5話 一人では、自給自足できない
四字熟語を背負って生きる者たちの世界で、
臨機応変のリンと、猪突猛進のシンが再会するところから物語は始まります。
旅、バトル、料理、そして少しずつ増えていく仲間たち。
気軽に楽しんでもらえたらうれしいです。
夜が来た。
村へ戻った者たちの灯りが、山の下に小さく見えている。
水路の前に残ったのは、リンとシンとイオだけだった。
崩れた石。
えぐれた底。
泥に埋もれた道具。
昼間よりも、壊れた水路はひどく見える。
シンは無言で石を拾っていた。
一つ持ち上げては、水路の脇へ置く。
また一つ拾う。
普段なら何か言う。
腹が減った。
眠い。
俺ならできる。
だが今は、何も言わなかった。
「止まって」
イオが言った。
「まだ動ける」
「動けるかどうかじゃない。傷を見せて」
「平気だ」
「その言葉、昨日から何回聞いたと思ってるの」
シンは石を持ったまま動かなかった。
イオは正面へ回り込み、服の裾を持ち上げる。
脇腹には、昨日の大角猪につけられた傷が残っていた。
その上から巻いた布は、泥と血で汚れている。
「やっぱり開いてる」
「少しだ」
「少しでも傷は傷よ」
イオは焚き火を起こした。
小さな鍋へ水を入れ、薬草を数種類加える。
青い葉。
黄色い根。
乾燥させた赤い実。
煮立つにつれ、苦い匂いが広がった。
「それ、食うのか?」
シンが眉をひそめる。
「飲むの」
「飯じゃねえのか」
「薬湯」
「肉は?」
「入れない」
「なら効かねえ」
「あなたの中では、肉は何でも治す薬なの?」
「違うのか?」
イオは返事をせず、木の匙で薬湯をすくった。
布へ染み込ませ、シンの傷を拭う。
「痛っ」
「平気なんでしょ」
「今のは急だった」
「さっきも同じこと言ってた」
リンは二人を横目で見ながら、崩れた水路を調べていた。
月明かりだけでは細かな状態が分からない。
火のついた枝を持ち、水路の端から端まで歩く。
崩れた石壁。
流された土。
傾いた大岩。
昼間に作った横の溝には、まだ水が流れている。
上流からの水量は少し落ち着いていた。
水圧は、もう昼間ほど強くない。
問題は岩ではなかった。
水の道そのものが壊れている。
岩を動かしても、このままでは水が畑へ届かない。
「どう?」
イオが尋ねた。
「直せる」
リンは答えた。
「本当か?」
シンが顔を上げる。
「時間をかければ」
「どれくらいだ」
「三人だけなら、二日」
「二日もか」
「石を積み直して、底を固めて、流れを調整する。途中で崩れたらやり直しだ」
「明日の朝までにやる」
「無理だ」
「やる」
「できるかどうかを言ってる」
「できるまでやる」
リンはため息をついた。
「それでまた壊すのか」
シンは黙った。
少しだけ俯く。
「悪かった」
「責めてるんじゃない」
「責めろよ」
「何?」
「俺が壊したんだ」
シンは拳を握った。
「俺が焦った。言うことを聞かなかった。だから壊れた」
火の中で薪が爆ぜた。
「何で怒らねえ」
「怒ってる」
「見えねえ」
「怒ってるけど、それで直るわけじゃない」
「殴れば少しは気が済むだろ」
「お前を殴って僕の手が折れたら、直す人間が一人減る」
「そこかよ」
「今はな」
シンは不満そうだった。
だが、少しだけ口元が緩んだ。
「話は終わり」
イオが薬草を巻き直す。
「今夜は少し休む」
「嫌だ」
「休まないなら、明日動けなくなる」
「寝てる間にも時間は減る」
「体力も減ってる」
「食えば戻る」
「食べるものは?」
シンの腹が鳴った。
三人は黙った。
大角猪の肉は村の入口へ置いてきた。
村長が受け取らない以上、勝手に食べるわけにはいかない。
手元に残っているのは、イオの薬草と、わずかな乾燥穀物だけだった。
「少しだけ雑炊にする」
イオが言った。
「肉なし?」
「なし」
「力が出ねえ」
「食べないよりまし」
イオは薬湯を別の器へ移し、鍋を洗った。
水と乾燥穀物を入れ、塩を少しだけ加える。
最後に細かく刻んだ山菜を入れた。
「これだけ?」
シンが鍋を覗く。
「これだけ」
「村の肉、少し持ってくればよかった」
「駄目よ」
「俺が狩った」
「村へ渡すって決めたでしょ」
「まだ渡してねえ」
「だからこそ駄目」
シンは黙って座った。
三人は薄い雑炊を分けた。
味はほとんどない。
それでも、温かいだけで腹は少し落ち着いた。
「明日」
リンが言った。
「村の人を呼ぶ」
シンが匙を止める。
「俺たちで直すんじゃねえのか」
「三人だけじゃ二日かかる」
「なら二日やる」
「村の畑だ」
「だから?」
「村の人が直さなきゃ意味がない」
シンは眉をひそめた。
「俺が壊した」
「そうだ」
「なら俺が直す」
「全部一人でやるのが責任じゃない」
「じゃあ何だ」
「失敗したと認めて、助けを借りることだ」
シンの表情が険しくなる。
「それじゃ自給自足の村長と同じだろ」
「だからだよ」
リンは火を見つめた。
「自分で何とかするって考えにこだわって、村長は助けを拒んだ。お前も同じことをしようとしてる」
「俺とあいつを一緒にするな」
「違うところはある。でも今は似てる」
シンは立ち上がった。
「俺は逃げねえ」
「誰も逃げろと言ってない」
「助けてもらったら、俺が壊した責任が消える」
「消えない」
リンも立ち上がる。
「村の人と一緒に直しても、お前が壊したことは消えない。でも、直せる可能性は上がる」
「俺一人じゃ無理だって言いたいのか」
「無理だ」
リンは迷わず言った。
シンの拳に力が入る。
赤い文字が、背中へ浮かびかけた。
「リン」
イオが小さく呼ぶ。
だがリンは目をそらさなかった。
「お前一人じゃ無理だ」
もう一度言う。
「僕一人でも無理だ。イオ一人でも無理だ。村の人だけでも無理だった」
「じゃあ、どうする」
「全員でやる」
シンは黙った。
「一人でできないことを、一人でやろうとするな」
「猪突猛進は、前へ進む真名だ」
「一人で進む真名じゃないだろ」
シンの目が動いた。
リンは続ける。
「お前が先頭に立ってもいい。でも後ろに誰かいることまで拒むな」
火が小さく揺れた。
イオは何も言わず、二人を見ていた。
やがてシンは、ゆっくりと座った。
「村のやつら、来るか?」
「分からない」
「俺が壊したのに」
「だから、頭を下げる」
「俺が?」
「お前が」
「嫌だ」
「じゃあ一人で二日やるか?」
シンは黙り込んだ。
「分かった」
小さな声だった。
「聞こえない」
「分かった!」
森に声が響いた。
「明日、頼む」
「誰に」
「村のやつらに」
「ちゃんと言え」
「細けえな!」
「そこが大事なんだ」
翌朝。
三人は村へ戻った。
入口には、昨日の門番の男が立っていた。
その後ろには村長もいる。
大角猪の肉は、置いた時と同じ場所にあった。
誰も手をつけていない。
「戻ったか」
村長が言った。
「約束は失敗だ」
「分かってる」
リンが答える。
「肉を持ち帰れ」
「その前に話がある」
「まだ言葉を曲げるつもりか」
「今日は曲げない」
リンはシンを見る。
シンはしばらく動かなかった。
やがて前へ出る。
村人たちが少しずつ集まってくる。
昨日の少年も、母親の後ろから見ていた。
シンは村人たちの前に立った。
「昨日」
言葉が止まる。
リンが後ろから見ている。
イオも黙っている。
「俺が水路を壊した」
村人の顔が険しくなる。
「悪かった」
シンは頭を下げた。
村中が静まり返った。
リンも驚いた。
シンが誰かに頭を下げるところなど、子どもの頃からほとんど見たことがない。
「直したい」
シンは頭を上げる。
「でも、俺一人じゃ無理だ」
言葉を絞り出すように続けた。
「力を貸してくれ」
門番の男が眉をひそめる。
「お前が壊したんだろ」
「ああ」
「なら自分で直せ」
「それじゃ間に合わねえ」
「肉はもう受け取れない」
「肉の話じゃねえ」
シンは村人たちを見る。
「畑の水路だ。お前らの村のだろ」
「壊したのはお前だ」
「だから謝ってる」
「謝れば済むと思ってるのか」
「思ってねえ」
シンの声が低くなる。
「だから直す。手伝ってくれたら、俺は誰より働く」
「よそ者を信じろと?」
「信じなくていい」
シンは鉄棒を地面へ置いた。
「見てろ」
「何を」
「俺が逃げねえところを」
村人たちは黙っている。
村長が杖を鳴らした。
「自給自足とは」
皆の視線が老人へ集まる。
「自らの力で生きることだ」
シンの顔が険しくなる。
だが村長は続けた。
「自らの村を、自らの手で守ることでもある」
老人は村人たちを見た。
「水路は村のものだ」
門番の男が村長を見る。
「しかし」
「よそ者が壊したからといって、我らが見捨てれば、それは自らの村を捨てることになる」
村長の背中に、緑の四文字が浮かぶ。
自給自足。
昨日と同じ言葉。
だが、その響きは少し違って聞こえた。
「働ける者は道具を持て」
村人たちがざわめく。
「村長」
「肉のためではない」
老人は言った。
「村の水路を直すためだ」
門番の男はしばらく黙っていた。
やがて槍を地面へ置く。
「鍬を持ってくる」
一人の老いた男も頷く。
「石なら積める」
「俺は縄を持っていく」
「板も必要だ」
少しずつ声が上がる。
母親の後ろにいた少年が、シンへ近づいた。
「僕も行く」
「お前は駄目だ」
「何で」
「小せえから」
「石なら運べる」
シンは少年を見る。
それからしゃがみ込んだ。
「小さい石だけだ」
「うん」
「無理するな」
「シン兄ちゃんもね」
シンは一瞬黙り、少年の頭を乱暴に撫でた。
「行くぞ」
村人たちは道具を持ち、北の畑へ向かった。
昨日より人数が多い。
男だけではない。
女もいる。
老人もいる。
子どもたちは小さな石や水を運ぶ役目を任された。
壊れた水路へ着くと、リンは全員を集めた。
「まず役割を分ける」
地面へ枝で図を描く。
「大岩はまだ動かさない。先に水路の底を固める。石を積む場所と、土を運ぶ場所を分ける」
「俺は?」
シンが尋ねる。
「岩の周りを掘る」
「殴らないのか」
「殴るな」
「分かった」
「今日は昨日より分かってる?」
「その言い方やめろ」
リンは作業を分けた。
シンと力のある男たちは、大岩の周りの土を掘る。
老人たちは、使える石を大きさごとに分ける。
女たちは水路の底へ粘土を敷き、踏み固める。
子どもたちは小石を運ぶ。
イオは作業する者たちの体調を見ながら、水と食事を用意する。
村長は少し離れた場所から、作業全体を見ていた。
「シン、そこは掘りすぎるな」
リンが叫ぶ。
「分かってる!」
「岩の下を掘るんじゃない。周りだ」
「同じだろ!」
「違う!」
「細けえ!」
「また壊したいのか!」
「分かったって!」
シンは鉄棒ではなく、鍬を使っていた。
扱いに慣れていない。
一度振るたび、土が遠くまで飛んでいく。
「力を抑えて!」
イオが叫ぶ。
「抑えてる!」
「それで?」
「昨日の半分だ!」
「もっと抑えて!」
村人の男が笑った。
「鍬まで壊すなよ」
「壊さねえ」
次の瞬間、柄が軋んだ。
「壊れそうじゃねえか!」
「まだ壊れてねえ!」
昨日は怒鳴り合っていた村人たちの間に、少しずつ笑いが戻る。
作業は続いた。
昼前。
イオが大きな桶に飲み物を作った。
水。
乾燥果実。
ひとつまみの塩。
砕いた山草。
「何だ、それ」
シンが尋ねる。
「疲れた時に飲むもの」
「肉は?」
「入ってない」
「またか」
「飲まない?」
「飲む」
シンは器を受け取り、一気に飲んだ。
「酸っぱい」
「ゆっくり飲んで」
「先に言え」
「昨日も言った」
村人たちも順番に飲む。
疲れた顔に、少しずつ力が戻った。
「医食同源か」
村長が呟く。
イオが振り返る。
「何ですか」
「食で、人を動かす」
「動かしてるんじゃありません」
イオは桶を混ぜる。
「動けるようにしてるだけです」
午後。
水路の底が固まった。
崩れた石壁も、半分ほど積み直されている。
残るのは大岩だった。
水圧は下がっている。
周囲の土も掘り出した。
だが、岩は深く地面へ食い込んでいる。
「縄をかける」
リンが言った。
村人たちが太い縄を岩へ回す。
さらに、長い丸太を岩の下へ差し込んだ。
「持ち上げるんじゃない」
リンは全員へ説明する。
「傾ける。少し動けば、水路の外へ転がせる」
「俺が押す」
シンが岩の正面に立つ。
「一人でやるな」
「分かってる」
今度は反論しなかった。
力のある者が丸太を持つ。
他の者は縄を握る。
子どもや老人は離れた場所から見守っている。
リンも丸太へ肩を入れた。
イオも縄を握る。
「イオは離れてろ」
シンが言う。
「私も引く」
「料理する手が疲れる」
「今日は料理だけじゃない」
シンは何か言おうとしたが、やめた。
「合図はリンがやれ」
「ああ」
リンは全員を見る。
一人ではない。
シンだけでもない。
村人だけでもない。
ここにいる全員が、同じ岩を動かそうとしている。
「せーの!」
縄が張る。
丸太がしなる。
シンの背中に、赤い四文字が浮かび上がる。
猪突猛進。
だが、シンは一人で前へ出ない。
周囲の呼吸に合わせる。
「まだだ!」
リンが叫ぶ。
岩は動かない。
「もう一度!」
皆が力を緩め、息を整える。
イオが声を上げる。
「足元に気をつけて!」
「せーの!」
再び力が加わる。
岩が、わずかに揺れた。
「動いた!」
誰かが叫ぶ。
「止めるな!」
シンが声を張り上げる。
赤い文字が強く輝く。
「一緒に押せ!」
村人たちの声が重なる。
岩が傾く。
土が崩れる。
丸太が軋む。
「もう少し!」
リンも全力で押す。
腕が震える。
足が泥へ沈む。
それでも止めない。
「今だ!」
大岩が持ち上がった。
そのまま水路の外へ転がる。
地面が大きく揺れた。
岩は斜面の途中で止まった。
誰も声を出さない。
全員が、しばらく岩を見つめていた。
「動いた……」
老いた男が呟く。
シンは大きく息を吐いた。
「俺一人でも、できたかもしれねえ」
門番の男が笑う。
「言うと思った」
「でも」
シンは周囲を見た。
「一人より早かった」
リンは小さく笑った。
「それでいい」
「細かいのは嫌いだけどな」
大岩をどかしただけでは終わらない。
残った石を積み。
底へ土を入れ。
隙間を粘土で埋める。
全員で水路を形にしていく。
日が傾き始めた頃。
最後の石が置かれた。
「水を戻す」
リンが言った。
横へ流していた溝を、少しずつ閉じる。
上流の水が、水路へ戻ってくる。
最初は細い流れ。
石の隙間を抜け。
新しく固めた底の上を進む。
全員が息を止めて見ていた。
水は止まらない。
崩れない。
少しずつ勢いを増しながら、畑へ向かって流れていく。
「行った!」
少年が走り出した。
「水だ!」
子どもたちが後を追う。
村人たちも畑へ向かう。
乾いた土へ、水が届く。
細い水路を通り、畝の間へ染み込んでいく。
垂れていた葉が、水を受けて揺れた。
老女がその場へ膝をついた。
「戻った……」
男たちは顔を見合わせる。
笑う者。
泣く者。
水へ手を入れる者。
シンは畑の端に立ち、流れる水を見ていた。
昨日、肉を食わせると約束した少年が駆け寄ってくる。
「シン兄ちゃん!」
「何だ」
「直った!」
「ああ」
「一人で直したの?」
シンは一瞬黙った。
それから首を振る。
「みんなでだ」
少年は笑った。
「じゃあ、みんな強いね」
「そうだな」
シンも笑った。
少し離れた場所で、村長が水路を見ていた。
リンが隣へ立つ。
「直った」
「ああ」
「肉は?」
「約束は昨日のものだ」
リンは村長を見る。
「では、受け取らない?」
村長は畑で喜ぶ村人たちを見た。
シン。
イオ。
水を運んだ子ども。
石を積んだ老人。
縄を引いた男たち。
「昨日は、お前たちが働き、村が肉を受け取る取引だった」
「今日は違う?」
「今日は、村も働いた」
村長の背中に緑の四文字が浮かぶ。
自給自足。
「自らの村を、自らの手で立て直した」
「僕たちも手伝った」
「そうだ」
「それでも自給自足?」
村長はしばらく黙った。
「分からぬ」
老人は正直に答えた。
「だが」
流れる水を見る。
「一人では、自給自足できぬらしい」
リンは小さく笑った。
「それ、変な言葉だな」
「お前に言われたくはない」
村長は杖を鳴らす。
「肉を村へ運べ」
イオが振り返った。
「受け取るんですか?」
「施しではない」
「取引?」
「違う」
村長は村人たちを見る。
「皆で働いた日の、皆の食事だ」
シンの目が輝いた。
「肉だ!」
「あなたの分だけじゃないからね!」
イオが叫ぶ。
村人たちの笑い声が、畑に広がった。
夕暮れの中。
水は静かに流れ続けていた。
自給自足の村へ。
初めて、誰かと力を合わせて取り戻した水が。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
感想や評価、好きな四字熟語を教えていただけると、とても励みになります。
私は晴耕雨読です!




