13話 守るほど弱くなる男
【前書き】
四字熟語が真名になる世界。
臨機応変、猪突猛進、医食同源の三人が、今日も腹を空かせて旅をします。
バトルあり、料理あり、ちょっとした言葉の物語あり。
よろしくお願いします。
花道宿の昼は、さっきまで賑やかだった。
茶屋では客が笑い、通りでは役者が声を張り、芝居小屋の前では今夜の興行を待つ者たちが列を作り始めていた。
だが、若い役者の一言で空気は変わった。
「子役の子が、いなくなったんです!」
ムソウの顔から笑みが消えた。
天下無双。
その四文字が、背中で白く揺れる。
「案内せい」
声は低い。
いつもの大げさな調子ではなかった。
リン、シン、イオも立ち上がる。
シンは鉄棒を担ぎ、イオは薬草袋を腰に結び直した。
「その子の名前は?」
リンが若い役者に尋ねる。
「ミツです。八歳の女の子で、今夜の芝居で旅人の子ども役を」
「最後に見たのは?」
「朝です。芝居小屋の裏で、大道具の手入れを見ていました」
「大道具も壊されたんだよな」
「はい。橋の場面で使う木組みが壊されていて……」
ムソウが歩き出す。
大股で、速い。
シンがその隣へ並んだ。
「さらったやつがいたら殴っていいか」
「よい」
ムソウは即答した。
リンがすぐに言う。
「待て。相手と状況を見てからだ」
「子どもさらったんだろ」
「まだ決まってない」
「決まってるようなもんだ」
「そう思い込むと見落とす」
ムソウは振り返らない。
しかし、その背中の光がまた揺れた。
リンはそれを見た。
昨日の舞台で、一歩も動かなかった男。
今朝、シンの猛攻を半歩だけで制した男。
その真名が、今は落ち着かない火のように揺れている。
芝居小屋の裏へ着くと、そこは混乱していた。
役者、裏方、衣装係、楽師。
多くの者が右往左往している。
壊された大道具が、壁際に積まれていた。
橋を模した木組み。
折れた柱。
切られた綱。
踏み潰された花飾り。
ただの事故ではない。
明らかに誰かが壊していた。
「ひどい」
イオが呟く。
「これ、今夜の舞台で使うんですか?」
「はい」
若い役者が青い顔で答える。
「この橋の上で、ミツが旅人の父と再会する場面があるんです。あの子がいないと芝居が……」
ムソウが壊れた木組みの前にしゃがむ。
折れた柱を手に取る。
「刃物ではないな」
リンも確認する。
「力任せに折ってる。でも、綱は切られてる」
「複数か?」
「たぶん」
シンが周囲を見回す。
「匂いとか足跡とかねえのか」
「獣じゃないんだから」
リンは地面を見る。
土の上に、いくつかの足跡があった。
裏口から、芝居小屋の裏手にある細い道へ続いている。
その先は、古い倉庫街へ向かっていた。
「足跡がある」
リンが言う。
「なら追うぞ」
シンがすぐに動こうとする。
「待て」
「またか!」
「足跡は一つじゃない。大人が三人か四人。それと、小さい足跡」
「ミツって子か」
「たぶん」
イオがしゃがみ込んで足跡を見た。
「小さい足跡、途中から乱れてる」
「抵抗したか、引きずられたか」
リンが言う。
ムソウの拳が握られた。
白い真名が強く光る。
「行くぞ」
その声は静かだった。
静かすぎて、リンは逆に怖くなった。
裏道を進む。
花道宿の表通りは賑やかだが、少し奥へ入ると人通りは少ない。
古い倉庫が並び、使われなくなった芝居道具や壊れた荷車が積まれている。
風が吹くと、破れた幟が乾いた音を立てた。
足跡は、その奥の廃倉庫へ続いていた。
「ここだな」
シンが鉄棒を構える。
「待て」
リンは扉の隙間から中を覗いた。
暗い。
しかし、奥に人影がある。
男が三人。
昨日の荒くれ者とは違う。
旅人風ではあるが、芝居小屋の裏手にいた者たちよりも動きが荒い。
その隅に、縄で手を縛られた小さな少女が座らされていた。
ミツだろう。
口に布を噛まされている。
泣いてはいない。
だが、目は恐怖で大きく見開かれていた。
イオが息を呑む。
「いた」
シンが一歩踏み出そうとする。
リンが腕を掴む。
「中に罠があるかもしれない」
「子どもがいる」
「だからこそだ」
ムソウは扉の前に立った。
「わしが行く」
リンはムソウの背中を見る。
真名の光が、また揺れた。
「待ってください」
「何だ」
「中にはミツがいる。相手は人質を取っている」
「分かっておる」
「一人で突っ込めば、相手はミツを狙う」
ムソウの目が細くなった。
「では、どうする」
「役割を分ける。シンは入口で正面を抑える。僕は横の窓から入って縄を切る。イオは外で待機して、怪我人が出たらすぐ診る。ムソウさんは――」
「わしが正面だ」
ムソウが言った。
「正面で引きつける」
「それは」
「天下無双を前にして、わし以外を見る者などおらぬ」
確かに、それは正しい。
ムソウが正面に立てば、敵は彼を見る。
だが。
リンは嫌な予感がした。
「ムソウさん」
「案ずるな」
ムソウは笑った。
いつもの豪快な笑みを作ろうとしている。
だが、少しだけ硬い。
「守るべきものがある時ほど、前に立つ者が必要だ」
そう言って、ムソウは扉を開けた。
古い扉が、ぎい、と鳴る。
倉庫の中の男たちが振り返った。
「誰だ!」
ムソウは一歩、倉庫へ入る。
いや。
一歩だけ入って、止まった。
「子をさらい、舞台を壊すとは」
扇を広げる。
「野暮にも程がある」
男たちの顔色が変わる。
「天下無双……!」
「なぜここが」
「うるせえ、子どもを押さえろ!」
一人の男がミツへ近づく。
その瞬間、リンは横の割れ窓から倉庫へ滑り込んだ。
シンも入口から踏み込む。
「そいつに触るな!」
シンの声が倉庫を震わせる。
男の動きが止まる。
ムソウは正面に立ったまま、扇を閉じた。
「相手はわしだ」
「だったら!」
男二人がムソウへ飛びかかる。
ムソウは昨日のように動かなかった。
扇で一人の棒を流す。
鞘で二人目の刃を受ける。
ここまでは、完璧だった。
だが。
奥の男がミツの肩を掴もうとした瞬間、ムソウの目がそちらへ動いた。
ほんの一瞬。
その一瞬で、扇の角度がずれた。
男の棒がムソウの肩をかすめた。
「っ」
ムソウがわずかに後ろへ下がる。
リンは見た。
天下無双が、一歩動いた。
自分を狙う攻撃ではない。
守るべき少女へ向かった手。
それを見た瞬間、ムソウの動きが乱れた。
「ムソウさん!」
リンは走る。
奥の男がミツを引き寄せようとする。
シンが鉄棒を振るい、近くの木箱を叩き壊した。
破片が飛び、男の足元へ散る。
「触るなって言っただろ!」
男が怯む。
その隙にリンがミツの背後へ回り、縄を切ろうとした。
だが、別の男が短剣を抜いて迫る。
ムソウが動こうとする。
しかしまた、ミツとリンの位置を確認した瞬間、足が止まった。
倉庫は狭い。
ムソウが全力で動けば、敵だけでなくリンやミツも巻き込む。
大太刀は抜けない。
扇も鞘も、角度を間違えれば味方に当たる。
天下無双の真名が、白く揺れた。
強い。
だが、鈍っている。
リンは確信した。
ムソウは一人なら最強だ。
けれど、守るべきものがあると迷う。
迷うほど、無双が揺らぐ。
「シン!」
リンが叫ぶ。
「奥の男を止めろ!」
「おう!」
シンが倉庫の中央を突っ切る。
男たちが慌てて避ける。
猪突猛進。
その勢いは、倉庫の中でも止まらない。
「壁を壊すな!」
リンが叫ぶ。
「分かってる!」
シンは鉄棒を横に寝かせ、奥の男の胴へ押し当てた。
殴るのではなく、押す。
男は壁際へ吹き飛び、息を詰まらせて倒れた。
「壊してねえ!」
「よし!」
リンはミツの縄を切った。
少女の口から布を外す。
「大丈夫?」
ミツは震えながら頷いた。
「走れる?」
「……うん」
「イオのところへ」
リンはミツを抱えるようにして、割れ窓へ向かう。
外からイオが手を伸ばした。
「こっち!」
ミツを外へ逃がす。
その瞬間、ムソウの背中の光が少し戻った。
守るべき少女が、離れた。
ムソウの目が鋭くなる。
「さて」
彼は扇を広げた。
「ここからは、わし一人を見ていればよい」
空気が変わった。
男たちが息を呑む。
ムソウが、一歩前へ出る。
今度は迷いがない。
目の前の敵だけを見る。
守るものは背後にいない。
隣に味方もいない。
天下に、ただ一人で立つ。
その瞬間、天下無双の四文字が強く輝いた。
「ひっ」
男の一人が後ずさる。
ムソウは大太刀を抜かない。
鞘を軽く持ち上げる。
「遅い」
次の瞬間、鞘が男の手首を打ち、武器が落ちた。
扇が開き、もう一人の視界を塞ぐ。
足元の木片を軽く蹴る。
男が勝手につまずく。
三人目が逃げようとするが、シンが入口を塞いだ。
「逃がさねえ」
「殺すなよ」
リンが言う。
「分かってる」
シンは鉄棒の柄で男の腹を軽く突いた。
男はその場に崩れ落ちる。
「軽くだ」
「本当に軽かったか?」
「俺にしては」
イオが外から叫ぶ。
「あとで診るから、死なせないで!」
「死んでねえ!」
ムソウは最後の男の前に立った。
男は膝をついて震えている。
「誰に頼まれた」
ムソウが問う。
「し、知らねえ」
「舞台を壊し、子をさらった理由は」
「金だ! 金をもらっただけだ!」
「誰から」
「顔は見てねえ! 声だけだ!」
リンが近づく。
「どんな声だった」
「低い声だ……負けた芝居小屋は町に不要だって……今夜の舞台を潰せば、金をやるって……」
「負けた芝居小屋?」
イオがミツを抱えながら、倉庫の入口に立つ。
「優勝劣敗と同じ考え方」
リンは眉をひそめた。
弱肉強食の影が、ここにも届いているのか。
百花繚乱の町だけではない。
勝てないものは消える。
弱いものは食われる。
その理が、別の形でこの宿場にも忍び込んでいる。
ムソウは男を見下ろす。
「芝居は勝ち負けだけではない」
低く言った。
「見た者の心に花を咲かせるものだ」
男は震えている。
シンが縄を持ってくる。
「縛るか」
「そうだな」
リンは頷いた。
「町の人へ引き渡そう」
その後、ミツはイオの手当てを受けた。
大きな怪我はなかったが、手首に縄の跡が残っていた。
イオは薬草をすり潰し、布に塗って巻く。
「痛くない?」
「少し」
「我慢しなくていいよ」
「……怖かった」
「うん」
ミツの目から涙がこぼれた。
イオは優しく抱き寄せる。
「もう大丈夫」
ムソウは少し離れた場所に立っていた。
背中を向けている。
いつものように大きく笑うこともない。
シンが近づく。
「ムソウ」
「何だ」
「さっき、一歩動いたな」
リンは思わずシンを見た。
そこを正面から言うのか。
ムソウの肩がわずかに動く。
「気づいたか」
「俺でも分かる」
「それは相当だな」
ムソウは笑おうとした。
だが、笑いきれなかった。
シンは腕を組む。
「お前、一人の時はめちゃくちゃ強い」
「天下無双だからな」
「でも、あの子が狙われたら鈍った」
ムソウは黙る。
リンも歩み寄った。
「やっぱり、そうなんですね」
「何がだ」
「守るものがあると、力が落ちる」
ムソウはしばらく何も言わなかった。
風が、倉庫街の破れた幟を揺らす。
遠くでは、芝居小屋の太鼓が鳴っていた。
今夜の興行をどうするか、町ではまだ騒ぎになっているはずだ。
ムソウはゆっくり口を開いた。
「天下無双とは、天下に二つと並ぶ者なし」
その声は、いつもの大仰な響きではなかった。
「わしは一人で立つ時、最も強い。一人で敵を見、一人で受け、一人で斬る時、迷いはない」
「でも」
イオが静かに言う。
「誰かを守ろうとすると、迷うんですね」
ムソウは頷かなかった。
否定もしなかった。
「誰かが隣にいると、わしの刃は重くなる」
彼は自分の大太刀へ目を落とした。
「誰かを背負うと、足が鈍る。守るべき者が視界に入ると、敵だけを見られなくなる」
「それが、真名の弱点か」
リンが言う。
「弱点ではない」
ムソウは少しだけ笑った。
「呪いよ」
シンは眉をひそめた。
「呪い?」
「天下に並ぶ者なし。誰も隣に立てぬ。立たせてはならぬ。そういう名だ」
ムソウの声が、ほんの少しだけ沈む。
「だから、わしは守るのが下手だ」
イオは何かを言いかけた。
だが、その前にムソウはいつものように大きく手を叩いた。
「さて!」
空気を切り替えるような声だった。
「ミツは無事! 犯人も捕らえた! 大道具は壊れたが、今夜の芝居はどうにかせねばな!」
「今の話、終わらせるんですか」
リンが言う。
「湿った話は飯時に合わぬ!」
「まだ飯時じゃない」
「なら、飯時にする!」
「無理やりだな」
シンはムソウを見る。
「大道具、直せばいいんだろ」
「簡単に言うな」
リンが言う。
「でも、やるしかない」
イオも頷いた。
「ミツちゃん、今夜出られる?」
ミツは涙を拭き、少し震えながらも頷いた。
「出たい」
「無理しなくていいよ」
「出たい。みんな、待ってるから」
ムソウはミツを見る。
その目に、また揺れが生まれる。
守りたい。
でも、守ろうとすると弱くなる。
その矛盾が、彼の中にある。
リンはそれを見て、静かに言った。
「ムソウさん」
「何だ」
「全部、一人で守ろうとしなくていい」
ムソウの視線がリンへ向く。
「何?」
「芝居小屋も、ミツも、町も。全部あなた一人で背負う必要はない」
「……」
「役割を分ければいい」
シンが鉄棒を担ぐ。
「俺は正面を守る」
イオがミツの肩に手を置く。
「私は怪我人と子どもたちを見る」
リンは壊れた大道具を見る。
「僕は舞台の仕掛けと人の配置を考える」
ムソウは三人を見る。
天下無双の男が。
誰にも並ばせない真名を持つ男が。
初めて、少し戸惑った顔をした。
「わしは」
リンが答える。
「あなたは、花道に立ってください」
「花道に?」
「一番目立つ場所に立つ。それがあなたの役割です」
シンが笑う。
「派手なの得意だろ」
「得意どころではない」
ムソウは少しずつ笑みを戻す。
「天下無双の本分よ」
「じゃあ、それをやってください」
リンは言った。
「守ることを、一人でやろうとしないで」
ムソウは黙った。
しばらくして、扇を広げる。
顔にいつもの派手な笑みを作る。
だが、今度は少し違った。
無理に隠す笑いではなく、何かを受け入れようとする笑いだった。
「猪突猛進に、臨機応変に、医食同源か」
ムソウは大きく息を吸った。
「妙な縁だ」
シンが言う。
「飯も食うぞ」
「それも大事だな!」
イオがため息をつく。
「とりあえず、芝居小屋へ戻ろう。大道具を直さないと」
「そうだ」
リンは周囲を見回した。
「どんちゃんがいれば、変な助言くらいくれそうだけど」
シンも思い出したように言う。
「そういや、どんちゃん見ねえな」
「飯の匂いがしないからかも」
イオが言う。
リンは空を見た。
昼行灯のどんちゃん。
あの男は、どこへ消えたのか。
その頃。
花道宿から少し離れた、暗い林の奥。
昼間でも薄暗いその場所に、一人の男が膝をついていた。
煤けた金色の四文字。
優勝劣敗。
百花繚乱の町から逃げ延びた男だった。
「お許しください……」
彼は地面に額をこすりつける。
「次こそは、必ず。あの町も、旅人たちも、必ず敗者として――」
闇の奥から、低い声がした。
「負けたのだろう」
優勝劣敗の体が震える。
「いえ、あれは一時の混乱で……」
「負けたのだろう」
「私は、勝者の側におります。弱きものを裁くために、私は――」
闇の中で、何かが動いた。
牙の形をした影。
黒い獣の口。
そして、巨大な四文字の気配。
弱肉強食。
「弱き者は食われる」
声が響く。
「それを広めたお前が、なぜ自分だけは食われぬと思った」
優勝劣敗は顔を上げた。
「お待ちください! 私はまだ使えます! 私は勝者の――」
「違う」
黒い牙が開く。
「お前は、敗者だ」
優勝劣敗の背中から、四文字が剥がれ始めた。
「いやだ……私の名が……私の価値が……!」
金色の文字が砕け、黒い獣の口へ吸い込まれていく。
優勝劣敗の叫びは、林の闇に飲まれた。
やがて、何も残らなかった。
ただ、黒い影だけが満足そうに揺れる。
その少し離れた木の陰に、旅人が一人立っていた。
くたびれた旅装。
眠そうな目。
昼行灯のどんちゃん。
「怖いねえ」
どんちゃんは、静かに呟いた。
闇の奥の気配が、わずかにこちらを向く。
「そこにいるのは誰だ」
どんちゃんは、いつものようにふにゃりと笑った。
「ただの昼行灯だよ」
「三文字か」
「うん。弱そうでしょ」
黒い影が、どんちゃんを見つめる。
牙がわずかに開いた。
だが、次の瞬間、風が吹いた。
木の葉が舞う。
そこにいたはずのどんちゃんの姿は、もうなかった。
闇の奥で、低い唸り声だけが残る。
花道宿では、リンたちが芝居小屋へ戻ろうとしていた。
今夜の舞台を守るために。
天下無双の男が、一人ではなく誰かと並ぶために。
そして彼らはまだ知らない。
どんちゃんが、黒い獣を見ていたことを。
【後書き】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
リンは考え、シンは突っ込み、イオは鍋を握る。
そんな三人の旅を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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