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臨機応変の俺と猪突猛進の親友、医食同源の少女と世界を旅する ~四字熟語を背負う者たちの腹ぺこ放浪記~  作者: 凡夫 成


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18話 白虎、弱肉強食

【前書き】


四字熟語が真名になる世界。


臨機応変、猪突猛進、医食同源の三人が、今日も腹を空かせて旅をします。


バトルあり、料理あり、ちょっとした言葉の物語あり。


よろしくお願いします。


 玉座の間は、広すぎた。


 城の中にあるはずなのに、まるで山の腹をくり抜いたような空間だった。


 白い毛皮のような床。


 骨のように曲がった柱。


 壁には、食われた真名の欠片が無数に浮かんでいる。


 その中心。


 巨大な玉座の上に、白い虎が座っていた。


 いや、座っているというより、山がそこに伏せているようだった。


 白い毛並み。


 黒い縞。


 金色の目。


 口元から覗く牙は、人一人など簡単に噛み砕けるほど大きい。


 そして、その腹。


 白い毛皮の上に、いくつもの四文字熟語が浮かんでいた。


 優勝劣敗。


 暴飲暴食。


 勇猛果敢。


 百戦錬磨。


 自暴自棄。


 質実剛健。


 一騎当千。


 文字はどれも、まだ生きているように揺れている。


 しかし、その光は弱い。


 腹の中で消化されながら、なお自分の名を叫んでいるようだった。


 リンは息を呑んだ。


「これが……食った真名」


 白虎が目を細める。


「見るか」


 低い声が、玉座の間を震わせた。


「我が腹の中にある、弱き者どもの残り香を」


 シンが鉄棒を握る。


「弱き者?」


「ああ」


 弱肉強食は、ゆっくりと立ち上がった。


 その動きだけで、床が鳴る。


「我に食われた時点で、そやつらは弱者だ」


 ムソウの扇が閉じる。


「勝った者だけが強者というわけか」


「当然」


 弱肉強食の牙が光る。


「勝った者が食う。負けた者が食われる。それ以外に、世界の理などない」


 シンが一歩前へ出た。


「じゃあ俺がお前を殴ったら、俺が強者だな」


「そうだ」


 白虎は笑った。


「できるならな」


 その瞬間、弱肉強食の腹に浮かぶ文字の一つが光った。


 勇猛果敢。


 白虎の巨体が沈む。


 次の瞬間、山のような体が一直線に飛び出した。


 速い。


 大きさに似合わない速度だった。


「来る!」


 リンが叫ぶ。


 シンが正面に出る。


「上等!」


 鉄棒を構え、白虎の突進を受け止めようとする。


 衝突。


 音ではなく、衝撃が来た。


 玉座の間の床が割れ、シンの足が白い床へめり込む。


「ぐっ……!」


 シンの腕が震える。


 弱肉強食は、そのまま押し潰そうとする。


「勇猛果敢の突き進む力。猪突猛進と似ているな」


 白虎は楽しそうに言った。


「だが、我が食った勇は、我がものだ」


「借り物で偉そうにすんな!」


 シンが吠える。


 背中に猪突猛進の四文字が赤く燃えた。


 鉄棒を押し返す。


 白虎の前足が、ほんの少し浮いた。


「ほう」


 弱肉強食の金色の目が細くなる。


「なかなか噛み応えがある」


「食わせねえ!」


 シンは横へ力を流し、白虎の突進をずらした。


 白虎の巨体が柱へぶつかる。


 骨の柱が砕けた。


 リンはすぐに走る。


「シン、正面で受け続けるな! 体重が違いすぎる!」


「分かってる!」


「今のは分かってない動きだった!」


「次から分かる!」


 ムソウが白虎の側面へ回る。


「では、次はこちらだ」


 扇を広げ、大太刀の鞘を構える。


「天下無双、推して参る!」


 ムソウが踏み込む。


 速い。


 白虎の爪が振るわれる前に、その前足の関節へ鞘が入る。


 ぱん、と乾いた音。


 普通の獣なら、そこだけで動きが止まる。


 だが、弱肉強食は笑った。


 腹の文字がまた光る。


 堅忍不抜。


 白虎の足が、びくともしなくなる。


「硬い!」


 ムソウが目を見開く。


 次の瞬間、白虎の尾が鞭のように振るわれた。


 ムソウは扇で受け流そうとする。


 だが、尾の重さが尋常ではない。


 体が横へ飛ばされた。


「ムソウさん!」


 リンが叫ぶ。


 ムソウは空中で身をひねり、床へ着地した。


 足元が少し滑る。


「なかなか野暮な重さだ」


「軽口を叩く余裕があるか」


 弱肉強食は白い牙を見せる。


「天下無双。よい真名だ。食えば、我はさらに孤高となろう」


「断ると言ったはずだ」


「断る権利は、強者にのみある」


 白虎が再び動く。


 今度はムソウへ向かう。


 リンはその動きを見た。


 巨体。


 速度。


 硬さ。


 そして食った真名の力。


 弱肉強食は単純な獣ではない。


 食った四字熟語を、必要な場面で使い分けている。


「リン!」


 シンが叫ぶ。


「どうすりゃいい!」


「腹の文字を見る!」


「腹?」


「光った真名の力を使ってる! 次に何が来るか、文字で分かる!」


「読むのは苦手だ!」


「頑張れ!」


 シンは白虎の腹を睨んだ。


「ええと……なんか光った!」


「何が!」


「読めねえ!」


「見えてる意味がない!」


 ムソウが白虎の爪を避けながら叫ぶ。


「リン、読むのはそなたに任せる!」


「最初からそうします!」


 リンは白虎の動きと腹の文字を同時に見る。


 次に光ったのは、百戦錬磨。


「ムソウさん、経験で読む動きが来ます!」


「心得た!」


 白虎の攻撃が変わった。


 ただの力任せではない。


 ムソウの足運びを読み、逃げる先へ爪を置いてくる。


 まるで、長年戦場を渡ってきた武人のような動き。


 ムソウの扇が爪を弾く。


 大太刀の鞘が牙をいなす。


 それでも、白虎はさらに先を読む。


「面白い!」


 ムソウが笑う。


「食った技で、天下無双に挑むか!」


「食ったものは我の力」


「違うな」


 ムソウは一歩下がり、爪を避ける。


「借り物を重ねただけでは、粋にはならぬ!」


 シンが横から突っ込む。


「おらあ!」


 鉄棒が白虎の脇腹へ入る。


 弱肉強食の巨体が少し傾いた。


 しかし、すぐに別の文字が光る。


 質実剛健。


 白虎の体が重く、堅くなる。


 シンの鉄棒が弾かれた。


「硬え!」


「強さの種類を切り替えてる!」


 リンが叫ぶ。


「こっちも切り替えるしかない!」


「どうやって!」


「シンは崩す! ムソウさんは隙を作る! 僕が文字を見る!」


「俺は殴る!」


「崩すって言っただろ!」


「殴って崩す!」


「それは少し合ってる!」


 戦いは激しさを増した。


 白虎は腹の真名を光らせるたび、動きを変える。


 勇猛果敢で突進する。


 堅忍不抜で耐える。


 百戦錬磨で先を読む。


 暴飲暴食で床や壁から力を吸う。


 優勝劣敗で、場に勝敗の圧を作る。


 そのたびに、リンは叫んだ。


「次、優勝劣敗!」


「何が来る!」


「勝負の形を作る! 受けるな!」


 白虎の金色の目が光った。


 玉座の間の床に、円形の模様が浮かぶ。


 その中にいたシンの背中の文字が、少しだけ暗くなる。


「何だこれ」


「勝ち負けを強制される領域だ!」


 リンが叫ぶ。


「正面から力比べするな!」


「もうしてる!」


 シンと白虎の前足がぶつかっている。


 力比べ。


 まさに優勝劣敗の土俵。


 白虎が笑う。


「勝者が輝き、敗者は色を失う」


 シンの赤い文字が、少しずつ白虎へ吸われる。


 リンは歯を食いしばった。


「ムソウさん!」


「心得た!」


 ムソウが花道を歩くように、円の外から踏み込んだ。


 そのまま白虎の視線を奪う。


「虎よ!」


 扇を広げ、大きく見得を切る。


「天下無双を前にして、猪一匹と力比べとは野暮ではないか!」


「誰が猪だ!」


 シンが叫ぶ。


「猪突猛進だろう!」


「それはそうだ!」


 白虎の目が一瞬、ムソウへ向く。


 勝負の焦点がずれる。


 その瞬間、リンが床の円に走り込んだ。


 短剣で模様の一部を削る。


 円が崩れた。


 シンの文字に色が戻る。


「今、離れろ!」


「おう!」


 シンは力を抜き、横へ転がった。


 白虎の前足が空を押す。


 巨体がわずかに前へ流れる。


 ムソウの鞘が、その顎を下から打った。


 白虎の頭が上がる。


「シン!」


「おう!」


 鉄棒が白虎の胸へ叩き込まれた。


 白虎が初めて、大きく後ろへ下がった。


 玉座の間が揺れる。


 壁に浮かぶ真名たちが震えた。


 リンは息を切らしながら叫ぶ。


「効いてる!」


 シンが笑う。


「ならもっと殴る!」


「待て、来る!」


 白虎の腹で、別の文字が黒く光った。


 自暴自棄。


 白虎の目が赤く染まる。


 傷ついた胸から黒い煙が上がり、その煙を白虎自身が吸い込む。


「傷が力になるのか」


 ムソウが低く言った。


「厄介だな」


 弱肉強食が笑う。


「食われた者の絶望も、怒りも、諦めも、我が糧だ」


 白虎の体がさらに大きく膨れたように見えた。


 毛皮が逆立ち、牙が伸びる。


「傷つけるほど強くなる。ならば、どうする」


「倒すまで殴る!」


 シンが即答する。


「それ以外も考えろ!」


 リンが叫ぶ。


 だが、考える時間はなかった。


 白虎が暴れ始めた。


 先ほどまでのように真名を使い分けるのではなく、ただ荒れ狂う。


 爪が床を裂く。


 尾が柱を砕く。


 牙が空気を噛む。


 暴れるたびに、城そのものが黒く脈打つ。


 檻に閉じ込められた人々の悲鳴が、遠くから聞こえた気がした。


「まずい」


 リンが言う。


「こいつが暴れるほど、城の中の人たちが削られる」


「止めるぞ!」


 シンが突っ込もうとする。


 ムソウが扇で前を塞いだ。


「待て、猪突猛進!」


「何でだ!」


「今の虎は、殴られることを餌にしておる」


「じゃあどうする!」


 ムソウはリンを見る。


「臨機応変!」


「考えてます!」


「早めに頼む!」


「分かってます!」


 リンは白虎を見る。


 自暴自棄。


 傷つくほど暴れる。


 なら、傷を増やさず止める必要がある。


 動きを止める。


 攻撃ではなく、誘導。


 城の構造を使う。


 玉座の間を見回す。


 柱。


 壁。


 床の溝。


 浮かぶ文字。


 玉座。


 そして、白虎の背後にある巨大な骨の柱。


 半分ひび割れている。


「シン、白虎を右へ寄せる!」


「右ってどっちだ!」


「僕から見て右!」


「俺からは?」


「左!」


「ややこしい!」


「ムソウさん、花道みたいに誘導できますか!」


「できる!」


「シン、ムソウさんの反対側から押す!」


「つまり殴る!」


「押す!」


「押すように殴る!」


「もうそれでいい!」


 ムソウが白虎の正面に立つ。


 扇を広げ、派手に足を踏み出した。


「白き虎よ!」


 声が玉座の間に響く。


「暴れるだけなら獣! 食うだけなら畜生! 四天王を名乗るには、あまりに野暮!」


 白虎の赤い目がムソウへ向く。


「天下無双……食う……」


「来い!」


 ムソウは一歩も動かない。


 だが、扇と鞘で白虎の爪をわずかに逸らす。


 白虎の巨体が、リンの狙った方向へ少しずつずれる。


 反対側からシンが鉄棒を押し当てる。


「こっちだ、でか猫!」


「虎だ」


 リンが言う。


「似たようなもんだ!」


 白虎が怒り、シンへ尾を振る。


 シンは鉄棒で受けず、地面へ突き立てて体を低くする。


 尾が頭上を通り過ぎる。


「危ねえ!」


「受けなかったのは正解!」


「昨日より分かってる!」


 白虎がさらに暴れる。


 だが、二人の誘導で少しずつ骨の柱へ近づいていく。


 リンは柱の根元へ走った。


 ひび割れの位置を確認する。


 白虎がぶつかれば、柱は倒れる。


 ただし、下敷きにするのではない。


 柱を落として、白虎の動きを一瞬止める。


「今!」


 リンが叫ぶ。


 ムソウが扇を閉じ、白虎の爪を横へ流す。


 シンが全力で押す。


「行けえ!」


 白虎の巨体が柱へぶつかった。


 骨の柱が大きく軋む。


 リンはひび割れに短剣を差し込み、てこのように押した。


 柱が折れる。


 白い骨の柱が、白虎の背中へ落ちた。


 重い音。


 玉座の間が揺れた。


 白虎の動きが止まる。


 傷を与えたわけではない。


 押さえ込んだだけだ。


「今なら!」


 シンが叫ぶ。


「待て!」


 リンが止める。


「何でだよ!」


「殴ったら自暴自棄でまた暴れる!」


「じゃあどうする!」


 リンは白虎の腹を見る。


 自暴自棄の文字がまだ黒く光っている。


 その隣で、暴飲暴食が微かに光り始めた。


「まずい。柱を食って力に変える気だ!」


 白虎の口が開く。


 周囲の骨の柱から黒い力が流れ込み始める。


 ムソウが走る。


「それはさせぬ!」


 ムソウの鞘が、白虎の顎を打つ。


 白虎の口が閉じる。


 しかし、その瞬間、別の文字が光った。


 一騎当千。


 白虎の体から無数の影が生まれた。


 黒い虎の影。


 一体、二体、十体。


 玉座の間に、小さな白虎の分身が現れる。


「増えたぞ!」


 シンが叫ぶ。


「一騎当千の力か!」


 リンは歯を食いしばった。


 一体で千に匹敵する。


 それを弱肉強食が使えば、数そのものを生む力になる。


 影の虎たちが三人へ襲いかかる。


 シンが鉄棒を振るう。


 一体を砕く。


 だが、砕けた影が床へ溶け、また別の場所から湧き上がる。


「きりがねえ!」


 ムソウも扇と鞘で影を弾く。


「本体を止めねばならぬ!」


「本体が動けない今が好機です!」


 リンは叫びながら、影の流れを見た。


 影の虎は、白虎の腹に浮かぶ一騎当千の文字から生まれている。


 なら、そこを一瞬でも遮ればいい。


「シン、本体の腹の左側!」


「左!」


「行灯じゃない、今光ってる一騎当千の方!」


「読めねえ!」


「ムソウさん!」


「任せろ!」


 ムソウが花道を駆けるように、影の虎の間を抜けた。


 扇が舞い、影を散らす。


 だが、本体の腹へ近づいた瞬間、白虎の金色の目が開いた。


「天下無双」


 低い声。


「やはり、うまそうだ」


 白虎の牙がムソウへ向かう。


 ムソウは避けられる位置にいた。


 だが、その背後。


 リンがいた。


 影の虎に足を取られ、逃げ遅れている。


 ムソウの目がリンを捉えた。


 守るもの。


 その瞬間、天下無双の光が揺れた。


 ムソウの動きが鈍る。


 白虎の牙が迫る。


「ムソウさん!」


 リンが叫ぶ。


 シンが横から飛び込んだ。


「迷うな!」


 鉄棒が白虎の牙を受け止める。


 シンの腕に血が滲む。


「ぐっ……!」


「シン!」


「俺は平気だ!」


 シンは歯を食いしばる。


「リンは自分で避ける! 俺は牙を止める! ムソウは腹を叩け!」


 ムソウの目が見開かれる。


 シンは叫んだ。


「一人で全部守るなって言っただろ!」


 ムソウの真名が、再び強く光った。


 迷いが消える。


「承知!」


 ムソウの鞘が、白虎の腹に浮かぶ一騎当千の文字を打った。


 文字が揺れる。


 影の虎たちが一斉に消えた。


 リンは床を転がって牙の軌道から逃れる。


 シンも鉄棒を引き、後ろへ跳んだ。


 白虎は柱の下で唸る。


 リンはシンの腕を見る。


「血が」


「かすっただけだ」


「イオがいないんだぞ」


「分かってる」


「本当に?」


「……ちょっと痛い」


「正直でよろしい」


 リンはイオから預かった薬草布を取り出し、シンの腕へ巻いた。


 戦いの中での応急処置。


 十分ではない。


 でも、止血はできる。


 シンは歯を食いしばりながら笑った。


「イオがいたら怒るな」


「帰ったら怒られる」


「肉で許してくれるか?」


「無理だと思う」


 ムソウは白虎を見据えていた。


「シン」


「何だ」


「助かった」


「おう」


「守られたな、わしが」


「おう」


 ムソウは少しだけ笑った。


「悪くない」


 白虎が低く笑う。


「くだらぬ」


 柱が砕けた。


 弱肉強食が、ゆっくりと立ち上がる。


 傷はある。


 だが、倒れてはいない。


 腹の真名たちが、さらに強く光り始めた。


「守る。助ける。分け合う。並び立つ」


 白虎の声が、玉座の間を震わせる。


「どれも弱者の言い訳だ」


 シンが鉄棒を構える。


「違う」


「違わぬ」


 弱肉強食は牙を剥く。


「強きものは一匹で立つ。奪い、食らい、残る。群れねば生きられぬ者は、いずれ食われる」


 ムソウが扇を広げる。


「一匹で立つ強さなら、わしも知っておる」


「ならば分かるだろう、天下無双」


「分かるからこそ言う」


 ムソウの声が低く響く。


「それだけでは、舞台は咲かぬ」


 弱肉強食の金色の目が、さらに細くなる。


「舞台?」


「そうだ」


 ムソウは一歩前へ出た。


「強き者が一人で立つだけなら、ただの岩よ。人が見て、支えて、共に息をするから、花道になる」


「くだらぬ」


「野暮な虎には分かるまい」


 白虎の腹で、自暴自棄が再び光る。


 さらに、暴飲暴食、優勝劣敗、勇猛果敢が同時に光った。


 リンの顔色が変わる。


「複数同時に来る!」


「今まで手加減してたのかよ!」


 シンが叫ぶ。


「我は飢えている」


 弱肉強食が言った。


「お前たちを食えば、少しは満たされよう」


 白虎の体から、黒い煙が立ち上る。


 その煙が、腹の文字を覆っていく。


 リンは必死に目を凝らした。


 優勝劣敗。


 暴飲暴食。


 自暴自棄。


 勇猛果敢。


 その隙間に、別の文字が見えた。


 暗い毛皮の中に沈むように、かすかに浮かぶ二文字。


 行灯。


 リンの息が止まった。


「……行灯?」


 シンが振り向く。


「何だ?」


 リンは白虎の腹を見続けた。


 黒い煙の隙間に、確かに見えた。


 行灯。


 それだけ。


 前に何かがあったのかもしれない。


 後ろに何かが続くのかもしれない。


 だが、今見えるのは、その二文字だけ。


 行灯。


 昼行灯。


 どんちゃん。


 リンの胸が冷たくなる。


 花道宿を出てから、どんちゃんはいない。


 弱肉強食の黒い獣を見ていたと言っていた。


 そして姿を消した。


 まさか。


「リン?」


 ムソウが声をかける。


 リンは答えられない。


 白虎は、リンの視線に気づいたように腹を揺らした。


「見たか」


 低い声が響く。


「我が腹に入った、灯の名を」


 シンの顔が変わった。


「おい」


 その声は低い。


「それ、誰のだ」


 弱肉強食は笑った。


「さあな」


「昼行灯か」


 シンの背中の猪突猛進が燃える。


「どんちゃんを食ったのか」


 白虎は、答えなかった。


 ただ、牙を見せて笑った。


「弱き灯であった」


 その一言で、シンが一歩前へ出た。


「てめえ」


 リンは手を伸ばす。


「待て、シン。まだ決めつけるな」


「でも見えただろ!」


「行灯しか見えてない。昼行灯とは限らない」


「どんちゃんはいねえ!」


 シンの声が震えた。


 怒りで。


 そして、少しだけ別の感情で。


「あいつ、働かねえし、飯ばっか食うし、すぐ消えるし、よく分かんねえけどよ」


 シンは鉄棒を握りしめる。


「食われていいやつじゃねえんだよ!」


 ムソウの顔からも笑みが消えていた。


「昼行灯とはいえ」


 彼は扇を閉じる。


「同じ鍋を囲んだ者よ」


 白虎は満足そうに喉を鳴らした。


「怒れ」


 腹の自暴自棄が黒く光る。


「怒りも、絶望も、我が腹にはよく馴染む」


 リンは歯を食いしばった。


 挑発だ。


 分かっている。


 弱肉強食は、こちらを乱そうとしている。


 だが、リン自身も冷静ではいられなかった。


 どんちゃん。


 あの眠そうな顔。


 鍋の前にいつの間にか座る姿。


 役に立つのか立たないのか分からない助言。


 黒い獣を見たと言った、あの夜の声。


 もし本当に。


 リンは拳を握った。


「まだ、決めつけない」


 自分に言い聞かせるように言う。


「でも」


 リンは白虎を睨んだ。


「どちらにしても、吐き出してもらう」


 弱肉強食が笑う。


「できるものなら」


 玉座の間の壁が震えた。


 腹の真名たちが、一斉に黒く輝く。


 優勝劣敗。


 暴飲暴食。


 勇猛果敢。


 百戦錬磨。


 自暴自棄。


 そして、行灯。


 白虎の体がさらに巨大に見えた。


 飢えが、怒りが、食われた真名の残滓が、すべて混ざり合う。


 シンは鉄棒を構え直した。


 血の滲む腕など気にしていない。


 ムソウは大太刀の柄へ手を添えた。


 まだ抜いてはいない。


 だが、その目は本気だった。


 リンは短剣を握り、腹の文字を見据える。


 イオはいない。


 町で、食われるはずだった者たちを立たせている。


 ここで倒れれば、町も食われる。


 どんちゃんが本当に食われたのかどうかも分からない。


 だが、分かっていることが一つだけある。


 弱肉強食を、ここで止める。


 白虎が吠えた。


 城全体が揺れる。


「来い、強き者ども」


 牙が開く。


「まとめて、我が腹に入れ」


 シンが叫んだ。


「誰が入るか!」


 ムソウが続く。


「野暮な虎の腹など、花道に値せぬ!」


 リンは低く言った。


「次で、崩す」


 三人は同時に動いた。


 白い玉座の間で、弱肉強食との本当の戦いが始まった。

【後書き】


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


リンは考え、シンは突っ込み、イオは鍋を握る。


そんな三人の旅を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。


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