19話 食われた灯
【前書き】
四字熟語が真名になる世界。
臨機応変、猪突猛進、医食同源の三人が、今日も腹を空かせて旅をします。
バトルあり、料理あり、ちょっとした言葉の物語あり。
よろしくお願いします。
行灯。
白虎の腹に浮かんだ、その二文字が、リンの目に焼きついていた。
昼行灯。
どんちゃん。
花道宿を出てから姿を見せない、眠そうな旅人。
飯の匂いがすれば、いつの間にか鍋の前に座っていた男。
働かず、寝てばかりで、でも時々妙に核心を突く男。
その名の一部が、弱肉強食の腹にある。
リンは自分に言い聞かせる。
まだ分からない。
見えたのは「行灯」だけだ。
昼行灯とは限らない。
けれど。
どんちゃんはいない。
黒い獣を見たと言って、消えた。
そして、目の前の白虎は笑っている。
「弱き灯であった」
弱肉強食の声が、玉座の間を震わせた。
その一言が、シンの中の何かを切った。
「てめえええ!」
シンが飛び出した。
リンが叫ぶ。
「待て、シン!」
だが、もう遅い。
シンの背中に、猪突猛進の四文字が赤く燃え上がる。
まっすぐ。
ただ、まっすぐに。
白虎の巨大な顔面へ向かって突っ込んだ。
「どんちゃんはなあ!」
鉄棒を振り上げる。
「働かねえし!」
振り下ろす。
白虎の爪が受け止める。
「飯ばっか食うし!」
二撃目。
今度は牙に弾かれる。
「すぐ消えるし!」
三撃目。
白虎の頬をかすめる。
「何考えてるか分かんねえけどよ!」
シンの足が床を砕く。
勢いだけなら、今までで一番だった。
怒り。
悲しみ。
焦り。
全部を力に変えて、白虎へ叩きつけている。
「食っていいやつじゃねえんだよ!」
鉄棒が白虎の鼻先に当たった。
鈍い音が響く。
弱肉強食の頭がわずかに揺れた。
だが、白虎は笑った。
「よい」
腹の文字が黒く光る。
自暴自棄。
「その怒り、よく肥えている」
白虎の毛皮から黒い煙が噴き出す。
シンの鉄棒が当たった場所から、逆に力が吸われるように見えた。
「シン、離れろ!」
リンが叫ぶ。
シンは聞こえていない。
「まだだ!」
さらに踏み込む。
白虎の腹で、優勝劣敗が光った。
床に黒い円が浮かぶ。
勝負の場。
シンと弱肉強食だけを中心にした、力比べの領域。
「またそれか!」
リンは短剣を握って走る。
だが、今度は円が広い。
近づくだけで、背中の臨機応変が重くなる。
勝つか負けるか。
強いか弱いか。
そのどちらかに押し込もうとする圧が、全身に絡みつく。
シンは円の中で白虎と正面から押し合っていた。
「負けるかよ!」
「負けよ」
弱肉強食は低く笑う。
「怒りに任せて突っ込む者は、いずれ餌となる」
シンの赤い文字が、少しずつ暗くなっていく。
リンは歯を食いしばった。
「ムソウさん!」
返事はない。
振り向くと、ムソウもまた、白虎の腹を見つめていた。
行灯。
その二文字。
彼の顔から、いつもの派手な笑みが消えている。
「昼行灯……」
ムソウが低く呟く。
「同じ鍋を囲み、同じ道を歩いた者を……」
背中の天下無双が白く燃え上がる。
だが、その光は、どこか乱れていた。
「野暮な虎め」
ムソウが大太刀の柄へ手をかける。
リンは目を見開いた。
「ムソウさん、抜く気ですか!」
「斬る」
「駄目です! 怒りに任せたら、白虎の自暴自棄に食われる!」
「知ったことか」
ムソウの声が低い。
危険だ。
リンはそう思った。
ムソウは強い。
一人で立てば、誰よりも強い。
だが今は、怒りと守れなかったかもしれない悔しさに飲まれている。
どんちゃんを守れなかった。
食われたかもしれない。
そう思った瞬間、天下無双の真名が揺れている。
白虎はそれを見ていた。
「天下無双」
弱肉強食が囁く。
「怒れ。強き者が奪われる屈辱を知れ」
「黙れ」
「怒りはうまい。孤独はさらにうまい。お前の真名は、我が腹にふさわしい」
ムソウが踏み出す。
リンは前に立った。
「ムソウさん!」
「どけ、リン」
「どきません」
「今のわしは、止まれぬぞ」
「止まってください」
「なぜだ!」
ムソウの声が響く。
「同じ鍋を囲んだ者が食われたかもしれぬ! ならば怒るのが筋であろう!」
「怒っていい!」
リンは叫び返した。
「でも、食われに行くのは違う!」
ムソウの動きが止まる。
リンは続けた。
「まだ決まってない。行灯しか見えてない。どんちゃんだとは限らない」
「だが、あやつは消えた」
「だからこそ、確かめるんです」
リンは白虎を見た。
「弱肉強食は、こっちを乱したい。怒らせたい。真名を暴走させたい」
白虎は笑っている。
まさに、その通りだと言うように。
「シンも今、食われかけてる」
リンは円の中を指した。
シンの赤い文字が、さらに薄くなっている。
それでも、シンは白虎と力比べを続けていた。
「どんちゃんを助けたいなら、まずシンを助ける」
ムソウの目が揺れた。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
「……役割を分ける、か」
ムソウが呟く。
「はい」
リンは頷く。
「僕が円を崩します。ムソウさんは白虎の視線を奪ってください」
「シンは?」
「シンは、たぶん自分で戻ってきます」
「戻らなかったら?」
「殴ってでも戻します」
ムソウは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「臨機応変にしては乱暴だな」
「相手が猪突猛進なので」
「なるほど」
ムソウは大太刀から手を離した。
代わりに扇を広げる。
「では、花道を作ろう」
その声に、少しだけいつもの響きが戻った。
ムソウが黒い円の外へ歩き出す。
白虎の目が動く。
「怒りを捨てるか、天下無双」
「捨てぬ」
ムソウは扇を掲げる。
「怒りもまた、舞台の熱よ」
白い真名が輝く。
「だが、熱に焼かれて踊るほど、わしは野暮ではない!」
ムソウが見得を切る。
玉座の間に、ぱん、と扇の音が響いた。
その音に、白虎の視線が一瞬だけムソウへ向く。
リンは走った。
黒い円の縁へ。
前回と同じように模様を削ろうとする。
だが、今度の円は硬い。
短剣が弾かれる。
「くっ」
弱肉強食が笑う。
「同じ手が通じると思うか」
「思ってない」
リンは短剣をしまった。
代わりに、床の溝を見た。
優勝劣敗の領域は、円そのものが本体ではない。
床下を流れる黒い力が、勝負の場を形作っている。
それなら。
「シン!」
リンが叫ぶ。
「聞こえたら、足元を叩け!」
「うるせえ!」
シンは白虎と押し合いながら叫び返した。
「今忙しい!」
「足元だ!」
「後にしろ!」
「今だ!」
シンは舌打ちした。
「分かったよ!」
白虎の爪を受け止めたまま、片足で床を踏み抜く。
猪突猛進の力が地面へ走る。
黒い円が揺れた。
リンはその揺れを見逃さない。
床の溝が一瞬だけ浮かび上がる。
そこへ、イオから預かった薬草袋の中にあった鉄の留め具を突き込んだ。
力の流れが乱れる。
円の端に亀裂が入る。
「ムソウさん!」
「心得た!」
ムソウの扇が円の反対側を打つ。
白い光が走る。
黒い円が砕けた。
シンの背中に、赤い色が戻る。
「離れろ!」
リンが叫ぶ。
今度はシンも聞いた。
鉄棒を斜めに流し、白虎の力を横へ逃がす。
弱肉強食の巨体が前へつんのめる。
シンは後ろへ転がり、円の外へ出た。
「危ねえ」
「危なかったのはこっちの心臓だ!」
リンが言う。
シンは肩で息をしながら、白虎を睨む。
「でも、まだ殴り足りねえ」
「怒りに任せるな」
「無理だ」
「無理でもやれ」
シンは歯を食いしばった。
目はまだ燃えている。
だが、さっきのように何も見えなくなっているわけではない。
「……どんちゃんかもしれねえんだぞ」
「分かってる」
リンは言った。
「だからこそ、確かめる」
「食われてたら?」
「吐き出させる」
「死んでたら?」
リンは一瞬だけ黙った。
その沈黙が、答えになってしまった。
シンの拳が震える。
ムソウも扇を握り直す。
白虎は満足そうに喉を鳴らした。
「よい顔だ」
腹の自暴自棄が再び光る。
「怒り、恐れ、喪失。どれもよい餌だ」
リンは息を吸った。
「その言葉に乗るな」
自分にも言い聞かせる。
「僕たちは、どんちゃんを餌にするために怒ってるんじゃない」
シンがリンを見る。
「何だよ、それ」
「分からない。でも」
リンは弱肉強食を見据えた。
「怒りをあいつに食わせたら、どんちゃんが本当に食われたことになる気がする」
ムソウが静かに頷いた。
「同じ鍋を囲んだ者を、虎の餌にしてはならぬ」
「ああ」
シンは鉄棒を構え直した。
「じゃあ、怒りは俺のまま殴る」
「殴るのは変わらないんだな」
「変わらねえ」
「でも、少しは考えろ」
「昨日より分かってる」
「本当に頼むぞ」
白虎が咆哮した。
玉座の間の壁が震える。
腹に浮かぶ真名たちが次々に光る。
勇猛果敢。
百戦錬磨。
暴飲暴食。
優勝劣敗。
自暴自棄。
そして、行灯。
その二文字が揺れた瞬間、玉座の間の光がぼやけた。
リンの視界が霞む。
白虎の姿が滲む。
柱が二重に見える。
床の距離が分からない。
「何だ、これ」
シンが声を上げる。
「視界がぼやける!」
ムソウも目を細める。
「灯の力か」
弱肉強食の声が、遠くからも近くからも聞こえた。
「薄き灯は、夜明け前に揺れる」
白虎の姿が消えた。
いや、消えたように見えた。
白い毛皮が白い床と混ざり、黒い縞だけが霞の中で揺れる。
行灯。
灯り。
ぼんやりと周囲を照らし、同時に輪郭を曖昧にする力。
リンは必死に目を凝らす。
「足音を聞け!」
シンが叫ぶ。
「でかい虎なら音がするだろ!」
だが、音もぼやけていた。
右から聞こえた気がする。
左からも聞こえる。
上からも。
弱肉強食は、食った真名の力を劣化させて使う。
それでも、十分に厄介だった。
「リン!」
ムソウの声。
「どこだ!」
「ここです!」
リンが答えた瞬間、白虎の爪が霞の中から現れた。
リンの声に反応したのだ。
「しまっ――」
シンが横から飛び込む。
鉄棒で爪を受ける。
衝撃で二人まとめて吹き飛んだ。
床を転がる。
「シン!」
「生きてる!」
シンはすぐに起き上がる。
腕の傷がまた開いていた。
リンは焦る。
「血が」
「後でいい!」
「イオがいたら――」
言いかけて、リンは止まった。
イオはいない。
町で戦っている。
こちらには治療役はいない。
だからこそ、無茶はできない。
でも、もう無茶をしなければならない場所まで来ている。
リンはイオの薬草布を取り出した。
「シン、五秒止まれ!」
「五秒なら!」
リンは素早く傷を縛る。
「強く締めるぞ」
「やれ」
布を引き締める。
シンが歯を食いしばる。
「痛え」
「生きてる証拠だ」
「イオみたいなこと言うな」
「怒られる前に帰るぞ」
「ああ」
霞の向こうで、ムソウの扇の音が響く。
ぱん。
ぱん。
ぱん。
一定の間隔。
リンは気づいた。
ムソウが音で位置を知らせている。
「ムソウさん!」
「こちらだ!」
白虎の牙が霞を裂く。
ムソウは一歩も動かず、扇で空気を切っている。
霞の中で、自分を目立たせている。
囮。
花道。
敵の視線を集める役割。
しかし、行灯のぼやけた光の中では、ムソウの位置も曖昧になる。
白虎はその曖昧さを利用し、死角から襲う。
ムソウの肩に爪がかすった。
血が飛ぶ。
「ムソウさん!」
「浅い!」
ムソウの声が返る。
だが、浅くはない。
リンには分かった。
声で強がっている。
シンが唸る。
「やっぱり殴るしかねえ」
「待て」
「またか」
「霞を消す」
「どうやって」
リンは周囲を見る。
見えにくい。
だが、ぼやけた光の中心はある。
白虎の腹に浮かぶ行灯の文字。
あれがこの霞を作っている。
なら、その灯りを別の強い光で乱せばいい。
だが、ここに火はない。
いや。
「ムソウさん!」
リンが叫ぶ。
「扇で風を起こせますか!」
「どの程度だ!」
「提灯を揺らすくらい!」
「提灯などないぞ!」
「城の壁の文字です!」
ムソウは一瞬黙った。
そして笑った。
「なるほど、灯は文字にも宿るか!」
玉座の間の壁には、食われた真名の欠片が無数に浮かんでいる。
弱々しい光。
消えかけた名。
だが、それでも光っている。
リンは叫ぶ。
「シン、壁を叩くな! 床を揺らせ!」
「叩いちゃ駄目なのか!」
「文字を壊すな!」
「難しいな!」
「揺らすだけ!」
「やってみる!」
シンが鉄棒を床へ突き立てた。
殴るのではない。
地面へ力を流す。
床が震える。
壁の文字たちがわずかに揺れた。
ムソウが扇を大きく振る。
風が生まれる。
揺れた文字の光が、霞の中で散らばった。
行灯のぼんやりした光と、壁の真名の光が混ざる。
白虎の輪郭が一瞬だけ浮かび上がった。
「見えた!」
リンが叫ぶ。
「腹の右!」
「おう!」
シンが走る。
白虎は霞の中で体勢を低くしていた。
腹の行灯の文字が光っている。
シンはそこへ鉄棒を振るう。
だが、リンが叫んだ。
「割るな! 叩くだけ!」
「何でだ!」
「中に食われた真名がある!」
「くそっ!」
シンは力を殺し、鉄棒の側面で行灯の文字を叩いた。
黒い光が揺れる。
霞が薄くなる。
同時に、白虎の爪がシンへ迫る。
ムソウが割り込んだ。
鞘で爪を受ける。
重い音。
ムソウの足が床へ沈む。
「ぬうっ……!」
「ムソウ!」
シンが叫ぶ。
「気にするな!」
ムソウは歯を食いしばる。
「守るのは、一人ではないのだろう!」
「そうだ!」
シンは白虎の腹から離れ、横へ回る。
リンは霞が薄くなった隙に、玉座の間の構造を見る。
白虎の動きが少し鈍っている。
行灯の力を使いながら、他の真名も同時に使っていたためだ。
食った力は強い。
だが、完全に一つになっているわけではない。
複数を同時に使うほど、腹の文字同士が干渉している。
「分かった」
リンが呟く。
「何が!」
シンが叫ぶ。
「食った真名を同時に使わせすぎると、腹の中でぶつかる!」
「つまり?」
「もっと使わせる!」
「敵を強くするのか!」
「一時的には!」
「嫌な作戦だな!」
ムソウが笑った。
「臨機応変らしい!」
「褒めてますか!」
「半分な!」
白虎が唸った。
「小賢しい」
腹の百戦錬磨が光る。
こちらの狙いを読み始めた。
リンはすぐに叫ぶ。
「次、読まれる! 単純に来ない!」
白虎は動かなかった。
代わりに、床から黒い牙が突き出す。
リンの足元。
シンの背後。
ムソウの横。
三方向同時。
百戦錬磨でこちらの配置を読み、優勝劣敗で分断し、暴飲暴食で床から力を吸い上げて牙に変えた。
「跳べ!」
リンが叫ぶ。
三人が同時に動く。
リンは横へ転がる。
シンは牙を鉄棒で砕く。
ムソウは扇で受け流す。
その瞬間、白虎の腹で自暴自棄が光る。
砕かれた牙が黒い煙になり、白虎へ戻る。
「また回復か!」
シンが怒鳴る。
「違う、あれは回復じゃない!」
リンは目を凝らす。
「暴走の燃料にしてる!」
白虎の体がさらに歪む。
食った真名が腹の中で暴れ、白虎自身の形を壊し始めている。
弱肉強食は、それすら食って力にしていた。
「長期戦は無理だ」
リンが言う。
「向こうも壊れかけてる。でも、壊れながら強くなる」
「なら一気に行く」
シンが言う。
「でも殴りすぎると自暴自棄で強くなる」
「じゃあどうする」
ムソウが大太刀へ手を添えた。
「腹を裂き、真名を解放する」
リンはムソウを見る。
「抜くんですか」
「今度は怒りに任せてではない」
ムソウの目は静かだった。
「役割として抜く」
天下無双の四文字が、白く強く輝く。
「わしの役目は、道を開くことだ」
リンは頷いた。
「なら、僕が隙を作ります。シンが白虎の動きを止める。ムソウさんが腹の文字を斬る」
「斬っていいのか?」
シンが聞く。
「真名そのものじゃなく、腹の黒い膜を斬る」
「難しいな」
「ムソウさんならできる」
ムソウは笑った。
「任せよ」
白虎が牙を剥く。
「我が腹を裂くか」
「吐き出す気がないならな」
リンは答えた。
弱肉強食は笑う。
「食われたものは戻らぬ」
「それでも」
リンの背中に臨機応変が光る。
「食い続ける腹は止められる」
白虎が動いた。
勇猛果敢で突進。
同時に、百戦錬磨でこちらの回避先を読む。
さらに、行灯の力で輪郭をぼやかす。
リンは集中した。
白虎の腹の文字。
光る順番。
床の振動。
シンとムソウの位置。
自分にできること。
「シン、三歩下がってから右!」
「右!」
「ムソウさん、動かないでください!」
「動かぬ!」
「僕が誘います!」
リンはあえて白虎の正面へ走った。
シンが叫ぶ。
「リン!」
「来い!」
リンは白虎を見上げる。
弱肉強食の金色の目が、自分を捉えた。
「臨機応変」
白虎が言う。
「小さき知恵も、腹に入れば役に立とう」
「残念だけど」
リンは短剣を構えた。
「僕は食べてもおいしくない」
白虎が爪を振るう。
リンはぎりぎりまで引きつける。
怖い。
足が震える。
避けるのが遅れれば終わりだ。
イオはいない。
どんちゃんもいない。
ここで倒れれば、何も確かめられない。
爪が迫る。
リンは横へ跳んだ。
そこへ白虎の牙が来る。
百戦錬磨で読まれている。
だが、それも読んでいた。
「シン!」
「おう!」
シンが三歩下がった位置から右へ突っ込む。
鉄棒を牙と床の間へ差し込む。
てこのように押し上げる。
白虎の顎がわずかに上がった。
「重っ……!」
「耐えろ!」
「耐えてる!」
白虎の前足がシンへ振り下ろされる。
ムソウが動かない。
リンがそう言ったから。
代わりに、リンが床の溝へ短剣を突き込む。
優勝劣敗の黒い円が白虎自身の足元へずれるように誘導する。
勝負の場が、白虎の前足と床の間に生まれる。
一瞬だけ、白虎の前足が止まった。
強制された力比べ。
相手は床。
白虎自身の重さ。
「今です!」
ムソウが動いた。
一歩。
いや、花道を進むような一歩。
大太刀が、ついに鞘から抜かれた。
白い刃。
派手さはない。
むしろ静かだった。
だが、その刃が現れた瞬間、玉座の間の空気が変わった。
天下無双。
並ぶ者なし。
ムソウの刃が、白虎の腹へ向かう。
狙うのは、真名そのものではない。
真名を腹に縛りつける黒い膜。
白虎が目を見開く。
「貴様!」
腹の自暴自棄が光る。
暴飲暴食が光る。
行灯が光る。
霞が広がる。
牙が動く。
爪が振るわれる。
だが、遅い。
シンが顎を押さえ、リンが足を止め、ムソウが花道を切り開いた。
刃が腹を裂いた。
黒い膜が大きく割れる。
玉座の間に、食われた真名たちの叫びが響いた。
勇猛果敢。
百戦錬磨。
優勝劣敗。
暴飲暴食。
自暴自棄。
そして。
行灯。
その二文字が、黒い膜の割れ目から強く光った。
リンの心臓が跳ねる。
「どんちゃん……?」
だが、その前後はまだ見えない。
黒い煙と白虎の毛に隠れ、ただ「行灯」だけが揺れている。
弱肉強食が凄まじい咆哮を上げた。
城全体が震える。
遠くで、檻が軋む音がした。
食われた真名たちが、腹の中で暴れ始めている。
「返さん」
白虎の声が、初めて焦りを帯びた。
「我が腹に入ったものは、我のものだ」
リンは叫んだ。
「シン、離れろ!」
シンが鉄棒を引く。
ムソウも刃を引こうとする。
だが、白虎の腹から黒い腕が伸び、ムソウの刀を掴んだ。
「なっ」
ムソウの動きが止まる。
白虎の腹に浮かぶ自暴自棄が、黒く燃える。
暴飲暴食が、ムソウの刃の力を食おうとしている。
「天下無双を……食う……」
弱肉強食の声が響く。
「ムソウさん!」
リンが走る。
だが、白虎の尾が迫る。
シンが受ける。
負傷した腕に衝撃が走り、血が飛ぶ。
「ぐあっ!」
「シン!」
「行け!」
シンが吠える。
「ムソウを助けろ!」
リンは走った。
腹の裂け目。
黒い腕。
ムソウの刀。
白虎の力の流れ。
すべてを見る。
リンの背中で臨機応変が強く光った。
今、必要なのは力ではない。
切り替え。
流れを変えること。
リンはイオの薬草袋から残っていた小瓶を取り出した。
疲労回復の薬草茶に使う、苦味の強い濃縮液。
イオが言っていた。
直接飲むには苦すぎる。
でも、気つけにはなる。
リンは小瓶を、白虎の裂けた腹へ投げ込んだ。
小瓶が割れる。
強い匂いが広がった。
食う力が、一瞬だけ乱れる。
暴飲暴食の文字が揺れた。
「まずいものは、腹に合わないだろ」
リンが言う。
ムソウが笑った。
「見事!」
彼は刀を引き抜いた。
同時に、鞘で黒い腕を打ち払う。
白虎が後ろへ下がった。
腹の裂け目から、真名の光が漏れている。
だが、まだ解放されてはいない。
弱肉強食は、腹を震わせながらリンたちを睨んだ。
「許さん」
その声は、もはや余裕のある王の声ではなかった。
飢えた獣の声だった。
「弱き者どもが、我が腹に傷をつけた」
「傷つけたんじゃない」
リンは息を切らしながら言った。
「開けたんだ」
シンが血のついた鉄棒を構える。
「次で吐かせる」
ムソウが白い刃を構える。
「花道は開いた」
白虎の腹で、行灯の二文字がまた揺れた。
リンは目を逸らせなかった。
まだ分からない。
昼行灯なのか。
別の何かなのか。
どんちゃんは本当に食われたのか。
答えは、まだ腹の中にある。
弱肉強食が最後の咆哮を上げた。
城の壁が割れ、床が波打つ。
腹に浮かぶすべての真名が、黒く、白く、赤く、乱れて輝く。
四天王の一角が、本気で三人を食いに来る。
リンは短剣を握り直した。
シンは血を流しながら笑った。
ムソウは刀を構え、静かに息を吸った。
決着は、次でつける。
【後書き】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
リンは考え、シンは突っ込み、イオは鍋を握る。
そんな三人の旅を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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