↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
臨機応変の俺と猪突猛進の親友、医食同源の少女と世界を旅する ~四字熟語を背負う者たちの腹ぺこ放浪記~  作者: 凡夫 成


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/47

26話 朱羽軍、進軍す

【前書き】


四字熟語が真名になる世界。


臨機応変のリン、猪突猛進のシン、医食同源のイオに加え、一騎当千のカズキも旅に参加。


新章は、命令で人を縛る四天王・絶対服従との戦いです。


バトルあり、料理あり、馬あり、たまに昼行灯あり。


よろしくお願いします。


 水路の先にあったのは、古い貯蔵小屋だった。


 朱雀の町の外れ。


 かつて油や薬草を保管していた場所らしい。


 今は使われておらず、屋根は少し傾き、壁には蔦が絡んでいる。


 だが、外から見えにくい。


 馬一頭を入れるだけの広さもある。


 リンたちは、そこへハヤテを連れ込んだ。


 黒馬は荒く息をしていた。


 額の白い星には汗が滲み、背の赤い羽根の印はまだ熱を持っている。


 カズキはハヤテの首筋に手を当てたまま離れない。


「大丈夫だ」


 低い声で、何度も言う。


「大丈夫だ、ハヤテ。俺はここにいる」


 ハヤテは小さく鼻を鳴らした。


 目には、カズキを知っている光がある。


 だが、時折、赤い羽根がちらつくと、その光が揺れる。


 まだ朱雀女王の命令は切れていない。


 イオは薬草油の小瓶を並べていた。


 油屋から譲ってもらった火傷用の油。


 自分の薬草袋にあった冷却草、痛みを散らす実、筋をゆるめる葉。


 石門町で使った薬草。


 道中で採った草。


 それらを小さな器に分け、匂いを確かめ、指先で混ぜていく。


 シンは横でその様子を覗き込んでいた。


「それで印が消えるのか」


「消えない」


「駄目じゃねえか」


「熱を弱めるの」


「それでどうなる」


「命令に逆らった時の痛みを、少しだけ抑えられるかもしれない」


 イオは真剣な顔で言った。


「完全に自由にはできない。でも、選ぶ時間を作れる」


 リンはその言葉に反応した。


 選ぶ時間。


 朱雀女王の命令は、相手から選ぶ時間を奪う。


 なら、イオの薬はその反対だ。


 完全な解放ではなくてもいい。


 一瞬でも、自分で選べる時間が戻るなら。


 それは戦いになる。


「イオ、それは町の人にも使える?」


 リンが聞いた。


「配合を薄くすれば、たぶん。でも人と馬では効き方が違う。試す必要がある」


「危ないのか」


 シンが聞く。


「薬は、量を間違えれば毒になる」


 イオは静かに答えた。


「痛みを消しすぎれば、体が限界を超えても気づけない。熱を下げすぎれば、逆に体が動かなくなる。喉を止める薬草も、濃すぎれば息が苦しくなる」


「薬って怖いんだな」


「怖いよ」


 イオは小瓶を持ち上げた。


「だから、治すためにちゃんと知らなきゃいけない」


 そして少し間を置き、続けた。


「でも、誰かを殺させないためなら、倒す薬も使う」


 リンは頷いた。


「頼りにしてる」


 イオは小さく頷き返した。


 カズキはハヤテの背を見つめていた。


 イオが近づく。


「塗るよ」


「ああ」


「痛がるかもしれない」


「俺が押さえる」


「押さえつけないで。声をかけて」


 カズキは一瞬黙り、頷いた。


「分かった」


 イオは薬草油を指に取り、赤い羽根の印の周囲へ慎重に塗った。


 直接印に触れない。


 熱の輪郭を冷ますように。


 ハヤテの皮膚が震えた。


 赤い羽根が一瞬強く光る。


 カズキがすぐに首筋を撫でる。


「俺だ。大丈夫だ」


 ハヤテは足を踏み鳴らしかけたが、踏みとどまった。


 リンは息を詰めて見守る。


 数呼吸の後、赤い羽根の光が少しだけ落ち着いた。


 イオが小さく息を吐く。


「効いてる」


 カズキの肩から力が抜けた。


「ありがとう」


「まだ安心はできない。鐘が鳴ったら、また強く反応すると思う」


「その時は?」


「もう一度塗る。でも使いすぎると皮膚が傷む」


「分かった」


 シンがハヤテを見ながら言う。


「まだ乗れねえのか」


 カズキは首を振る。


「乗らない」


「乗れないじゃなくて?」


「乗らない」


 カズキはハヤテの背の印を見る。


「俺が乗りたいから乗るんじゃない。ハヤテが走れる時に乗る」


 シンは少し考えた。


「相棒って、難しいな」


「お前には早い」


「何だと」


「馬の方が分かる」


「また馬の方か!」


 小屋の隅で、どんちゃんが古い木箱に腰かけていた。


 いつの間に座ったのか分からない。


 彼は小さな行灯を手にしている。


 油屋から持ってきたものだ。


 火は弱い。


 だが、消えない。


「どんちゃん、その行灯」


 リンが聞く。


「借りたよ」


「いつ?」


「さっき」


「誰に?」


「油屋さんに」


「僕は見てない」


「昼行灯だからねえ」


 シンが言う。


「それで何かできるのか」


「少し明るい」


「それは見りゃ分かる」


 カズキはどんちゃんを見ていた。


 警戒ではない。


 やはり観察だった。


 前へ駆ける者と、どこにも駆けない者。


 相棒と一つになって戦う者と、誰とも組んでいないように見えて孤立しない者。


 カズキには、どんちゃんが真逆に見えているのだろう。


「昼行灯」


 カズキが言う。


「何かな」


「お前は、命令されても動かなそうだ」


「そうかなあ」


「命令されても、聞こえていなさそうだ」


「それはありそうだねえ」


 リンは苦笑した。


「笑い事じゃない。朱雀女王の命令がどんちゃんに効きにくいなら、重要かもしれない」


 どんちゃんは首を傾げた。


「僕はただの昼行灯だけどねえ」


 カズキが言う。


「有明行灯は、命令の届かぬ夜明け道を知っていた」


「そうらしいねえ」


「なら、昼行灯にも何かあるのかもしれない」


「役に立たない灯かもよ」


「役に立たないものが、道に遅れずついてくるとは思えない」


 どんちゃんは少しだけ目を細めた。


「君は、よく見るねえ」


「馬を見るのと同じだ」


「僕は馬じゃないけどねえ」


「知っている」


 その時、小屋の外から鐘の音が響いた。


 ごん。


 遠い。


 だが、確かに朱雀の塔からだった。


 ハヤテの赤い羽根が強く光る。


 黒馬の体が跳ねる。


「ハヤテ!」


 カズキが首にしがみつく。


 イオがすぐに薬草油を持つ。


 リンは扉の隙間から外を見た。


 町の方角で、赤い旗がいくつも上がっている。


 旗には朱雀の羽根。


 その下に、兵が整列していた。


 朱羽軍。


 赤い羽根の印を背負う、絶対服従の軍勢。


 鐘がもう一度鳴る。


 ごん。


 塔から、あの女王の声が響いた。


「迷える者たちが、私の厩舎より馬を連れ去りました」


 町全体が静まり返る。


「恐れることはありません」


 声は優しい。


「彼らは敵ではありません。まだ命令の慈悲を知らぬ、迷い子です」


 リンの背筋が冷たくなる。


 敵ではないと言いながら、支配する。


 迷い子と言いながら、選ぶ力を奪う。


「朱羽軍へ命じます」


 赤い旗が一斉に揺れた。


「連れ戻しなさい」


 兵たちの背の赤い羽根が、同時に光る。


「傷つけず、殺さず、折りなさい」


 シンが小声で言う。


「今、怖いこと言ったよな」


「ああ」


 リンは答える。


「殺すより厄介だ」


 折る。


 意思を折る。


 選ぶことを諦めさせる。


 朱雀女王は、リンたちを殺す気ではない。


 従わせる気だ。


 町の南門が開く。


 軍勢が動き出した。


 その先頭に、三つの影がある。


 一つ目。


 赤い鎧の騎士。


 その下には、朱い装甲をまとった馬。


 騎士と馬の背には、同じ赤い羽根の印がある。


 騎士の背に浮かぶ四文字。


 人馬一体。


 カズキの目が細くなった。


「騎馬隊長か」


 人馬一体の騎士は、まるで馬と一つの生き物のように動いていた。


 手綱を引く様子がない。


 合図もない。


 しかし馬は騎士の意志そのもののように進む。


 美しい。


 だが、カズキは顔を歪めた。


「あれは違う」


「何が?」


 リンが問う。


「馬が考えていない」


 カズキの声は低い。


「騎手の命令が、そのまま馬に流れている。呼吸を合わせているんじゃない。馬の呼吸を消している」


 人馬一体の騎士がこちらの方を見た。


 距離はある。


 だが、視線が合った気がした。


 二つ目の影。


 赤い重鎧を着た槍盾兵。


 大盾を持ち、歩みは遅い。


 だが、その一歩一歩が戦場の線を引くように重かった。


 背に浮かぶ四文字。


 一進一退。


 シンが鉄棒を握る。


「あいつ、硬そうだな」


「シンの相手っぽいね」


 リンが言う。


「何で分かる」


「見ただけで正面突破したそうな顔してるから」


「してねえ」


「してる」


 一進一退の重鎧兵は、兵たちの前に立ち、盾を地面へ突き立てた。


 その瞬間、朱羽軍の前線がぴたりと止まる。


 止まる動きまで揃っていた。


 三つ目の影。


 赤い法衣をまとった細身の男。


 手には鈴のついた杖。


 歩くたびに、鈴が鳴る。


 その音が鳴ると、兵たちの赤い羽根が強く光った。


 背に浮かぶ四文字。


 唯命是従。


 リンは息を呑んだ。


「あれは……命令の伝令か」


 唯命是従の男が杖を掲げた。


 朱雀女王の声が、その口から響く。


「戻りなさい」


 それは女王本人の声と同じ響きだった。


 リンの体が一瞬重くなる。


 距離があるのに、届く。


 唯命是従は、女王の命令を複製している。


 彼がいる限り、塔から離れても命令が届く。


「まずいな」


 リンが呟く。


「兵だけじゃない。幹部が命令を運んでる」


 イオがハヤテを押さえながら言う。


「ハヤテの印も反応してる!」


 赤い羽根がまた熱を持つ。


 ハヤテが苦しそうに首を振る。


 カズキが必死に声をかける。


「俺を見ろ。ハヤテ、俺を見ろ」


 ハヤテの目が揺れる。


 命令と記憶の間で、また苦しんでいる。


 イオは薬草油を塗るが、さっきより反応が強い。


「命令が強い。油だけじゃ抑えきれない」


「どれくらい持つ?」


 リンが聞く。


「分からない。でも、ここにいたら見つかる」


 シンが扉に手をかける。


「なら出るか」


「待て」


 リンは考える。


 朱羽軍は正面から来る。


 こちらにはハヤテがいる。


 ハヤテはまだ走れない。


 カズキも完全ではない。


 イオは薬の調整が必要。


 どんちゃんの行灯は、命令を少し和らげるかもしれない。


 なら、今すべきことは。


 逃げるか。


 隠れるか。


 戦うか。


 選択肢が多い。


 どれも間違える可能性がある。


 誰かに命じてもらえれば楽だ。


 その考えが浮かび、リンは目を閉じた。


 違う。


 この迷いから逃げたら、朱雀女王の言う通りになる。


 リンは息を吸い、仲間を見る。


「意見を聞かせて」


 シンが目を丸くする。


「今か?」


「今」


「俺は殴りたい」


「分かった。カズキは?」


「ハヤテを守る。今は走らせたくない」


「イオ」


「薬を作る時間が欲しい。せめて命令の熱を弱める薬をもう少し安定させたい」


「どんちゃん」


「暗くなるまで待てると、行灯は少し働きやすいかもねえ」


 リンは頷いた。


「じゃあ決める」


 仲間の意見を聞いた上で、自分で選ぶ。


「ここには留まらない。でも正面突破もしない。水路沿いに移動して、有明行灯の夜明け道へ戻る。そこで薬を調整する。シンは追手を引きつける準備。カズキはハヤテを歩かせる。無理に乗らない。イオは薬を持って、ハヤテと赤い羽根持ちの応急対応。どんちゃんは灯りで道を見て」


 リンは一度止めて、言い直した。


「無理なら言って。変える」


 シンが笑った。


「それがリンの命令じゃないやつか」


「命令じゃない」


「分かってる。俺はそれでいい」


 カズキも頷く。


「俺も選ぶ。ハヤテを歩かせる」


 イオが薬草袋を背負う。


「私も行ける」


 どんちゃんは行灯を持って立ち上がった。


「じゃあ、足元だけ照らすよ」


 リンは頷いた。


「行こう」


 彼らは小屋を出た。


 水路沿いの細い道を、ハヤテを連れて進む。


 町の外れとはいえ、完全には隠れられない。


 朱羽軍の兵がこちらに気づいた。


 赤い旗が動く。


 唯命是従の鈴が鳴った。


 ちりん。


「発見」


 その声は、ただの報告ではなかった。


 命令として兵たちへ流れ込む。


 朱羽軍が一斉に方向を変えた。


 乱れがない。


 迷いがない。


 人馬一体の騎馬隊が先に動く。


 赤い装甲の馬たちが、同じ歩幅で駆け出した。


 カズキがハヤテの前に立つ。


「来る」


「逃げるぞ!」


 シンが叫ぶ。


「ハヤテは走れない!」


 カズキが返す。


「なら俺が止める!」


 シンが鉄棒を構えて前に出ようとする。


 その時、一進一退の重鎧兵が盾を掲げた。


 遠い。


 だが、地面に赤い線が走った。


 シンの足元まで伸びる。


 シンが一歩前へ出た。


 次の瞬間、体が後ろへ戻された。


「は?」


 シンが目を丸くする。


 もう一度踏み出す。


 また戻る。


「何だこれ!」


 一進一退の声が響く。


「命令なき前進は蛮勇」


 重く、低い声。


「命令なき後退は敗走」


 シンが苛立つ。


「何言ってんだ!」


「進退は、上が決める」


 シンは鉄棒を握りしめる。


「俺の足は俺が決める!」


 強引に前へ出る。


 だが、赤い線が足元で光り、一歩分戻される。


 前に進んでいるのに進まない。


 まさに一進一退。


「くそっ、腹立つ!」


 リンが叫ぶ。


「シン、今は突破じゃない! 引きつけるだけでいい!」


「引きつけるって何だ!」


「進まなくていい! そこにいれば相手の線を止められる!」


 シンは不満そうだった。


 だが、歯を食いしばって踏みとどまる。


「進まねえのに役に立つのか!」


「立つ!」


「ならやる!」


 シンは前進を諦めたわけではない。


 だが、今はその場に立つことを選んだ。


 一進一退の赤い線を、シンが体で押さえる。


 その隙に、リンたちは水路沿いを進む。


 人馬一体の騎馬隊が迫った。


 先頭の騎士が槍を構える。


「馬は命じられて走るもの」


 その声は冷たい。


 人馬一体の騎士がカズキを見た。


「騎手と馬に別々の意志など不要」


 カズキの目が鋭くなる。


「違う」


「一体とは、片方が片方に従うこと」


「違う」


 カズキはハヤテの首筋に手を置く。


「一体ってのは、互いの呼吸を聞くことだ」


 人馬一体の騎士は槍を構え直した。


「ならば見せてみろ。一騎当千」


 騎馬隊が突っ込んでくる。


 ハヤテはまだ走れない。


 カズキは乗れない。


 でも、逃げ道は狭い。


 リンは一瞬で周囲を見る。


 水路。


 低い石橋。


 古い板。


 行灯の火。


 イオの薬草袋。


「カズキ、乗らずにハヤテと横へ!」


「分かった!」


「イオ、煙を作れる?」


「何の煙?」


「馬を驚かせず、人だけ咳き込ませるやつ!」


「難しい!」


「少量で!」


「やってみる!」


 イオは薬草粉と油を混ぜ、小さな布に染み込ませた。


 それを行灯の火に近づける。


 白い煙が上がる。


 どんちゃんが行灯を持って、風上へ少し動いた。


「こっちかなあ」


「助かる!」


 煙が騎馬隊の方へ流れる。


 馬たちは少し首を振るだけだった。


 だが、騎士たちは咳き込む。


 命令の声が乱れる。


 人馬一体の先頭騎士だけは、ほとんど乱れない。


「小細工を」


 カズキはハヤテの横を歩きながら、騎士の動きを見ていた。


「馬が苦しんでいる」


 リンが聞く。


「分かるのか?」


「分かる」


 カズキは低く言う。


「あの馬は、止まりたい瞬間にも止まれない。曲がりたい時にも曲がれない。騎手の命令が強すぎる」


 人馬一体の騎士が迫る。


 シンは一進一退に足止めされている。


 リンは短剣を握る。


「カズキ、受けられる?」


「ハヤテを守りながらなら」


「無茶は?」


「する」


「そこはしないって言ってほしかった」


 カズキは槍を構えた。


 ハヤテの前ではない。


 横に立つ。


 ハヤテを隠すのではなく、共に並ぶ。


 人馬一体の槍が伸びる。


 カズキは槍で受け流した。


 衝撃で足が滑る。


 だが、ハヤテが鼻先でカズキの肩を押した。


 ほんの少し。


 倒れない角度へ。


 カズキの目が見開かれる。


「ハヤテ」


 黒馬は小さく鼻を鳴らした。


 まだ命令は残っている。


 だが、自分で動いた。


 カズキを支えるために。


 人馬一体の騎士が目を細める。


「不要な意志だ」


 カズキは槍を握り直す。


「必要な意志だ」


 その時、唯命是従の鈴がまた鳴った。


 ちりん。


「戻りなさい」


 女王の声が重なる。


 ハヤテの赤い羽根が燃え上がる。


 ハヤテの目から光が薄れた。


 カズキへ向かって、頭を振る。


 リンが叫ぶ。


「イオ!」


「薬!」


 イオが駆け寄り、薬草油をハヤテの印の周囲へ塗る。


 だが、命令が強すぎる。


 油の効きが追いつかない。


 どんちゃんが行灯をハヤテの足元へ置いた。


「足元、見る?」


 黒馬の目が、ほんの少し下がる。


 行灯の小さな火。


 昼行灯の頼りない光。


 それがハヤテの目に映った。


 カズキが叫ぶ。


「ハヤテ、俺の声を聞け!」


 ハヤテの動きが止まる。


 一瞬だけ。


 その一瞬で十分だった。


 リンが水路脇の古い板を蹴った。


 板が倒れ、騎馬隊との間に障害物ができる。


 馬は越えられる。


 だが、命令で整列した騎馬隊は、全員同じ軌道を取ろうとして詰まった。


「乱れがないなら、乱す!」


 リンが叫ぶ。


 カズキがそれに合わせて、先頭騎士の槍を下から弾いた。


 人馬一体の騎士が少しだけ後退する。


「退いたな」


 カズキが言う。


「馬が選んだんじゃない。お前が無理やり下げた」


 人馬一体の目が冷える。


「口の利き方を知らぬ一騎だ」


「馬の声を聞けぬ一体よりましだ」


 一方、シンはまだ一進一退の線に捕まっていた。


 前へ出る。


 戻される。


 また出る。


 また戻される。


「うおおおお!」


「シン、無駄に体力を使うな!」


 リンが叫ぶ。


「腹立つんだよ!」


 一進一退は盾の向こうで言った。


「進むべき時に進み、退くべき時に退く。それが兵だ」


「俺は兵じゃねえ!」


「ならば獣だ。前しか知らぬ獣」


 シンの眉が跳ねた。


「誰が獣だ!」


「猪突猛進。命令なき突撃は、ただの暴走」


 シンは鉄棒を握りしめた。


 怒りで突っ込もうとする。


 だが、リンの声が飛んだ。


「シン!」


「何だ!」


「今突っ込んだら、相手の思う通りだ!」


 シンは足を止めた。


 珍しく。


 本当に、止めた。


 一進一退の赤い線が揺れる。


 シンは息を荒げながら、前を睨む。


「進めねえなら」


 シンは低く言った。


「進まねえ」


 一進一退の目が少し動く。


「何?」


「今はな」


 シンは鉄棒を地面に突き立てた。


「俺がここで止まるって、俺が決めた」


 その瞬間、赤い線の光が少し弱まった。


 リンはそれを見逃さなかった。


 一進一退の力は、進むことと退くことを命令の枠に入れる。


 だが、自分で止まるという選択には、少し弱い。


「シン、そのまま!」


「このままって何だ!」


「止まる!」


「止まるの苦手なんだよ!」


「でもできてる!」


「昨日より分かってる!」


 シンは歯を食いしばり、その場に立った。


 彼が赤い線を押さえている間に、リンたちは水路脇の道を抜ける。


 人馬一体の騎馬隊は体勢を立て直しつつある。


 唯命是従は鈴を鳴らし、さらに兵を呼び寄せている。


 長くは持たない。


「全員、夜明け道へ!」


 リンが叫ぶ。


「シン、下がれるか!」


「退くのか!」


「逃げるためじゃない! 次に進むために!」


 シンは一瞬、嫌そうな顔をした。


 だが、すぐに鉄棒を担ぎ直す。


「分かった!」


 一歩下がる。


 一進一退の赤い線が強く光る。


 だが、シンは戻されなかった。


 命令された後退ではない。


 敗走でもない。


 自分で選んだ後退。


「退くのは、負けじゃねえ」


 シンは低く言う。


「次にぶん殴るためだ!」


 リンは笑った。


「それでいい!」


 一行は水路から夜明け道へ駆け込んだ。


 ハヤテは走れないが、カズキに寄り添って歩いている。


 イオは何度も薬草油を塗り直す。


 どんちゃんの行灯が、薄暗い谷道の足元を照らす。


 背後から、朱羽軍の足音が迫る。


 だが、谷道へ入った途端、その足音が少し乱れた。


 鐘の音が遠くなる。


 命令の届き方が弱まったのだ。


 老婆の言っていた通り。


 有明行灯が使った夜明け道は、朱雀女王の命令が届きにくい。


 唯命是従の鈴が鳴る。


 ちりん。


 だが、谷の壁に音が吸われる。


 女王の声がぼやける。


「戻り……なさい……」


 リンの体は重くならなかった。


「効きにくい」


 イオが言う。


「この道なら、薬も作れる」


 カズキはハヤテを見た。


 赤い羽根の光も、少し弱い。


「ハヤテ、もう少しだ」


 黒馬は鼻を鳴らした。


 谷の奥に、古い石灯籠が並んでいる。


 足元だけを照らす小さな灯。


 そこまで来て、リンたちはようやく足を止めた。


 シンはその場に座り込んだ。


「あー、腹立つ!」


「何に?」


 イオが聞く。


「あの一進一退ってやつ! 進んでも戻される!」


「でも、止まれた」


 リンが言う。


 シンはむっとした。


「止まるのは勝ちなのか?」


「今日のところは」


「ならいい」


 カズキはハヤテの横に座り込んだ。


 ハヤテの首に額を当てる。


「半分戻ったどころじゃない」


 リンが言う。


 カズキは頷く。


「あいつは、俺を支えた」


「自分で?」


「ああ」


 カズキの声には、静かな喜びがあった。


「命令の中から、選んだ」


 イオは薬草油の配合を調整し始める。


「夜明け道なら、命令が弱まる。ここで薬を作り直せば、ハヤテも町の人たちも、もう少し自由に動けるかもしれない」


「どれくらいでできる?」


 リンが聞く。


「一晩ほしい」


「分かった」


 シンが言う。


「じゃあ飯は?」


 イオは無言で睨んだ。


「今、それ言う?」


「腹が減ると戦えねえ」


「正論なのが腹立つ」


 どんちゃんが小さく笑った。


「食べられるうちは、まだ大丈夫だねえ」


 リンは谷の出口の方を見た。


 朱雀の塔は見えない。


 だが、確かにそこにある。


 朱羽軍もいる。


 人馬一体。


 一進一退。


 唯命是従。


 そして、その奥の朱雀女王。


 敵の姿が見えてきた。


 こちらも、少しずつ形になってきた。


 カズキとハヤテ。


 イオの薬。


 シンの止まる力。


 どんちゃんの行灯。


 そして、リン自身の選ぶ力。


 まだ弱い。


 まだ迷う。


 それでも、命令に従うためではなく、自分で選ぶために進んでいる。


 夜明け道の小さな灯が、谷の足元を照らしていた。


 その灯の向こうで、朱羽軍の赤い影が立ち止まっている。


 朱雀女王の声が、遠くからかすかに響いた。


「迷い子たち」


 優しい声。


 恐ろしい声。


「夜明けまでに、戻りなさい」


 リンは静かに答えた。


「戻らない」


 誰に命じられたわけでもない。


 自分で選んだ言葉だった。

【後書き】


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


弱肉強食を越えた一行は、次なる四天王・絶対服従の領域へ。


命令に従えば楽になる。

けれど、本当に大切なのは、自分で選ぶこと。


リンたちの旅は、少しずつ世界の核心へ近づいていきます。


感想・評価・ブックマークなどいただけると、とても励みになります。

次回も、腹ぺこ一行の旅にお付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。