40話 死なぬ軍勢
【前書き】
朱雀女王との戦いを終え、リンたちは次の四天王の情報を求めて東へ向かいます。
次なる相手は、疑心暗鬼。
命令ではなく、疑いで人の心を揺さぶる存在です。
今回は新章の入口。 久々にシンが分かりやすく暴れます。
北の黒山のふもとで、一騎の蹄音が響いていた。
一頭の馬。
たった一人の騎手。
それなのに、音だけを聞けば、千の軍勢が駆けているようだった。
黒馬ハヤテが地を蹴る。
額の白い星が、黒い霧の中で一瞬だけ光った。
その背で、カズキが槍を振るう。
「一騎当千――千陣裂き!」
一振り。
だが、その軌跡は幾重にも広がった。
黒い鎧の兵たちが、まとめて薙ぎ倒される。
槍。
盾。
兜。
腕。
黒い影のような軍勢が、次々に崩れた。
けれど。
倒れた兵が、また立ち上がった。
首が曲がっている。
腕が折れている。
鎧は割れている。
それでも立つ。
立って、剣を構える。
倒れても。
砕けても。
何度でも。
「……しつこい」
カズキの声に、わずかに疲労が混じっていた。
ハヤテの息も荒い。
黒い軍勢は減らない。
いや、倒せば倒すほど、地面の黒い霧が濃くなり、また兵の形を取っているようにも見えた。
カズキは手綱を握る。
「ハヤテ、まだ走れるか」
ハヤテが鼻を鳴らした。
「そうか」
カズキは槍を構え直す。
「なら、もう一度――」
その時、黒い兵の群れの奥から、別の兵が現れた。
他の兵より大きい。
黒い鎧の上に、古い死装束のような布をまとっている。
肩には、何本もの折れた槍が刺さったまま。
兜の奥から、低い声がした。
「死屍累々」
その背に、黒い四文字が浮かぶ。
死屍累々。
黒い兵たちが、倒れた仲間の体を踏み越え、積み重なっていく。
腕が腕に絡む。
鎧が鎧に重なる。
死体の山のようなものが、ゆっくり立ち上がった。
「倒せ」
死屍累々が告げる。
「倒すほど、我が軍は増える」
カズキは槍を握りしめた。
「面倒だな」
ハヤテが前足で地面を掻く。
カズキは小さく頷いた。
「分かっている」
黒い軍勢が、波のように押し寄せた。
その直前。
「カズキいいいい!」
聞き慣れた大声が、黒山に響いた。
カズキの眉がわずかに動く。
黒い兵の横腹へ、鉄棒が叩き込まれた。
「おらああああ!」
シンが飛び込んだ。
黒い兵が数体まとめて吹き飛ぶ。
その後ろから、リン、イオ、ムソウ、一座が駆けつける。
「カズキ!」
リンが叫ぶ。
「無事!?」
「今のところは」
カズキは短く答えた。
「遅い」
「開口一番それ?」
「助かった」
「順番逆じゃない?」
ハヤテが鼻を鳴らした。
シンが嬉しそうに言う。
「ハヤテ! 久しぶりだな!」
ハヤテはもう一度鼻を鳴らした。
カズキが訳す。
「うるさい、だそうだ」
「再会の挨拶それ!?」
その横で、ムソウが目を輝かせていた。
「ほう」
派手な羽織を揺らし、刀を肩に担ぐ。
「おぬしが一騎当千か」
カズキがムソウを見る。
「そちらは」
「天下無双!」
ムソウは大見得を切った。
「天下に二つと並ぶ者なし。されど、花道は一人にて咲くにあらず!」
カズキは少し黙った。
「長いな」
シンが吹き出した。
「そこ!?」
ムソウはむしろ嬉しそうに笑う。
「よい。実によい。寡黙な騎士よ」
「騎士ではない」
「では馬上の花か」
「もっと違う」
ハヤテが鼻を鳴らす。
カズキが頷く。
「ハヤテも違うと言っている」
ムソウは豪快に笑った。
「ますますよい!」
「会話が成立してない」
リンは苦笑しながらも、すぐに黒い軍勢へ視線を戻した。
倒した兵たちが、また立ち上がっている。
シンが鉄棒を構えた。
「何だこいつら」
「不死の軍団だ」
カズキが言う。
「倒しても立つ」
「じゃあ、立てなくなるまで倒す!」
「やった」
「どうだった?」
「立った」
「嫌だな!」
ムソウが刀を抜く。
「ならば、まずは道を開く!」
一座の拍子木が鳴る。
カン。
カン。
カン。
「生者も死者も、迷わぬように!」
ムソウが踏み込んだ。
「天下無双!」
刀が黒い軍勢を薙ぎ払う。
シンも並んで突っ込む。
「猪突猛進!」
鉄棒が黒鎧を砕く。
カズキとハヤテが横から走る。
「千陣裂き!」
三つの力が、黒い軍勢を大きく押し返した。
だが。
倒れた兵たちは、また立ち上がる。
折れた腕で剣を持ち。
砕けた膝で歩き。
空洞のような兜の奥から、かすれた声を漏らした。
「た……す……」
イオの足が止まった。
「今」
リンも聞いた。
黒い兵の一体が、剣を振り上げながら、確かに声を漏らしている。
「たす……け……」
シンが鉄棒を止めかけた。
「おい」
ムソウの刀も一瞬止まる。
黒い兵は、それでも襲いかかってきた。
カズキが馬上から槍の柄で弾く。
「止まるな。攻撃は来る」
イオは黒い兵の目を見た。
兜の奥に、光がある。
生きている者の目か。
死んでいる者の残り火か。
分からない。
でも、そこに苦しみがあった。
「この人たち」
イオの声が震える。
「戦いたいんじゃない」
黒い兵の胸元。
割れた鎧の奥に、黒い文字が刻まれていた。
立て。
戦え。
死ぬな。
休むな。
その文字が、脈打つように光っている。
リンの腰で、朱雀の短剣が震えた。
「リン」
イオが振り返る。
「見える?」
リンは朱雀の短剣を抜いた。
赤い刃に、白い灯の筋が走る。
すると、黒い兵たちの体から、細い黒い線が見えた。
胸から。
背中から。
首筋から。
黒い線は北の黒山へ伸びている。
命令の線に似ていた。
けれど、朱雀の赤い線よりも重い。
冷たい。
土の下に引きずり込むような線。
「見える」
リンは呟いた。
「命令みたいな線だ」
イオは黒い兵を見た。
「命令?」
「死ぬな。立て。戦え。休むな」
リンは短剣を握る手に力を込めた。
「そう刻まれてる」
シンが顔をしかめる。
「死ぬなって、いいことじゃねえのか」
イオは首を横に振った。
「違う」
その声は低かった。
「これは治療じゃない。命をつないでるんじゃない」
黒い兵がまた立ち上がる。
足首が折れているのに。
痛みで声にならない声を漏らしながら。
「死なせないように縛ってるだけ」
イオの言葉に、黒い兵の兜がわずかに揺れた。
まるで、聞こえたかのように。
リンは朱雀の短剣を見る。
命令を刻む刃。
朱雀女王が使っていた刃。
リンはそれを、誰かを従わせるためには使わないと決めた。
誰かが、自分で選べるようにするために使うと決めた。
ならば。
この兵たちは、何を選べるのか。
立たされること。
戦わされること。
死なせてもらえないこと。
それしか残されていないなら。
「リン」
イオが言った。
「切って」
リンはイオを見る。
「切るって」
「この人たちを殺すんじゃない」
イオは震える声で、それでもはっきり言った。
「縛ってるものを切って」
黒い兵が剣を振り上げる。
シンが鉄棒で受ける。
「リン!」
「分かってる!」
リンは黒い兵へ踏み込んだ。
朱雀の短剣が黒い線に触れる。
重い。
嫌な冷たさが腕へ流れ込む。
切っていいのか。
その声が胸の奥で響く。
これは命を終わらせることではないのか。
自分が、生きるか死ぬかを決めるのではないか。
生殺与奪。
その言葉が、黒山から吹く風に混じった気がした。
リンの手が止まりかける。
その時、黒い兵が兜の奥から声を漏らした。
「……もう」
剣を振り上げながら。
リンへ襲いかかりながら。
それでも。
「……休ませて……」
リンの目が見開かれた。
イオが叫ぶ。
「リン!」
リンは短剣を振った。
黒い線が切れた。
乾いた音がした。
黒い兵の体が、ふっと力を失う。
倒れる。
今度は、立ち上がらなかった。
兜の奥の光が、ゆっくり柔らかくなる。
黒い鎧から、白い光がこぼれた。
誰かの吐息のようなものが、風に混じる。
ありがとう。
声にはならなかった。
けれど、リンにはそう聞こえた。
白い光は空へ昇り、黒山の重い空気の中で静かに消えた。
シンが呆然とする。
「倒した……のか?」
イオは首を横に振った。
「休ませたんだと思う」
リンは朱雀の短剣を握りしめた。
手が震えている。
「切ったのは、命じゃない」
自分に言い聞かせるように言った。
「縛っていた命令だ」
イオが頷く。
「うん」
カズキは馬上からそれを見ていた。
「なるほど」
低く言う。
「千を倒しても終わらなかった理由が分かった」
ムソウが刀を構える。
「ならば、花道は決まった」
シンが鉄棒を握る。
「俺たちが押さえる」
カズキが槍を構えた。
「リンが切る」
イオが薬草袋を握る。
「私が見極める」
リンは息を吸った。
黒い軍勢はまだいる。
数えきれないほどいる。
その一体一体に、黒い線が伸びている。
全員が休みたいとは限らないかもしれない。
まだ戻れる者もいるかもしれない。
まだ助けられる命もあるかもしれない。
だから、ただ切ればいいわけではない。
イオが見る。
リンが切る。
仲間が道を開く。
「行こう」
リンが言った。
シンが笑う。
「おう!」
ムソウが大きく頷く。
「眠る者が、眠る場所へ帰るための花道よ!」
カズキがハヤテの首を撫でた。
「走るぞ」
ハヤテが短く嘶く。
一座の拍子木が鳴った。
カン。
カン。
カン。
黒い軍勢が動く。
死屍累々が低く唸った。
「休ませるな」
黒い兵たちが、一斉に前へ出る。
「立て」
死屍累々の声が響く。
「積み上がれ」
倒れていた兵たちの残骸が集まり、巨大な黒い腕を作る。
リンの前に影が落ちた。
シンが飛び込む。
「させるか!」
鉄棒で巨大な腕を受け止める。
重い。
シンの足が地面にめり込む。
「ぐっ……!」
「シン!」
「まだいける!」
イオが駆け寄ろうとする。
だが、横から黒い兵が迫った。
カズキとハヤテが間に入る。
槍が走り、兵の足元を払う。
「イオ、見るなら早く」
「分かってる!」
イオは倒れた兵のそばへ膝をついた。
黒い線が見えるわけではない。
でも、体の状態は分かる。
傷。
呼吸の有無。
目の光。
痛み。
もう戻れない者。
まだ痛みを取れば意識が戻るかもしれない者。
彼女は歯を食いしばった。
選ぶ。
また選ぶ。
疑心暗鬼の子供の声が、一瞬だけ胸をよぎる。
救う人を選ぶの?
イオは小さく答えた。
「選ぶ」
そして、黒い兵の兜に手を添えた。
「でも、見捨てるためじゃない」
その兵の目は、もう戦っていなかった。
痛みと疲れだけが残っている。
「リン!」
「うん!」
リンが駆ける。
黒い線を切る。
白い光が昇る。
一人。
二人。
三人。
不死の兵たちが、ようやく倒れていく。
今度は、静かに。
眠るように。
だが、そのたびにリンの手は重くなった。
短剣が重い。
腕が冷たい。
切っているのは命令だ。
分かっている。
でも、倒れる兵を見るたびに胸が痛む。
シンが巨大な腕を押し返しながら叫ぶ。
「リン! 無理すんな!」
「してる!」
「正直だな!」
ムソウが刀で黒い兵を払いながら笑う。
「正直なのはよい!」
カズキがハヤテで駆け抜ける。
「数が多い。長くはもたない」
「分かってる!」
リンは次の兵へ向かった。
その時、黒い兵の一体がイオへ迫った。
イオは薬草を投げようとしたが、足がふらついた。
ここまで走り、戦い、手当てを続けてきた疲労が一気に来た。
「イオ!」
シンが振り返る。
巨大な腕をムソウが受け継ぐように斬り上げた。
「行け、猪突猛進!」
「頼んだ!」
シンはイオのもとへ走った。
黒い兵を鉄棒で弾き飛ばす。
イオの肩を支えた。
「大丈夫か!」
「大丈夫」
「歩けてねえ」
「歩ける」
「ふらついてる」
「少しだけ」
「乗れ」
シンが背中を向けた。
イオは目を丸くする。
「え?」
「おんぶしてやる」
「でも、シンだって戦わなきゃ」
「背負ってても殴れる」
「無茶言わないで」
「降りたら死ぬぞ」
イオは言葉に詰まった。
黒い兵たちが近づいてくる。
リンは別の線を切っている。
カズキは軍勢を押さえている。
ムソウも巨大な腕を相手にしている。
ここで倒れるわけにはいかない。
イオは顔を赤くしながら、シンの背中を見た。
「……分かったわよ」
シンはしゃがむ。
イオがしぶしぶ背中に乗った。
シンが立ち上がる。
「意外と軽いな」
「バカ」
「褒めたんだけど」
「それがバカなの」
「難しいな」
シンは鉄棒を片手で握り直す。
イオは慌ててシンの肩につかまった。
「揺らさないで」
「無理!」
「即答しない!」
黒い兵が迫る。
シンはイオを背負ったまま、鉄棒を振った。
「おらあ!」
兵が吹き飛ぶ。
イオが背中で叫ぶ。
「揺れてる!」
「だから無理って言った!」
「もう少し丁寧に戦って!」
「丁寧な猪突猛進って何だ!」
リンは思わず笑いそうになり、それどころではないと短剣を構え直した。
ムソウが横目で見て、にやりと笑う。
「ほう。よい花道よ」
「何がよ!」
イオが真っ赤になって叫ぶ。
「若き二人の、背中と心の距離よ」
「黙って!」
「照れるな照れるな!」
「照れてない!」
シンだけが首を傾げた。
「何の話だ?」
カズキが馬上から静かに言う。
「背を預けるのは、信頼の証だ」
「馬の話?」
「違うのか?」
「違う……たぶん!」
ハヤテが鼻を鳴らした。
シンが叫ぶ。
「ハヤテ、今笑ったか!」
「笑った」
カズキが即答する。
「馬まで!」
そのやり取りの中でも、戦いは止まらない。
むしろ、イオがシンの背にいることで、彼女の視界は高くなった。
黒い兵たちの状態が見える。
倒れている者。
まだ動かされている者。
黒い線が強く引かれている者。
イオはシンの肩越しに指差した。
「リン! 左奥の兵! 目がもう戦ってない!」
「分かった!」
「右のはまだだめ! 息がある!」
「了解!」
シンはイオを背負ったまま走る。
「次どこ!」
「あっち!」
「おう!」
「だから揺らさないで!」
「道が悪い!」
「シンの走り方が悪い!」
「俺のせいか!」
それでも、二人の息は合っていた。
シンが道を開き、イオが見極める。
リンが黒い線を切る。
白い光が、一つ、また一つと空へ昇っていく。
不死の軍勢の中に、初めて隙間が生まれた。
死屍累々がそれを見て、低く唸る。
「積め」
黒い兵たちの残骸が再び集まる。
「積み上げろ」
鎧。
骨。
武器。
黒い霧。
それらが重なり、巨大な兵の形を作った。
死屍累々の体が、その中心に沈む。
無数の腕を持つ、黒い巨人。
「死は、積み重なるもの」
その声は、いくつもの喉から響いた。
「一人休ませても、百が立つ」
黒い巨人が腕を振り下ろす。
ムソウが前に出た。
「ならば、百のために一太刀!」
刀で受ける。
衝撃で地面が割れる。
ムソウの足が滑る。
「重いのう!」
カズキとハヤテが横から駆ける。
「足を崩す」
槍が巨人の膝を裂く。
シンがイオを背負ったまま突っ込む。
「俺もやる!」
「だから背負ったまま突っ込まないで!」
「背負ってても殴れるって言った!」
「言ったけど!」
シンの鉄棒が巨人の足を砕く。
ムソウの刀が腕を斬り払う。
カズキの千陣裂きが残骸のつながりを断つ。
巨人の中心に、黒い芯が見えた。
死屍累々の本体。
その胸から、他の兵より太い黒い線が黒山へ伸びている。
リンは走った。
だが、死屍累々がリンを見た。
「切るな」
声が響く。
「我らは軍」
黒い腕がリンへ伸びる。
「死してなお、命じられた軍」
リンは避ける。
「命令がある限り、我らは崩れぬ」
「だから切る!」
リンは朱雀の短剣を握る。
黒い線が太い。
今までの兵とは違う。
切れば、この巨人は崩れる。
だが、積み重なっている兵たちのすべてが休みたいのか分からない。
リンの足が止まりかけた。
イオがシンの背中から叫ぶ。
「リン!」
「分かってる!」
「中心じゃない!」
リンは目を見開く。
「え?」
「死屍累々の芯は中心だけど、そこを切ったら全部まとめて崩れる!」
「じゃあどこを!」
イオは巨人を見た。
無数の腕。
無数の兜。
その中に、一つだけ違う光がある。
まだ怒っている目。
まだ戦おうとしている目。
死屍累々自身の意志。
「まず周りの兵を休ませて!」
イオが叫ぶ。
「本体だけ残す!」
リンは頷いた。
「分かった!」
シンが笑う。
「よし、細かい作業だな!」
「シンは大雑把に道を開いて!」
「それなら得意!」
ムソウが大笑いする。
「わしも大雑把に参る!」
「二人とも大雑把すぎ!」
イオが叫ぶ。
カズキが冷静に言う。
「俺が線を分ける」
ハヤテが駆ける。
千陣裂き。
だが、今度は兵を倒すためではない。
巨人を形作る鎧と鎧の隙間を裂き、黒い線を分けるための一撃。
ムソウが大きな腕を受ける。
シンが足元を砕く。
イオが見極める。
「そこ! その兜!」
リンが走る。
短剣が黒い線を切る。
白い光が昇る。
「次、左肩!」
「分かった!」
「右腕はまだ! そこは本体に近い!」
「了解!」
一人ずつ。
一つずつ。
積み重ねられた死を、ほどいていく。
死屍累々が呻いた。
「やめろ」
「我が軍を」
「我が死を」
「積み重ねたものを」
リンは短剣を振るう。
「積み重ねるな!」
また一つ、白い光が昇る。
「この人たちは、お前の材料じゃない!」
巨人の体が崩れ始めた。
巨大な腕が落ちる。
黒い鎧が土へ還る。
最後に、死屍累々の本体だけが残った。
黒い鎧の幹部。
死装束の布をまとい、折れた槍を肩に刺したまま立っている。
その背の四文字が、弱く光った。
死屍累々。
リンは短剣を構える。
「まだ戦うのか」
死屍累々は答えない。
兜の奥の目は、怒りとも悲しみともつかない光を宿している。
「我は」
低い声。
「積み上がった死」
イオがシンの背から降りようとする。
シンが止めた。
「まだ乗ってろ」
「もう大丈夫」
「ふらついてる」
「……少しだけ」
「じゃあ乗ってろ」
イオは少し顔を赤くしながら、結局そのままシンの背にいた。
死屍累々は続ける。
「名もなく倒れた兵」
「命令で死んだ兵」
「帰れなかった兵」
「埋められなかった兵」
「それらが積み重なり、我となった」
リンは黙る。
死屍累々はただの幹部ではない。
積み重なった死そのもの。
生殺与奪に利用された、無数の兵の終わりの形。
イオが静かに言った。
「あなたも、休みたいの?」
死屍累々の目が揺れた。
黒い線が震える。
「休む」
声がかすれる。
「休むとは、何だ」
イオは答える。
「もう、命令で立たなくていいこと」
死屍累々の背から伸びる黒い線が、太く脈打つ。
黒山の奥から、低い声が響いた。
「許さぬ」
全員が北を見た。
山の上。
黒い雲の中。
巨大な亀の甲羅のような影と、蛇のような影が重なって見えた。
「生かすも殺すも、こちらの匙加減」
その声だけで、空気が重くなる。
イオの顔が強張った。
リンの手の中で、朱雀の短剣が震える。
「我が兵に、眠りは不要」
生殺与奪。
まだ姿は見えない。
だが、その力だけが黒山全体から降りてくる。
死屍累々の体が再び動きかけた。
リンは叫ぶ。
「イオ!」
イオは死屍累々を見た。
兜の奥の光。
怒り。
悲しみ。
疲労。
そして、ほんのわずかな願い。
「切って」
イオは言った。
「もう、休ませて」
リンは踏み込んだ。
黒山から伸びる太い線へ、朱雀の短剣を振るう。
重い。
今までで一番重い。
まるで山そのものを切ろうとしているようだった。
リンの腕が止まりかける。
シンが背後から叫ぶ。
「リン!」
「ぐっ……!」
「一人で持つな!」
シンの声。
イオの声。
ムソウの太鼓のような笑い。
カズキとハヤテの蹄音。
一座の拍子木。
全部が背中を押した。
リンは叫ぶ。
「僕は命を切らない!」
刃に白い灯が走る。
「命を縛る命令を切る!」
黒い線が裂けた。
死屍累々の体から、黒い力が抜けていく。
背の四文字がほどける。
死。
屍。
累。
々。
一文字ずつ、白い光へ変わっていく。
死屍累々は、最後に空を見上げた。
「これが」
声が小さくなる。
「休む、か」
黒い鎧が崩れる。
中から、無数の白い光が昇った。
一人ではない。
何十。
何百。
積み重なっていた死者たちの光。
それらが、ゆっくり空へ昇っていく。
一座の誰かが、静かに拍子木を鳴らした。
カン。
見送る音だった。
ムソウが刀を下ろし、深く頭を下げる。
「よき眠りを」
カズキも槍を下げた。
ハヤテが静かに鼻を鳴らす。
シンは鉄棒を肩に担いだまま、少し困ったような顔をしていた。
「勝った……でいいのか?」
イオがシンの背中から小さく答える。
「休ませた」
「そうか」
「うん」
「なら、よかった」
リンは膝をつきそうになった。
朱雀の短剣が重い。
手が冷たい。
だが、倒れた兵たちはな影が動いた。
一つではない。
まだ幹部がいる。
まだ軍勢がいる。
そして、その奥に最後の四天王がいる。
生殺与奪。
イオはシンの背から降りた。
少しふらつく。
シンがすぐ支える。
「大丈夫か」
「大丈夫」
「本当に?」
「本当に」
「乗るか?」
「今はいい」
「そうか」
少し残念そうな声だった。
イオが横目で見る。
「……何で残念そうなの」
「軽かったからな」
「バカ」
シンは首を傾げる。
「褒めてるんだけどな」
「だからバカなの」
ムソウがにやにやしている。
カズキは真面目な顔でハヤテに言った。
「信頼の証らしい」
ハヤテが鼻を鳴らす。
イオが真っ赤になる。
「もうその話いい!」
リンは少し笑った。
重い戦いだった。
これからもっと重くなる。
それでも、笑えるうちは進める。
リンは朱雀の短剣を鞘へ戻した。
「行こう」
北の黒山を見上げる。
そこにはまだ、黒い霧が残っている。
死なぬ軍勢。
命を握る者。
生かすも殺すも、自分の匙加減と言う敵。
イオがリンの隣に立った。
「リン」
「何?」
「次も、私が見る」
リンは頷く。
「うん」
「でも、一人では決めない」
「うん」
シンが鉄棒を担ぐ。
「俺も聞く」
ムソウが刀を肩に担ぐ。
「わしは花道を開く」
カズキがハヤテの手綱を握る。
「俺たちは走る」
一座の拍子木が、もう一度鳴った。
カン。
黒山の道が、目の前に伸びている。
生殺与奪の領域は、まだ始まったばかりだった。
【後書き】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
朱雀編を越え、今回から疑心暗鬼編に入りました。
命令に従わせる絶対服従とは違い、疑心暗鬼は「信じていいのか分からなくさせる」相手です。
そして今回は、久々にシンが真正面から大暴れする回でした。
髭の老人の言葉が、この先リンたちにどう響いていくのか。
次回も、腹ぺこ一行の旅にお付き合いください。




