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臨機応変の俺と猪突猛進の親友、医食同源の少女と世界を旅する ~四字熟語を背負う者たちの腹ぺこ放浪記~  作者: 凡夫 成


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9話 勝たなきゃ残れない町

【後書き】


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


リンは考え、シンは突っ込み、イオは鍋を握る。


そんな三人の旅を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。


感想・評価・ブックマーク、とても励みになります。


 鐘の音が、百花繚乱の町に響いていた。


 料理競いが終わったばかりの中央広場には、まだ料理の香りが残っている。


 香辛料。


 焼いた肉。


 甘い果物。


 そして、イオが作った寄せ集めの煮込み。


 だが、その温かい匂いとは反対に、広場の空気は冷えていた。


 優勝劣敗が高台の上から町を見下ろしている。


 背中には金色の四文字。


 優勝劣敗。


「これより、商い競いを行う!」


 男の声が広場に響く。


「大市最大の勝負だ。明日の夕刻までに、最も客を集め、最も売り上げた店を勝者とする」


 人々がざわめく。


 暗い屋台通りの店主たちは、顔を強張らせていた。


 つい先ほど、イオの料理によって少しだけ色を取り戻したばかりの者たちだ。


 豆屋の老夫婦。


 干し魚屋。


 古いパン屋。


 小さな肉屋。


 薬草売り。


 どの店も、大きな店に売り上げで勝てるはずがない。


 それは本人たちが一番よく分かっていた。


「負けた店はどうなる」


 リンが高台へ向かって声を上げた。


 優勝劣敗は、待っていたように笑う。


「町に不要な花として、完全に色を失う」


「色を失ったら?」


「客は寄りつかない。看板は読まれない。品は選ばれない。やがて店は閉じる」


「それは、あんたの能力だろ」


 リンの言葉に、周囲が静まった。


 優勝劣敗の目が細くなる。


「能力ではない。摂理だ」


「摂理?」


「優れたものが勝ち、劣ったものが敗れる。勝者はより輝き、敗者は退く。自然なことだ」


「違う」


 イオが言った。


 優勝劣敗は彼女を見る。


「また君か」


「食べる人がいる料理は、負けてない。必要としてくれる人がいる店は、負けてない」


「綺麗事だ」


「綺麗事でも、食べられるなら意味がある」


 シンが鉄棒を肩に乗せて前に出る。


「ごちゃごちゃ言ってねえで、こいつを殴れば終わりだろ」


「終わらない」


 リンが止めた。


「何でだよ」


「優勝劣敗の能力は、勝負の形に乗ってる。ここで殴れば、僕たちは勝負から逃げたことになる」


「逃げてねえ。殴るんだ」


「それが駄目なんだ」


「面倒くせえ!」


 シンは苛立って地面を蹴った。


 石畳が少し割れた。


 イオがすぐに睨む。


「壊さない」


「まだ少しだ」


「少しでも駄目」


 リンは優勝劣敗を見上げる。


「その商い競い、僕たちも出る」


 広場がどよめいた。


 優勝劣敗は口元を歪める。


「店も持たぬ旅人が?」


「店なら作る」


「商品は?」


「この町の色を失いかけた店の品だ」


 優勝劣敗の目が、少しだけ鋭くなった。


「寄せ集めか」


「百花繚乱だ」


 リンは答えた。


「一つの店が一番になるんじゃない。たくさんの店で一つの店を作る」


「ふん」


 優勝劣敗は鼻で笑った。


「ならば認めよう。寄せ集めの店として参加するがいい」


 男は高台から広場全体へ向けて告げた。


「明日の夕刻、最も客を集め、最も売り上げた店が勝者となる。敗者は色を失う」


 鐘がもう一度鳴った。


 その音は、祭りの始まりというより、処刑の合図のようだった。


 広場の人々が散っていく。


 大きな店の者たちは、すぐに準備を始めた。


 派手な布を張り、香りの強い料理を焼き、客引きの声をさらに大きくする。


 一方で、暗い屋台通りの店主たちは立ち尽くしていた。


「無理だ」


 豆屋の老人が呟いた。


「あんな大店に勝てるわけがない」


「うちは昨日も客が三人だけだった」


「色が戻りかけたと思ったのに」


「もう閉めるしか……」


「閉めない」


 イオが言った。


 彼女は、集まった店主たちの前に立つ。


「あなたたちの食材は、ちゃんと味がある。必要としてくれる人もいる」


「でも、売れないんだ」


 干し魚屋の男が言う。


「人が来ない。看板も見えない。声を出しても、誰も振り向かない」


「なら、こちらから行く」


 リンが言った。


「どういうことだ?」


「客を待つんじゃなくて、客が集まる場所へ持っていく」


 古いパン屋の老人が首を振る。


「大店の前で売れば、追い払われる」


「大店の前じゃない」


 リンは町の地図を広げた。


 昨日、商人の手伝いをした時に見せてもらった簡単な地図だった。


「市場の中心は大店が強い。そこでは勝てない。だから、別の場所を狙う」


「別の場所?」


「祭りで疲れた人が休む場所。子ども連れが座れる場所。高い料理を買えない旅人が通る場所」


 イオが地図を覗き込む。


「宿屋通りと水場の近く?」


「そう。あと、芸競いの舞台裏。出演者は忙しくて食べに行く暇がない」


「なるほど」


「売るのは豪華な一皿じゃない。少しずつ食べられるもの。持ち歩けるもの。温かい汁。体調に合わせた茶」


 イオの目が輝き始めた。


「できる」


「できるのか?」


 シンが聞く。


「できる。豆を焼いて粉にして、パンに混ぜる。干し魚で出汁を取って、端肉と根菜でスープを作る。薬草茶は疲れた人用と食べ過ぎた人用に分ける」


「肉は?」


「端肉を串にする」


「よし!」


「ただし小さい」


「なぜだ!」


「安くたくさん売るから」


 シンは不満そうだったが、納得はしたらしい。


「じゃあ俺は何をする」


「荷運びと客引き」


 リンが言う。


「客引き?」


「声が大きいから」


「任せろ!」


「ただし、叫びすぎるな。怖がられる」


「難しいな」


「あと、脅すな」


「脅してねえ」


「昨日、肉屋の前で店主を睨んでただろ」


「あれは肉を見てた」


「店主は怯えてた」


 イオが店主たちを見た。


「みんなで一つの屋台にしませんか」


 豆屋の老女が不安そうに尋ねる。


「一つの屋台?」


「はい。豆屋、干し魚屋、パン屋、肉屋、薬草屋。全部の味を入れた屋台です」


「そんなもの、見たことがない」


「私もありません」


「大丈夫なのかい?」


「大丈夫にします」


 イオは言い切った。


 その背中に、橙色の四文字が淡く浮かぶ。


 医食同源。


「勝つためだけじゃない。食べた人が、また歩けるようにするための屋台にします」


 しばらく沈黙があった。


 最初に頷いたのは、豆屋の老女だった。


「うちの豆を使っておくれ」


 次に、干し魚屋の男が口を開いた。


「魚の出汁なら任せろ」


 パン屋の老人も苦笑する。


「硬いパンをうまく食わせられるなら、見てみたい」


 小さな肉屋の女主人が腕を組む。


「端肉なら安く出せる。ただし無駄にするなよ」


 薬草売りの青年が小さく手を上げる。


「疲労回復の草と、腹を落ち着かせる葉がある」


「ありがとうございます」


 イオは頭を下げた。


 シンが胸を張る。


「よし! 勝つぞ!」


「あなたはまず木箱を運んで」


「もうか?」


「もう」


 リンは周囲を見る。


 その場に、どんちゃんの姿があった。


 いつの間にか、壊れた樽の上に座っている。


 手には、どこから手に入れたのか小さな豆が一粒。


「どんちゃん」


「何かな」


「手伝う気はあるか?」


「少しなら」


「何ができる?」


「味見」


「それ以外で」


「昼寝」


「それ以外で」


「人の邪魔をしない」


「それは大事だけど、仕事じゃない」


 どんちゃんは困ったように笑った。


「じゃあ、座る場所を探すよ」


「座る場所?」


「疲れた人は、座れる場所に集まるからねえ」


 リンは少し考えた。


「それは使える」


「でしょ」


「じゃあ頼む。人が休みやすくて、水場に近くて、通りから見える場所」


「注文が多いねえ」


「働け」


 シンが言う。


「はいはい」


 どんちゃんはのんびり歩き出した。


 足取りは頼りない。


 だが、なぜか人混みにぶつからず、するすると市場の奥へ消えていった。


「本当に見つけられるのか?」


 シンが言う。


「分からない」


 リンは答えた。


「でも、ああいう人間は妙な場所を知っていることがある」


「あいつ、人間か?」


 シンが何気なく言った。


 リンは一瞬、動きを止めた。


「どういう意味だ」


「いや、何となく」


「何となく?」


「あいつ、弱そうなのに危ない目に遭わねえだろ」


「運がいいだけかもしれない」


「運がよすぎる」


 シンは首を傾げた。


「ま、いいか。どんちゃんはどんちゃんだ」


「お前は考えるのをやめるのが早いな」


「腹が減るからな」


 準備はすぐに始まった。


 まずは場所。


 どんちゃんが見つけてきたのは、宿屋通りと水場の間にある小さな空き地だった。


 大市の中心から少し外れているが、人通りはある。


 近くには井戸があり、旅人や子ども連れが足を止めやすい。


 さらに、芸競いの舞台裏へ抜ける細道も近かった。


「いい場所だ」


 リンが言う。


「昼寝に向いてる」


 どんちゃんはすでに木陰を見つけていた。


「店に向いてるかを聞いてる」


「店にも向いてるんじゃないかなあ」


「本当にたまたまじゃないのか」


「たまたまは大事だよ」


 次に屋台作り。


 シンが木箱と板を運び、リンが組み直す。


 パン屋の老人が古い屋台の車輪を貸してくれた。


 肉屋の女主人が鉄板を持ってきた。


 薬草売りが水差しと杯を並べる。


 豆屋の老夫婦は、豆を炒る小さな鍋を持参した。


 屋台の看板には、リンが炭で文字を書いた。


 百花食堂。


 イオはそれを見て笑った。


「食堂っていうほど大きくないけど」


「屋台より広く感じるだろ」


「百花繚乱の百花?」


「そう」


「いいと思う」


 シンは看板を見上げる。


「俺の名前は?」


「入れない」


「何でだ」


「百花猪突猛進食堂にしたいのか」


「強そうだ」


「客が逃げる」


 どんちゃんが木陰から言う。


「昼行灯食堂もいいねえ」


「もっと客が寝る」


 リンが返す。


「それもいいねえ」


「よくない」


 料理の準備が始まった。


 イオが中心に立ち、店主たちへ指示を出す。


「豆は半分を炒って粉にします。残りは煮込みへ。干し魚は出汁を取った後、ほぐして具に。パンは薄く切って焼いてください。端肉は小さく串にします。薬草茶は三種類」


「三種類?」


 薬草売りが聞く。


「疲れた人用。食べ過ぎた人用。体を温める用」


「祭りで食べ過ぎる人は多そうだ」


「シンにも必要ね」


「俺は食べ過ぎない」


「昨日、肉串の屋台を見てよだれを垂らしてた」


「あれは食べてない」


「食べたら絶対食べ過ぎる」


 イオは手を休めずに続ける。


「大事なのは、早く出せること。高くしすぎないこと。食べる人に合わせること」


「勝負なのに安く売るのか?」


 肉屋の女主人が言う。


「売り上げだけなら高い方がいい。でも客数も競うんですよね」


 リンが頷く。


「そう。優勝劣敗は、売上と客数の両方と言った。なら、高級料理だけでは勝てない」


「なるほど」


「大店は派手な商品で客を引く。でも、僕たちは回転を速くする。小さく、安く、何種類も」


「たくさんの人に食べてもらう」


 イオが言う。


「百花繚乱らしく」


 昼過ぎ。


 百花食堂は開店した。


 最初の客は、舞台裏へ向かう旅芸人の少年だった。


「すぐ食べられるもの、ありますか!」


「豆粉パンの焼き包みならすぐ出せる」


 イオが答える。


 焼いた薄いパンに、豆とほぐした干し魚、少量の端肉を包む。


 仕上げに香草を少し。


 少年は一口かじり、目を見開いた。


「うまい!」


「走るなら、薬草茶も少し飲んで」


「いくら?」


 リンが値段を答える。


 少年は支払い、食べながら走っていった。


 シンが腕を組む。


「一人目だな」


「叫ぶなら今だ」


 リンが言う。


 シンは大きく息を吸った。


「百花食堂だ! 安い! うまい! 肉も少しある!」


「肉も少しって言わない!」


 イオが叫ぶ。


「大事だろ!」


「そこを強調しない!」


 リンが言い直す。


「疲れた人、急いでいる人、食べ過ぎた人、どうぞ! 温かい汁と薬草茶があります!」


 シンも負けずに叫ぶ。


「食え! 歩け! また食え!」


「それは少し違う!」


 だが、声は人を呼んだ。


 最初は数人。


 次に十人。


 宿から出てきた旅人。


 舞台前の芸人。


 子ども連れの母親。


 胃もたれした商人。


 高い屋台に手が出ない若者。


 彼らは百花食堂の前で足を止め、温かいスープや焼き包みを買っていく。


「子ども用に辛くないものは?」


「あります」


「肉なしで軽いものは?」


「豆と根菜の汁をどうぞ」


「腹が重くて」


「この茶を少しずつ飲んでください」


「急いでる!」


「焼き包み一つ、すぐ出します」


 イオの手は止まらない。


 リンは金を受け取り、品を渡し、客の流れを整理する。


 シンは荷物を運び、火を起こし、時々客引きの声を上げる。


 ただし肉串を焼く係だけは任されなかった。


「何で俺は焼いちゃ駄目なんだ」


「つまみ食いするから」


「一つくらい」


「するから」


 どんちゃんは、木陰に並べた椅子代わりの木箱の一つに座っていた。


 働いているのかいないのか分からない。


 しかし、なぜか疲れた客がそこへ集まってくる。


「ここ、座っていいのかい?」


「いいんじゃないかなあ」


「助かる」


「茶もあるよ」


「どれがいい?」


「食べ過ぎなら、あの緑の茶かなあ」


「そうか。もらおう」


 どんちゃんは直接売っていない。


 ただ座って、のんびり案内している。


 それだけなのに、客が増えていた。


 リンはその様子を見て、少しだけ笑った。


「本当に働いてる」


「心の労働だねえ」


 どんちゃんが答える。


「今のは少し違うと思う」


「そうかなあ」


 夕方が近づく頃、百花食堂の前には小さな列ができていた。


 暗い屋台通りの店主たちも、表情が変わっていた。


 豆屋の老女は豆を炒りながら笑っている。


 干し魚屋は出汁の鍋を守っている。


 パン屋の老人は、硬いパンを薄く切る手つきがどんどん早くなっていた。


「昔を思い出す」


 老人が呟いた。


「客が待っていると、手が勝手に動く」


 リンは看板を見た。


 百花食堂。


 その文字の周囲に、薄い色が宿り始めている。


 豆屋の茶色。


 干し魚屋の藍色。


 パン屋の麦色。


 肉屋の赤。


 薬草屋の緑。


 それぞれの色が、看板に少しずつ混ざっていた。


「戻ってる」


 イオも気づいた。


「みんなの色が」


 その時、通りの向こうから人々が割れた。


 優勝劣敗が歩いてくる。


 後ろには、彼の取り巻きの商人たちがいる。


 どの店も派手で、大きく、勝ち残ってきた者たちだった。


「なかなか賑わっているようだな」


 優勝劣敗は百花食堂を見て言った。


「意外か?」


 リンが返す。


「いいや」


 男は笑った。


「小さな火が一瞬燃え上がることはある。だが、大きな店には勝てない」


「まだ勝負は終わってない」


「終わっているようなものだ」


 優勝劣敗が指を鳴らした。


 取り巻きの商人たちが一斉に声を上げる。


「中央通りで半額だ!」


「肉料理を買えば菓子をつけるぞ!」


「香辛料料理、今だけ大盛り!」


 人々がざわめいた。


 安売り。


 大店にしかできないやり方だった。


 百花食堂の列からも、何人かが中央通りへ向かいかける。


 シンが怒鳴る。


「おい! 逃げるな!」


「シン、客を脅すな」


 リンが止める。


「でもよ!」


「客は自由に選ぶ。止めたら負けだ」


 優勝劣敗が笑う。


「その通り。客は勝者を選ぶ。安く、多く、派手なものをな」


 イオは唇を噛んだ。


「こっちはそんなに値下げできない」


「しなくていい」


 リンが言った。


「どうするの?」


「相手と同じ土俵に乗らない」


「でも客が」


「全部の客を取る必要はない。僕たちは、必要としてくれる客へ届ける」


 リンは周囲を見た。


 中央通りへ流れる客。


 それとは別に、まだ百花食堂の前に残っている客。


 高齢者。


 子ども連れ。


 食べ過ぎて苦しそうな者。


 舞台へ急ぐ芸人。


 大盛りの肉料理では重すぎる者たち。


「イオ、軽い汁を増やして。薬草茶も前へ出す」


「分かった」


「シン、中央通りじゃなくて舞台裏へ行け。芸人たちに焼き包みを届ける。走れるか?」


「誰に言ってる」


「壊すなよ」


「今日は昨日より分かってる」


「信用はしないけど頼む」


「任せろ!」


 シンは焼き包みの入った籠を背負い、舞台裏へ走った。


 リンは薬草売りの青年へ声をかける。


「食べ過ぎ用の茶を大きく書いて出そう。中央通りで大盛りを食べた人が、少し後に来る」


「なるほど」


「豆屋さん、炒り豆を小袋にできますか。菓子ほど甘くない軽いものとして売る」


「できるよ」


「パン屋さん、薄く焼いたパンを二枚ずつ。汁につけて食べる用に」


「任せな」


 百花食堂は形を変えた。


 安売りで対抗しない。


 大盛りで対抗しない。


 客が今、何を求めているかで品を変える。


 臨機応変。


 リンの背中に、青白い四文字が浮かんだ。


 客の流れを読み、声をかける場所を変え、売り方を変える。


 イオの料理が、それに応える。


 シンが舞台裏から客を連れてくる。


「すぐ食えるぞ!」


「走りながらでもいける!」


「こぼすなよ!」


 芸人たちが焼き包みを買っていく。


 やがて、中央通りで大盛り料理を食べた客たちが、腹を押さえながら水場へ流れてきた。


「胃が重い……」


「茶、あります」


 薬草売りの青年が声をかける。


「食べ過ぎた人向けです」


「くれ」


 客が座る。


 どんちゃんが隣で頷く。


「食べ過ぎはつらいねえ」


「あんたもか?」


「食べ過ぎるほど食べられなかったねえ」


「それもつらいな」


「つらいねえ」


「茶、もう一杯買ってやるよ」


「ありがとう」


「買ってもらってる!」


 リンが思わず叫ぶ。


 どんちゃんは茶を受け取って笑った。


「人徳だねえ」


「働け」


「座ってたら売れたよ」


「否定できないのが悔しい」


 夜が近づくにつれ、百花食堂の売り上げは伸びていった。


 大店のように一度に大金を稼ぐわけではない。


 けれど、客が途切れない。


 誰かが食べ、誰かが茶を飲み、誰かが休んでまた歩き出す。


 派手ではない。


 だが必要だった。


 優勝劣敗の顔から、余裕が少しずつ消えていく。


「妙な真似を」


 男は呟いた。


 その背中の四文字が再び光る。


 すると、百花食堂の看板の色がわずかに揺らいだ。


 リンは気づく。


「イオ、看板!」


 イオが振り返る。


 戻りかけた色が薄くなっていく。


 優勝劣敗が低く笑う。


「勝負の途中だ。敗者の色が勝者へ流れるのは当然」


「まだ負けてない!」


 イオが叫ぶ。


「では勝っているとでも?」


 優勝劣敗が手を掲げる。


 中央通りの大店の看板が強く輝き、百花食堂の看板から色が引き剥がされていく。


 豆屋の老女がよろめいた。


「うちの看板が……」


 干し魚屋の男が拳を握る。


「また灰色に」


 シンが鉄棒を持ち上げた。


「もう我慢できねえ」


「待て!」


 リンが叫ぶ。


「待たねえ!」


 シンが優勝劣敗へ向かって踏み出した。


 その瞬間、どんちゃんがシンの前にふらりと立った。


「邪魔だ、どんちゃん!」


「殴ると、あの人の勝ちになりそうだよ」


「だから何だ!」


「それじゃ、イオの料理が負けたことになる」


 シンの動きが止まる。


 どんちゃんは眠そうな目で続けた。


「勝ちたいんじゃなくて、食べてもらいたいんでしょ」


「……」


「なら、まだ食べてもらえばいいんじゃないかなあ」


 シンは歯を食いしばった。


「分かってる。分かってるけどよ」


「分かってるなら、えらいねえ」


「子ども扱いすんな!」


 どんちゃんは笑った。


 リンは息を吸い、周囲を見回した。


 まだ客はいる。


 でも色が奪われれば、客は百花食堂を認識できなくなる。


 看板が見えなくなる。


 声が届かなくなる。


 なら、看板以外で見つけさせるしかない。


「イオ!」


「何!」


「匂いを強くできるか」


「できる!」


「シン、火を大きく。ただし焦がすな!」


「難しい注文するな!」


「豆屋さん、豆を一気に炒ってください! 干し魚屋さん、出汁を温め直す! 肉屋さん、端肉を少しだけ焼く!」


「分かった!」


「パン屋さん、焼いたパンを割って香りを出す!」


「任せろ!」


 百花食堂の全員が動いた。


 火が強くなる。


 豆が弾けるように香ばしい匂いを放つ。


 干し魚の出汁が湯気を上げる。


 端肉の脂が鉄板で焼ける。


 黒パンが焦げる寸前の香りを立てる。


 薬草茶の湯気が、ふわりと広がる。


 色が薄れた看板の代わりに、匂いが通りへ流れ出した。


 客が足を止める。


「あれ、何の匂いだ?」


「うまそう」


「さっきの店か?」


「看板は見えにくいけど、匂いはする」


 イオの背中に医食同源の文字が輝く。


「料理は、看板で食べるものじゃない!」


 彼女は鍋をかき混ぜた。


「匂いで気づいて、口で味わって、体で分かるものよ!」


 客たちが再び集まってくる。


 色が薄れても、匂いは消えない。


 看板が灰色になっても、温かい湯気はそこにある。


 優勝劣敗の顔が歪んだ。


「小賢しい!」


「リン!」


 シンが叫ぶ。


「次は何だ!」


「売る!」


「よし!」


 シンは大声を張り上げた。


「匂いで来い! 食えば分かる! 百花食堂だ!」


 その声に、通りの人々が振り向く。


 大店の派手な布や看板ではなく。


 温かい匂いと、大きな声と、食べた人の顔につられて。


 人々が戻ってくる。


 百花食堂の前に、再び列ができた。


 優勝劣敗は奥歯を噛んだ。


 だが、その時だった。


 高台の方から、低い鐘の音が鳴った。


 今日の商い競いの中間集計を知らせる鐘だった。


 係の者が紙を持って走ってくる。


 優勝劣敗はそれを奪うように受け取った。


 目を通し、薄く笑う。


「健闘したな、旅人たち」


 リンは嫌な予感がした。


「中間結果だ」


 優勝劣敗が高らかに告げる。


「売上では、中央通りの大店が圧倒的首位。客数では、百花食堂が追い上げているが、総合ではまだ遠い」


 暗い屋台通りの者たちの顔が曇る。


「やっぱり無理なのか」


「頑張っても、大店には」


「金額で勝てない」


 優勝劣敗は笑った。


「そうだ。いくら客を集めても、安物ばかりでは勝てぬ。価値とは金だ。選ばれるとは、より高く売れることだ」


 リンは拳を握った。


 確かに売上は弱い。


 必要な人へ届けるために、値段を抑えている。


 その分、金額では負ける。


「どうする」


 イオが小声で聞く。


 リンは考える。


 値段を上げれば、必要な人に届かなくなる。


 安くすれば、売上で負ける。


 客数だけでは届かない。


 どうする。


 その時、どんちゃんが小さく呟いた。


「一番になった花って、嬉しいのかなあ」


 リンは振り向く。


 どんちゃんは木箱に座り、空になった器を見つめていた。


「何?」


「誰にも並ばれないって、案外つまらないと思うよ」


 その言葉は、優勝劣敗への皮肉のように聞こえた。


 だが、どこか遠い場所からこぼれた本音のようにも聞こえた。


 リンは、どんちゃんの横顔を見た。


 眠そうで。


 頼りなくて。


 腹が減っていて。


 何も考えていないように見える男。


 なのに、その一言が、リンの中で何かを動かした。


「並ぶ……」


 リンは町の店を見た。


 中央通りの大店。


 暗い屋台通りの小店。


 客を奪い合うから、勝ち負けになる。


 一番を決めるから、敗者が生まれる。


 では。


 一緒に売ればどうなる。


「イオ」


「何?」


「百花食堂の料理を、大店にも売らせる」


「え?」


 シンが目を丸くする。


「敵に売らせるのか?」


「敵じゃない。店だ」


「でも優勝劣敗の側だろ」


「全部の店がそうとは限らない」


 リンは中央通りを見る。


 大店の中にも、不安そうな顔をしている者がいる。


 優勝劣敗に従っているが、心から賛同しているとは限らない。


「このままだと、大店は勝つ。でも町は壊れる。小店は色を失う。大店も、次はさらに強い店に食われる」


「弱肉強食みたいだな」


 シンが言った。


 リンは頷く。


「そうだ。だから、その土俵を変える」


「どうやって?」


「百花食堂を店じゃなくて、町の料理にする」


 リンは立ち上がった。


「イオ、この煮込みを増やせるか?」


「食材が足りない」


「大店から買う。いや、出させる」


「出させる?」


「彼らにも入ってもらう」


 シンが笑った。


「面白そうだな」


 リンは中央通りへ向かった。


 優勝劣敗が声を上げる。


「どこへ行く」


「交渉だ」


「無駄だ。勝者が敗者に手を貸すものか」


「貸すんじゃない」


 リンは振り返った。


「一緒に儲ける」


 中央通りの大店の前。


 店主たちは警戒した目でリンを見た。


「何の用だ」


「百花食堂の料理を、あなたの店でも売りませんか」


「馬鹿にしているのか?」


「していない。客数はこちらがある。食材と高単価の商品はそちらにある」


「だから?」


「百花食堂の軽食を入口で売り、食べた客を中央通りへ流す。反対に、中央通りで食べ過ぎた客をうちの薬草茶へ流す。互いに客を回す」


 店主たちは顔を見合わせた。


「それでは勝負にならない」


「勝負だけを見ればそうです。でも売上は伸びる」


「優勝劣敗様が許さない」


「この大市は、町を栄えさせるための祭りでしょう」


 リンはまっすぐ言った。


「一店だけが勝っても、明日から客が減れば意味がない。町全体が賑われば、あなたたちの店も儲かる」


 商人たちは黙る。


 その中で、昨日リンたちに仕事をくれた商人が口を開いた。


「俺は乗る」


「おい」


「実際、昼から客の流れが偏っている。食べ過ぎた客が帰ってこない。薬草茶で戻せるなら悪くない」


 別の店主が言う。


「うちの菓子と、あの豆茶を組み合わせれば売れるかもしれない」


「魚料理の前に、軽い汁を出すのもありか」


 リンは頷く。


「勝負ではなく、組み合わせるんです」


 その時、優勝劣敗の怒声が響いた。


「やめろ!」


 男が中央通りへ歩いてくる。


 顔から余裕が消えていた。


「勝者が敗者と並ぶな! 価値が落ちる!」


 昨日の商人が言い返す。


「売れるなら価値はある」


「貴様」


「俺たちは商人だ。客が喜び、町が賑わい、利益が出るならやる」


 他の店主たちも、少しずつ頷き始めた。


 優勝劣敗の背中の文字が揺れる。


「愚かな」


 男は低く呟いた。


「弱きものに合わせれば、強きものまで腐る。強者は弱者を食らい、さらに強くなるべきだ」


 リンはその言葉を聞き逃さなかった。


「それは、あなたの言葉か?」


 優勝劣敗がリンを見る。


「何?」


「優勝劣敗の言葉じゃない。もっと別の、誰かの理屈に聞こえる」


 男の目が冷たくなる。


「貴様には分からん」


「誰に従ってる」


「従ってなどいない」


「本当に?」


 優勝劣敗は口を閉じた。


 一瞬だけ、背後に黒い獣のような影が見えた気がした。


 リンは息を呑む。


 優勝劣敗は、すぐに笑みを戻した。


「私は勝者の側にいる。それだけだ」


「四天王か」


 イオが静かに言った。


 周囲がざわめく。


 四天王。


 八文字の王の下にいると噂される四人の支配者。


 イオが旅の夜に語った存在。


 優勝劣敗は、イオを見た。


「どこでその名を聞いた」


「旅の途中で」


「ならば覚えておくがいい」


 男の声が低くなる。


「これからの世界は、弱きものが生きる世界ではない」


 金色の四文字が強く輝く。


「弱きものは食われる。劣ったものは消える。勝てぬ花は、根から抜かれる」


 リンは拳を握った。


 やはり。


 この男の背後には、いる。


 弱肉強食。


 まだ名は出ない。


 だが、その理が町に入り込んでいる。


「それでも」


 リンは言った。


「この町は百花繚乱だ」


 中央通りの大店主たちが、百花食堂へ食材を運び始めた。


 高価な香辛料を少し。


 果物を少し。


 菓子の欠片。


 魚の切れ端。


 肉の端。


 それぞれの店の余りや端材。


 けれど、イオにとっては十分だった。


「全部、使える」


 イオの声が弾む。


 百花食堂に、大店の色も加わっていく。


 小店の食材。


 大店の食材。


 旅人の知恵。


 商人の計算。


 芸人の客。


 子どもの笑顔。


 祭りの疲れ。


 全部を一つに集めた料理が、鍋の中で煮え始める。


「イオ!」


 リンが戻ってくる。


「作れるか?」


「作る」


「何を?」


「百花鍋」


 イオは力強く言った。


「この町全部の味を入れる」


 シンが笑う。


「いいな! 肉は?」


「入る」


「多く?」


「町全部の味が主役」


「肉も町の一部だ」


「少し多めにする」


「よし!」


 どんちゃんが木陰から立ち上がった。


「いい匂いになりそうだねえ」


「どんちゃんも手伝って」


 イオが言う。


「味見?」


「配膳」


「ええ」


「働かないなら食べさせない」


「配るよ」


 シンが驚く。


「どんちゃんが働くぞ!」


「珍しいねえ」


「自分で言うな」


 夜。


 百花食堂は、もはや一つの屋台ではなくなっていた。


 中央通りから水場まで、いくつもの店がつながる。


 大店が食材を出し、小店が技を出し、イオが味をまとめる。


 リンが客の流れを組み替える。


 シンが荷を運ぶ。


 どんちゃんがなぜか子どもや老人に料理を配っている。


 その姿は、少し不思議だった。


 昼行灯のくせに、器を落とさない。


 人混みにぶつからない。


 必要な人の前へ、自然に料理を置く。


「はい、どうぞ」


「ありがとう、旅人さん」


「熱いから気をつけてねえ」


 シンが遠くから叫ぶ。


「どんちゃん! 俺の分も取っとけ!」


「聞こえないねえ」


「絶対聞こえてるだろ!」


 リンは売上と客数を記録していた。


 数字が伸びていく。


 客は一店だけに集まっているわけではない。


 町全体を回り始めている。


 百花食堂で軽く食べ、大店で土産を買い、薬草茶を飲み、小店の豆を買って帰る。


 売上が、分散しながら全体で増えていく。


 優勝劣敗の能力が揺らいでいた。


 勝者と敗者を分けられない。


 どこまでが一つの店で、どこからが別の店なのか。


 誰が勝ち、誰が負けたのか。


 境界が曖昧になっていく。


 臨機応変。


 医食同源。


 猪突猛進。


 そして百花繚乱。


 それぞれの真名が、町の中で噛み合い始めていた。


 やがて、最後の鐘が鳴った。


 商い競い終了の鐘。


 中央広場に、人々が集まる。


 係の者が集計結果を持ってくる。


 優勝劣敗は紙を受け取り、目を通した。


 その顔が固まる。


 広場が静まり返る。


「結果は?」


 リンが聞いた。


 優勝劣敗は答えない。


 係の者が、震える声で読み上げた。


「売上首位、中央通り連合」


 大店の者たちが息を呑む。


「客数首位、百花食堂」


 小店の者たちが顔を上げる。


「総合……」


 係の者は紙を見直した。


「総合首位、百花連合」


 広場がざわめいた。


「百花連合?」


「どこの店だ?」


「全部だ」


 リンが言った。


「百花食堂も、中央通りも、暗い屋台通りも、全部つながった」


 優勝劣敗の顔が歪む。


「認めん」


「なぜ?」


「一つの店ではない!」


「最初にあなたが言った」


 リンは言った。


「寄せ集めの店として参加を認めると」


「詭弁だ!」


「臨機応変と言ってくれ」


 シンが笑う。


「いいぞ、リン!」


 イオも続ける。


「この町は、一つの花だけの町じゃない。全部で百花繚乱なんです」


 その瞬間、町全体が光った。


 門の上に掲げられた四文字。


 百花繚乱。


 その文字が、色鮮やかに輝く。


 暗い屋台通りの看板に、色が戻っていく。


 豆屋の茶色。


 干し魚屋の藍色。


 パン屋の麦色。


 肉屋の赤。


 薬草屋の緑。


 大店の金や紫や青。


 それぞれの色が互いを潰すのではなく、重なり、町全体を彩っていく。


 人々が歓声を上げた。


 優勝劣敗の背中の金色が、ひび割れるように揺らいだ。


「馬鹿な……」


 男は後ずさる。


「勝者と敗者が並ぶなど……強者が弱者と同じ鍋を囲むなど……」


 どんちゃんが、空の器を持ったまま呟いた。


「同じ鍋って、けっこうおいしいよ」


 優勝劣敗はどんちゃんを睨む。


「黙れ、三文字風情が!」


「怖いねえ」


 どんちゃんはリンの後ろへ隠れる。


「隠れるな」


 リンが言う。


「僕、弱いからねえ」


 シンが鉄棒を担いで前に出た。


「勝負は終わったな」


 優勝劣敗は歯を食いしばる。


「まだだ……まだ終わらぬ……!」


 男の背後に、黒い獣のような影が大きく膨らんだ。


 広場の空気が重くなる。


 イオが息を呑む。


「何、あれ」


 リンは身構えた。


 優勝劣敗の声が、別人のように低く響く。


「弱きものは、強きものの糧となる」


 背中の四文字が、金から黒へ染まり始めた。


「勝者は奪い、敗者は奪われる。それが、あの方の理」


「あの方?」


 リンが問いかける。


 優勝劣敗は笑った。


「四天王が一角……弱き者を食らい、強き者をさらに強くする御方」


 シンの目が鋭くなる。


「強いのか」


「貴様など、骨も残らん」


「面白え」


「シン、今は乗るな」


 リンが止める。


 優勝劣敗は両手を広げた。


「私は負けていない。この町が間違っている。勝者を一つに選べぬ町など、いずれ食われる!」


 男の能力が暴走し、広場の色を再び奪おうとする。


 町の看板が震える。


 人々が悲鳴を上げる。


 リンが叫ぶ。


「イオ!」


「分かってる!」


 イオは最後に残った百花鍋を持ち上げた。


「みんな、食べて!」


 町人たちが一斉に器を掲げる。


 豆屋も。


 大店も。


 旅人も。


 芸人も。


 子どもも。


 老人も。


 同じ鍋からよそわれた料理を口へ運ぶ。


 百花繚乱の光が強くなる。


 優勝劣敗の黒い光が押し返された。


「なぜだ!」


 男が叫ぶ。


 リンは答えた。


「この町は、一番を決めるために咲いてるんじゃない」


 シンが続ける。


「全部咲いてるから、派手なんだろ」


 イオが言う。


「食べる人がいる限り、負けた料理なんてありません」


 どんちゃんが、最後に小さく言った。


「一人で食べるより、みんなで食べる方がおいしいしねえ」


 優勝劣敗の背中の四文字に、大きな亀裂が入った。


 男は膝をつく。


 黒い影が砕け、夜風に散っていく。


 広場に、色が戻った。


 完全な勝利ではない。


 優勝劣敗はまだ倒れてはいない。


 だが、その力は明らかに弱まっていた。


 男はリンたちを睨み、低く呟く。


「覚えていろ」


「負け惜しみか?」


 シンが言う。


「違う」


 優勝劣敗は立ち上がる。


「この町は、あの方に目をつけられた。弱き花が群れて咲く町など、いずれ踏み荒らされる」


「誰に」


 リンが問う。


 優勝劣敗は、答えの代わりに笑った。


「弱肉の理を知る時、お前たちは今日の選択を後悔する」


 その言葉だけを残し、優勝劣敗は人混みの中へ消えていった。


 追おうとしたシンを、リンが止める。


「なぜ止める!」


「今は町だ」


 リンは広場を見た。


 色を取り戻した町。


 泣きながら看板を撫でる店主。


 笑い合う子どもたち。


 鍋を囲む人々。


 ここを守る方が先だった。


 シンは不満そうにしながらも、鉄棒を下ろした。


「次に会ったら殴る」


「その時は止めないかもしれない」


「本当か?」


「状況による」


「便利だな」


 イオは力が抜けたように座り込んだ。


 リンが駆け寄る。


「大丈夫か?」


「疲れた」


「ずっと料理してたからな」


「でも」


 イオは町を見た。


「食べてもらえた」


「ああ」


「よかった」


 その横で、どんちゃんが空の器を差し出した。


「おかわりは?」


 イオは無言で木べらを構えた。


「冗談だよ」


「今のは本気だった」


「半分くらい」


「半分でも駄目」


 シンが笑う。


「どんちゃん、お前も少しは働いたな」


「少しだけねえ」


「明日も働け」


「明日は昼寝したいなあ」


「やっぱり昼行灯だな」


「そうだよ」


 どんちゃんは、色を取り戻した町を眺めた。


 その目は、いつも通り眠そうだった。


 けれどリンには、一瞬だけ寂しそうに見えた。


「どうした?」


 リンが尋ねる。


「いや」


 どんちゃんは笑った。


「花がたくさん咲くのは、いいねえ」


「そうだな」


「一つだけだと、寂しいからねえ」


 リンはその言葉を聞き、少しだけ胸に引っかかりを覚えた。


 だが、理由は分からなかった。


 夜の百花繚乱の町に、再び祭りの音が戻ってくる。


 歌。


 笑い声。


 鍋の音。


 客を呼ぶ声。


 たくさんの花が、もう一度咲き始めていた。


 そしてその夜。


 町の片隅で、一人の老人がぽつりと呟いた。


「そういえば昔、この町にもいたな」


 近くにいたシンが振り向く。


「何がだ」


「勝ち負けを笑い飛ばした男だよ」


「強いのか?」


 老人は笑った。


「知らん。ただ、負けたところを見た者はいない」


 シンの目が輝く。


「名前は?」


 老人は空を見上げる。


「天下無双を名乗る、派手な歌舞伎者だった」


 リンは嫌な予感がした。


 シンは満面の笑みを浮かべる。


「リン」


「何だ」


「次はそいつを探すぞ」


「まだ何も決めてない」


「決まった」


「決めるな」


 イオは疲れた顔で笑った。


「また面倒なことになりそうね」


 どんちゃんは、少し離れた木箱の上で丸くなっていた。


 寝ているのか、聞いているのか分からない。


 ただ、口元だけが少し笑っていた。


 百花繚乱の町の夜は、にぎやかに更けていく。


 そして三人の旅は、新しい名の噂を拾った。


 天下無双。


 まだ見ぬ、派手な歌舞伎者の名を。

【前書き】


四字熟語が真名になる世界。


臨機応変、猪突猛進、医食同源の三人が、今日も腹を空かせて旅をします。


バトルあり、料理あり、ちょっとした言葉の物語あり。


よろしくお願いします。

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