域が残っている。回り込む時間はない。
オレは踏み込んだ。
境界を越えた瞬間、脚がぬるい泥へ沈んだ。呼吸も、心臓も、伸ばした腕も五分の一へ落ちる。時門時計は、領域へ入ったものを敵味方で選ばない。
「二十五……」
たった一歩が遠い。
足裏へ気を集める。身体の中の拍まで持っていかれないよう、喉の奥でさっきの鼻歌を一音だけ保つ。
それでも遅さは消えない。
強引に、もう一歩。
「三十……」
伸ばした指が、やっと銀の蓋へ届いた。
時任の親指ごと押し込み、時計を閉じる。
引き延ばされていた動きが一度に戻った。膝へ鈍い衝撃が走る。オレは時任へぶつかりかけ、その肩を抱えて踏みとどまった。
時任の膝が落ちる。支えた肩へ、全体重がかかった。
「僕の、指示を待ってください……」
「倒れる指示か?」
「領域の中に、あなたまで……」
「知ってる。敵だけ遅くする時計じゃないんだろ」
「時計を急に閉じると、時間差も……」
「あとで説教聞く。いまは休め」
藍羽の支える旗柱を、先輩が棒と肩で受けた。
「如月、ゆっくり離せ!」
「分かってます!」
二人は、止まった生徒がいないトラックの内側へ旗柱を回した。先輩が棒を支えにし、藍羽と呼吸を合わせて、太い木を砂へゆっくり寝かせる。先端が地面へ着くまで、どちらも手を離さなかった。
閑崎が鈴を収める。
五人全員が、止まった校庭の中央へ集まった。
選闘ではない。
勝者も敗者もいない。
それでも初めて、委員会と同じ相手へ背中を向けられた。
「戻るぞ」
誰が言ったのか分からない。
鐘は鳴らなかった。
低いハミングが途切れた。
時間が動いた。
*
歓声が爆発した。
止まる前の続きだ。
「ハミン、走って!」
ひなたが叫ぶ。
オレはトラックの内側、応援旗の脇に立っていた。バトンは握ったまま。でも、ほかの走者はもう最後のカーブを抜けている。
藍羽も旗柱の近くにいた。青いバトンは彼女の手に握られたまま。異常停止の十三分は誰の記憶にもなく、競技だけが無理やり続きを作っている。
走れば、少なくとも完走はできる。
オレはトラックへ戻った。
観客の声を受けながら、一人で最後の百メートルを走る。
赤組は最下位だった。
ゴール線を越えると、ひなたが飛びついてきた。
「何してたの!」
「旗を直してた」
「リレー中に?」
「必要だった」
ひなたは怒るかと思った。
でも、自分の旗が校庭の中央で真っ直ぐ立っているのを見て、口を閉じた。
「……あとで、ちゃんと説明して」
「できるところまでな」
「できないところが多すぎるんだよ、ハミンは」
藍羽が歩いてくる。膝が少し震えていた。
「赤組、負けたね」
「おまえの青組が勝ったのか?」
「私も走路を外れたままゴールしてないから、青組も失格」
「じゃあ勝負なしだ」
「そうね」
「もう一回やるか?」
「いま?」
「校庭一周」
藍羽は呆れたあと、拳を差し出した。
「次の正式な勝負で」
拳を合わせる。
委員会の三人も近づいてきた。
時任は上着を着せられ、閑崎から温かい飲み物を渡されている。先輩は棒を肩へ戻した。
「ハミン」
「なんだ、先輩」
返事をすると、先輩の笑顔がやけに大きくなった。
「さっきの判断、よかった」
「何の?」
「首位を捨てたことだ」
「ひなたへあれが触るほうが嫌だっただけだ」
「それを判断って言うんだ」
時任も小さくうなずいた。
「あなたを見える位置へ置いたのは、正解でした」
「監視してよかったって?」
「一緒に動けてよかった、と言っています」
こいつの言葉は固い。
でも、前より意味が伝わる。
「じゃあ異常停止の記録、見せろ」
「それは別問題です」
「今の流れなら見せるところだろ!」
「規則は流れで変えません」
「やっぱり敵だな、時任」
「警備上は、まだ監視対象です」
互いに言いながら、少し笑った。
閉会式が始まる。
校長の話が終わり、四つの組が互いへ拍手を送った。
ぱん。
ぱん。
ぱん。
最初は普通だった。
四回目で、全員の手が同じ高さへそろった。
五回目。六回目。
何百人もの手が、まったく同じ間隔、同じ音量で鳴る。
十三秒間。
笑顔まで同じ角度に見えた。
十四秒目、拍手はばらばらへ戻った。
誰も気づかない。
本部席の端で、目黒教授だけが右手の人差し指を小さく振っていた。
まるで、拍手を指揮していたみたいに。
エンディングテーマ「たいようは約束」
https://youtu.be/vCsi3UhBpp8




