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臨機応変の俺と猪突猛進の親友、医食同源の少女と世界を旅する ~四字熟語を背負う者たちの腹ぺこ放浪記~  作者: 凡夫 成


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14話 無双は一人では咲けない

【前書き】


四字熟語が真名になる世界。


臨機応変、猪突猛進、医食同源の三人が、今日も腹を空かせて旅をします。


バトルあり、料理あり、ちょっとした言葉の物語あり。


よろしくお願いします。


 花道宿の芝居小屋は、昼を過ぎても慌ただしかった。


 壊された大道具。


 いなくなっていた子役。


 捕らえた荒くれ者。


 そして、今夜の舞台。


 本来なら中止になってもおかしくない状況だった。


 だが、芝居小屋の者たちは誰も諦めていなかった。


「橋の木組みはこっちへ!」


「綱を張り直せ!」


「衣装に土がついてる、落とせ!」


「ミツ、無理するなよ!」


「大丈夫!」


 小さな子役のミツは、まだ少し顔色が悪かった。


 けれど、舞台に立つと言って譲らなかった。


 イオはその手首に巻いた薬草布を確認する。


「痛みは?」


「少しだけ」


「無理はしない。怖くなったらすぐ言って」


「うん」


「本当に出るの?」


「出たい」


 ミツは舞台の方を見た。


「あの場面、私がいないと駄目だから」


 イオは少し黙り、それから微笑んだ。


「分かった。じゃあ、出られるように支えるね」


 少し離れた場所で、ムソウがその様子を見ていた。


 派手な羽織を肩にかけ、大太刀を腰に差している。


 いつもなら笑っているはずの男が、今日は静かだった。


 リンは壊れた橋の大道具を見ていた。


 木組みは想像以上に傷んでいる。


 完全に直すには時間が足りない。


 だが、舞台で見せるだけなら、補強の仕方次第で何とかなる。


「この柱は見える側だけ残す。裏に支えを足して、重さはこっちへ逃がす」


 リンは職人たちへ指示を出す。


「ここの綱は新しく張り直すより、短く切って二重にした方が早い」


「分かった!」


「シン、そっちの木材を持ってきて」


「これか?」


「違う。それは舞台の壁だ」


「壁も使えるだろ」


「壊す前提で持つな」


「難しいな」


 シンは大きな木材を肩に担いで戻ってくる。


 その力は相変わらず役に立った。


 ただし、少しでも目を離すと余計なものまで運ぼうとする。


「リン、これは?」


「それは太鼓」


「重そうだぞ」


「運ばない」


「叩くのか?」


「叩かない」


「何ならいいんだ」


「言ったものだけ持ってくれ」


 ムソウがその様子を見て、低く笑った。


「猪突猛進を使いこなすとは、リンもなかなかやる」


「使いこなしてるというより、被害を減らしてます」


「それも立派な技よ」


「褒められてる気がしません」


 リンはムソウを見た。


「ムソウさん」


「何だ」


「今夜、また来ます」


「誰が」


「昨日の連中だけじゃない。背後にいる者が、舞台を潰そうとしている」


 ムソウの顔が険しくなる。


「弱肉強食か」


「本人ではないと思います。でも、その理屈を使う者たちはいる」


 勝てない芝居小屋は不要。


 弱い舞台は潰せばいい。


 役者も観客も、ただの餌。


 百花繚乱の町で聞いた言葉と、同じ匂いがした。


「今夜の目的は、敵を倒すことだけじゃない」


 リンは言った。


「舞台を最後までやり切ることです」


 ムソウは黙った。


 その背中の天下無双が、静かに白く光っている。


「わしが全て倒せばよい」


「それだと、また鈍ります」


 リンははっきり言った。


 周囲の音が少し遠くなる。


 ムソウの目がリンへ向く。


「言うようになったな」


「必要なので」


「天下無双に向かって、鈍ると言うか」


「言います」


 リンは引かなかった。


「あなたは一人なら最強です。でも、ミツや観客や役者を全部背負ったら迷う」


 ムソウは何も言わない。


「だから、背負い方を変えます」


「背負い方?」


「全部あなたが守るんじゃない。守る場所を分ける」


 リンは芝居小屋の見取り図を床に広げた。


 舞台。


 花道。


 客席。


 裏口。


 大道具置き場。


 楽師の席。


 出入口。


「敵が狙うなら、三つです」


 リンは指で示す。


「一つ目は舞台上。芝居を直接壊す。二つ目は客席。混乱を起こす。三つ目は裏手。ミツや役者を再び狙う」


 シンが腕を組む。


「全部守ればいいんだな」


「一人で?」


「俺が走る」


「それだと全部壊れる」


「信用ねえな」


「ない」


 イオが地図を覗き込む。


「私は裏手がいい。ミツちゃんや役者のそばにいる」


「うん。怪我人が出た時もすぐ動ける」


 リンは頷いた。


「シンは客席の出入口付近。暴れる相手が出たら止める。ただし、客を巻き込まない」


「殴るなってことか」


「押さえろ」


「殴った方が早い」


「押さえろ」


「……分かった」


「今の間は何だ」


「考えてた」


「本当に?」


「昨日より分かってる」


「それを言えば許されると思うな」


 ムソウが笑った。


「では、わしは?」


「花道です」


 リンは花道を指差した。


「あなたは一番目立つ場所に立つ。敵の目を集める。観客の目も集める。舞台の華でいてください」


 ムソウの表情が少し変わる。


「守らずに、立てと?」


「違います。立つことで守るんです」


 リンは続けた。


「敵はあなたを無視できない。観客はあなたを見れば落ち着く。役者はあなたが花道にいれば芝居を続けられる」


「つまり、わしは囮か」


「いいえ」


 イオが言った。


「主役です」


 ムソウはイオを見る。


「主役?」


「主役が全部を一人でやる舞台なんてありません」


 イオは静かに言った。


「舞台には役者がいて、裏方がいて、楽師がいて、見てくれる人がいます。ムソウさんは一番目立つけど、一人で舞台を作るわけじゃない」


 ムソウは黙った。


 シンが言う。


「俺も守る」


 ムソウの視線がシンへ向く。


「お前が?」


「おう」


「猪突猛進が守るとな?」


「前に出るだけが守ることじゃねえって、最近分かった」


 リンは少し驚いた。


 シンが自分でそれを言うとは思わなかった。


「誰に教わった」


 ムソウが尋ねる。


「水路」


「水路?」


「壊して、直した」


「何を言っているのか分からぬが、何か分かったのだな!」


「おう!」


 ムソウは大きく笑った。


 けれど、その笑いはどこか嬉しそうだった。


「天下無双が、猪突猛進に守られる日が来るとはな」


「嫌か?」


「いや」


 ムソウは扇を広げた。


「面白い」


 リンは地図を畳む。


「今夜はこれでいきます」


「どんちゃんは?」


 イオがふと思い出したように言った。


 リンも周囲を見た。


 やはり、どんちゃんの姿はない。


「まだ戻ってないな」


 シンが言う。


「飯の時間にも来ねえなんて、どんちゃんらしくねえ」


「心配?」


 イオが聞く。


「飯を食い損ねてるかもしれねえ」


「そこ?」


「どんちゃんだぞ」


 リンは芝居小屋の外を見た。


 あの昼行灯の旅人が、どこで何をしているのか。


 気にはなる。


 だが今は、目の前の舞台を守らなければならない。


 日が暮れた。


 花道宿の芝居小屋に、再び提灯が灯る。


 昨日よりも客は多かった。


 子役がさらわれた噂。


 大道具が壊された噂。


 それでも今夜の舞台をやるという噂。


 そして、天下無双が再び花道に立つという噂。


 すべてが混ざり、町中の人々が芝居小屋へ集まっていた。


「本当にやるのか」


「やるらしいぞ」


「子どもは無事なのか?」


「天下無双が助けたって」


「いや、旅人たちもいたらしい」


「どんな芝居になるんだ」


 客席はざわめいている。


 その中で、リンたちはそれぞれの位置についた。


 シンは客席後方、出入口の近く。


 腕を組み、鉄棒を壁に立てかけている。


 目つきは鋭いが、イオに言われた通り、客を怖がらせないよう口元だけ少し笑っていた。


 その結果、逆に怖かった。


「シン、普通でいい」


 リンが小声で言う。


「笑ってるだろ」


「怖い」


「難しいな」


 イオは舞台裏にいる。


 ミツの手を握り、呼吸を整えさせていた。


「吸って。吐いて」


「うん」


「怖くなったら、私を見る。舞台に出たら、前だけ見て」


「イオさんは見てくれる?」


「ずっと見てる」


 ミツは頷いた。


 リンは舞台袖と客席の間を動ける場所に立った。


 全体を見られる位置。


 何かが起きた時、どちらにも走れる位置。


 そしてムソウは、花道の奥に立っていた。


 幕の向こう。


 提灯の赤い光に照らされ、派手な衣装をまとっている。


 昨日よりもさらに華やかだった。


 だが、表情は違う。


 昨日は一人で舞台を支配していた。


 今日は違う。


 彼の目は、客席も、舞台裏も、リンたちの位置も確認している。


 守ろうとしている。


 それが、彼の真名を揺らす。


 リンはそれを分かっていた。


 だからこそ、ムソウを一人にはしない。


 太鼓が鳴った。


 幕が上がる。


 芝居が始まった。


 最初の場面は、旅人たちが花道宿へ辿り着く場面だった。


 役者たちは声を張り、昨日壊されたはずの橋の大道具も、リンたちの補強によって舞台に立っている。


 完全ではない。


 近くで見れば継ぎはぎだらけだ。


 だが、客席から見れば立派な橋だった。


 観客から拍手が起きる。


 ミツが舞台袖から小さく出ていく。


 イオがその背中を見守る。


 ミツの声は少し震えていた。


 それでも、台詞は出た。


「お父ちゃん、どこにいるの?」


 客席が静かになる。


 小さな声が、芝居小屋の中へ届いた。


 リンは少し安心した。


 その時。


 客席の後方で、男が一人立ち上がった。


 リンの視線が動く。


 男は旅人風の格好をしている。


 だが、周囲を見る目が客ではない。


 シンも気づいた。


 男が袖から小さな火薬玉を取り出す。


 投げようとした瞬間、シンがその手首を掴んだ。


「何してる」


 男の顔が引きつる。


「離せ!」


「客席で投げ物禁止だ」


「くそっ!」


 男が暴れようとする。


 シンは殴らなかった。


 手首をひねり、足を払わず、体を壁へ押しつける。


「リンに言われたからな」


「何を」


「押さえろって」


 シンは低く言った。


「だから押さえる」


 男は動けなくなった。


 周囲の客がざわめく。


 シンは声を抑えて言った。


「芝居を見ろ。騒ぐな」


 不思議なことに、その低い声で客は落ち着いた。


 シンは男を押さえたまま、近くの係へ引き渡す。


 舞台は止まらない。


 続いて、舞台裏。


 大道具の陰から別の男が忍び込む。


 手には小刀。


 狙いは、橋を支える綱だった。


 イオが気づいた。


「そこ!」


 男が振り返る。


 イオは薬草袋から粉を掴み、男の足元へ投げた。


 粉が舞い、男が咳き込む。


「何だこれは!」


「眠気覚まし用の薬草。鼻に入るとすごくむせる」


「げほっ、げほっ!」


 その隙に、裏方たちが男を取り押さえた。


 ミツは一瞬振り返りそうになる。


 だが、イオが舞台袖から小さく頷いた。


 大丈夫。


 ミツは前を向き直し、台詞を続けた。


 リンは全体を見ていた。


 敵は一人ではない。


 優勝劣敗が消えた今も、弱肉強食の理に従う者が動いている。


 彼らの狙いは、舞台を壊すこと。


 観客を混乱させること。


 ムソウを守る側へ引きずり込むこと。


 そして。


 花道の奥で、三人目の男が動いた。


 役者に扮している。


 手には芝居用の木刀。


 だが、歩き方が違う。


 ムソウへ向かっている。


 ムソウも気づいていた。


 しかし、同時に客席の横で子どもが転びかけた。


 火薬玉騒ぎに驚いた子どもだ。


 ムソウの目がそちらへ動く。


 その瞬間、真名が揺れた。


 リンは叫んだ。


「ムソウさん! 子どもは僕が!」


 リンは走り、転びかけた子どもを抱き止める。


 ムソウの視線が戻る。


 役者に化けた男が木刀を振り上げた。


 ムソウは一歩も動かない。


 扇を開き、木刀の軌道を流す。


 鞘で男の手首を打つ。


 男が崩れる。


 ムソウの背中の天下無双が強く輝いた。


 一人で背負わない。


 リンが子どもを守った。


 シンが客席を抑えた。


 イオが舞台裏を守った。


 だからムソウは、花道に立てた。


 自分の役割に集中できた。


 舞台は続く。


 観客の多くは、異変に気づいていない。


 気づいている者も、芝居の一部なのか本物なのか分からず、息を呑んで見ている。


 ミツが橋の上へ立つ。


 再会の場面。


 壊された大道具を直した橋が、舞台の中央で軋む。


 リンは橋の支柱を見る。


 補強はした。


 だが、敵がどこかを緩めていたら危ない。


 その時、舞台下から黒い影のようなものが伸びた。


 人影ではない。


 昨日、優勝劣敗の背後に見えた獣の影よりはずっと薄い。


 だが、同じ匂いがある。


 弱肉強食の残り香。


 影は橋の支えに絡みつき、軋ませた。


「まずい」


 リンが走る。


 橋の上にはミツがいる。


 ムソウも気づいた。


 花道から飛び出そうとする。


 だが、その瞬間、ムソウの真名が激しく揺れた。


 ミツを守ろうとする。


 橋を守ろうとする。


 観客を守ろうとする。


 全部が視界に入る。


 そのせいで、足が鈍る。


 ムソウの動きが止まった。


「くっ」


 リンは叫ぶ。


「ムソウさん! 動かないで!」


「何だと!」


「花道に立って!」


「しかし――」


「ミツは僕たちが守る!」


 シンが客席後方から飛び出した。


「橋は俺だ!」


 鉄棒を横に構え、舞台下の支柱へ当てる。


 折れかけた支えを、力で押さえた。


「重っ!」


「壊すなよ!」


 リンが叫ぶ。


「支えてる!」


 イオが舞台袖からミツへ叫ぶ。


「ミツちゃん、前へ二歩!」


 ミツは震えながらも、言われた通りに動く。


 リンが舞台下へ滑り込み、影の絡んだ綱を切る。


 手に嫌な冷たさが走った。


 まるで、何かに噛まれたような感覚。


 だが、綱は切れた。


 橋の揺れが止まる。


 シンが支えを持ち上げ、裏方が新しい木材を差し込んだ。


「今!」


 リンが叫ぶ。


 イオがミツへ合図を送る。


 ミツは舞台の上で、震える声を振り絞った。


「お父ちゃん!」


 相手役の役者が駆け寄る。


 芝居の場面がつながった。


 観客席から、すすり泣く声が聞こえた。


 誰も、今の危機を完全には理解していない。


 それでも、舞台は守られた。


 ムソウは花道の中央に立っていた。


 動かなかった。


 いや。


 動けなかったのではない。


 動かないことを選んだ。


 仲間を信じて。


 自分の役割を守った。


 その背中の天下無双が、静かに光る。


 白い光は、今までよりも少し柔らかかった。


 芝居はいよいよ終盤へ向かう。


 物語の中で、盗賊たちが旅人を囲む。


 ミツが父親役の背に隠れる。


 そこへ、花道からムソウが現れる場面。


 客席は、待ってましたと言わんばかりにざわめく。


 太鼓が鳴る。


 笛が響く。


 赤い幕が跳ね上がる。


 ムソウが花道へ踏み出した。


 派手な衣装。


 大きな扇。


 腰の大太刀。


 そして、背中の四文字。


 天下無双。


 客席が沸く。


「待ってました!」


「ムソウ!」


「天下無双!」


 ムソウは一歩、花道を進んだ。


 そして立ち止まる。


 いつものように一人で全てを背負うのではなく。


 客席の後ろにシンがいる。


 舞台袖にイオがいる。


 舞台下にリンがいる。


 裏方がいる。


 役者がいる。


 観客がいる。


 全員が、この舞台を支えている。


 ムソウは扇を広げた。


「天下に二つと並ぶ者なし!」


 声が響く。


 だが、その後に少しだけ間があった。


 リンはその間に気づいた。


 ムソウが、言葉を選んでいる。


「されど!」


 ムソウの声が、芝居小屋全体を震わせた。


「花は一輪にて咲くにあらず!」


 客席が静まる。


「舞台は一人にて成るにあらず!」


 ムソウは大きく見得を切る。


「守る背は、並び立つ者あってこそ強し!」


 シンが客席の後ろで笑った。


「いいぞ!」


 イオも舞台袖で微笑む。


 リンは舞台下から、ムソウを見上げた。


 天下無双の真名が、揺れている。


 だが、弱くなっているわけではない。


 揺れながら、形を変えようとしている。


 誰にも並ばれない男が。


 誰かと同じ舞台に立とうとしている。


 芝居の盗賊役たちがムソウへ斬りかかる。


 ムソウは一歩も動かない。


 しかし今度は、一人で全てをさばいているわけではなかった。


 舞台袖から裏方が縄を引く。


 照明代わりの提灯が動き、盗賊役の影を大きく映す。


 楽師が太鼓を鳴らし、動きの間を作る。


 リンが舞台下から支柱を押さえる。


 シンが客席で暴れそうな残党を睨む。


 イオがミツの手を握っている。


 ムソウは、その中心で咲いた。


 扇が舞う。


 鞘が走る。


 大太刀は抜かない。


 盗賊たちは次々と倒れる。


 芝居として美しく。


 戦いとしても確かに強く。


 そして、守る舞台として完成していた。


 最後の盗賊役が倒れる。


 ムソウは花道の中央で静止した。


 ミツが父親役と再会し、泣きながら抱きつく。


 観客席から大きな拍手が起きた。


 芝居の筋では、ここで幕が下りる。


 だが、ムソウはもう一度、客席へ向かって扇を広げた。


「今宵の花は、わし一人のものにあらず!」


 彼は声を張った。


「舞台を守った者!」


 シンが少し驚く。


「飯と命を支えた者!」


 イオが目を丸くする。


「道を読み、橋を支えた者!」


 リンは苦笑した。


「裏で走った者! 客席で見届けた者! そして、恐れてもなお舞台に立った小さき花!」


 ムソウはミツへ視線を向けた。


 ミツは涙を拭きながら、ぺこりと頭を下げた。


「これぞ花道宿!」


 ムソウは最後に、見得を切る。


「無双は一人では咲けぬ!」


 芝居小屋が揺れるほどの拍手が起きた。


 観客は総立ちだった。


 役者たちも、裏方も、楽師も、泣いたり笑ったりしている。


 リンは舞台下で息を吐いた。


 終わった。


 守り切った。


 その瞬間、舞台の隅に残っていた黒い影が、音もなく消えた。


 弱肉強食の理は、ここでは根づかなかった。


 終演後。


 芝居小屋の裏は、泣き笑いの声で溢れていた。


 ミツは役者たちに囲まれ、何度も頭を撫でられている。


 イオは怪我人の手当てをしながら、休む暇もない。


 シンは裏方たちから握手を求められ、なぜか大道具運びの手伝いまでしていた。


「シンさん、これもお願いします!」


「おう!」


「そっちは衣装箱!」


「軽いな!」


「振り回さないで!」


 リンはようやく壁際に座り込んだ。


 疲れた。


 頭も体も使った。


 けれど、悪い疲れではなかった。


 そこへ、ムソウが歩いてきた。


 派手な衣装のまま、手には二つの茶碗を持っている。


「飲め」


「ありがとうございます」


 リンは茶を受け取った。


 ムソウは隣に座る。


 しばらく、何も言わなかった。


 珍しい沈黙だった。


「ムソウさん」


「何だ」


「今日の舞台、すごかったです」


「当然だ」


 いつもの返事。


 だが、声は少し柔らかい。


「でも、一人じゃなかった」


「……ああ」


 ムソウは茶碗の水面を見つめる。


「不思議なものだ」


「何がですか」


「誰かが隣にいると、わしの刃は重くなると思っていた」


「実際、そうなんですよね」


「そうだ。守ろうとすると、足が鈍る。背負おうとすると、真名が揺れる」


「今日も揺れてました」


「見ておったか」


「はい」


 リンは正直に答えた。


 ムソウは小さく笑う。


「だが、今日は折れなかった」


「みんなで分けたからです」


「守るものをか」


「はい」


 リンは芝居小屋の中を見た。


 舞台を片付ける裏方。


 ミツを囲む役者。


 道具を運ぶシン。


 怪我人を診るイオ。


「全部を一人で守る必要はない。自分が一番強く立てる場所に立てばいい」


「わしは花道か」


「はい」


 ムソウは天井を見上げた。


「花道に立ち、目を集める。敵も、客も、仲間も」


「それが、ムソウさんの強さです」


「天下無双は、誰にも並ばれぬ名だと思っていた」


 ムソウは静かに言った。


「だが、並ばれぬことと、共に舞台へ立てぬことは違うのかもしれぬな」


 リンは頷いた。


「たぶん」


「たぶんか」


「僕は臨機応変なので」


「便利な男よ」


「よく言われます」


 ムソウは大きく息を吐き、それから急に笑った。


「よし!」


「何ですか」


「腹が減った!」


「今その流れで?」


「湿った話の後は飯だ!」


「本当にそういう人ですね」


 ムソウは立ち上がった。


「イオ!」


 大声で呼ぶ。


「今度は何ですか!」


 イオが薬草布を持ったまま振り返る。


「飯だ!」


「怪我人の手当てが先!」


「ならば手当ての後で飯だ!」


「それならいいです!」


 シンが木箱を担ぎながら言う。


「肉あるか!」


「あなたはお腹を打たれたばかりでしょ!」


「もう治った!」


「治ってない!」


 芝居小屋に笑い声が戻る。


 夜遅く。


 芝居小屋の裏庭で、小さな食事会が開かれた。


 大鍋ではない。


 けれど、イオが花道宿の食材で作った具だくさんの汁が湯気を立てていた。


 芝居小屋の者たちが持ち寄った餅、豆、干し肉、野菜。


 ムソウがどこからか持ってきた大きな魚。


 シンが狙う肉包み。


 リンは配膳を手伝い、イオは味を整える。


 ミツも、小さな器を持って座っていた。


「これ、舞台の後に食べるとおいしい」


 ミツが言う。


 イオが笑う。


「頑張った後だからね」


 ムソウは少し離れて座っていた。


 その周囲に、人が集まり始める。


 役者たち。


 裏方。


 ミツ。


 シン。


 リン。


 イオ。


 ムソウは最初、少し戸惑っていた。


 いつもなら一人で大皿を抱えて豪快に食べていたのかもしれない。


 だが今日は、同じ鍋からよそわれた汁を、みんなと一緒に食べている。


「どうですか?」


 イオが聞く。


「うまい」


 ムソウは短く答えた。


「それだけ?」


「……温かい」


 イオは少しだけ微笑んだ。


「よかった」


 シンが肉包みを口に入れながら言う。


「ムソウ、次は俺とまた戦え」


「よかろう!」


「でも守る練習もしろ」


 ムソウがシンを見る。


「猪突猛進にそれを言われるとはな」


「俺も最近覚えた」


「水路か」


「おう」


「やはり分からんが、よいことだ!」


 リンは笑った。


 その時、裏庭の入口から、眠そうな声がした。


「いい匂いだねえ」


 三人は同時に振り返った。


 どんちゃんが立っていた。


 くたびれた旅装。


 眠そうな目。


 いつも通りの昼行灯。


「どんちゃん!」


 シンが叫ぶ。


「お前、どこ行ってた!」


「少し散歩」


「長すぎるだろ」


「道に迷ってねえ」


「本当か?」


「たぶん」


 リンは立ち上がった。


「どんちゃん」


「何かな」


「本当に散歩?」


 どんちゃんは、いつものように笑う。


「黒い獣を見てた」


 空気が少しだけ止まった。


 イオが眉をひそめる。


「黒い獣?」


「夢かもねえ」


 どんちゃんは、何でもないように言った。


 リンは一歩近づく。


「どこで見た」


「林の奥」


「何をしてた」


「食べてた」


「何を」


 どんちゃんは答えなかった。


 ただ、少しだけ目を細める。


「敗者かなあ」


 リンの背筋に冷たいものが走った。


 優勝劣敗。


 その名が頭に浮かぶ。


「まさか」


「分からないよ」


 どんちゃんは肩をすくめた。


「昼行灯だからねえ」


「それでごまかすな」


「ごまかしてるつもりはないんだけどねえ」


 ムソウが立ち上がった。


 その目は鋭い。


「昼行灯」


「何かな、天下無双」


 二人の視線が合う。


 ほんの一瞬。


 裏庭の空気が張り詰めた。


 シンもイオも、何かを感じて黙った。


 リンは二人を見た。


 ムソウの真名が微かに騒いでいる。


 どんちゃんは、相変わらず弱そうに立っている。


 だが、その弱さが逆に不気味だった。


「そなた」


 ムソウが言う。


「何を知っている」


「少しだけ」


「何を」


「弱いものを食べる人は、いつか自分も食べられるってこと」


 どんちゃんは眠そうに笑った。


「怖いよねえ」


 ムソウはしばらく黙った。


 やがて、扇を閉じる。


「……飯を食え」


「いいの?」


「立っておられると落ち着かぬ」


「それはありがたいねえ」


 どんちゃんは何事もなかったように座った。


 イオは少し迷いながらも、器に汁をよそる。


「働いてないから少なめ」


「今日はそれでもいいよ」


「珍しい」


「歩き疲れたからねえ」


 シンがどんちゃんを睨む。


「俺の肉はやらねえぞ」


「少しでいいよ」


「やらねえ」


「けちだねえ」


 いつものやり取りに戻った。


 けれど、リンの中の違和感は消えなかった。


 黒い獣。


 敗者を食べる。


 弱肉強食。


 どんちゃんは、何を見たのか。


 そして、なぜ無事に戻ってきたのか。


 夜が更けていく。


 花道宿の芝居小屋では、守り切った舞台の余韻がまだ残っていた。


 ムソウは同じ鍋を囲み、少しだけ笑い方を変えた。


 シンは次の手合わせを約束し、腹をさすりながら肉を狙った。


 イオはミツの手首をもう一度診て、安心したように息を吐いた。


 リンは、どんちゃんの言葉を胸の奥にしまった。


 無双は一人では咲けない。


 その夜、天下無双の男は初めて、それを少しだけ受け入れた。


 そして旅人たちは、弱肉強食という名の本当の恐ろしさへ、また一歩近づいていた。

【後書き】


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


リンは考え、シンは突っ込み、イオは鍋を握る。


そんな三人の旅を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。


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