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臨機応変の俺と猪突猛進の親友、医食同源の少女と世界を旅する ~四字熟語を背負う者たちの腹ぺこ放浪記~  作者: 凡夫 成


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36話 青龍の霧城

【前書き】

朱雀女王との戦いを終え、リンたちは次の四天王の情報を求めて東へ向かいます。

次なる相手は、疑心暗鬼。

命令ではなく、疑いで人の心を揺さぶる存在です。


 青龍の霧城は、近づくほど形を変えた。


 遠くから見た時は、ただの青い城壁に見えた。


 だが、森を抜け、川音のする谷道へ出ると、城はまるで霧そのものが固まったように歪んでいた。


 塔は曲がっている。


 門は真正面にあるはずなのに、少し目を逸らすと横へずれる。


 城壁には水が流れていた。


 上から下へではない。


 下から上へ。


 細い水筋が、青い鱗のように城壁を這い上がっている。


「気持ち悪い城だな」


 シンが鉄棒を肩に担ぎながら言った。


「朱雀の城も嫌だったけどよ」


「朱雀の城は、嫌なくらい整ってた」


 リンは城を見上げる。


「こっちは、見てると自分の目が信用できなくなる」


 イオは薬草袋を握ったまま、静かに頷いた。


「さっきまで右にあった門が、今は正面に見える」


「動いてんのか?」


「分からない」


 リンは腰の朱雀の短剣に触れた。


 短剣はかすかに冷たい。


 赤い命令の線は見えない。


 朱雀の鳥籠では、命令は線になっていた。


 切るべきものが見えた。


 だが、この城には線がない。


 ただ、青い霧がある。


 どこから始まって、どこで終わるのか分からない霧。


 その霧の中で、声がした。


「よう来たのう」


 三人は同時に振り向いた。


 城門の前。


 青い霧の中に、一人の老人が立っていた。


 長い白髭。


 青みがかった古い旅衣。


 曲がった杖。


 森で鬼に襲われていた、あの髭の老人だった。


 シンが目を丸くする。


「あっ、ヒゲじい!」


「勝手に名前をつけるな」


 リンは小声で突っ込んだ。


 老人はほっほと笑う。


「構わんよ。呼び名など、形の一つにすぎぬ」


 イオが一歩前に出た。


「腰は大丈夫ですか?」


「おかげさまでのう」


 老人は杖で地面を軽く叩いた。


「おぬしらも無事にここまで来た。たいしたものじゃ」


 リンは老人を見つめた。


 心の奥に、小さな違和感がある。


 森で別れたはずの老人。


 その後に出会った大女。


 泣いていた子供。


 三人は姿も声も違った。


 けれど、残した言葉は同じだった。


 本当に、そう思うのか。


「どうしてここに?」


 リンが聞いた。


 老人は細い目で笑う。


「道を知っておったからのう」


「一人で?」


「一人は楽じゃよ。誰も疑わずに済む」


 その言葉に、シンが眉をひそめた。


「それ、大女も言ってたな」


 イオが息を呑む。


「子供も、似たことを言ってた」


 老人は笑ったまま、ゆっくり頷いた。


「ようやく、疑ったか」


 青い霧がざわりと揺れた。


 リンは短剣を抜く。


 シンは鉄棒を構える。


 イオは薬草袋へ手を入れた。


「お前、何者だ」


 シンが低く言う。


 老人は肩をすくめる。


「老人」


 その姿が、霧に揺れた。


 長い髭が消え、背の高い大女になる。


「大女」


 大女の姿が縮み、青い外套の子供になる。


「子供」


 子供が笑う。


 そして再び、髭の老人へ戻った。


「どれも本当で、どれも嘘じゃ」


 老人の背後に、長い影が伸びる。


 人の影ではない。


 蛇のように細く。


 龍のように長い。


 その背に、青い四文字が浮かび上がった。


 疑心暗鬼。


 リンの喉が鳴った。


「お前が……」


「そうじゃ」


 老人は穏やかに笑った。


「四天王が一角、疑心暗鬼」


 青い霧が城門を包む。


 霧の中で、老人の影が大きくうねった。


「青龍の名を冠する者、と呼ばれることもあるのう」


 シンが鉄棒を握りしめる。


「じいさんのふりしてたのか」


「ふり?」


 疑心暗鬼は首を傾げる。


「おぬしらが、老人なら助けると思った。大女なら頼ると思った。子供なら疑えぬと思った」


 イオの顔が強張る。


 疑心暗鬼は優しく続けた。


「人は、姿で信じる。声で信じる。弱さで信じる。強さで信じる。涙で信じる」


 青い瞳が、細く光る。


「だから、その形を借りただけじゃ」


「最低だね」


 イオが静かに言った。


 疑心暗鬼は笑う。


「本当に、そう思うのかのう?」


 その言葉に、三人の背筋が冷えた。


 同じ言葉。


 何度も心に残された言葉。


 シンが一歩前に出る。


「思う!」


 迷いのない声だった。


「じいさんでも大女でも子供でも、困ってるやつを使って人を揺らすのは最低だ!」


「ほう」


「あと、変身しすぎで忙しい!」


「そこもか」


「そこもだ!」


 シンが地面を蹴る。


「一回殴らせろ!」


 鉄棒が唸った。


 疑心暗鬼の老人の姿へ叩き込まれる。


 だが、手応えがない。


 老人の体は霧になり、鉄棒は空を切った。


 次の瞬間、背後から大女の声がした。


「相変わらず、前に出るねえ」


 シンが振り向く。


 大女がそこにいる。


 いや、疑心暗鬼が大女の姿を取っている。


「あんたは本当に、自分で前に出ているのかい?」


「出てる!」


「それとも、仲間がそう思わせているだけかい?」


 シンの足元に青い霧が絡む。


 リンが叫んだ。


「シン、聞くな!」


「聞く!」


 シンは叫び返した。


 リンが一瞬止まる。


 シンは続けた。


「聞いた上で殴る!」


 鉄棒を振る。


 だが、大女の姿も霧に消えた。


 今度はイオの前に、青い外套の子供が立っていた。


「お姉ちゃん」


 イオの手が止まる。


 子供は泣きそうな顔で見上げる。


「また選ぶの?」


 イオは唇を噛んだ。


 だが、目を逸らさなかった。


「選ぶ」


 子供の目が細くなる。


「見捨てるの?」


「違う」


 イオは薬草を握りしめた。


「救うために選ぶ」


「本当に?」


「本当に」


 イオは低く言った。


「その顔で聞かないで」


 子供の姿が揺れる。


 疑心暗鬼の笑い声が霧の中に広がった。


「よい。よいのう」


 城門が音もなく開いた。


 中は暗い。


 青い霧と、水音だけが流れている。


「ならば入るがよい」


 老人の声が、城の奥から響く。


「信じる者たちよ」


 その声は優しい。


 だからこそ、気味が悪い。


「おぬしらが何を信じ、何を疑い、どこで足を止めるか。ゆっくり見せてもらおう」


 リンは二人を見る。


「入るよ」


「おう」


 シンが頷く。


「ここまで来て帰るわけねえ」


 イオも頷いた。


「離れないで」


「うん」


 リンは言った。


「何か聞こえたら、黙らずに言おう」


「分かった」


「聞く、確かめる、勝手に決めつけない」


 シンが鉄棒を担ぎ直す。


「疑ったら聞く!」


「それでいこう」


 三人は青龍の霧城へ足を踏み入れた。


 城内は、外から見たより広かった。


 いや、広いのか狭いのか分からない。


 廊下は曲がっている。


 壁は濡れている。


 足元には浅い水が張っていて、歩くたびに波紋が広がった。


 その波紋に、自分たちの顔が映る。


 リンの顔。


 シンの顔。


 イオの顔。


 だが、水面に映る表情は、実際のものと少し違っていた。


 リンの水面の顔は、不安そうに歪んでいる。


 シンの水面の顔は、怒っている。


 イオの水面の顔は、泣きそうだった。


「見るな」


 リンが言った。


「水面の顔は信用しない」


「了解」


 シンが足で水を蹴った。


 水面が乱れる。


 その瞬間、廊下の向こうからリンの声が聞こえた。


「シンは、考えないから前に出しやすい」


 シンの肩がぴくりと動く。


 リンはすぐ叫ぶ。


「言ってない!」


「分かってる!」


 シンも叫ぶ。


 今度はイオの声が聞こえた。


「リンの指示は、朱雀女王の命令と何が違うの?」


 リンの胸が冷えた。


 イオがすぐ言う。


「言ってない!」


「分かってる!」


 リンは答えた。


 次に、シンの声。


「イオは救う人を選んでる」


 イオが息を詰まらせる。


 シンが慌てて叫ぶ。


「言ってねえ!」


「分かってる!」


 イオは声を張った。


「でも、刺さる!」


「言うな霧!」


 シンが廊下へ鉄棒を振る。


 霧だけが裂け、また元に戻る。


 リンは足を止めた。


「進もう。止まると声が増える」


「おう」


 三人は歩き出した。


 だが、廊下が分かれた。


 三方向。


 右、左、正面。


 どれも同じ青い霧に包まれている。


「どれだ?」


 シンが聞く。


 リンは床を見る。


 足跡はない。


 水面はすぐ波紋で消える。


 壁の模様も、見るたびに変わっている。


「正面」


 リンは言った。


「理由は?」


 イオが聞く。


「水音が一番大きい」


「本当に?」


 その声は、イオの声ではなかった。


 青い霧の声だった。


 リンは息を吸う。


「本当に、とは言い切れない」


 シンがリンを見る。


「じゃあどうする」


「正面へ行きたい。間違ってたら戻る」


「それならいい」


 イオも頷く。


「戻る道、覚えておく」


 三人は正面へ進んだ。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 四歩目を踏み出した瞬間、床の水が大きく揺れた。


 リンは振り向く。


 そこに、誰もいなかった。


「シン?」


 返事がない。


「イオ?」


 返事がない。


 廊下には、リン一人だけが立っていた。


 青い霧が濃くなる。


 水面に、シンとイオの姿が映った。


 二人はリンに背を向けていた。


 シンが言う。


「リンは、何でも考えすぎる」


 イオが言う。


「でも最後は、自分で決めたいだけ」


 リンは拳を握った。


「違う」


 シンの声が続く。


「俺たちに聞くふりをして、自分の答えに合わせてる」


 イオの声が続く。


「優しい指示は、優しい命令と何が違うの?」


 リンの胸に、朱雀女王の声が蘇る。


 あなたも命じているではありませんか。


 リンは腰の朱雀の短剣を抜いた。


 赤い光が刃に宿る。


 水面へ振り下ろす。


 水が裂けた。


 だが、声は消えない。


 命令の線ではない。


 疑いの霧。


 切れない。


「違う……」


 リンは呟いた。


 だが、何が違う。


 命令と指示。


 頼むことと、誘導すること。


 相手のためと言いながら、結局自分が決めているのではないか。


 青い霧がリンの足首に絡む。


 その時、どこか遠くでシンの声が聞こえた。


「リン!」


 本物か。


 偽物か。


 分からない。


 だが、リンは叫び返した。


「聞こえる!」


 霧が揺れた。


「本物なら返事して!」


「本物だ!」


「証拠は!」


「腹が減った!」


 リンは一瞬、真顔になった。


「……本物だ」


 霧が少し薄くなる。


 今度はイオの声が聞こえた。


「リン、怪我してない?」


「してない!」


「本当に?」


「本当に!」


「後で確認する!」


「やっぱり本物だ!」


 リンは声の方へ走った。


 水面の幻が叫ぶ。


「疑え」


「疑わなければ、また間違える」


「信じる者ほど、操りやすい」


 リンは走りながら答えた。


「疑ってる!」


 霧がざわめく。


「でも、聞く!」


 廊下がねじれる。


 壁が迫る。


 足元の水が深くなる。


 それでも、声の方へ進む。


 やがて、霧の向こうにシンの背中が見えた。


 シンは一人で、青い鬼を三体相手にしていた。


 鬼たちはリンの声で囁いている。


「止まれ」


「退け」


「お前は邪魔だ」


 シンは鉄棒を振り回しながら怒鳴っていた。


「リンはそんな言い方しねえ!」


「シン!」


 リンが叫ぶ。


 シンが振り返る。


「お、本物か!」


「たぶん!」


「たぶんかよ!」


「腹減った?」


「減った!」


「本物だ!」


「確認方法が雑!」


 リンは短剣を構え、シンの横に並んだ。


「シン、右の鬼は霧が濃い。芯がある」


「頼むって言ったか?」


 シンがにやりと笑う。


 リンも笑った。


「頼む!」


「任された!」


 シンが突っ込む。


 鬼がリンの声で叫ぶ。


「囮だ」


「違う!」


 シンが答える。


「頼まれた前衛だ!」


 鉄棒が鬼を砕いた。


 リンはその奥に見えた青い芯を短剣で裂く。


 霧が薄くなる。


 すると、廊下の先からイオの声がした。


「二人とも、こっち!」


 二人は走った。


 広い部屋に出る。


 そこには、いくつもの鏡が並んでいた。


 鏡の前で、イオが立っている。


 彼女の周りには、怪我人の幻が無数に映っていた。


 石門町の人。


 朱雀の町の人。


 森で出会った子供。


 助けを待つ影。


「イオ!」


 リンが呼ぶ。


 イオは振り返った。


「本物?」


 シンが即答する。


「腹減った!」


「本物ね」


「お前ら、俺を何だと思ってんだ!」


「分かりやすい仲間」


 イオは少しだけ笑った。


 だが、その目は赤い。


 ずっと声を聞かされていたのだろう。


 鏡の中の人影が、イオへ手を伸ばしている。


「助けて」


「選ばないで」


「待っていたのに」


 イオは震えながらも、薬草を握っていた。


「全部が幻とは思えない」


 リンは鏡を見る。


 どれも本物のように見える。


 助けを求める声。


 痛みに歪む顔。


 だが、ここで手を伸ばし続けたら、イオは動けなくなる。


「イオ」


 リンは静かに言った。


「今、助ける相手を選ぶなら、僕たちを選んで」


 イオがリンを見る。


「え?」


「僕とシンは、今ここにいる。本物だと思う」


 シンが胸を張る。


「腹も減ってる」


「それはもういい」


 リンは続けた。


「この城を抜けないと、外の人たちも助けられない。だから今は、僕たちと進んでほしい」


 イオは鏡を見た。


 助けを求める影が揺れる。


 泣く子供の声がする。


「お姉ちゃん」


 イオは目を閉じた。


 そして、薬草袋に手を入れる。


「分かった」


 火打ち石を鳴らす。


 苦い煙が広がった。


「今は、二人を選ぶ」


 鏡の中の影がざわめく。


「見捨てた」


「違う」


 イオは目を開ける。


「進むために選んだ」


 煙が鏡へ流れ込む。


 鏡の表面にひびが入る。


 シンが鉄棒を構えた。


「割っていいか!」


「頼む!」


 リンとイオが同時に言った。


「よっしゃ!」


 シンの鉄棒が鏡を砕いた。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 鏡の中の声が悲鳴のように消えていく。


 部屋の奥に扉が現れた。


 青い霧が、その隙間から流れている。


「出口か?」


 シンが言う。


「たぶん」


 リンは短剣を握り直す。


「でも、向こうが本番だと思う」


「なら行くしかねえな」


 イオは薬草袋を結び直した。


「一緒に」


「うん」


 三人は扉を押し開けた。


 外だった。


 いや、城の外に見える場所だった。


 青龍の霧城の中に、広い中庭がある。


 空は見えない。


 上には青い霧が渦を巻き、巨大な龍の腹の中にいるようだった。


 中庭の中心に、老人が立っていた。


 疑心暗鬼。


 白髭を撫でながら、楽しそうに三人を見ている。


「よく合流したのう」


「お前の分断が下手だったんじゃねえか」


 シンが言う。


「いやいや」


 疑心暗鬼は笑う。


「おぬしらが少しばかり、疑いの扱いを覚えただけじゃ」


 リンは老人を睨む。


「疑いは消せない」


「ほう」


「でも、黙って膨らませなければいい」


 イオも続ける。


「聞く。答える。間違えたら言い直す」


 シンが鉄棒を肩に担ぐ。


「あと、鬼は殴る!」


 疑心暗鬼は楽しげに目を細めた。


「よい。実によい」


 老人の姿が青い霧に溶けていく。


「では、もう少し増やそうかのう」


 中庭の床が揺れた。


 水たまりが震える。


 鏡の破片が浮き上がる。


 霧が渦を巻き、城の壁から、床から、空から、青い影が湧き出した。


 一体。


 二体。


 十体。


 二十体。


 数えきれない。


 青い鬼たちだった。


 老人の声が中庭いっぱいに響く。


「人は皆、疑う」


 鬼が増える。


「疑いは、弱さではない」


 さらに増える。


「知恵であり、身を守る盾であり、裏切られぬための牙じゃ」


 鬼たちが、リンたちを囲む。


 その顔は一定ではない。


 老人。


 大女。


 子供。


 村人。


 兵。


 リン。


 シン。


 イオ。


 見知った顔を次々と借りて、青い鬼たちが笑う。


「さあ」


 疑心暗鬼の声が、霧の奥で低く響いた。


「信じる者たちよ」


 鬼の大群が、一斉に囁く。


「本当に、そう思うのか」


 リンは短剣を構えた。


 シンは鉄棒を握る。


 イオは薬草を火にくべる。


 青い鬼の大群が、波のように押し寄せた。


「来る!」


 リンが叫ぶ。


「分かりやすくなったな!」


 シンが笑う。


「数が多すぎるけどね!」


 イオが煙を広げる。


 最初の鬼が飛びかかる。


 シンが叩き伏せる。


 リンが芯を探し、短剣で裂く。


 イオの苦い煙が霧を薄める。


 三人は背中を合わせた。


 一体、二体、三体。


 倒す。


 だが、霧はまた形になる。


 砕いた鬼の後ろから、新しい鬼が生まれる。


 疑いは尽きない。


 鬼も尽きない。


 鬼たちは仲間の声で囁き続ける。


「リンの指示は命令だ」


「シンは便利な前衛だ」


「イオは救う者を選ぶ」


「信じれば傷つく」


「疑えば守れる」


 シンが叫ぶ。


「うるせえ!」


 鉄棒が鬼を吹き飛ばす。


 だが、すぐ横から別の鬼が飛びかかる。


 リンが受け止める。


「シン、下がって!」


「頼むか!?」


「頼む!」


「下がる!」


 シンが一歩退く。


 その隙をイオの煙が埋める。


 だが、煙も少なくなってきた。


 イオは薬草袋を見た。


「残りが少ない!」


「どれくらい?」


「あと二回!」


 リンは奥を見る。


 疑心暗鬼本体の姿は見えない。


 鬼の大群だけが広がっている。


 このままでは、消耗する。


 分かっていても、進めない。


 シンの息が上がる。


 リンの腕も重い。


 イオの額に汗が滲む。


 背中合わせの輪が、少しずつ狭くなる。


 鬼たちの囁きが濃くなる。


「誰かが倒れる」


「誰を見捨てる」


「誰を選ぶ」


「誰を信じる」


 リンは歯を食いしばった。


 疑いに答えながら戦うことはできる。


 だが、数が多すぎる。


 霧そのものを変えなければ、終わらない。


 その時。


 遠くから、音がした。


 カン。


 乾いた音。


 鬼たちの囁きの中に、まっすぐ通る音。


 カン。


 二度目。


 リンが顔を上げる。


 シンも目を見開いた。


 カン。


 三度目。


 拍子木の音だった。


 青い霧の向こうから、派手な声が響く。


「天下に二つと並ぶ者なし!」


 シンが叫んだ。


「この声!」


 青い鬼の群れの向こう。


 霧を割るように、派手な羽織が揺れた。


 大きな影が、花道を踏むように現れる。


「されど、花道は一人にて咲くにあらず!」


 その男は、笑っていた。


 天下無双。


 ムソウだった。


「待たせたな、腹ぺこ一行!」


 鬼の大群が、一斉に振り返った。

【後書き】

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

朱雀編を越え、今回から疑心暗鬼編に入りました。

命令に従わせる絶対服従とは違い、疑心暗鬼は「信じていいのか分からなくさせる」相手です。

そして今回は、久々にシンが真正面から大暴れする回でした。

髭の老人の言葉が、この先リンたちにどう響いていくのか。

次回も、腹ぺこ一行の旅にお付き合いください。

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