8話 色を失くした屋台
【前書き】
四字熟語が真名になる世界。
臨機応変、猪突猛進、医食同源の三人が、今日も腹を空かせて旅をします。
バトルあり、料理あり、ちょっとした言葉の物語あり。
よろしくお願いします。
翌朝。
百花繚乱の町は、夜明け前から騒がしかった。
宿の窓の外では、荷車の車輪が石畳を鳴らしている。
遠くで鶏が鳴き、それに負けない声で屋台の主人たちが叫んでいた。
「もっと右だ!」
「布を高く張れ!」
「肉はこっちへ運べ!」
「香辛料の箱は濡らすなよ!」
リンは寝台の上で目を開けた。
隣の寝台では、シンが毛布を蹴飛ばして寝ている。
口元が少し緩んでいた。
「肉……大盛り……」
「夢でも食べてるのか」
リンは起き上がり、窓を開けた。
朝の冷たい空気と一緒に、香ばしい匂いが流れ込んでくる。
焼いた肉。
甘い菓子。
揚げた芋。
香草。
果物酒。
市場町の朝は、すでに腹を空かせる力に満ちていた。
「シン」
リンは声をかけた。
「起きろ」
「あと一皿……」
「一皿も出てない」
「肉……」
「本物の肉が外にあるぞ」
その瞬間、シンは跳ね起きた。
「どこだ!」
「外」
「行くぞ!」
「顔を洗え」
「肉が冷める!」
「まだ買ってもいない」
シンは毛布を投げ捨て、鉄棒を担ごうとした。
リンはその前に襟首をつかむ。
「洗う。着替える。荷物を持つ。順番だ」
「面倒だな」
「町で暮らすには必要だ」
「俺は旅人だ」
「旅人でも顔は洗う」
部屋の戸が開き、イオが入ってきた。
すでに旅装を整え、髪も結んでいる。
「二人とも、遅い」
「イオは早いな」
リンが言う。
「市場の朝は勝負だから」
「何の?」
「いい食材がなくなる前に買う勝負」
イオの目は真剣だった。
腰の革袋には、昨日もらった銅貨と香辛料がきちんと収められている。
「今日は大市なんだろ」
「そう。百花繚乱の町で、一年に一度の大きなお祭り」
「祭り!」
シンの目が輝く。
「屋台が増えるのか?」
「増える」
「肉も?」
「たぶん」
「行くぞ!」
「だから顔を洗いなさい」
イオもリンと同じことを言った。
シンは不満そうにしながらも、水場へ向かった。
宿を出ると、町は昨日以上に鮮やかだった。
通りの上には色とりどりの布が張られ、家々の窓には花が飾られている。
市場の入口には大きな看板が立てられていた。
百花大市。
その下には、今日一日の催しが書かれている。
料理競い。
芸競い。
細工競い。
力競い。
歌競い。
商い競い。
町中の店や職人たちが、それぞれの技を見せ合う祭りらしい。
「すごい」
イオが小さく呟いた。
「食材だけじゃない。器も、薬草も、火加減の道具もある」
「目が怖いぞ」
リンが言う。
「全部見たい」
「昨日も言ってたな」
「昨日より増えてる」
「金は増えてない」
「だから働く」
シンは看板の下に書かれた文字を見ていた。
「力競いって何だ?」
「力自慢が勝負するんだろう」
「賞品は?」
シンが係の男へ尋ねる。
「優勝者には肉の詰め合わせだ」
「出る」
即答だった。
「待て」
リンが止める。
「何でだ!」
「また何か壊す」
「力競いで壊さずにどう勝つんだ」
「勝負の種類を確認してからだ」
「力だろ」
「力にも色々ある」
「押す。殴る。持つ。投げる」
「だから危ないんだ」
イオは別の張り紙を見ていた。
「料理競いもある」
「出るのか?」
リンが尋ねる。
「出たいけど、材料費がないし、出場料も必要みたい」
「賞品は?」
「金貨と、香辛料の詰め合わせ」
イオの目が光った。
「出たいんだな」
「出たい」
「でも出場料がない」
「働く」
「三回目だ」
その時、通りの向こうから聞き覚えのある声がした。
「朝から元気だねえ」
三人が振り向く。
屋台の木箱に腰をかけ、串焼きを眺めている男がいた。
くたびれた旅装。
眠そうな目。
昼行灯のどんちゃんだった。
シンが眉をひそめる。
「どんちゃん。また肉を見てるのか」
「見るのは無料だからねえ」
「食ってないだろうな」
「食べてないよ。お金がないから」
「働け」
「昨日も言われたねえ」
「今日も言う」
「明日も言われそうだ」
どんちゃんはのんびり笑った。
リンは近づいて尋ねる。
「どこに泊まったんだ?」
「屋根の下」
「どこの?」
「雨が当たらないところ」
「それは屋根の説明だ」
「便利だよね、屋根」
「答える気がないな」
「そう見える?」
「見える」
イオはどんちゃんの手元を見た。
「朝ご飯は?」
「まだだねえ」
「食べたい?」
「できれば」
「働ける?」
「考えているところ」
「じゃあ食べられないわね」
「厳しいねえ」
どんちゃんは肩を落としたが、どこか楽しそうだった。
その時、昨日仕事をくれた商人の男が三人を見つけた。
「おお、来たか!」
「昨日は世話になった」
リンが頭を下げる。
「こっちこそ助かった。今日も人手が足りない。荷運びと店番を頼めるか?」
「飯は?」
シンが聞く。
「出す」
「肉は?」
「昼に出す」
「やる」
「シンはそれしか聞かないのか」
リンが呆れる。
「重要だ」
商人は笑った。
「そちらのお嬢さんには、薬草茶をまた頼みたい。昨日、評判がよくてな」
「もちろん」
イオは頷いた。
「その代わり、料理競いの出場料を立て替えてもらえませんか」
「料理競いに出るのか?」
「できれば」
「面白い。うちの店の食材を使っていい。出るなら宣伝にもなる」
イオの表情が明るくなった。
「ありがとうございます!」
「ただし、勝てよ」
「勝つ?」
「料理競いだからな」
商人は何気なく言った。
だが、その言葉に、リンはわずかな違和感を覚えた。
勝つ。
祭りなら当然の言葉だ。
だが、町の空気のどこかに、その言葉だけが妙に重く響いている気がした。
「どうした?」
シンが聞く。
「いや」
リンは首を振った。
「仕事をしよう」
三人は市場で働き始めた。
シンは荷運び。
大きな箱を三つも四つも担ぎ、商人たちから歓声を浴びる。
ただし、行き先を間違えそうになるたび、リンが声を飛ばした。
「シン! そっちじゃない!」
「こっちだろ!」
「それは魚屋だ!」
「肉屋は?」
「肉屋じゃなくて香辛料店!」
「肉は?」
「あとで!」
イオは薬草茶の屋台を手伝った。
昨日もらった湿気た葉に、新しい香草を少し加え、飲みやすく整える。
朝から冷えた体を温める茶。
食べ過ぎた腹を落ち着かせる茶。
眠気を飛ばす茶。
眠りやすくする茶。
客に合わせて小さな杯へ注いでいく。
「この茶は?」
太った商人が尋ねる。
「肉を食べ過ぎた人向けです」
「なぜ分かった」
「匂いで」
「何の匂いだ?」
「脂と香辛料」
商人は腹を押さえながら笑った。
「一杯もらおう」
リンは店番と帳簿を手伝いながら、市場を観察していた。
百花繚乱。
店ごとに色が違う。
香りも違う。
声も違う。
それぞれが自分の店を飾り、自分の品を誇っている。
だが、昨日見た暗い通りだけは違った。
そこに並ぶ屋台は、どれも色あせている。
看板の文字は薄く、布は灰色に近い。
客はほとんど通らない。
まるで、その一角だけが町から忘れられているようだった。
リンは商人へ尋ねた。
「あの通りは、今日も祭りに出ないのか?」
商人の手が止まる。
「ああ」
「なぜ?」
「負けたからだ」
「昨日もそう言っていた。何に負けたんだ?」
商人は周囲を確かめ、声を潜めた。
「商い競いだ」
「商い競い?」
「この町では昔から、大市の日に店の腕を競う。だが本来は、互いの技を見せ合うだけのものだった。勝った店も、負けた店も、祭りの後は一緒に酒を飲んだ」
「今は違うのか」
「今年から変わった」
商人は暗い通りを見る。
「勝てない店は価値がない。売れない店は町の花ではない。そう言い出した者がいる」
「誰だ」
「中央広場にいる審判長だ」
「真名は?」
商人は口を閉じた。
少し迷い、やがて答える。
「優勝劣敗」
リンの眉が動いた。
優れた者が勝ち、劣った者が敗れる。
それ自体は、勝負の場では自然な言葉に聞こえる。
だが、百花繚乱の町でその言葉が力を持つなら、少し危うい。
「負けた店はどうなる」
「色を失う」
「色?」
「見れば分かる」
商人はそれ以上、話そうとしなかった。
昼近く。
市場の中央広場に鐘が鳴った。
大市の開始を告げる鐘だった。
人々が広場へ集まっていく。
リンたちも仕事を一時中断し、商人に連れられて中央へ向かった。
広場の真ん中には、高い台が作られている。
その上に、一人の男が立っていた。
整えられた髪。
派手な服。
指にはいくつもの指輪。
笑ってはいるが、その目は笑っていない。
男の背中には、金色の四文字が浮かび上がっていた。
優勝劣敗。
「皆様!」
男は両手を広げた。
「今年も百花大市へようこそ!」
広場から拍手が起きる。
「この町は、百花繚乱の名を持つ町。多くの花が咲き乱れる、美しき場所です」
男はゆっくりと町を見渡した。
「ですが、花はすべて咲けばよいというものではありません」
リンは目を細める。
「弱い花。枯れた花。客を呼べぬ花。そうしたものが残れば、町全体の価値が落ちる」
広場の空気が少し変わった。
「だからこそ、今年の大市では真に優れた花を選びます」
男の背中の四文字が強く光る。
「料理、芸、細工、力、商い。すべての競いにおいて勝者を定め、敗者には退いていただく」
「退くって何だ」
シンが小声で言う。
リンは答えない。
優勝劣敗は笑みを深めた。
「勝つ者こそ価値がある。敗れる者は、勝者を輝かせる影となる。それが正しき町の姿!」
広場の一部から歓声が上がる。
だが、別の場所では不安そうな顔をする者もいた。
イオは眉をひそめる。
「あの人、嫌い」
「早いな」
リンが言う。
「料理を勝ち負けだけで見てる」
「まだ始まってないぞ」
「もう分かる」
シンは優勝劣敗を見上げる。
「強いのか?」
「見た目では分からない」
「殴ってみるか」
「やめろ」
その時、リンの隣にどんちゃんが立っていた。
いつの間に来たのか分からない。
「賑やかだねえ」
「どこから来た」
リンが尋ねる。
「あっちから」
「またそれか」
「便利だからねえ」
どんちゃんは広場の台を見上げた。
眠そうな目のまま、ぽつりと言う。
「勝った花だけ残したら、花畑じゃなくて畑だよねえ」
リンはどんちゃんを見た。
「どういう意味だ」
「そのままだよ」
「君は、あの男を知ってるのか?」
「知らないねえ」
「本当に?」
「たぶん」
どんちゃんは欠伸をした。
「ただ、ああいう人は疲れるねえ。昼寝しにくい」
「基準が昼寝なのか」
「大事だよ」
優勝劣敗の宣言が終わると、広場の各所で競いの受付が始まった。
料理競いの受付には、すでに多くの料理人が並んでいる。
豪華な店の料理長。
香辛料屋の娘。
魚料理の屋台主。
菓子職人。
そして、イオ。
「本当に出るのか?」
リンが尋ねる。
「出る」
「勝負だぞ」
「分かってる」
「勝たないと、何か起きるかもしれない」
「だから出る」
イオは暗い屋台通りを見た。
「あの人の言う勝ち負けで、この町の料理が決まるのは嫌」
「でも、何を作る?」
「まだ考えてる」
シンが胸を張る。
「肉だ」
「あなたは黙ってて」
「肉なら勝てる」
「料理は肉の量だけじゃない」
「そうなのか?」
「そうよ」
「でも肉は多い方がうまい」
「それはあなたの基準」
リンは受付の看板を読んだ。
「出場料は昨日の商人が出してくれるとして、材料は限られてる。調理時間も決まってるな」
「テーマは?」
イオが聞く。
受付係が答える。
「今回の料理競いのテーマは、花だ」
「花?」
「百花繚乱の大市だからな。見た目、香り、味、すべてにおいて最も華やかな一皿を競う」
シンが首を傾げる。
「花って食えるのか?」
「食べられる花もある」
イオが言う。
「でも、華やかな一皿……」
彼女は考え込んだ。
医食同源のイオにとって、料理は見せびらかすためのものではない。
食べる人の体に届き、生きる力へ変わるものだ。
華やかさだけを競う料理。
その時点で、イオにとってはやりにくい勝負だった。
受付を済ませると、参加者には市場で使える食材札が配られた。
決められた範囲内で食材を選び、一皿を作る。
審査員は三人。
町の商人代表。
旅芸人の座長。
そして、優勝劣敗本人。
「本人が審査員か」
リンが呟く。
「公平なのか?」
「勝つ者が正しいなら、公平も何もないんじゃないかなあ」
どんちゃんが言った。
「どんちゃん、いたのか」
シンが驚く。
「いたよ」
「気配が薄いな」
「昼行灯だからねえ」
「便利だな」
「そうだねえ」
どんちゃんは料理競いの会場を眺める。
「イオは何を作るのかな」
「まだ決めてない」
イオが答える。
「華やかな料理って、どう思う?」
「食べた人が笑えば、華やかなんじゃないかなあ」
「見た目じゃなくて?」
「見た目も大事だけどねえ」
どんちゃんは市場の方へ目を向けた。
「一つの花だけ大きく飾っても、寂しい時はあるからねえ」
リンはまた、どんちゃんを見た。
この男は、時々変なほど核心に近いことを言う。
だが、言った本人は眠そうにしているだけだ。
「どんちゃん」
「何かな」
「君、本当に昼行灯なのか?」
「うん」
「真名が三文字なのは、珍しい」
「そうだねえ」
「何か隠してる?」
どんちゃんは、リンの目を見た。
眠そうな目。
力のない表情。
けれど一瞬だけ、その奥が底のない水のように見えた。
すぐに、どんちゃんは笑った。
「昼寝できる場所くらいかなあ」
「……そうか」
「それより、お腹が減ったねえ」
「またそれか」
「生きるのは、大体そこからだよ」
イオは市場へ向かって歩き出した。
「食材を探す」
「俺も行く」
シンがついていく。
「試食禁止」
「見るだけだ」
「昨日も聞いた」
「今日は昨日より分かってる」
「その言い方は信用できない」
リンも後を追う。
どんちゃんは少し遅れて、ふらふらとついてきた。
市場は、料理競いに出る者たちでさらに賑わっていた。
高価な果物。
鮮やかな香辛料。
食用の花。
珍しい魚。
肉の塊。
色とりどりの野菜。
イオは一つ一つを見て回る。
目は真剣だった。
「イオ、花ならあれだ」
シンが真っ赤な花を指す。
「それは観賞用。食べると舌が痺れる」
「痺れるだけなら食える」
「食べない」
「肉は?」
「花がテーマなの」
「肉を花の形に切る」
イオが一瞬止まった。
「それは少しありかも」
「ありなのか」
リンが驚く。
「でも、それだけじゃ足りない」
イオは食材札を確認する。
買える量は多くない。
豪華な食材を一つ選べば、他が買えなくなる。
小さな食材を多く選べば、派手さに欠ける。
「勝つための料理……」
イオは呟いた。
その表情は、あまり楽しそうではない。
リンは言った。
「勝つためじゃなくて、イオが作りたい料理でいいんじゃないか」
「でも、負けたら」
イオは暗い屋台通りを見る。
「何が起こるか分からない」
どんちゃんが、近くの果物を眺めながら言った。
「勝とうとすると、食べる人が見えなくなることがあるねえ」
イオが振り向く。
「じゃあ、どうすればいいの」
「僕に聞くの?」
「今、言ったのはあなたでしょ」
「そうだったねえ」
どんちゃんは少し考えた。
「誰に食べさせたいか、で決めればいいんじゃないかな」
「誰に……」
イオは周囲を見た。
豪華な服を着た商人。
審査員。
料理人。
屋台主。
そして、暗い通りの奥からこちらを見ている子どもたち。
色を失くした屋台通り。
客が来なくなった場所。
負けたと言われた店の人たち。
イオの目が変わった。
「決めた」
「何にする?」
リンが聞く。
「一番華やかな料理じゃなくて、町のいろんな味が入った料理」
「テーマは花だぞ」
「百花繚乱でしょ」
イオは食材札を握る。
「一つの花じゃなくて、たくさんの花で作る」
「つまり?」
「この市場の小さな店を回る。少しずつ食材を分けてもらう」
「有名店じゃなくて?」
「暗い通りの屋台からも」
リンは頷いた。
「それがいい」
シンは腕を組む。
「肉は?」
「もちろん入れる」
「よし」
どんちゃんは嬉しそうに笑った。
「いいねえ。昼寝するには、にぎやかな花畑の方がいい」
「あなたは手伝うの?」
イオが聞く。
「荷物を少し持つくらいなら」
「働くのね」
「少しだけねえ」
シンがどんちゃんを睨む。
「落とすなよ」
「重いものは君に任せるよ」
「全部じゃねえか」
「適材適所だねえ」
四人は、暗い屋台通りへ向かった。
通りへ入ると、空気が変わった。
市場の喧騒は遠くなり、足音だけが妙に響く。
看板は色あせていた。
赤かったはずの布は灰色になり、店先の花飾りも枯れたように見える。
屋台の主人たちは、客が来ないことに慣れてしまったような顔で座っていた。
「ここ、本当に百花繚乱の町か?」
シンが言った。
「昨日よりひどく見える」
リンが答える。
イオは一軒の小さな屋台の前に立った。
老夫婦が、豆を焼いて売っている店だった。
だが客はいない。
「こんにちは」
イオが声をかける。
老女が顔を上げた。
「いらっしゃい……と言いたいところだけど、今日は売るものもあまりなくてね」
「この豆を、少し分けてもらえませんか」
「豆?」
「料理競いに使いたいんです」
老女は驚いた顔をした。
「こんな地味な豆を?」
「香りがいい」
イオは豆を一粒手に取り、匂いを嗅いだ。
「しっかり炒れば、甘みが出るはず」
老女の目が少し潤んだ。
「昔はね、この豆の焼ける匂いで客が来たんだよ」
「今もいい匂いです」
イオは微笑んだ。
「少し、譲ってください」
老女は豆を小さな袋へ入れた。
「お代はいい」
「払います」
「勝てない店の食材だ。どうせ価値なんてない」
「あります」
イオはまっすぐ言った。
「だから使わせてください」
老女はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
次の店では、色を失った干し魚を少し。
その次の店では、香りの弱くなった薬草を少し。
古いパン屋から、硬くなった黒パンを少し。
小さな肉屋から、端肉を少し。
どの店も最初は戸惑った。
自分たちの食材は負けたものだと言った。
客に選ばれなかったと言った。
華やかな料理には向かないと言った。
そのたびに、イオは同じように答えた。
「使わせてください」
シンは荷物を持ちながら、顔をしかめていた。
「ここの連中、何でそんなに諦めてるんだ」
「負けたからだろう」
リンが言う。
「一回負けたくらいで?」
「色まで奪われたら、気力も落ちる」
「色?」
「見ろ」
リンは老夫婦の屋台を指した。
イオが豆を受け取ったあと、ほんのわずかに看板の色が戻ったように見えた。
完全ではない。
だが、灰色だった文字に薄い茶色が差している。
「今、少し戻った?」
イオが呟く。
「たぶん」
リンは優勝劣敗の能力を考える。
負けた店から色を奪う。
客が来ない。
価値がないと思わせる。
だが、誰かに必要とされれば、少し戻るのかもしれない。
どんちゃんは、硬い黒パンの欠片を見つめていた。
「食べられるものに、負けたも勝ったもないのにねえ」
「それはいいこと言ってるようで、つまみ食いしようとしてるだろ」
リンが言う。
「ばれたかあ」
「ばれる」
イオはどんちゃんの手から黒パンを取り上げた。
「これは料理用」
「少しくらい」
「働いたらね」
「運んでるよ」
「その小さな袋一つだけでしょ」
「僕にしては大仕事だねえ」
シンが呆れる。
「どんちゃん、弱すぎるだろ」
「うん。弱いよ」
「鍛えろ」
「疲れるからねえ」
「そればっかりだな」
「大事だからねえ」
食材を集め終えた頃、料理競いの開始を告げる鐘が鳴った。
中央広場へ戻ると、すでに参加者たちは調理台の前に立っていた。
豪華な食材を山のように並べる者。
鮮やかな食用花を飾る者。
高価な香辛料を広げる者。
その中で、イオの台に並んだ食材は地味だった。
豆。
干し魚。
端肉。
硬い黒パン。
薬草。
少しの香辛料。
根菜。
小さな花びら。
優勝劣敗が近づいてくる。
「ほう」
男はイオの台を見て、薄く笑った。
「ずいぶん質素な花だ」
「食べる料理ですから」
「華やかさがテーマだと聞いていないのかね」
「聞いています」
「それで、その負け犬たちの食材を使うと?」
シンの目つきが変わった。
「今、何て言った」
リンが腕を押さえる。
「待て」
優勝劣敗はシンを見て笑う。
「おや、怖い怖い。だが暴力では勝者になれませんよ」
「殴れば勝てる」
「シン」
「黙ってろ、リン」
「黙るのはお前だ」
イオは静かに優勝劣敗を見る。
「食材に勝ち負けはありません」
「あるとも」
優勝劣敗の背中に、金色の四文字が浮かぶ。
「選ばれたものは勝者。選ばれなかったものは敗者。町も店も料理も、人も同じだ」
「違います」
「ならば、料理で証明するといい」
男は笑った。
「負ければ、君の料理も色を失う」
イオの手が止まる。
「どういう意味」
「この町では、敗れたものは華を失う。それが新しい大市の決まりだ」
リンは周囲を見る。
他の参加者たちは目を逸らしている。
知っていたのだ。
負けた店が色を奪われることを。
それでも勝つために参加している。
あるいは、参加しないことすらできないのかもしれない。
「イオ」
リンが小声で言う。
「無理に出なくていい」
「出る」
「負けたら」
「だから出る」
イオは調理台に向き直った。
「この食材が負け犬じゃないって、食べさせて分からせる」
シンが笑う。
「いいぞ、イオ」
「あなたは火を見て」
「任せろ」
「強すぎたら焦げるからね」
「昨日より分かってる」
「それは信用しない」
リンは食材を並べ直した。
「僕は何をする?」
「時間を見て。あと、切る順番を手伝って」
「分かった」
どんちゃんは少し離れた場所で座っていた。
「僕は?」
「邪魔しないで」
イオが即答する。
「大事な役だねえ」
「本当に動かないで」
「分かったよ」
料理競いが始まった。
鐘が鳴る。
参加者たちが一斉に動き出す。
華やかな料理人たちは、色鮮やかな花や果物を切り、皿へ飾っていく。
甘い香り。
香辛料の強い香り。
焼いた肉の香り。
中央広場は、一気に料理の熱気へ包まれた。
イオはまず、硬い黒パンを細かく砕いた。
次に干し魚を炙り、香りを立たせる。
端肉は小さく切って脂を出し、その脂で根菜を炒める。
豆は丁寧に乾煎りし、香ばしさを引き出した。
「シン、火を少し弱く」
「弱く?」
「薪を一本抜いて」
「こうか?」
「全部抜かない!」
「難しいな」
「火加減は力任せじゃない」
「火に勝てばいいのか?」
「勝負しない!」
リンは時間を見ながら、材料を渡す。
「残り半刻」
「ありがとう」
「次は?」
「薬草を刻んで。細かくしすぎないで」
「これくらい?」
「もう少し大きく」
「分かった」
どんちゃんは座ったまま、ぼんやり鍋を見ていた。
ふと呟く。
「いい匂いだねえ」
「まだ食べられないわよ」
イオが言う。
「分かってるよ」
「本当に?」
「たぶん」
「リン、見張ってて」
「分かった」
料理は少しずつ形になっていく。
端肉と根菜の煮込み。
干し魚の旨み。
豆の香ばしさ。
砕いた黒パンでとろみをつける。
薬草で後味を整える。
最後に、小さな花びらを散らした。
それは、豪華な料理ではなかった。
金色の皿もない。
大きな肉塊もない。
高価な果物もない。
けれど、湯気の中にいくつもの香りが重なっていた。
小さな店の味が、少しずつ混ざっている。
イオの背中に、橙色の四文字が浮かぶ。
医食同源。
鍋の中の料理が、淡く光った。
「できた」
イオは息を吐いた。
審査が始まる。
最初の料理人は、花をかたどった菓子を出した。
美しい。
鮮やか。
甘い香りが強い。
審査員たちは拍手した。
次の料理は、香辛料をふんだんに使った肉料理。
その次は、魚を花の形に盛り付けた豪華な一皿。
どれも見事だった。
イオの料理の番が来る。
優勝劣敗は皿を見て笑った。
「これは料理というより、寄せ集めだな」
「そうです」
イオは答える。
「寄せ集めました。この町の、色を失くした店から」
広場がざわめく。
暗い屋台通りの者たちが、遠くからこちらを見ていた。
老夫婦の豆屋。
干し魚屋。
古いパン屋。
小さな肉屋。
みな、不安そうな顔をしている。
「百花繚乱は、一つの花が大きく咲く町じゃない」
イオは皿を差し出した。
「いろんな花が、一緒に咲く町です」
審査員たちが料理を口へ運ぶ。
商人代表は、最初に目を丸くした。
「これは……」
旅芸人の座長が頷く。
「地味だが、香りが重なっている」
優勝劣敗は、ゆっくりと匙を口へ入れた。
その表情は変わらない。
だが、一瞬だけ眉が動いた。
「悪くはない」
「悪くない?」
シンが怒鳴りそうになる。
リンが止める。
「続けて聞け」
優勝劣敗は皿を置いた。
「しかし、華やかさに欠ける。勝つための料理ではない」
「勝つために作っていません」
イオが言う。
「では、負けるために作ったのか?」
「食べる人のために作りました」
「甘いな」
優勝劣敗の金色の四文字が強く輝く。
「勝たねば、届かぬ」
その瞬間、イオの皿に散らした花びらの色が薄くなった。
リンは気づいた。
料理そのものから色が抜けようとしている。
同時に、暗い屋台通りの食材を出した店の看板も、さらに灰色へ沈んでいく。
「イオ!」
リンが叫ぶ。
イオも気づいた。
優勝劣敗は微笑む。
「敗者の味は、敗者の色へ戻る」
広場の空気が重くなった。
シンが鉄棒を握る。
「殴る」
「待て!」
リンが止める。
「待てるか!」
「今殴れば、イオの料理は負けたことになる!」
「じゃあどうする!」
その時。
どんちゃんが、のんびりと立ち上がった。
「ねえ」
優勝劣敗が目を向ける。
「何だ、三文字」
「その料理、僕も食べていいかな」
広場が静まる。
優勝劣敗は眉をひそめた。
「審査は終わった」
「でも、まだ残ってる」
「貴様は審査員ではない」
「うん」
どんちゃんは眠そうに頷いた。
「ただの腹ぺこだよ」
シンが叫ぶ。
「どんちゃん、今それ言う場面か!」
「大事だよ」
どんちゃんはイオの皿の残りを見た。
「料理は、食べる人がまだいるなら、終わってない」
リンは息を止めた。
その言葉に、広場の何人かが顔を上げる。
暗い通りの子どもたち。
屋台の老夫婦。
料理を見ていた客たち。
イオの料理は、審査員だけのために作ったものではない。
「イオ」
リンが言った。
「まだ残ってるか?」
「鍋には少し」
「配ろう」
「審査中だぞ!」
優勝劣敗が声を荒げる。
「勝負はまだ終わっていない!」
「あなたの審査は終わったんでしょう」
イオは鍋を持ち上げた。
「だったら、次は食べたい人に出します」
シンが笑う。
「いいぞ!」
「子どもとお年寄りから!」
「俺は?」
「後!」
「またか!」
イオは暗い屋台通りの人々へ料理を配り始めた。
リンも器を運ぶ。
シンは人を整理しながら、ちゃっかり自分の分を確保しようとしてイオに睨まれた。
最初に食べたのは、豆屋の老女だった。
一口。
彼女の目が震える。
「うちの豆の味がする」
干し魚屋の男が食べる。
「うちの魚もだ」
パン屋の老人が匙を握る。
「硬くなったパンでも、こんなふうに」
子どもたちも食べた。
「おいしい」
「いろんな味がする」
「これ、どこのお店?」
イオは答えた。
「全部」
その瞬間。
暗い屋台通りの看板に、色が戻り始めた。
灰色だった布に赤が差す。
茶色の看板が深みを取り戻す。
花飾りの色が、少しずつよみがえる。
優勝劣敗の顔色が変わった。
「何をしている!」
男の背中の四文字が光る。
だが、光が揺らいだ。
リンは理解した。
「負けた店じゃなかったんだ」
「何?」
シンが聞く。
「誰にも選ばれなかったから、色を奪われた。でも今、選ばれた」
「誰に?」
「食べた人に」
どんちゃんは小さな器を手に、ゆっくり食べていた。
「うん。いいねえ」
「どんちゃん!」
シンが怒鳴る。
「いつの間にもらった!」
「並んだよ」
「見てねえ!」
「気配が薄いからねえ」
イオは優勝劣敗へ向き直った。
「料理は、勝った人だけに届くものじゃありません」
広場に集まった人々が、ざわめき始める。
暗い通りの者たちが、自分たちの看板を見ている。
失われた色は、完全ではないが戻りつつあった。
優勝劣敗は唇を歪める。
「小娘が」
その背中の四文字が、さらに強く光った。
「ならば次の勝負で、完全に叩き潰してやる」
「次?」
リンが問う。
「料理競いは前座だ」
優勝劣敗は中央台へ上がった。
「これより、商い競いを行う!」
広場が静まる。
「大市最大の勝負だ。町中の店が売上と客数を競う。負けた店は、百花繚乱の町に不要な花として、完全に色を失う」
暗い通りの店主たちの顔が青ざめる。
「そして今年は特別に」
優勝劣敗はイオを指した。
「この旅の料理人も参加してもらおう。君が守ろうとした負け犬たちと共に」
シンが鉄棒を担いだ。
「やっぱり殴ろう」
「待て」
リンは優勝劣敗を見上げる。
「商い競いで勝てばいいんだな」
「できるものなら」
優勝劣敗は笑った。
「明日の夕刻までに、最も客を集め、最も売り上げた店が勝者だ」
「店がない」
リンが言う。
「ならば作ればいい」
優勝劣敗は冷たく答える。
「寄せ集めの店らしくな」
鐘が鳴った。
商い競いの開始を告げる鐘だった。
イオは唇を噛む。
シンは怒っている。
リンは周囲を見る。
暗い屋台通りの店主たち。
戻りかけた色。
不安な顔。
そして、楽しそうに料理を食べているどんちゃん。
「どんちゃん」
リンが呼ぶ。
「何かな」
「手伝う気は?」
「少しなら」
「どのくらい?」
「味見くらい」
「それは食べてるだけだ」
「大事だよ」
シンがどんちゃんの襟首をつかんだ。
「明日は働け」
「ええ」
「嫌そうな声を出すな」
「だって、昼行灯だからねえ」
「明日だけは夜行灯にしてやる」
「それは少し格好いいねえ」
リンは暗い屋台通りを見た。
勝たなければ、色を失う。
だが、勝ち方まで優勝劣敗に合わせる必要はない。
百花繚乱の町で。
寄せ集めの店が。
どう勝つか。
リンは、考え始めていた。
【後書き】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
リンは考え、シンは突っ込み、イオは鍋を握る。
そんな三人の旅を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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