20話 食われぬ灯
【前書き】
四字熟語が真名になる世界。
臨機応変、猪突猛進、医食同源の三人が、今日も腹を空かせて旅をします。
バトルあり、料理あり、ちょっとした言葉の物語あり。
よろしくお願いします。
弱肉強食の城が、吠えていた。
壁が軋む。
骨の柱が震える。
白い床が波打ち、玉座の間全体が巨大な獣の喉のように鳴っている。
その中心で、白虎が腹から黒い煙を噴き上げていた。
裂かれた腹の奥で、食われた真名たちが光っている。
勇猛果敢。
百戦錬磨。
優勝劣敗。
暴飲暴食。
自暴自棄。
そして、行灯。
その二文字だけが、リンの胸を締めつけていた。
まだ分からない。
昼行灯なのか。
別の何かなのか。
けれど、分からないからこそ、止まれなかった。
「返さん」
弱肉強食の声が響く。
「我が腹に入ったものは、我のものだ」
白虎の金色の目が、リンたちを睨む。
「強きものも、弱きものも、すべて我が腹で一つになる」
「一つじゃねえ」
シンが鉄棒を構えた。
腕からは血が流れている。
イオに巻いてもらったものではなく、リンが応急で縛った薬草布。
もう赤く染まり始めていた。
それでも、シンの目は折れていない。
「食われてるだけだろ」
ムソウが白い刃を構える。
大太刀は抜かれている。
天下無双の刃。
普段の派手な口上とは違い、その姿は静かだった。
花道に立つ役者ではなく、今は道を切り開く剣士だった。
「腹に収めたものを、己の力と呼ぶか」
ムソウは低く言う。
「借り物を咀嚼して強さを語るなど、野暮の極み」
弱肉強食が牙を剥いた。
「借り物ではない。食った時点で、我のものだ」
「違う」
リンが言った。
「その真名たちは、まだ腹の中で抗ってる」
腹の文字が揺れる。
それは苦しみの震えにも見えた。
けれど同時に、抵抗の光にも見えた。
「完全に食えていないから、あなたは何度もその力を使い分ける。消化できていないから、腹の中でぶつかる」
リンは短剣を構え直す。
「弱肉強食。あなたは強いものを食ってるんじゃない」
一歩前へ出る。
「食ったものに、腹の中から食い破られかけてるんだ」
白虎の目が、怒りに染まった。
「小賢しい」
腹の自暴自棄が黒く燃え上がる。
暴飲暴食が脈打つ。
優勝劣敗が床に黒い円を広げる。
勇猛果敢が白虎の足に火を入れる。
百戦錬磨が金色の目に宿る。
行灯が、玉座の間をぼんやりと霞ませる。
すべて同時。
弱肉強食は、食った真名をまとめて使おうとしていた。
リンは叫ぶ。
「来る!」
白虎が消えた。
いや、消えたように見えた。
行灯の薄い光が、白い毛皮と床を混ぜる。
姿の輪郭がぼやける。
足音も遠い。
右にも左にも、前にも後ろにもいるように感じる。
その霞の中から、巨大な爪が現れた。
狙いはシン。
「見えてる!」
シンは鉄棒を斜めに構えた。
正面から受けない。
受け流す。
爪が鉄棒を削り、火花が散る。
シンの足が滑る。
だが倒れない。
「昨日より分かってる!」
「その調子!」
リンは床の模様を見る。
優勝劣敗の円が、シンの足元へ広がろうとしている。
力比べに持ち込むつもりだ。
「シン、そこから出ろ!」
「こいつが邪魔だ!」
白虎がさらに押し込む。
シンの足元の赤い光が、黒い円に飲まれ始める。
リンが走る。
だが、百戦錬磨で読まれている。
床から牙が突き出す。
リンの行く先を塞ぐように。
「読まれてる!」
リンは体をひねり、牙を避ける。
避けた先に、さらに牙。
白虎はすでにそこまで読んでいた。
ムソウが花道を駆けるように割り込んだ。
白い刃が牙を払う。
「リン、考えすぎるな!」
「ムソウさんに言われるとは!」
「たまには勢いも要る!」
「それはシンの役目です!」
シンが叫ぶ。
「呼んだか!」
「呼んでない!」
だが、そのやり取りで、ほんの一瞬だけ三人の呼吸が合った。
リンは気づく。
弱肉強食は、個々の動きは読める。
リンの判断。
シンの突進。
ムソウの立ち位置。
百戦錬磨でそれらを読む。
けれど、三人が互いにずれ、補い、変化すると読み切れない。
一人の強さではない。
三人の揺らぎ。
臨機応変。
猪突猛進。
天下無双。
それぞれの真名が、完全には噛み合わないからこそ、弱肉強食の読みから外れる。
「合わせすぎないで!」
リンが叫んだ。
シンが眉をひそめる。
「どういう意味だ!」
「いつも通りでいい!」
「なら分かる!」
ムソウが笑う。
「なんとも雑な策よ!」
「相手が読みすぎるなら、雑さも武器です!」
「よい!」
シンが正面から踏み込む。
白虎は読んでいた。
当然、真正面から来る。
だから爪を置いた。
だが、シンは途中で止まった。
「止まった?」
弱肉強食の目がわずかに揺れる。
シンは笑う。
「最近、止まれる」
次の瞬間、ムソウが横から入った。
白い刃が、白虎の爪の根元を打つ。
斬るのではない。
角度を変える。
爪の軌道がずれる。
リンはその下を滑り込み、床の黒い円へ短剣を突き立てた。
円が崩れる。
シンが再び動いた。
「今度は行く!」
鉄棒が白虎の胸にめり込んだ。
弱肉強食の巨体が後ろへ下がる。
腹の文字が激しく揺れた。
「ぐ……!」
初めて、白虎が苦しそうな声を漏らした。
シンが笑う。
「効いたな」
「効かぬ!」
弱肉強食が咆哮する。
腹の自暴自棄が黒く光り、受けた痛みを怒りに変える。
白虎の体がさらに膨れ上がった。
だが。
その腹の裂け目が広がる。
食った真名たちの光が、さらに漏れ出した。
「自暴自棄で強くなってるけど、腹も壊れてる!」
リンが叫ぶ。
「なら、もっと壊す!」
シンが言う。
「違う! 裂け目を広げるけど、真名は傷つけない!」
「難しい!」
「ムソウさん!」
「任せよ!」
ムソウが前へ出る。
弱肉強食は彼を見た。
「天下無双。お前は我に似ている」
ムソウの足が止まる。
白虎は低く続ける。
「強きものは一匹で立つ。隣など不要。守るものなど重荷。群れる者は弱い」
「昔のわしなら、少しは頷いたかもしれぬな」
ムソウは白い刃を下げた。
「だが、今は違う」
「何が違う」
「同じ鍋を食った」
ムソウは笑った。
「芝居を一人では守れぬと知った。花道は、見物人と裏方と仲間あってこそ咲くと知った」
「弱くなったな」
「そうかもしれぬ」
ムソウは一歩踏み出す。
「だが、不思議と前より立ちやすい」
天下無双の四文字が、白く輝いた。
激しくではない。
静かに。
揺らぎながらも、消えない光。
「誰にも並ばれぬ名であっても、同じ舞台に立つことはできる」
ムソウは刃を構える。
「それを教わった」
白虎が吠える。
「くだらぬ!」
巨大な爪がムソウへ振り下ろされる。
ムソウは避けない。
一人ならば、完全に受け流せる。
だが今、彼は一人ではない。
「シン!」
「おう!」
シンが横から爪へ鉄棒を叩き込む。
爪の重さが半分逸れる。
「リン!」
「こっちです!」
リンが床の溝へ短剣を差し込み、白虎の足場をわずかに沈ませる。
爪の角度がさらにずれる。
その隙間を、ムソウの白い刃が通った。
狙いは腹。
真名ではない。
真名を縛る黒い膜。
「咲け!」
ムソウの刃が、黒い膜を大きく斬り裂いた。
白虎が絶叫した。
腹の中から、光が噴き出す。
勇猛果敢の文字が、裂け目から浮かび上がる。
次に、百戦錬磨。
暴飲暴食。
自暴自棄。
優勝劣敗。
だが、弱肉強食はまだ離さない。
黒い牙のような影が、文字たちを腹へ引き戻そうとする。
「返さん!」
白虎が吠える。
「我が食った! 我が勝った! ならば我のものだ!」
その声に、遠くから別の声が重なった気がした。
石門町。
麓の町。
イオの声。
実際に聞こえたわけではない。
だが、リンには確かに感じた。
広場の大鍋。
湯気。
粥を食べる母親。
水を飲む老人。
泣きながら器を握る子ども。
それを支える一座。
イオは戦場にはいない。
でも、彼女は戦っている。
弱肉強食が食う価値もないと捨てた者たちを、食べさせ、生かしている。
その命が、弱肉強食の城を揺らしている。
玉座の間の床に、ひびが入った。
白虎の目が見開かれる。
「何だ」
また、床が揺れる。
壁に浮かぶ真名の欠片が、わずかに明るくなる。
「なぜだ」
弱肉強食が唸る。
「下の町で、弱者が立ってる」
リンは言った。
「あなたが捨てた人たちが、まだ生きてる」
「弱き者が立つなど、あり得ぬ」
「立つよ」
シンが鉄棒を握り直す。
「飯食ったからだろ!」
リンは一瞬だけ笑いそうになった。
でも、その言葉は正しかった。
単純で。
シンらしくて。
そして、弱肉強食の理に真っ向から反していた。
食われるだけの者などいない。
食べれば立てる。
支えれば歩ける。
弱いまま終わるとは限らない。
「ふざけるな!」
白虎が吠える。
「弱き者は、弱きまま死ぬ! 強き者に食われる! それが世界だ!」
「状況は変わる」
リンが言った。
「昨日の弱者が、今日誰かを支えることもある」
「あり得ぬ!」
「ある」
リンの背中に、臨機応変の四文字が輝く。
「僕たちは、それを見てきた」
シンが続く。
「一人じゃ無理でも、みんななら水路だって直せる」
ムソウが続ける。
「一輪だけでは、花畑にはならぬ」
リンが最後に言った。
「強いことと、食うことは違う」
白虎が動く。
最後の突進。
勇猛果敢。
百戦錬磨。
優勝劣敗。
自暴自棄。
暴飲暴食。
行灯。
すべての光が腹で暴れ、白虎の体を包む。
霞が広がり、床に黒い円が浮かび、牙が生え、影の虎が生まれ、爪が巨大化する。
弱肉強食の全力。
食った真名すべてを燃料にした、最後の一撃。
「来る!」
リンが叫ぶ。
シンが前へ出る。
「俺が止める!」
「一人で止めるな!」
リンが叫び返す。
「分かってる!」
シンは鉄棒を構える。
正面から受ける。
ただし、一人ではない。
ムソウが横に立つ。
「半分持とう」
「助かる!」
ムソウの刃が、白虎の爪の力を横へ逃がす。
シンの鉄棒が、牙の下へ入る。
リンが床の黒い円を読み、弱い場所へ短剣を突き立てる。
三人の力が、白虎の突進を受け止めた。
衝撃。
城が揺れる。
玉座の間の柱が折れる。
床が砕ける。
シンの足が沈む。
ムソウの腕が震える。
リンの短剣が折れかける。
それでも、三人は離れない。
「なぜだ!」
弱肉強食が叫ぶ。
「なぜ食われぬ!」
「食われるために来たんじゃねえ!」
シンが叫ぶ。
「吐かせるために来たんだ!」
「ムソウさん!」
リンが叫ぶ。
「今!」
ムソウが白い刃を構え直す。
シンが牙を押し上げる。
リンが黒い円を完全に砕く。
白虎の腹が開いた。
裂け目の奥で、食われた真名たちが光る。
ムソウは大きく息を吸った。
「天下無双」
白い光が刃に宿る。
「一人では咲けぬと知った今」
ムソウの目が静かに輝く。
「この一太刀、皆で咲かせる!」
刃が走った。
黒い膜を断ち切る。
腹の中に縛られていた真名たちが、一斉に解放された。
光が噴き出す。
勇猛果敢。
百戦錬磨。
質実剛健。
一騎当千。
暴飲暴食。
自暴自棄。
優勝劣敗。
数え切れないほどの四文字熟語が、白虎の腹から空へ舞い上がる。
玉座の間が、光で満たされた。
檻のある広間からも、叫び声が聞こえる。
苦痛ではない。
解放の声だった。
弱肉強食が身をよじる。
「返せ!」
白虎は爪を伸ばす。
「我のものだ! 我が食った! 我が勝った!」
リンは解放される真名たちの中に、あの文字を探した。
行灯。
どこだ。
どんちゃんなのか。
昼行灯なのか。
光の中に、ふわりと二文字が浮かぶ。
行灯。
シンが息を呑む。
「どんちゃん……!」
「待て」
リンは目を凝らした。
今度は、前後が見えた。
黒い膜が剥がれ、隠れていた文字が完全に現れる。
有明行灯。
リンは固まった。
「……違う」
シンが振り返る。
「何が」
「昼行灯じゃない」
リンは呟いた。
「有明行灯だ」
ムソウも目を見開いた。
「有明……行灯」
有明の薄明かりに灯る行灯。
夜明け前の、消え残る灯。
どんちゃんの昼行灯ではない。
別の真名。
別の誰か。
弱肉強食に食われた、別の灯。
シンの力が抜けた。
「じゃあ」
鉄棒を握る手が震える。
「あいつは……どんちゃんは……」
その時。
背後から、眠そうな声がした。
「呼んだ?」
三人が振り返った。
玉座の間の入口。
崩れかけた白い扉の前に、くたびれた旅人が立っていた。
眠そうな目。
頼りない姿勢。
武器も持たず、荷物も少ない。
背中には、三文字。
昼行灯。
どんちゃんが、そこにいた。
「どんちゃん!」
シンが叫んだ。
その声は怒鳴り声だったが、半分は安堵だった。
「お前、生きてたのかよ!」
どんちゃんは首を傾げる。
「うん」
「どこ行ってた!」
「散歩」
「長すぎるだろ!」
「道が混んでてねえ」
「山道だぞ!」
「そうだねえ」
シンは鉄棒を握ったまま、怒った顔で近づく。
「食われたかと思っただろうが!」
どんちゃんは少しだけ目を丸くした。
そして、困ったように笑った。
「それは、ごめんねえ」
いつもなら、もっと茶化したかもしれない。
でも、その声は少しだけ本当に申し訳なさそうだった。
シンは何か言おうとして、言葉に詰まった。
結局、怒ったように背を向ける。
「飯抜きだ」
「それは困るねえ」
「働いてねえから当然だ」
「少し歩いたよ」
「それは働いたうちに入らねえ!」
リンはどんちゃんを見た。
「どんちゃん」
「何かな」
「どこまで見てた」
「少しだけ」
「弱肉強食を?」
「うん」
どんちゃんは白虎を見る。
弱肉強食は、腹を裂かれ、真名を吐き出し、巨体を震わせていた。
それでもまだ、立っている。
金色の目がどんちゃんへ向く。
「三文字」
低い声。
「お前……」
どんちゃんは、いつものように笑う。
「弱そうでしょ」
白虎の目が細くなる。
「食う価値もない」
「よかった」
どんちゃんは本気とも冗談ともつかない声で言った。
リンは、そのやり取りに違和感を覚えた。
弱肉強食は、どんちゃんを食う価値がないと言った。
けれど、その目には一瞬だけ警戒があった。
なぜだ。
どんちゃんはただの昼行灯なのか。
それとも。
「リン!」
ムソウの声で、リンは我に返った。
弱肉強食が最後の力を振り絞っていた。
腹から真名を失った白虎は、明らかに小さくなっている。
それでも牙は鋭く、爪は巨大だ。
「まだ終わってない!」
リンは短剣を構える。
どんちゃんは、いつの間にか少し離れた場所へ移動していた。
「頑張ってねえ」
「手伝え!」
シンが叫ぶ。
「僕は弱いからねえ」
「帰ってきてもそれか!」
弱肉強食が咆哮した。
今度は真名の力ではない。
ただの白虎としての、最後の突進。
食った力を失っても、四天王の一角。
その巨体だけで十分に脅威だった。
「来るぞ!」
ムソウが叫ぶ。
シンは前に立つ。
腕は傷だらけ。
足も震えている。
それでも、退かない。
「リン、ムソウ!」
「分かってる!」
「承知!」
シンが白虎の突進を受ける。
今度は正面からではない。
鉄棒を斜めに当て、力を横へ流す。
ムソウが逆側から刃を添え、爪を外へ逃がす。
リンが白虎の足元へ走り、崩れた床の亀裂へ折れかけの短剣を突き立てる。
白虎の足が沈む。
巨体が傾く。
「今だ!」
シンが叫ぶ。
ムソウが白虎の前へ出る。
白い刃を返す。
斬るのではなく、打つ。
刃の峰が、白虎の額を叩いた。
天下無双の光が走る。
弱肉強食の巨体が、ついに膝をついた。
城が大きく揺れる。
白い壁にひびが入る。
玉座が砕ける。
白虎の体から、黒い煙が抜けていく。
「我が……食われるのか……」
弱肉強食が掠れた声で言った。
シンは荒い息を吐きながら答える。
「食わねえよ」
白虎の目が動く。
「なぜ……勝者は敗者を食うもの……」
「まずそうだし」
リンが思わず言う。
「理由それか」
「あと」
シンは鉄棒を肩に担いだ。
「食うために倒したんじゃねえ」
リンが白虎を見た。
「これ以上、食わせないために倒した」
ムソウが扇を広げる。
「強き者が弱きを食う。それがお前の舞台なら」
彼は静かに言った。
「つまらぬ芝居だった」
弱肉強食の金色の目から、光が消えていく。
「弱き……者が……立つ……など……」
白虎の体が崩れ始める。
白い毛皮が灰になり、黒い縞が煙になる。
巨大な牙が砂のように砕ける。
最後に残ったのは、黒く歪んだ四文字。
弱肉強食。
その文字も、ひび割れた。
「飢えは……終わらぬ……」
それが最後の声だった。
四文字が砕け、光になって散った。
玉座の間に静寂が戻る。
いや、完全な静寂ではない。
城のあちこちから、檻が壊れる音が聞こえた。
遠くで、人々の声が上がる。
食われかけていた真名たちが解放され、閉じ込められていた者たちが戻り始めている。
リンは膝をついた。
全身の力が抜ける。
「終わった……」
シンもその場に座り込んだ。
「腹減った」
「今それか」
「生きてる証拠だ」
「それは、まあ」
ムソウは大太刀を鞘に収めた。
その背中の天下無双は、静かに光っている。
強すぎる一人の光ではなく、誰かと同じ舞台に立った後の光だった。
「勝ったな」
ムソウが言う。
「はい」
リンは頷いた。
「でも、町へ戻らないと」
「そうだな」
シンが立ち上がろうとして、ふらついた。
「痛っ」
「腕を見せろ」
リンが言う。
「イオに見せる」
「その前に止血する」
「じゃあ早く帰ろうぜ」
「急に素直だな」
「飯もある」
「それが本音か」
どんちゃんが近づいてきた。
いつも通り、のんびりした足取りだった。
「みんな、ぼろぼろだねえ」
シンが睨む。
「お前は何で無傷なんだ」
「逃げるのが上手いからねえ」
「少しは戦え」
「僕は弱いから」
「そればっかりだな」
リンはどんちゃんを見る。
「有明行灯」
どんちゃんの足が、ほんの少しだけ止まった。
本当に、ほんの少し。
「知ってるのか?」
リンが聞く。
どんちゃんは、いつもの眠そうな顔で答えた。
「聞いたことはあるかもねえ」
「どんな真名だった」
「夜明け前まで消えずに残る灯」
どんちゃんは砕けた玉座の間を見た。
「明るくはないけど、真っ暗でもない。朝が来るまで、少しだけ人を迷わせずにいる灯」
「どんちゃんとは違うんだな」
シンが言う。
「僕は昼行灯だからねえ」
「役に立たねえ方か」
「ひどいねえ」
どんちゃんは笑った。
だが、リンにはその笑みが、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
有明行灯。
食われた灯。
どんちゃんは、本当に知らないのか。
それとも、知っているのか。
今は聞けなかった。
城が大きく揺れた。
リンが顔を上げる。
「崩れる!」
ムソウが叫ぶ。
「急ぐぞ!」
「檻の人たちは?」
シンが言う。
「解放されてるはずだ。途中で合流する」
リンは立ち上がった。
「動ける人を連れて、町へ戻る!」
「おう!」
三人とどんちゃんは、玉座の間を出た。
白い城は、もう生き物の腹ではなかった。
壁の文字は消え、床の脈打つ感覚もない。
ただ、崩れかけた白い骨の城になっている。
檻のあった広間では、閉じ込められていた者たちが倒れながらも外へ出ようとしていた。
一騎当千の男。
百戦錬磨の女。
勇往邁進の若者。
みな衰弱している。
だが、生きている。
「歩けるか!」
リンが声をかける。
一騎当千の男が頷いた。
「……虎は?」
「倒した」
シンが答える。
広間に、信じられないという沈黙が落ちた。
そして、誰かが泣いた。
「帰れる……」
「町へ……」
「まだ、名がある……」
ムソウは声を張った。
「動ける者は、動けぬ者を支えよ! この城は崩れる! だが、花道は出口まで続いておる!」
「花道?」
誰かが呆然と呟く。
シンが言う。
「とにかく出るぞ!」
それが一番伝わった。
リンたちは、解放された人々を連れて城を下りた。
途中、崩れる柱をシンが支えた。
ムソウが落ちてくる瓦礫を斬り払った。
リンが道を選び、危ない床を避けた。
どんちゃんは、なぜか一番歩くのが遅い老人の隣にいた。
「こっちの道、たぶん崩れにくいよ」
「分かるのか?」
「何となく」
老人はその言葉に従った。
実際、その道は最後まで崩れなかった。
リンはまた、どんちゃんを見た。
何となく。
その言葉の中に、どれだけのものが隠れているのか。
城を出た時、白首山の上に夕日が差していた。
白い城は背後で崩れていく。
牙の塔が折れ、獣の口のような門が崩れ、白い壁が砂のように山へ戻っていく。
弱肉強食の城は、山から消えていった。
石門町へ戻ると、広場には湯気が上がっていた。
イオの大鍋。
一座の炊き出し。
町人たちの声。
子どもたちの泣き声と笑い声。
怪我人を寝かせた布。
水を運ぶ役者。
瓦礫を片付ける裏方。
ミツが小さな器を両手で持って、子どもたちに粥を配っている。
イオは鍋の前で振り返った。
リンたちの姿を見た瞬間、目を見開く。
「帰ってきた!」
その声で、広場中が振り向いた。
シンが手を上げる。
「腹減った!」
イオの顔が怒りと安堵でぐちゃぐちゃになった。
「まず怪我!」
「飯は?」
「怪我!」
「はい」
シンは素直に座った。
リンもその場に腰を下ろした。
ムソウは一座の者たちに囲まれる。
「ムソウ様!」
「ご無事で!」
「城は?」
ムソウは大きく息を吸い、扇を広げた。
「弱肉強食の城、落ちたり!」
広場に歓声が上がった。
泣く者。
笑う者。
座り込む者。
抱き合う者。
解放された町人たちが戻ったことで、石門町の空気が変わった。
壊れた町。
食われた町。
それでも、まだ終わっていない町。
イオはシンの腕を見て、眉を吊り上げた。
「何これ」
「かすり傷」
「嘘」
「ちょっと深いかすり傷」
「かすり傷じゃない」
リンが横から言う。
「止血はしました」
「応急としては悪くない。でも、無茶しすぎ」
「すみません」
「リンも座って。顔色悪い」
「僕も?」
「当然」
ムソウが近づく。
「イオ、わしも少々」
「少々じゃないですね」
「天下無双だから」
「関係ありません」
「はい」
ムソウも素直に座った。
どんちゃんは、いつの間にか鍋の前に座っていた。
「いい匂いだねえ」
イオが目を丸くする。
「どんちゃん!」
「ただいま」
「どこ行ってたの!」
「散歩」
シンが叫ぶ。
「こいつの散歩は長い!」
イオはじっとどんちゃんを見る。
「心配したんだから」
どんちゃんは、少しだけ困った顔をした。
「それは、ごめんねえ」
イオはため息をつき、器に粥をよそった。
「働いてないから少なめ」
「うん」
「今日は文句言わないの?」
「今日はそれでいいよ」
どんちゃんは器を受け取った。
そして、湯気の立つ粥をゆっくり食べた。
「温かいねえ」
「当たり前でしょ」
イオが言う。
「うん」
どんちゃんは小さく頷いた。
「それがいいんだよねえ」
その夜。
石門町の広場では、壊れた町の真ん中に小さな灯りがいくつも灯った。
行灯。
松明。
焚き火。
どれも弱々しい。
だが、真っ暗ではなかった。
有明行灯の真名を持っていた誰かの光も、きっとどこかで夜明け前の道を照らしていたのだろう。
リンはそう思った。
弱肉強食は倒れた。
食われた真名は解放された。
全員が元通りになるわけではない。
失われたものは多い。
壊れた家は戻らない。
死んだ者もいる。
食われた真名の中には、もう人の姿へ戻れないものもあった。
それでも。
町では粥が配られている。
人々は食べている。
泣きながらでも、食べている。
食べて、生きようとしている。
シンが隣で器を抱えて言った。
「弱いって、何なんだろうな」
リンは少し驚いてシンを見る。
「珍しく難しいことを言うな」
「俺だって考える」
「そうだな」
「食われたら弱いのか」
「違うと思う」
「じゃあ、食うやつが強いのか」
「それも違う」
リンは広場を見る。
イオが怪我人を診ている。
ムソウが一座と町人たちに囲まれている。
どんちゃんが粥を少しずつ食べている。
「強いって、誰かを立たせられることかもしれない」
シンは少し考えた。
「飯みたいだな」
「そうかもな」
「じゃあイオが一番強いのか」
リンは笑った。
「ある意味では」
少し離れた場所で、イオがこちらを睨んだ。
「何か言った?」
「何でもない!」
シンが即答した。
ムソウが大笑いする。
「医食同源、恐るべし!」
「ムソウさんも薬を塗ります」
「今か!」
「今です」
「はい」
広場に笑い声が戻る。
まだ弱い。
まだ傷だらけ。
でも、町は立ち上がり始めていた。
リンは空を見上げた。
山の上に、もう城はない。
白首山は、ただ白い岩肌を夕闇に沈めている。
その道の先には、まだ四天王がいる。
絶対服従。
疑心暗鬼。
生殺与奪。
そして、八文字の王。
天上天下唯我独尊。
まだ遠い。
けれど、今は。
鍋の湯気と、小さな灯りがあればいい。
どんちゃんが隣に座って、ぽつりと言った。
「食われぬ灯も、あるんだねえ」
リンは彼を見る。
「どんちゃん」
「何かな」
「君は、何を知ってるんだ」
どんちゃんは、いつもの眠そうな顔で笑った。
「少しだけ」
「いつか話してくれる?」
「たぶんねえ」
「たぶんか」
「昼行灯だからねえ」
リンはため息をついた。
「便利に使うな」
「リンも臨機応変を便利に使うでしょ」
「それは否定できない」
どんちゃんは粥を一口食べた。
「温かい」
「そうだな」
「食べられるうちは、まだ大丈夫だよ」
その言葉は、軽く聞こえた。
でも、リンの胸には残った。
弱肉強食の城が消えた夜。
石門町には、小さな灯りが残った。
食われなかった灯。
消えずに残った灯。
そして、三人と一人の旅は、また次の朝へ向かって続いていく。
【後書き】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
リンは考え、シンは突っ込み、イオは鍋を握る。
そんな三人の旅を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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