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臨機応変の俺と猪突猛進の親友、医食同源の少女と世界を旅する ~四字熟語を背負う者たちの腹ぺこ放浪記~  作者: 凡夫 成


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39話 北へ向かう花道

【前書き】

朱雀女王との戦いを終え、リンたちは次の四天王の情報を求めて東へ向かいます。

次なる相手は、疑心暗鬼。

命令ではなく、疑いで人の心を揺さぶる存在です。

今回は新章の入口。 久々にシンが分かりやすく暴れます。


 青龍の霧城が消えたあと、そこには何も残らなかった。


 城壁もない。


 曲がった塔もない。


 水が逆さに流れる壁もない。


 ただ、湿った土と、折れた木々と、青い霧が晴れた空だけがある。


 そこに、本当に城があったのか。


 そう疑いたくなるほど、跡形もなかった。


 シンは鉄棒を肩に担ぎ、広い更地を見回した。


「消えたな」


「うん」


 リンは頷いた。


「本当にあったのかな」


「おいおい、また疑心暗鬼か?」


「そういう意味じゃなくて」


「俺は覚えてるぞ」


 シンは胸を張った。


「鬼がいっぱいいた。ムソウが派手だった。俺も派手だった。腹が減った」


「最後だけ今の状態でしょ」


「ずっとだ」


「ずっとだったか」


 イオは一座の怪我人を見て回っていた。


 打ち身。


 擦り傷。


 軽い捻挫。


 鬼の大群とやり合ったわりには、重傷者は少ない。


 それはムソウが前に出て、一座が音と灯りで道を示し続けたからだった。


「はい、次」


 イオが布を巻く。


 一座の若い男が情けない声を出した。


「いででで」


「我慢して」


「鬼より痛い」


「鬼に噛まれたい?」


「すみませんでした」


 シンが横から覗く。


「イオの手当ては効くぞ。痛いけど」


「痛い必要あるのかい?」


 一座の女が笑う。


「ある」


 シンが真顔で言う。


「生きてるって分かる」


 イオがその頭を軽く叩いた。


「適当なこと言わない」


「この前イオが言った!」


「言ったけど、広めない」


 リンは少し笑い、それからムソウの方を見た。


 天下無双は、少し離れた場所で刀を布で拭いていた。


 派手な羽織は泥だらけ。


 髪にも葉っぱがついている。


 それでも、本人はまったく気にしていない。


 堂々と座り、まるで舞台の真ん中にいるようだった。


「ムソウ」


 リンが声をかける。


「うむ」


 ムソウは顔を上げた。


「改めて、助かった」


「礼は先ほど聞いた」


「何度でも言うよ」


「む」


 ムソウは少しだけ目を逸らした。


「何度も言われると、どうにも照れる」


「天下無双でも照れるんだ」


「天下無双だからこそ、照れも天下一よ」


「それはどういう理屈?」


「知らぬ!」


 リンは笑った。


 青龍との戦い。


 疑心暗鬼の霧。


 あの中でムソウが開いた花道がなければ、リンたちは青龍のもとへ届かなかった。


 かつてムソウは、一人であることにこだわっていた。


 一人で強く、一人で斬り、一人で立つ。


 それが天下無双だと信じていた。


 けれど今のムソウは、一座の音を背負って戦っていた。


 自分だけでなく、誰かの道を開くために。


「変わったね」


 リンが言う。


「わしか?」


「うん」


「そうか」


 ムソウは刀を鞘へ戻した。


「石門町に残って、ようやく少し分かった」


「何が?」


「守るとは、斬ることだけではない」


 ムソウは更地の向こうを見た。


「家を建てる者がいる。飯を作る者がいる。傷を縫う者がいる。泣く者の隣に座る者がいる。子どもを笑わせる者がいる」


 一座の者たちが、少し照れたように顔を見合わせる。


「わしは斬るしか能がないと思っておった。だが、斬る者の後ろに、道を直す者がいなければ、花道は続かぬ」


 リンは静かに聞いていた。


 ムソウは笑う。


「だから今日は、わしが花道を開き、一座が道を鳴らした。おぬしらが奥へ進んだ」


「うん」


「それでよい」


 シンが近づいてきた。


「つまり、俺も花道か?」


「おぬしは突撃道じゃな」


「なんかかっこ悪くないか?」


「猪道でもよい」


「もっと悪い!」


 イオが薬草袋を結びながら言う。


「でも、シンっぽい」


「イオまで!」


 ムソウは大笑いした。


「猪突猛進よ、おぬしも変わった」


「俺もか?」


「うむ。ただ突っ込むだけではなくなった」


「昨日より分かってるからな!」


「その言葉、気に入っておるな」


「便利なんだよ」


「確かに便利よ」


 ムソウは立ち上がり、シンの肩を叩いた。


「止まるも退くも覚えた猪突猛進。なかなか味がある」


「だろ!」


「だが、飯の前では退けぬようだな」


「それは退かねえ」


「そこは変わらぬか」


「そこ変えたら俺じゃねえ」


 その言葉に、一座の者たちが笑った。


 笑い声が、晴れた空へ抜けていく。


 霧の中では、笑い声すら疑いたくなった。


 誰かの声が偽物に聞こえた。


 褒め言葉も罠に聞こえた。


 助けを求める声さえ、疑わされた。


 けれど今、ここにある笑いは、本物だと思えた。


 少なくとも、そう思いたかった。


 そして、疑ったとしても。


 聞けばいい。


 確かめればいい。


 リンは胸の中でそう繰り返した。


「で」


 シンが両手を叩いた。


「飯にしようぜ」


 イオがため息をつく。


「やっぱりそこに戻る」


「戦いの後は飯だろ」


「それは否定しない」


 ムソウが勢いよく頷いた。


「よし! 一座よ、鍋の支度だ!」


 一座の者たちが動き出す。


 担架を下ろし、鍋を出し、乾いた薪を集める。


 誰かが太鼓を逆さにして荷物台にし、誰かが布を広げて座る場所を作る。


 シンは大きな石を運び、即席のかまどを作り始めた。


「任せろ!」


 どん、と石を置く。


 かまどは少し歪んでいる。


 イオが見た。


「……まあ、使える」


「今の間は何だ」


「評価の間」


「高評価か?」


「応急処置としては」


「またそれ!」


 リンも枝を集める。


 イオは食材を確認した。


 朱雀の町でもらった米。


 森の村でもらった豆。


 一座が持ってきた干し肉。


 少しだけ残った薬草。


 それから、誰かが袋の奥から干したきのこを出した。


「お、いい匂い出るやつだ」


 イオの目が少し輝く。


「これ、使っていいの?」


「もちろん」


 一座の女が笑う。


「石門町の人たちが持たせてくれたんだよ。腹ぺこ一行に会えたら食わせてやってくれって」


 シンが胸を押さえた。


「石門町……いい町だな」


「食べ物で感動しすぎ」


「食べ物は感動するものだ」


 イオは鍋に水を入れ、米と豆を入れた。


 干し肉ときのこ。


 薬草を少しだけ。


 霧の中で冷えた体を温めるための、香りの強い粥。


 青龍の霧城のあとに食べるには、ちょうどいい。


 鍋が煮える間、一座の者たちは軽く太鼓を鳴らした。


 戦いの時とは違う、柔らかい音。


 拍子木も、今は人を急かさない。


 ただ、そこに皆がいることを知らせる音だった。


 ムソウが座り、リンたちも鍋を囲む。


 シンは一番近くに座ろうとして、イオに引っ張られた。


「近い。火に落ちる」


「落ちねえよ」


「落ちそうだから言ってる」


「昨日より分かってるから大丈夫」


「それで全部許されると思わないで」


 リンは器を並べた。


 その時、背後からのんびりした声が聞こえた。


「いい匂いだねえ」


 三人は同時に振り返った。


 木の陰に、どんちゃんが立っていた。


 小さな行灯をぶら下げ、いつもの眠そうな顔をしている。


 まるで、少し散歩して戻ってきただけのように。


 シンが叫ぶ。


「どんちゃん!」


「何かな」


「お前、どこ行ってた!」


「少し、道を見にねえ」


「飯の匂いで戻ってきただろ!」


「それもあるねえ」


「認めた!」


 イオが呆れながらも、少し安心したように息を吐いた。


「無事だったんだ」


「うん。僕はだいたい無事だよ」


「だいたいって何」


「細かいことは気にしない」


 リンはどんちゃんを見た。


 聞きたいことは、いくつかあった。


 どこへ行っていたのか。


 何を見てきたのか。


 青い霧について何か知っていたのか。


 けれど、今は鍋の湯気が上がっている。


 皆がいる。


 疑心暗鬼を越えたばかりの今、まず聞くべきことは一つだった。


「食べる?」


 どんちゃんはにこりと笑った。


「食べる」


「だと思った」


 シンが器を一つ差し出す。


「ただし、今回は俺の後だ」


「順番を疑っていいかなあ」


「だめだ」


「命令?」


「食卓の掟だ」


「それは強そうだねえ」


 イオが器を配りながら言う。


「ちゃんと全員分あるから揉めない」


「俺は多めな」


「働いた分ならね」


「俺、めちゃくちゃ働いた!」


 ムソウが大きく頷く。


「確かに働いた。鬼をよく殴っていた」


「ほら!」


「でも食べすぎると動けなくなるよ」


 どんちゃんが言う。


 シンは腕を組んだ。


「動く予定あるか?」


 その問いに、リンは北を見た。


 遠く、黒く、重い山がある。


 青い霧が晴れたことで、前よりはっきり見える。


 その山の向こうに、次の四天王がいるかもしれない。


 生殺与奪。


 命を握る者。


 イオもその山を見ていた。


 薬草袋を握る手に、少しだけ力が入っている。


 命を支配する敵。


 医食同源のイオにとって、きっと一番重い相手になる。


 シンは空気に気づいたのか、珍しく静かになった。


「……食ってから考えようぜ」


 リンは頷いた。


「うん」


 イオも小さく息を吐く。


「そうだね」


 ムソウが器を掲げた。


「ならば、まずは勝利の飯よ!」


 一座の太鼓が軽く鳴る。


 イオが鍋の蓋を開けた。


 湯気が一気に広がる。


 干し肉ときのこの香り。


 豆の甘み。


 薬草のほろ苦さ。


 霧で冷えた体に、匂いだけで熱が戻ってくるようだった。


 シンが器を受け取り、一口食べる。


 目を見開いた。


「うまい!」


「噛んで」


「噛んでる!」


「飲んでる音がした」


「粥は飲むものだって前も言った!」


「違うって前も言った」


 どんちゃんも粥をすすった。


「温かいねえ」


「それが大事」


 イオが言う。


「霧の中にいると、体だけじゃなくて気持ちも冷えるから」


 リンも食べた。


 温かい。


 ばらばらの食材が、鍋の中で一つになっている。


 でも、朱雀の町のように同じ味に揃えられているわけではない。


 豆は豆。


 肉は肉。


 きのこはきのこ。


 薬草は薬草。


 それぞれ違うまま、同じ器に入っている。


 リンは思った。


 仲間も、きっとそうだ。


 同じ考えになる必要はない。


 疑いが消える必要もない。


 違うまま、同じ鍋を囲めるなら。


 それは信じることに少し似ている。


「リン」


 イオが声をかける。


「何?」


「難しい顔してる」


「また?」


「今度は二倍くらい」


「少し減った」


 シンが笑う。


「昨日より分かってるな!」


「便利すぎる」


 リンは笑った。


「考えてたんだ。疑うことって、悪いだけじゃないんだなって」


 ムソウが粥をすすりながら頷く。


「疑わぬ者は、罠にも気づかぬ」


「でも疑いすぎると進めない」


「その通り」


 ムソウは器を置いた。


「疑いとは、刀の鞘のようなものよ」


「鞘?」


「抜きっぱなしでは危ない。しまいっぱなしでは戦えぬ。必要な時に抜き、必要な時に収める」


 シンが首を傾げる。


「難しいな」


「要するに」


 ムソウは笑った。


「気になったら聞け」


「それなら分かる!」


「おぬし向けに言い直した」


「助かる!」


 イオが少し考え込む。


「聞いても、答えが出ない時は?」


 ムソウは腕を組んだ。


「その時は、答えが出ないことを共有すればよい」


 リンはムソウを見る。


「共有?」


「一人で抱えた疑いは鬼になる。皆で持った疑いは、重い荷物になる」


「荷物?」


「荷物なら、交代で持てる」


 イオが目を伏せた。


「救えなかった人のことも?」


「うむ」


 ムソウの声は静かだった。


「忘れぬことと、一人で背負うことは違う」


 イオはしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくり頷いた。


「うん」


 シンが器を差し出す。


「イオ」


「何?」


「おかわり」


「今いい話してたのに」


「いい話を聞いたから腹が減った」


「どういう仕組み?」


 どんちゃんがのんびり言う。


「心を使うと、お腹も空くからねえ」


「そうなのか!」


「たぶんねえ」


「じゃあおかわり!」


「どんちゃんの適当な理屈に乗らない」


 イオは呆れつつも、シンの器に粥をよそった。


 一座の者たちも笑う。


 ムソウも笑う。


 どんちゃんも眠そうに笑っている。


 その笑いの中で、リンは少しだけ肩の力を抜いた。


 疑心暗鬼は倒した。


 けれど、疑いそのものが世界から消えたわけではない。


 これからも迷う。


 疑う。


 間違える。


 それでも、聞けばいい。


 言えばいい。


 確かめればいい。


 鍋の湯気が、晴れた空へ上っていく。


 食事が終わる頃、ムソウは立ち上がった。


「さて」


 シンが顔を上げる。


「もう帰るのか?」


「帰らぬ」


 ムソウはきっぱり言った。


 リンが瞬きをする。


「え?」


「わしも行く」


 ムソウは北の黒山を見た。


「次が生殺与奪ならば、見過ごせぬ」


 イオが顔を上げる。


「でも、石門町は?」


「石門町は、もう立ち上がり始めた」


 ムソウは静かに答えた。


「わしがいつまでも居座れば、今度は町の花道を邪魔する」


 一座の女が笑う。


「それにね、うちらは旅芸人だよ」


 一座の男が太鼓を軽く叩く。


「一か所に根を張るのも悪くねえが、動いてこその一座だ」


「芝居をすれば、人が集まる」


 別の者が言った。


「人が集まれば、噂も集まる」


「怪我人を運ぶ道も作れるしね」


「怖がってる村で一芝居打てば、少しは笑いも戻る」


 ムソウは満足そうに頷いた。


「聞いたか。わし一人ではない。芝居一座ごと同行する」


 シンが目を輝かせた。


「おお! 賑やかになるな!」


「食料も減るけどね」


 イオが現実的に言う。


 シンの顔が固まった。


「それは……」


「何?」


「大問題だな」


「そこ?」


 ムソウが大笑いする。


「安心せい、猪突猛進。我らも食う分は働く」


「ならよし!」


「早いね」


 リンは少し考えた。


 ムソウと一座が同行する。


 戦力としては心強い。


 けれど、次に向かう相手は生殺与奪。


 死なぬ兵。


 命を握る者。


 危険は大きい。


「本当にいいの?」


 リンが聞いた。


 ムソウは真っ直ぐに頷いた。


「命を弄ぶ者に、花道を踏ませるわけにはいかぬ」


 その声には、いつもの派手さだけではない重みがあった。


「斬って終わる相手ではないかもしれない」


 イオが言う。


「うむ」


「助けられない人もいるかもしれない」


「うむ」


「怖い場所になる」


「だからこそ、芝居がいる」


 ムソウは言った。


「泣く者の前で笑えとは言わぬ。だが、泣く者の隣に灯りを置くことはできる。太鼓を鳴らすこともできる。帰る道を示すこともできる」


 一座の者たちが頷く。


 リンは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 ムソウは本当に変わった。


 天下無双は一人で強い男だった。


 今は、誰かのために道を開く男になっている。


「分かった」


 リンは頷いた。


「一緒に行こう」


 シンが拳を上げる。


「よし!」


 イオも頷いた。


「よろしくお願いします」


「固い固い」


 一座の女が笑った。


「こっちこそ、薬とご飯は頼りにしてるよ」


「ご飯はともかく、薬は無茶しない範囲で」


「それが一番だね」


 どんちゃんは粥をすすりながら、のんびり言った。


「賑やかな旅になりそうだねえ」


「どんちゃんも来るの?」


 リンが聞く。


「さあねえ」


「そこは曖昧なんだ」


「昼行灯だからねえ」


 シンが睨む。


「また消える気だな」


「消えるとは人聞きが悪いねえ。少し道草を食うだけだよ」


「飯以外も食うのか?」


「言葉のあやだねえ」


「紛らわしい!」


 その夜、リンたちは更地のそばで野営した。


 青龍の霧城があった場所は、もうただの谷間になっている。


 一座は布を張り、簡単な寝床を作った。


 ムソウは刀を枕元に置き、すぐに豪快ないびきをかき始めた。


 シンも負けじと寝息を立てる。


 イオは薬草袋を整理してから横になった。


 リンは少しだけ起きていた。


 焚き火の向こうに、どんちゃんが座っている。


 行灯の火が、小さく揺れている。


「今日はいるんだね」


 リンが言う。


「いるねえ」


「明日は?」


「明日は明日の風が吹くかなあ」


「それ、答えになってない」


「風はだいたいそういうものだよ」


 どんちゃんは眠そうに笑った。


 リンはそれ以上聞かなかった。


 疑心暗鬼を倒したからといって、何もかも疑わずに済むわけではない。


 でも、すべてを今すぐ暴く必要もない。


 どんちゃんは今、そこにいる。


 行灯の火は、足元を照らしている。


 それで十分な夜もある。


「おやすみ、どんちゃん」


「おやすみ、リン」


 その夜は、青い霧の声は聞こえなかった。


 翌朝。


 どんちゃんはいなかった。


 焚き火の跡には、灰が白く残っている。


 どんちゃんが座っていた場所には、何もない。


 行灯もない。


 足跡も、ほとんど残っていなかった。


 シンが寝起きの顔で叫ぶ。


「また消えた!」


 イオが荷物をまとめながら言う。


「今回は朝ご飯前だから、食料は減ってないね」


「そこか!?」


「大事でしょ」


「大事だけど!」


 リンはどんちゃんがいた場所を見た。


 小さな火の匂いだけが、ほんの少し残っている気がした。


「またどこかで会うよ」


「だろうな」


 シンは頭を掻いた。


「あいつ、飯時には戻ってきそうだし」


「それはありそう」


 イオが頷く。


 ムソウは豪快に伸びをした。


「昼行灯とは、まこと掴めぬ男よ」


「ムソウは気にならないの?」


 リンが聞く。


「気にはなる」


 ムソウは笑った。


「だが、今は北へ向かう花道の幕開けよ。役者が一人、袖へ引っ込んだだけのこと」


「また出てくる?」


「見せ場があればな」


 リンは小さく笑った。


「どんちゃんも役者扱いなんだ」


「旅に出る者は皆、己の舞台を持っておる」


 ムソウは派手に羽織を払った。


「さあ、行くぞ!」


 一座が荷物を担ぐ。


 太鼓。


 拍子木。


 布。


 灯り。


 鍋。


 担架。


 旅芸人の道具と、これからの戦いに必要な道具が一緒に揺れる。


 リン、シン、イオ、ムソウ、一座。


 少し大所帯になった一行は、北へ向かって歩き出した。


 青い霧の森を抜けると、道は乾いていた。


 風は冷たい。


 北の黒山が、少しずつ近づいてくる。


 道端の草は短く、木々は痩せている。


 鳥の声も少ない。


 代わりに、遠くから金属の擦れるような音が聞こえることがあった。


 剣か。


 鎧か。


 それとも、骨か。


 昼前、一行は小さな峠の茶屋跡にたどり着いた。


 茶屋といっても、屋根は半分落ち、戸は外れている。


 その陰に、旅人らしき男が座り込んでいた。


 顔は青白い。


 肩で息をしている。


 イオがすぐ駆け寄る。


「大丈夫ですか?」


 男はびくっと身を震わせた。


「来るな!」


 シンが足を止める。


「おっと」


 イオも両手を見せた。


「何もしません。怪我を見たいだけです」


 男は震える手で北を指した。


「黒山へ行くなら、やめろ」


 リンは膝をついた。


「何があったんですか」


「死なない」


 男は呟いた。


「兵が、死なないんだ」


 空気が重くなった。


 ムソウの目が細くなる。


「不死の兵か」


「斬っても倒れない。倒れても立つ。腕が折れても、首が曲がっても、まだ歩く」


 イオの顔が強張る。


「生きているんですか」


「分からない」


 男は首を振った。


「目は動いていた。声も出していた。でも、助けてくれとも、殺してくれとも聞こえた」


 シンの手が鉄棒を握る。


「嫌な話だな」


「あそこには行くな」


 男は震えながら言った。


「黒い鎧の軍団がいる。何度倒しても戻ってくる。不死の軍団だ」


 リンは北を見た。


 黒山の影が、雲のように重く広がっている。


「他に何か見ましたか」


 男はしばらく黙っていた。


 そして、思い出したように顔を上げる。


「黒馬の騎士がいた」


 リンたちは一斉に反応した。


「黒馬?」


 シンが身を乗り出す。


「額に白い星はあったか!」


「そ、そこまでは……だが速かった。一頭の馬なのに、千の軍勢が駆けるみたいな音がした」


 リンの胸が高鳴る。


 イオが呟いた。


「カズキ……」


 男は震えながら続ける。


「一騎で、不死の軍団へ突っ込んでいた。槍が何本にも見えた。黒い兵をまとめて薙ぎ倒していた」


「やっぱりカズキだ!」


 シンが叫ぶ。


「でも」


 男の声が沈む。


「倒しても、立つんだ。何度も。何度も。黒馬の騎士も、だんだん押されていた」


 リンは唇を結んだ。


 一騎当千。


 カズキとハヤテ。


 朱雀領を見て回るために別れた仲間。


 その彼が、不死の軍団と戦っている。


 相手が千なら、一騎当千は強い。


 だが、相手が倒れても終わらない軍団なら。


 イオが立ち上がった。


「急ごう」


「うん」


 リンも立つ。


 シンはすでに北へ歩き出しかけていた。


「カズキが無茶してるなら、止めねえとな!」


「止める前に助けるんでしょ」


「それだ!」


 ムソウは腕を組み、目を輝かせていた。


「一騎当千」


 低く、嬉しそうに呟く。


「一騎で千に当たる男。黒馬とともに駆ける者。よい。実によい名よ!」


 シンが振り返る。


「ムソウ、何か嬉しそうだな」


「嬉しいとも!」


 ムソウは堂々と答えた。


「天下無双と一騎当千。並べば、さぞ舞台映えする!」


「そこかよ!」


「もちろんだ!」


 ムソウは北の空へ向かって笑った。


「会わねばならぬ。その男にも、その馬にも!」


 シンがにやりとする。


「強いぞ、カズキは」


「なおよい!」


「あと、馬に厳しい」


「それもよい!」


「乗せてくれねえぞ」


「わしは乗らぬ!」


「え、乗りたくねえの?」


「わしはわしの足で花道を踏む!」


 リンが苦笑した。


「そこ張り合うんだ」


 ムソウは胸を張った。


「無論!」


 旅人の男は、そんなやり取りを呆然と見ていた。


 イオが水と薬を渡す。


「この道を南へ戻れば、青い霧はもう晴れています。途中で一座の人が一人、あなたを案内します」


 一座の女が手を上げた。


「あたしが行くよ。怪我人を連れて追いつく」


「お願いします」


 男は震えながら頭を下げた。


「行くのか、本当に」


 リンは頷いた。


「仲間がいるかもしれないから」


「死なない兵だぞ」


「だから、行きます」


 イオが静かに言った。


「死ねないなら、それは助けが必要な人かもしれない」


 その言葉に、男は何も返せなかった。


 リンたちは北へ向かった。


 道は少しずつ黒い石に変わっていく。


 草は減り、空気は冷たくなった。


 風の中に、鉄と土の匂いが混じる。


 遠くから、音が聞こえた。


 蹄の音。


 一つ。


 だが、それは千の軍勢のように響いていた。


 シンが走り出しかける。


「カズキだ!」


「待って、まだ遠い!」


 リンが止める。


 ムソウは大きく笑った。


「よい音よ!」


 イオは表情を引き締める。


「でも、急ごう」


 北の黒山のふもと。


 黒い霧のようなものが、地面を這っている。


 その中で、何かが動いていた。


 黒い鎧。


 黒い槍。


 倒れても起き上がる兵たち。


 その群れの中を、黒馬が駆けている。


 額に白い星。


 その背に乗る男が、槍を振るう。


 一振りが幾重にも重なり、黒い兵を薙ぎ倒す。


 だが、倒れた兵はまた立ち上がる。


 何度も。


 何度も。


 カズキの槍が、また光る。


 ハヤテの蹄が、黒い地面を打つ。


 一騎の蹄音が、千の軍勢の中で鳴っていた。


 リンは息を呑む。


「カズキ!」


 声はまだ届かない。


 黒山の上で、重い雲が動いた。


 その奥から、低い声がした気がした。


「生かすも殺すも、こちらの匙加減」


 イオの手が、薬草袋を強く握った。


 シンが鉄棒を構える。


 ムソウが刀を抜く。


 リンは朱雀の短剣に手をかけた。


 最後の四天王。


 生殺与奪の影が、北の黒山に広がっていた。

【後書き】

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

朱雀編を越え、今回から疑心暗鬼編に入りました。

命令に従わせる絶対服従とは違い、疑心暗鬼は「信じていいのか分からなくさせる」相手です。

そして今回は、久々にシンが真正面から大暴れする回でした。

髭の老人の言葉が、この先リンたちにどう響いていくのか。

次回も、腹ぺこ一行の旅にお付き合いください。

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