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臨機応変の俺と猪突猛進の親友、医食同源の少女と世界を旅する ~四字熟語を背負う者たちの腹ぺこ放浪記~  作者: 凡夫 成


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10/11

10話 百花繚乱の食卓

【前書き】


四字熟語が真名になる世界。


臨機応変、猪突猛進、医食同源の三人が、今日も腹を空かせて旅をします。


バトルあり、料理あり、ちょっとした言葉の物語あり。


よろしくお願いします。


 夜が明けても、百花繚乱の町は眠っていなかった。


 大市の熱気は、まだ通りのあちこちに残っている。


 屋台の布は朝露に濡れ、石畳には昨夜の祭りの跡が散らばっていた。


 食べ終えた串。


 割れた木杯。


 踏まれて潰れた花びら。


 それでも町の色は、昨日までとは違っていた。


 暗かった屋台通りにも、朝日が差している。


 豆屋の看板には深い茶色が戻り、干し魚屋の軒先には藍色の布が揺れていた。


 古いパン屋の麦色の旗も、風に小さくはためいている。


「戻ったんだな」


 リンは宿の窓から町を見下ろしながら呟いた。


 隣の寝台では、シンが大の字になって眠っている。


「肉……天下……もう一皿……」


「夢が混ざってるな」


 リンはため息をついた。


 昨夜、シンは百花鍋を三杯食べた。


 その後、老人から聞いた「天下無双」の名に興奮し、なかなか寝なかった。


 強いのか。


 どこにいるのか。


 会ったら戦えるのか。


 そればかり言っていた。


 イオは疲れ果てて、宿へ戻るなり眠った。


 どんちゃんは、気づいた時には姿を消していた。


 寝床を探すと言っていたが、本当にどこで寝たのかは誰も知らない。


「起きろ、シン」


 リンは声をかけた。


「まだ食える……」


「朝だ」


「肉は?」


「ない」


「なら寝る」


「今日は町の人たちに呼ばれてる」


「飯は出るか?」


「たぶん」


 シンは起き上がった。


「行くぞ」


「判断が早い」


 宿の下では、イオが待っていた。


 目の下に少し疲れが残っているが、表情は明るい。


「おはよう」


「昨日は大丈夫だったか?」


 リンが尋ねる。


「寝たら少し戻った」


「少し?」


「今日は重い鍋は持ちたくない」


 シンが胸を張る。


「俺が持つ」


「つまみ食いしないなら」


「持ってるだけなら食えねえだろ」


「あなたなら食べる」


「どうやってだよ」


「蓋を開けて」


「ばれてるな」


「やる気だったのか」


 リンが呆れる。


 三人が宿を出ると、昨日の商人が待っていた。


「おお、来たか」


「朝からどうしたんですか」


 リンが尋ねる。


「町の者たちが礼を言いたいそうだ。中央広場へ来てくれ」


「飯は?」


 シンが聞く。


 商人は笑った。


「ある」


「行くぞ」


「すでに行く流れだっただろ」


 中央広場へ向かう道は、昨日と同じ町とは思えないほど穏やかだった。


 大店の者と小店の者が、同じ通りで片付けをしている。


 豆屋の老女が、大店の菓子職人へ炒り豆を渡している。


 干し魚屋の男は、香辛料屋と一緒に新しい出汁の試作をしていた。


 古いパン屋の老人は、若い料理人に黒パンの焼き方を教えている。


 百花食堂。


 たった一晩の寄せ集め屋台だったはずの名前が、町のあちこちで口にされていた。


「百花食堂、またやるのかい?」


「次の大市でも頼むよ」


「薬草茶、常に置けないか?」


「豆の焼き包み、うちの子がまた食べたいって」


 イオは少し照れたように笑った。


「町の人たちで作れるように、分量を書いておくね」


「いいのか?」


 リンが聞く。


「私だけの料理じゃないもの」


 イオは町を見る。


「この町の料理だから」


 中央広場には、すでに多くの人が集まっていた。


 昨夜使われた大鍋が、広場の中央に置かれている。


 その周りには、町中の店から持ち寄られた食材が並んでいた。


 豆。


 パン。


 干し魚。


 肉。


 薬草。


 果物。


 香辛料。


 野菜。


 昨日よりもずっと多い。


 豆屋の老女が前へ出た。


「昨日はありがとう」


 イオが首を横に振る。


「私は料理しただけです」


「それが大事だったんだよ」


 干し魚屋の男が言う。


「俺たちは、自分の店がもう負けたと思ってた」


 パン屋の老人も頷く。


「色を失くしたのは看板だけじゃなかった。こっちの気持ちも灰色になってたんだ」


 商人が続ける。


「だが、昨日の百花食堂で分かった。大店も小店も、競うだけが商いじゃない。組み合わせれば、新しい味になる」


 シンは腕を組みながら言った。


「つまり、飯が増えるってことだな」


「まあ、そういうことだ」


「いい町だ」


「そこだけか」


 リンが小さく突っ込む。


 町長らしき男が進み出た。


 背中には、百花繚乱の四文字が浮かんでいる。


 町そのものの真名と同じ文字を背負う者だった。


「旅の方々。あなたたちのおかげで、この町は本来の色を取り戻した」


「町長さん?」


 リンが尋ねる。


「そうだ。もっとも、昨日までは名ばかりだったがな」


 町長は苦笑した。


「優勝劣敗に任せれば、町がもっと強くなると思っていた。一番を決め、勝つ店を伸ばせば、百花繚乱は栄えると」


「違ったんですね」


 イオが言う。


「ああ。花を選んでいるつもりで、花畑を狭くしていた」


 町長は深く頭を下げた。


「すまなかった」


 広場にいた店主たちも、互いに顔を見合わせた。


 そして、誰からともなく頭を下げる。


 リンは慌てた。


「いや、僕たちはそんな」


「礼は受け取っておけ」


 シンが言う。


「お前が言うのか」


「飯も受け取る」


「それは分かってる」


 町長は笑い、広場の大鍋を示した。


「今日は、町の者全員で食卓を作りたい。よければ、手を貸してくれないか」


 イオは大鍋を見た。


 昨日の疲れは残っている。


 だが、断る理由はなかった。


「もちろん」


「俺は鍋を持つ」


 シンが言う。


「持たなくていい。そこに置いてあるから」


「じゃあ肉を切る」


「つまみ食いするから駄目」


「俺に何をさせたいんだ」


「薪を割って」


「任せろ!」


「割りすぎないでね」


「難しいな」


 リンは町長を見る。


「僕は人の流れを整理します。あと、食材を持ってきた店ごとに役割を分けましょう」


「頼む」


 町の者たちが動き始めた。


 昨日は、優勝劣敗に勝つための食卓だった。


 今日は違う。


 誰かを負かすためではない。


 町そのものをもう一度つなぐための食卓だった。


 イオは大鍋の前に立ち、食材を見渡す。


「今日は、昨日より大きな百花鍋にします」


 子どもたちが歓声を上げる。


「また食べられる!」


「昨日のやつ?」


「今日はもっと具が多いよ」


「お肉は?」


 シンが子どもたちに混じって聞いた。


 イオは木べらを構える。


「あなたは大人」


「大人も肉を食う」


「薪」


「分かったよ」


 シンは不満そうに薪割り場へ向かった。


 薪を一本置く。


 鉄棒を振る。


 薪だけでなく、台まで割れた。


「シン!」


「昨日より分かってる!」


「分かってない!」


 広場に笑い声が広がる。


 豆は炒って香りを出す。


 干し魚は炙ってから出汁へ。


 肉は部位ごとに切り分ける。


 高価な香辛料は少量だけ。


 果物は酸味を生かして、脂の強い肉に合わせる。


 薬草は最後に加える。


 大店の料理人たちも、イオの手元を真剣に見ていた。


「その薬草は、煮すぎないのか?」


「香りが飛ぶので最後に入れます」


「果物を肉と?」


「脂を軽くしてくれます。子どもやお年寄りも食べやすくなる」


「豆の粉は?」


「とろみづけに。パンを入れすぎると重くなるので」


 イオの周りに、自然と人が集まる。


 昨日まで競い合っていた料理人たちが、今は同じ鍋を見ている。


 リンはそれを見ながら、人の配置を変えていく。


 重い荷はシンと若い男たちへ。


 細かい切り分けは手先の器用な職人へ。


 配膳は子どもたちも手伝えるように、軽い器を使う。


 高齢者用には柔らかく煮た具を別鍋に分ける。


 その様子を、どんちゃんが広場の端から眺めていた。


 いつの間にか、そこにいた。


 木箱に座り、眠そうな顔で足をぶらぶらさせている。


「どんちゃん」


 リンが声をかける。


「おはよう」


「どこで寝てたんだ」


「屋根の下」


「だからどこの屋根だ」


「いい屋根だったよ」


「答える気はないんだな」


「朝から詰めるねえ」


 リンは隣へ座る。


 少し離れた場所では、町の者たちが大鍋を囲んで動き回っている。


「昨日、助かった」


「何が?」


「シンを止めてくれた」


「ああ」


 どんちゃんは欠伸をした。


「あれは殴ると面倒になりそうだったからねえ」


「そういうの、分かるのか?」


「何となく」


「何となくで分かることが多いな」


「運がいいからねえ」


「本当に運だけか?」


 どんちゃんはリンを見る。


 眠そうな目。


 弱そうな体。


 どこにでもいそうな旅人。


 背中には、三文字。


 昼行灯。


「リンは疑り深いねえ」


「臨機応変だからな。違和感は拾う」


「いいことだ」


「君は何者なんだ」


「昼行灯のどんちゃん」


「それは昨日も聞いた」


「今日も同じだよ」


 リンはそれ以上問い詰めなかった。


 聞いても、のらりくらりとかわされるだけだ。


 どんちゃんは広場の大鍋を見た。


「いい町になったねえ」


「昨日まで見てたみたいな言い方だな」


「昨日は見てたよ」


「そうじゃなくて」


「花がたくさん咲くと、にぎやかだ」


 どんちゃんの声は、いつもより少しだけ静かだった。


「一つだけ咲いてる花は、遠くから見ると綺麗だけど、近くに行くと寂しいんだよねえ」


 リンは横顔を見る。


「それ、誰の話だ?」


「花の話」


「本当に?」


「たぶん」


 どんちゃんはふにゃりと笑った。


「でも、一番になりたがる花もいる。誰にも並ばれない方が、自分は特別だと思えるから」


「優勝劣敗のことか」


「かもしれないねえ」


「違う誰かのことにも聞こえる」


「リンは考えすぎだねえ」


「シンにも言われる」


「なら、きっとそうだ」


「シンを基準にするのは嫌だな」


 その時、シンの声が響いた。


「どんちゃん! 暇なら薪を運べ!」


「呼ばれちゃったねえ」


「働くのか?」


「食べるためには仕方ないねえ」


 どんちゃんはゆっくり立ち上がった。


 歩き出した直後、転がってきた木桶が足元をかすめる。


 どんちゃんは何気なく一歩横へずれ、桶はそのまま通り過ぎた。


 リンは目を細める。


 偶然。


 そう言われれば、それまでだ。


 だが、偶然にしては滑らかだった。


 昼過ぎ。


 百花鍋が完成した。


 昨日より大きな鍋。


 昨日より多い具材。


 昨日より多い人の手。


 湯気は色を帯びているように見えた。


 豆の香ばしさ。


 干し魚の旨み。


 肉の力強さ。


 香辛料の華やかさ。


 薬草の清々しさ。


 果物の酸味。


 パンのとろみ。


 それらが一つの鍋の中で、ぶつかることなく混ざり合っている。


 イオの背中に、医食同源の文字が浮かぶ。


 橙色の光が、鍋から立ち上る湯気へ溶けた。


「配ります!」


 イオの声に、町の者たちが動く。


 子どもへ。


 老人へ。


 旅人へ。


 商人へ。


 職人へ。


 料理人へ。


 昨日まで色を失っていた店主たちへ。


 大店の者たちへ。


 同じ鍋から、同じ料理がよそわれていく。


 シンは器を受け取り、中を覗いた。


「肉が三つ」


「多めにした」


 イオが言う。


「いい町だ」


「昨日も言ってた」


「昨日より分かってる」


「それ、気に入ったの?」


「便利だ」


 リンも器を受け取った。


 一口食べる。


 昨日よりも味が広い。


 豪華になった、というより、深くなった。


 いろいろな店の味が、それぞれ残っている。


 一つに溶けて消えたわけではない。


 混ざりながらも、ちゃんと分かる。


「うまい」


「よかった」


 イオは小さく笑った。


 その時だった。


 広場の端で、誰かが叫んだ。


「来たぞ!」


 空気が一変する。


 人々が振り向く。


 通りの向こうから、優勝劣敗が歩いてきた。


 昨日よりも顔色が悪い。


 派手だった服は乱れ、指輪もいくつかなくなっている。


 背中の四文字は、金色ではなく、煤けた黒に近かった。


 シンが鉄棒を担ぐ。


「来たな」


 リンも器を置いた。


 イオは木べらを握る。


「まだ何かする気?」


 優勝劣敗は、広場の中央で足を止めた。


 周囲の町人たちは怯えながらも、逃げなかった。


 昨日と違う。


 彼らは、自分の店の色を取り戻した。


 自分たちの味を、誰かに食べてもらった。


 もう、ただ奪われるだけではなかった。


「何しに来た」


 リンが尋ねる。


 優勝劣敗は、ゆっくり顔を上げた。


「見届けに来た」


「見届ける?」


「この町が、どれほど愚かな選択をしたかをな」


 男の背中の文字が、ゆらりと光る。


 だが昨日ほどの力はない。


「まだ勝ち負けにこだわるの?」


 イオが言う。


「勝ち負けこそ世界の真実だ」


 優勝劣敗は、町人たちを見回した。


「お前たちは昨日、弱者同士で群れることを選んだ。強者と弱者の境目を曖昧にした。それで救われたつもりか」


 豆屋の老女が震えながらも言い返す。


「少なくとも、昨日はうちの豆を食べてもらえたよ」


 干し魚屋の男も続ける。


「うちの魚もだ」


 大店の商人が腕を組む。


「売上も悪くなかった。むしろ町全体では伸びた」


「愚か者どもが!」


 優勝劣敗が怒鳴る。


「弱者に合わせる強者など、やがて弱者に堕ちる! 強き者は奪うから強い! 食らうから強い! 踏むから高みに立てる!」


 その声とともに、背後に黒い獣の影が現れる。


 昨日見たものよりも、はっきりしていた。


 牙。


 爪。


 飢えた目。


 それは、優勝劣敗自身の力ではない。


 もっと上位の、もっと荒々しい理の影だった。


 リンは息を呑む。


「弱肉強食……」


 その言葉が、自然に口からこぼれた。


 優勝劣敗の目が動く。


「その名を知ったか」


「やっぱり、四天王の一人か」


 イオが小さく言う。


 優勝劣敗は笑った。


「そうだ。四天王が一角、弱肉強食様。あの方の理こそ、これからの世界を支配する」


 広場がざわつく。


 四天王。


 弱肉強食。


 その名が、初めて町人たちの前ではっきりと告げられた。


 シンの目が燃える。


「強いのか」


 リンは横目で睨んだ。


「今それを聞くな」


「大事だろ」


「大事だけど今じゃない」


 優勝劣敗はシンを見て嗤った。


「貴様のような力自慢など、あの方の前では餌に過ぎぬ」


 シンが一歩前に出る。


「面白え。連れてこい」


「シン!」


 イオが叫ぶ。


「だって強そうだろ」


「そういう問題じゃない!」


 優勝劣敗の黒い影が膨らんだ。


「ならば、まずは私がこの町を食らう」


 男の背中の文字が歪む。


 優勝劣敗。


 その四文字が、黒い獣の影に飲み込まれていく。


「勝者と敗者を分けられぬなら、全て敗者にしてくれる!」


 黒い光が広場へ広がった。


 看板の色が震える。


 町人たちの器から湯気が消えかける。


 百花鍋の色も、少しずつ灰色に染まり始めた。


「鍋が!」


 イオが叫ぶ。


 優勝劣敗の力は、昨日より不安定だった。


 だが、その分荒い。


 勝負のルールに乗せるのではなく、ただ奪おうとしている。


 リンは周囲を見た。


 町人たちは怯えている。


 このままでは、また色を奪われる。


「リン!」


 シンが叫ぶ。


「今度は殴っていいか!」


 リンは一瞬考えた。


 昨日とは違う。


 もう商い競いは終わった。


 町は勝負を越えた。


 優勝劣敗は、自分でルールを破って奪いに来た。


「いい」


 リンは言った。


「ただし、殺すな」


 シンが笑った。


「分かってる!」


「本当に?」


「昨日より分かってる!」


「信用は半分だ!」


 シンの背中に、赤い四文字が浮かび上がる。


 猪突猛進。


 地面を蹴る。


 一直線に優勝劣敗へ突っ込む。


 優勝劣敗は黒い獣の影を前へ出した。


「食らえ!」


 影の牙がシンへ迫る。


 シンは避けない。


 鉄棒を両手で握り、真正面から振り下ろした。


「邪魔だ!」


 鉄棒と牙がぶつかる。


 重い音が広場に響いた。


 黒い影が揺らぐ。


 だが完全には砕けない。


「力だけでは越えられぬ!」


 優勝劣敗が叫ぶ。


「弱きものを背負う者は、重みで潰れる!」


「重いのは慣れてる!」


 シンは踏ん張る。


「荷運びしたからな!」


「そこで昨日の仕事を出すのか!」


 リンは走りながら叫んだ。


 黒い影が別の牙を伸ばし、町人たちへ向かう。


 リンの背中に、臨機応変の文字が浮かぶ。


 彼は屋台の布を引き、影の視界を遮る。


 次に、転がっていた樽を蹴り、影の足元へぶつける。


 影の動きがわずかにずれた。


「イオ!」


「分かってる!」


 イオは灰色になりかけた百花鍋へ駆け寄る。


 鍋の中へ、薬草と香辛料を追加する。


 さらに、豆屋の老女から受け取った炒り豆を入れ、干し魚屋の男から出汁を注いでもらう。


「みんな、食べるのをやめないで!」


 イオが叫ぶ。


「色を奪われる前に、味を覚えて!」


 町人たちは一瞬ためらった。


 だが、豆屋の老女が最初に器を口へ運んだ。


「うちの豆の味だ」


 干し魚屋の男も食べる。


「うちの魚だ」


 大店の商人が続く。


「うちの香辛料もある」


 子どもたちも食べる。


「おいしい!」


「まだ味がする!」


「色、消えてないよ!」


 イオの医食同源が強く輝く。


 料理の湯気が、黒い影を押し返した。


 食べる者がいる。


 味を覚えている者がいる。


 必要とする者がいる。


 それは、優勝劣敗が奪おうとする価値とは違うものだった。


「なぜだ!」


 優勝劣敗が叫ぶ。


「敗者の味など、残るはずがない!」


「敗者じゃないからだ!」


 シンが牙を押し返しながら叫ぶ。


「こいつらは、飯を作った!」


 リンが横から続ける。


「売上だけで価値は決まらない」


 イオが鍋の前で言った。


「食べてくれる人がいる限り、料理は消えない!」


 黒い影が揺らぐ。


 優勝劣敗は歯を食いしばり、さらに力を引き出そうとした。


 その時。


 どんちゃんが、優勝劣敗のすぐ近くに立っていた。


 誰も、いつ移動したのか見ていない。


「君さあ」


 どんちゃんは眠そうに言った。


「そんなに勝ちたいのに、誰かの力を借りてるんだねえ」


 優勝劣敗の顔が引きつる。


「何だと」


「弱肉強食様、だっけ」


 どんちゃんは首を傾げた。


「強い人にすがって、弱い人を見下ろすのって、勝ってるのかなあ」


「黙れ!」


 黒い影の爪が、どんちゃんへ振り下ろされる。


 リンが叫んだ。


「どんちゃん!」


 だが、爪は空を切った。


 どんちゃんは、ただ一歩だけ横にずれていた。


 本当に、たまたまそこに立っていなかったかのように。


 優勝劣敗の目が見開かれる。


「貴様……」


「おっと」


 どんちゃんは困ったように笑った。


「運がよかったねえ」


 リンはその動きを見ていた。


 偶然ではない。


 少なくとも、今のは。


 だが考える暇はなかった。


 どんちゃんの言葉で、優勝劣敗の集中が乱れた。


「シン!」


 リンが叫ぶ。


「今だ!」


「おう!」


 シンは鉄棒を握り直す。


「猪突!」


 地面が割れる。


「猛進!」


 真正面からの一撃。


 鉄棒が黒い獣の牙を砕いた。


 影が悲鳴のような音を上げる。


 リンはその隙に走り、屋台の支柱を使って横から優勝劣敗の足元を崩す。


 優勝劣敗が体勢を崩した。


 イオが鍋の湯気を広げる。


 医食同源の光が、黒い影の残りを包み込む。


「これは、奪わせない」


 イオは言った。


「この町の食卓だから」


 黒い影が砕けた。


 優勝劣敗の背中の四文字から、黒が剥がれ落ちる。


 金色だった文字は、くすんだ灰色に変わった。


 男は膝をついた。


 広場に静寂が戻る。


 シンは鉄棒を肩に担ぎ、優勝劣敗を見下ろした。


「終わりか?」


 優勝劣敗は震える手で地面を掴む。


「なぜだ……なぜ、敗者どもが……」


「まだ言うの?」


 イオが近づく。


「あなたも食べなさい」


 優勝劣敗が顔を上げる。


「何?」


「百花鍋」


「屈辱を与えるつもりか」


「違う」


 イオは器へ鍋をよそった。


「食べないと、分からないでしょう」


「私は敗者の料理など」


「勝者の料理でもあるわ」


 イオは静かに言った。


「この町全部の料理だから」


 優勝劣敗は器を睨んだ。


 受け取ろうとしない。


 シンが言う。


「いらねえなら俺が食う」


「あなたはもう食べたでしょ」


「まだ入る」


「そういう問題じゃない」


 リンは優勝劣敗の前にしゃがむ。


「食べるかどうかは、あなたが決めればいい」


「……」


「でも、食べずに負け犬の料理だと言うのは、違うだろ」


 優勝劣敗の指が動いた。


 器を受け取る。


 しばらく見つめる。


 そして、ほんの少しだけ口へ運んだ。


 男の表情が歪む。


 怒りなのか。


 悔しさなのか。


 別の何かなのか。


 分からない。


「……味が」


 優勝劣敗は掠れた声で言った。


「多すぎる」


 イオは答える。


「百花繚乱だから」


「まとまりがない」


「でも、食べられる」


「勝者の味ではない」


「みんなの味です」


 優勝劣敗は器を置いた。


「甘い」


「そうかもね」


「弱肉強食様は、お前たちを許さない」


「あなたはどうするの」


 イオが尋ねる。


 優勝劣敗は答えなかった。


 ただ立ち上がり、よろめきながら広場を出ていこうとする。


 シンが追おうとした。


 リンが止める。


「行かせるのか」


「ああ」


「また来るぞ」


「その時はまた考える」


「臨機応変だな」


「そうだ」


 優勝劣敗は一度だけ振り返った。


「旅人」


 リンを見る。


「何だ」


「弱肉強食様は、私とは違う」


「分かってる」


「お前たちのような寄せ集めでは、食われるだけだ」


 シンが笑った。


「なら、食われる前に殴る」


 優勝劣敗は、シンを睨んだ。


「その真名、いずれ折られるぞ」


「折れる前に突っ込む」


「愚か者が」


 男はそれだけ言って、町を去った。


 広場には、しばらく重い空気が残った。


 四天王。


 弱肉強食。


 その名は、町の者たちに不安を残した。


 しかし、色は消えていない。


 鍋の湯気も消えていない。


 人々は、まだ器を持っている。


「冷めるよ」


 イオが言った。


 町人たちが顔を上げる。


「せっかく作ったんだから、食べましょう」


 その一言で、広場に少しずつ声が戻った。


「そうだな」


「冷める前に」


「子どもたち、並びな」


「豆を足そう」


「肉もまだあるぞ」


 シンが反応する。


「肉?」


「あなたは後」


「またか!」


 笑い声が戻る。


 町は、完全に元通りではない。


 四天王の影は残った。


 優勝劣敗が去った先に、さらに強い敵がいることも分かった。


 それでも、百花繚乱の町は食卓を囲んだ。


 同じ鍋から食べた。


 それだけで、今は十分だった。


 夕方。


 リンたちは町の門に立っていた。


 町長や店主たちが、見送りに来ている。


 イオの荷物には、香辛料と薬草が少し増えていた。


 リンの袋には、町の地図と小銭。


 シンの荷には、干し肉が入っている。


「食うなよ」


 リンが言う。


「分かってる」


「歩きながら食うなよ」


「分かってる」


「夜まで残せよ」


「……分かってる」


「今、間があった」


「気のせいだ」


 豆屋の老女が、イオに小さな袋を渡した。


「炒り豆だよ。旅の途中で食べな」


「ありがとうございます」


 干し魚屋の男は、リンに干し魚を包んでくれた。


「出汁に使える」


「助かります」


 町長は三人へ頭を下げた。


「また来てくれ」


「飯があるなら来る」


 シンが答える。


「もちろん用意する」


「いい町だ」


「そればっかりだな」


 リンが笑う。


 その時、昨日の老人が杖をついて近づいてきた。


 昨夜、天下無双の噂を口にした老人だった。


「若いの」


 老人はシンを見た。


「天下無双を探すと言っていたな」


「どこにいる」


 シンが即答する。


「知らん」


「知らねえのかよ!」


「だが、噂ならある」


 リンも耳を傾けた。


「西の宿場町で、派手な男を見た者がいる。芝居小屋の屋根に立ち、喧嘩を止めたそうだ」


「強いのか」


「十人相手に、一歩も動かなかったらしい」


 シンの目が輝く。


「行くぞ」


「まだ決めてない」


 リンが言う。


「西だろ?」


「まあ、西だけど」


「じゃあ決まりだ」


 イオは苦笑する。


「また目的地が雑に決まった」


 老人は笑った。


「ただし、気をつけろ」


「何を」


 リンが尋ねる。


「天下無双は強い。だが、あれは強すぎる男だ」


「強すぎる?」


「天下に並ぶ者なし。そういう真名だ」


 老人は遠くを見る。


「強すぎる者は、時に誰よりも寂しい」


 リンはその言葉を覚えた。


 天下無双。


 派手な歌舞伎者。


 負けたところを見た者はいない男。


 だが、その真名には孤独があるのかもしれない。


「行こう」


 リンは言った。


「今度はリンも乗り気だな」


 シンが笑う。


「噂を確かめるだけだ」


「同じだろ」


「違う」


「そういうことにしてやる」


 イオが二人を追い越す。


「日が暮れる前に少し進むよ」


「今日の夕飯は?」


 シンが尋ねる。


「百花鍋の残りをもらった」


「いい町だ!」


「三回目」


 リンは笑った。


 門の外へ出る。


 西へ続く道が、夕日に照らされている。


 リン。


 シン。


 イオ。


 三人の旅は、また動き出した。


 背後では、百花繚乱の町が色鮮やかに輝いている。


 その町の門の上に、四文字が浮かんだ。


 百花繚乱。


 一つの花だけではない。


 たくさんの花が、それぞれの色で咲く町。


 その光を見ながら、どんちゃんが道端の石に座っていた。


「どんちゃん」


 リンが呼ぶ。


「またいたのか」


 シンが言う。


「いたよ」


 どんちゃんは眠そうに笑った。


「一緒に来るの?」


 イオが尋ねる。


「少しだけなら」


「働く?」


「できれば、あまり」


「じゃあご飯は少なめ」


「それは困るねえ」


 シンが笑う。


「どんちゃん、次は天下無双ってやつを探すぞ」


「へえ」


 どんちゃんはゆっくり瞬きをした。


「強そうだねえ」


「強いらしい」


「それは楽しみだ」


「お前も戦うか?」


「僕は弱いからねえ」


「だろうな」


 リンは、どんちゃんの顔を見た。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


 どんちゃんが、どこか遠くを見るような目をした気がした。


「天下無双かあ」


 どんちゃんは小さく呟く。


「誰にも並ばれないって、どんな気分なんだろうねえ」


「お前が言っても説得力ないな」


 シンが言う。


「昼行灯だからねえ」


 どんちゃんは笑った。


 夕日が沈み始める。


 四人分の影が、西へ長く伸びていく。


 リンは歩き出した。


 シンが続く。


 イオが鍋を背負う。


 どんちゃんは少し遅れて、ふらふらとついてくる。


 四天王の一人、弱肉強食の名。


 そして、天下無双という新しい噂。


 旅は少しずつ、ただの腹ぺこ放浪ではなくなっていく。


 それでもシンは腹を鳴らし、イオは夕飯の心配をし、リンは次の野営地を探していた。


 どんちゃんは欠伸をしながら言う。


「今日の夕飯、楽しみだねえ」


 シンが振り返る。


「俺の肉はやらねえぞ」


「少しでいいよ」


「やらねえ」


「けちだねえ」


「働け」


「明日考えるよ」


 イオが笑った。


 リンも笑った。


 西の空は赤く染まっている。


 その先に何があるのか、まだ誰も知らない。


 けれど、三人と一人は歩いていく。


 百花繚乱の町で拾った新しい名を胸に。


 天下無双。


 その派手な歌舞伎者に会うために。

【後書き】


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


リンは考え、シンは突っ込み、イオは鍋を握る。


そんな三人の旅を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。


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