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臨機応変の俺と猪突猛進の親友、医食同源の少女と世界を旅する ~四字熟語を背負う者たちの腹ぺこ放浪記~  作者: 凡夫 成


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25/47

25話 薬は毒にもなる

【前書き】


四字熟語が真名になる世界。


臨機応変、猪突猛進、医食同源の三人が、今日も腹を空かせて旅をします。


バトルあり、料理あり、ちょっとした言葉の物語あり。


よろしくお願いします。


 朱雀の厩舎は、赤い光に満ちていた。


 壁に吊るされた灯火。


 床に刻まれた羽根の紋。


 馬房の木枠に巻かれた赤い布。


 すべてが、塔から降る命令の色に染まっている。


 並んだ軍馬たちの背には、赤い羽根の印が焼きついていた。


 その奥。


 黒馬が一頭、静かに立っている。


 額に白い星。


 美しい脚。


 風を切るために生まれたような体。


 カズキの愛馬。


 ハヤテ。


 だが、その背にも赤い羽根があった。


 焼き印は、皮膚の上だけではない。


 もっと深く。


 真名の流れにまで食い込んでいるように光っていた。


「ハヤテ……」


 カズキの声は震えていた。


 黒馬が一歩、こちらへ進む。


 懐かしさではない。


 喜びでもない。


 命令された動き。


 朱雀女王の声が、厩舎の奥から響いた。


「その馬に近づいてはなりません」


 柔らかい声だった。


 怒鳴らない。


 荒げない。


 ただ、当然のように命じる。


「それは、私のものです」


 カズキが槍を握りしめた。


「違う」


 低い声。


「あいつは、誰のものでもない」


 ハヤテの赤い羽根が燃えるように光る。


 次の瞬間、黒馬が駆けた。


 速い。


 狭い厩舎の中とは思えない速度だった。


 床を蹴る音が一つに聞こえる。


 カズキは動けなかった。


 槍を構えている。


 避けることもできる。


 止めることもできる。


 だが、攻撃できない。


 相手は敵ではない。


 相棒だ。


「カズキ!」


 リンが叫ぶ。


 シンが横から飛び込んだ。


「止める!」


 鉄棒を構える。


 だが、カズキが叫んだ。


「傷つけるな!」


「分かってる!」


 シンは鉄棒を振り下ろさなかった。


 代わりに、横向きに構え、ハヤテの進路をずらす。


 黒馬の胸に当てるのではなく、肩の横へ添えるようにして力を逃がす。


 それでも衝撃は重かった。


「ぐっ……!」


 シンの足が床を削る。


 ハヤテは止まらない。


 赤い羽根の印が光るたび、さらに前へ出ようとする。


「馬の力、強え!」


「ハヤテを馬扱いするな!」


 カズキが怒鳴る。


「馬だろ!」


「相棒だ!」


「じゃあ相棒の力、強え!」


 リンは厩舎全体を見回す。


 軍馬たち。


 赤い羽根。


 塔の鐘。


 女王の声。


 命令は、厩舎の壁に刻まれた紋を通じて増幅されている。


 ただ声が届くだけではない。


 この場所そのものが、命令を馬たちへ流し込む装置になっている。


「イオ!」


 リンが振り返る。


 イオはすでに薬草油の小瓶を取り出していた。


「分かってる!」


 彼女の顔は真剣だった。


 油屋でもらった火傷用の薬草油。


 そこへ自分の薬草を混ぜてある。


 赤い羽根の熱を、少しでも抑えるためのもの。


 だが、馬に使ったことはない。


 効く保証もない。


 量を間違えれば、逆に皮膚を傷めるかもしれない。


 イオは小瓶を握る手に力を込めた。


「カズキ、ハヤテの印に直接塗れれば、熱を弱められるかもしれない!」


「できる!」


 カズキが即答する。


「でも近づけない!」


 リンが叫ぶ。


「まず動きを止める。傷つけずに!」


「難しい注文だな!」


 シンがハヤテを受け流しながら言う。


「でもやる!」


 ハヤテは再び旋回した。


 軍馬とは思えないしなやかな動き。


 命令に縛られていても、その身体能力は本物だった。


 カズキの目が痛むように細くなる。


「あんな走り方じゃない」


「何が?」


 リンが問う。


「ハヤテは、もっと自由に曲がる。今のは命令で無理やり角度を変えられている」


 カズキは歯を食いしばる。


「脚を痛める」


 朱雀女王の声が、また響いた。


「良い馬でしょう」


 声は美しい。


 まるで宝石を褒めるように。


「速く、強く、従順。女王の軍馬にふさわしい」


「従順じゃない」


 カズキが言う。


「従わせているだけだ」


「違います」


 女王の声は、優しかった。


「迷う獣に道を与えているのです。命令は、弱き心への慈悲。何をすべきか分からぬ者に、正しき役目を与えるもの」


 リンの胸がざわついた。


 命令は慈悲。


 正しき役目。


 その言葉は、人を傷つける形をしていない。


 むしろ救いのように聞こえる。


 迷う必要はない。


 選ばなくていい。


 正しい道を与えられる。


 リンの足が、ほんの少し重くなる。


「リン」


 イオの声。


 小さく、でも鋭い。


「今、選んで」


 リンは息を吸った。


 そうだ。


 今、自分がすべきこと。


 命令されることではない。


 選ぶこと。


「ハヤテを傷つけずに、命令の流れを弱める」


 リンは口に出した。


「そのために、床の羽根紋を壊す。シンはハヤテを止めずに曲げる。カズキは印へ近づく。イオは油を渡す。どんちゃんは――」


 言いかけて振り返る。


 どんちゃんは、馬房の横で軍馬たちを見ていた。


「どんちゃん?」


「馬は、目がきれいだねえ」


「今それ?」


「うん」


 どんちゃんは一頭の軍馬の鼻先へ手を近づけた。


 その馬は赤い羽根の印を背負っている。


 だが、どんちゃんの手を噛もうとはしなかった。


 むしろ、少しだけ顔を寄せた。


 カズキが驚いた。


「馬に嫌われると言ってなかったか」


「今日は機嫌がいいのかもねえ」


「どんちゃん、軍馬たちを落ち着かせられる?」


 リンが聞く。


「少しだけなら」


「頼む」


「命令じゃなくて?」


 どんちゃんが眠そうに笑う。


 リンは一瞬言葉に詰まり、それから言った。


「お願いだ」


「じゃあ、少しだけ」


 どんちゃんは馬房の間をゆっくり歩き始めた。


 昼行灯の三文字が、淡く光る。


 強い光ではない。


 でも、軍馬たちの目の焦りがわずかに和らいだ。


 リンはそれを見て、改めて思う。


 行灯の真名。


 やはり、ただ弱いだけではない。


 足元だけを照らす灯。


 命令に飲まれた目に、ほんの少しだけ別のものを見せる光。


「行くぞ!」


 シンが叫ぶ。


 ハヤテが三度目の突進に入る。


 カズキは前へ出そうになる。


 だが、リンが腕を伸ばした。


「まだ!」


「分かっている!」


 カズキは止まった。


 自分で止まった。


 その足は震えていたが、前へ飛び出さなかった。


 リンは床の羽根紋を見る。


 命令の流れは、塔側から厩舎の床へ入り、羽根紋を通って馬たちの印へ届いている。


 床の紋を一部壊せば、命令が乱れるはずだ。


 だが、ただ壊せば警報になるかもしれない。


 どこを壊すか。


 どこを残すか。


 選ぶ。


 リンは短剣を構える。


「シン、ハヤテを左へ流して!」


「俺から見てか!」


「ハヤテから見て!」


「分かるか!」


 カズキが叫ぶ。


「俺から見て右だ!」


「それなら分かる!」


 シンが鉄棒を横に構え、ハヤテの突進を受ける。


 正面ではない。


 肩の横に力を当て、走りの向きをずらす。


 黒馬がリンの狙った羽根紋の上を通る。


 その瞬間、リンは床へ短剣を突き立てた。


 赤い光が弾ける。


 厩舎の灯が一斉に揺れた。


 ハヤテの背の赤い羽根が、わずかに弱まる。


「今!」


 イオが薬草油の小瓶をカズキへ投げた。


 カズキは受け取ると同時に走った。


 徒歩。


 馬はない。


 それでも、速い。


 本調子ではない。


 一騎ではない。


 だが、相棒へ届くための足は残っている。


「ハヤテ!」


 カズキが叫ぶ。


 黒馬の耳が動いた。


 ほんの一瞬。


 命令の中から、カズキの声を聞いた。


 だが、赤い羽根が再び光る。


 ハヤテの後脚が跳ねた。


 カズキへ蹴りが飛ぶ。


 カズキは避けない。


「駄目だ、カズキ!」


 リンが叫ぶ。


 シンが飛び込もうとする。


 しかし、カズキは槍を捨てた。


 空いた両手で、ハヤテの脚の動きを受ける。


 完全には止められない。


 肩に衝撃が入り、体が後ろへ飛ぶ。


 それでも、彼は倒れなかった。


「俺だ」


 カズキは低く言った。


「俺だ、ハヤテ」


 黒馬の目が揺れる。


 赤い羽根が燃える。


 命令と記憶が、ぶつかっている。


 朱雀女王の声が、冷たく響いた。


「蹴りなさい」


 ハヤテの体が硬直する。


「主人と思い込む者を、退けなさい」


「主人じゃない」


 カズキが言った。


 彼は震える手で、薬草油の蓋を開ける。


「俺は、お前の上に乗る者だ」


 ハヤテが前足を上げる。


 踏みつける動き。


 カズキは逃げない。


「そして、お前の背を選んだ者だ」


 ハヤテの蹄が落ちる。


 その直前。


 シンが横から体を入れた。


「逃げろって!」


 蹄を鉄棒で受け流す。


 重い音。


 シンの腕が痺れる。


「ぐおっ!」


「邪魔をするな!」


 カズキが怒鳴る。


「踏まれたら終わりだろ!」


「ハヤテは踏まない!」


「命令されてるだろ!」


「それでも踏まない!」


 カズキの声は、信じるというより、祈りに近かった。


 リンは判断する。


 このままでは、カズキが危ない。


 でも、力ずくで引き離せば、ハヤテの心が戻る瞬間を逃す。


 選ぶ。


 何を優先する。


 カズキの安全か。


 ハヤテの解放か。


 どちらもだ。


 リンは息を吸った。


「シン、カズキを守る。でも引き離すな!」


「矛盾してるぞ!」


「矛盾したままやって!」


「難しい!」


「できる!」


 シンは歯を食いしばった。


「やる!」


 リンはイオへ叫ぶ。


「イオ、もう一つ薬草粉!」


「喉を止めるやつ?」


「違う。痛みを散らすやつ!」


「それ、吸いすぎると足元がふらつく」


「少量で!」


「分かった!」


 イオは薬草袋から黄色い粉を取り出した。


「カズキ、目を閉じて!」


 カズキが一瞬だけ従う。


 イオが粉を投げる。


 粉はハヤテの背の赤い羽根の周囲へかかった。


 命令の焼ける熱を散らすための薬。


 同時に、吸いすぎれば体を鈍らせる。


 薬は、使い方を変えれば毒になる。


 毒は、量を選べば薬にもなる。


 イオは唇を噛んだ。


「効いて……!」


 赤い羽根の光が乱れた。


 ハヤテが苦しそうに首を振る。


 カズキはその隙を逃さなかった。


 薬草油を手に取り、ハヤテの背の印の周囲へ塗った。


 直接印へは触れない。


 周囲の熱を冷ますように、慎重に。


 ハヤテの体が震える。


 女王の声が鋭くなる。


「止まりなさい」


 厩舎全体が震えた。


 その命令は、ハヤテだけに向けられたものではなかった。


 リンたちにも届いた。


 止まりなさい。


 動くな。


 考えるな。


 選ぶな。


 リンの体が固まる。


 シンの腕が止まる。


 イオの手が止まる。


 カズキの指も、ハヤテの背の上で止まりかける。


 美しい声が続く。


「迷う必要はありません」


 胸の奥に入り込んでくる。


「従いなさい」


 楽だ。


 従えば楽だ。


 止まればいい。


 動かなければ間違えない。


 選ばなければ傷つかない。


 リンの中の弱さが、その声に頷きかける。


 その時。


 ぱちん、と小さな音がした。


 どんちゃんが、行灯の火打ち石を鳴らしていた。


 いつ拾ったのか分からない。


 小さな火花が、暗い厩舎の床に落ちる。


「足元」


 どんちゃんが言った。


「見た方がいいよ」


 リンは視線を下げた。


 足元。


 自分の足。


 止められているのではない。


 止まるよう命じられているだけだ。


 動くかどうかは、自分で選ぶ。


 リンは歯を食いしばった。


「動く」


 一歩。


 体が重い。


 だが、動いた。


「僕は、動く」


 臨機応変の四文字が光る。


 命令に従うためではない。


 状況に流されるためでもない。


 自分で選んだ動きを通すために。


「みんな!」


 リンが叫んだ。


「止まるかどうか、自分で決めろ!」


 シンの歯が鳴る。


「俺は……」


 腕が震える。


「止まんねえ!」


 猪突猛進が燃え上がる。


 シンは鉄棒を動かし、ハヤテの脚を支え直した。


 イオも息を吸う。


「私は、止めるために動く!」


 薬草袋を握り直す。


 カズキは、ハヤテの背に手を当てたまま言った。


「俺は、お前を選ぶ」


 ハヤテの目に、光が戻った。


 ほんの一瞬。


 だが、確かに。


 カズキを見た。


 朱雀女王の声が冷える。


「逆らうのですね」


「違う」


 リンが言った。


「選んでるんだ」


 女王は少し沈黙した。


 その沈黙は、怒鳴り声よりも怖かった。


「自由は、弱者には重すぎる荷物です」


 声が厩舎の奥から響く。


「あなたたちは、いずれ選ぶことに疲れる。迷い、間違え、誰かを失う。その時、私の命令が救いであると知るでしょう」


 リンは何も返せなかった。


 その言葉は、まだ刺さる。


 きっとこの先も刺さる。


 でも今は、やるべきことを選んでいる。


「カズキ、続けて!」


「分かっている!」


 カズキは薬草油を塗り込む。


 ハヤテの赤い羽根が弱まる。


 完全には消えない。


 だが、燃えるような光が、少しだけ落ち着いた。


「イオ!」


「もう一度、粉を使う!」


 イオが薬草粉を少量、ハヤテの鼻先ではなく、印の周囲へ散らす。


 ハヤテが大きく息を吐いた。


 黒馬の体から力が抜ける。


 倒れそうになる。


 カズキが支えた。


「ハヤテ!」


 黒馬はカズキの肩へ鼻先を寄せた。


 赤い羽根はまだ残っている。


 命令も完全には切れていない。


 それでも、ハヤテはカズキを見ていた。


 自分の意志で。


「戻ったのか?」


 シンが聞く。


 カズキは首を振る。


「まだだ」


 彼はハヤテの首筋を撫でる。


「でも、聞こえている」


 その時、厩舎の扉が開いた。


 赤い羽根の兵たちが入ってくる。


 数は多い。


 さらに、奥には朱雀の紋を刻んだ女官らしき人物が立っている。


 赤い衣。


 冷たい目。


 その背後に、朱雀女王本人はいない。


 だが、女官の口から女王の声が響いた。


「その馬を連れて行くことは許しません」


 リンは周囲を見た。


 正面は兵。


 背後は水路への通路。


 ハヤテはまだ完全には走れない。


 カズキも消耗している。


 戦い続けるのは危険。


 目的はハヤテの完全奪還ではなく、今は命令を弱め、逃げ道を作ること。


 選ぶ。


 リンは一瞬で決めた。


「退く!」


 シンが叫ぶ。


「逃げるのか!」


「ハヤテを連れて一度出る! ここで囲まれたら終わりだ!」


 カズキがハヤテを見る。


「走れるか」


 ハヤテはまだ苦しそうだ。


 だが、カズキの声に小さく鼻を鳴らした。


 カズキの表情が変わる。


「走れる」


「乗れる?」


 リンが聞く。


 カズキはハヤテの背を見た。


 赤い羽根の印。


 まだ熱を持っている。


 無理に乗れば、ハヤテを傷つけるかもしれない。


 カズキは一瞬迷い、それから首を振った。


「今は乗らない」


 シンが笑った。


「選んだな」


「ああ」


「じゃあ俺が運ぶか?」


「誰を」


「馬」


「無理だ」


「やってみる価値は――」


「ない」


 イオが即答した。


 リンは水路側の扉を見る。


「ハヤテを歩かせて通路へ。シンは兵を止める。カズキはハヤテの横。イオは油と粉を持って。どんちゃん、道案内!」


「はーい」


 どんちゃんが先に水路の通路へ向かう。


 女官が冷たく言った。


「逃げる者は、いずれ戻されます」


 赤い羽根の兵たちが一斉に動く。


 シンが前へ出た。


「戻らねえよ!」


 鉄棒を大きく振る。


 兵たちの盾をまとめて押し返す。


 カズキはハヤテの横に立ち、手綱ではなく首筋へ手を添えた。


「こっちだ」


 ハヤテはよろめきながら歩き出す。


 一歩。


 二歩。


 命令で動く軍馬ではない。


 カズキの声を聞いて、自分で歩いている。


 イオが背の印の熱を見ながら言う。


「無理させないで。走らせるのはまだ駄目」


「分かっている」


「本当に?」


「ハヤテのことなら分かっている」


「ならいい」


 リンは最後尾で兵たちを見る。


 女官の口が開いた。


 女王の声が再び響く。


「止まりなさい」


 リンは一瞬だけ足を止めそうになる。


 だが、今度はすぐに踏み出した。


「止まらない」


 自分で言う。


「今は、止まらないと決めた」


 水路への通路に飛び込む。


 シンが最後に入り、扉代わりの板を倒した。


 赤い羽根の兵たちが追ってくる音がする。


 だが、通路は狭い。


 ハヤテを連れて走れない。


 歩くしかない。


 焦りが募る。


「早く!」


 シンが叫ぶ。


「急がせるな!」


 カズキが返す。


「ハヤテの脚がまだ戻っていない!」


「追いつかれるぞ!」


「分かっている!」


 リンは通路の壁を見る。


 古い油壺。


 石の棚。


 細い水路。


「イオ、油を少し」


「火をつけるの?」


「違う。床に撒く」


 イオはすぐに理解した。


「滑らせるんだね」


「うん。追手を止める」


「火を使わないならいい」


 イオは油屋からもらった余りの油を少しだけ床に撒いた。


 リンは棚の古い布を引きずり落とし、床に広げる。


「シン、布を引っ張って!」


「おう!」


 追手が通路へ入ってきた瞬間、シンが布を引いた。


 油を含んだ布が兵たちの足元を滑らせる。


 何人かが転ぶ。


 命令で動きは揃っているが、足元が崩れれば同時に転ぶ。


「うまくいった!」


 シンが笑う。


「笑ってないで行く!」


 リンたちは通路を抜けた。


 外の水路へ出る。


 夕方の赤い空。


 朱雀の塔が遠くに見える。


 ハヤテは水路脇で大きく息を吐いた。


 カズキがその首を抱く。


「よく耐えた」


 黒馬は小さく鼻を鳴らした。


 まだ赤い羽根は消えない。


 でも、その目はさっきよりずっと澄んでいた。


 イオはすぐに印を確認する。


「完全には消えてない。命令が届けば、また苦しむと思う」


「どうすれば消せる」


 カズキが聞く。


「分からない」


 イオは正直に答えた。


「でも、熱を弱めることはできた。もっと薬草油を調整すれば、命令に抗う時間を伸ばせるかもしれない」


「頼む」


「やる」


 シンがハヤテを見て言った。


「こいつ、かっこいいな」


「当然だ」


 カズキが即答する。


「でも今は乗らないんだな」


「ああ」


「何でだ」


「俺が乗りたいから乗るんじゃない。ハヤテが走れる時に乗る」


 シンは少し考えた。


「相棒だからか」


「そうだ」


「じゃあ一騎はまだ戻ってないのか」


 カズキはハヤテの首筋を撫でた。


「まだだ」


 そして、少しだけ口元を緩めた。


「でも、半分戻った」


 リンはその言葉に頷いた。


 完全な勝利ではない。


 ハヤテの印は残っている。


 朱雀女王はまだ塔にいる。


 町の人々も命令に縛られたままだ。


 それでも、一歩進んだ。


 ハヤテは自分の足で、厩舎から出た。


 それは大きな一歩だった。


 どんちゃんが水路の石に座り、眠そうに言う。


「よかったねえ」


 カズキが彼を見る。


「お前の灯も、少し役に立った」


「少しだけね」


「昼行灯にしては」


「ひどいねえ」


 リンは朱雀の塔を見上げた。


 その頂に、赤い鳥の翼の飾りが見える。


 女王本人はまだ姿を見せていない。


 だが、声だけでこれほど厄介だった。


 命令は、リンの中にまだ残っている。


 従えば楽だという誘惑。


 迷わずに済むという甘さ。


 それでも、リンは今日、一歩を選んだ。


 自分で。


 仲間と一緒に。


「次はどうする」


 シンが聞く。


 リンは答えた。


「ハヤテの印を弱める薬を作る。町の人にも使えるようにする。それから、朱雀の塔へ行く」


「正面からか?」


「まだ分からない」


「迷ってるな」


「迷ってる」


 リンは笑った。


「でも、選ぶ」


 イオが頷く。


「うん」


 カズキも槍を握り直した。


「俺も選ぶ。ハヤテに命令を背負わせたままにはしない」


 ハヤテが小さく鼻を鳴らす。


 まるで、それに答えるように。


 赤い空の下、水路の灯が揺れている。


 行灯の小さな光。


 まだ塔を照らすには弱い。


 けれど、足元の道は見える。


 リンたちは、その小さな光を頼りに、朱雀女王との本当の戦いへ向かう準備を始めた。

【後書き】


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


リンは考え、シンは突っ込み、イオは鍋を握る。


そんな三人の旅を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。


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