12話 天下に並ぶ者なし
【前書き】
四字熟語が真名になる世界。
臨機応変、猪突猛進、医食同源の三人が、今日も腹を空かせて旅をします。
バトルあり、料理あり、ちょっとした言葉の物語あり。
よろしくお願いします。
花道宿の夜は、提灯の赤で染まっていた。
芝居小屋の前には、人の波ができている。
商人、旅人、町人、子ども、役者の追っかけらしき若者たち。
誰もが入口へ向かって押し寄せ、客引きの声と太鼓の音が混ざり合っていた。
「立ち見だってよ!」
「今夜は特別興行だ!」
「天下無双が出るらしいぞ!」
「本物か?」
「さあな。でも派手なら何でもいい!」
シンは人混みの中で、完全に目を輝かせていた。
「リン、早く行くぞ」
「押すな」
「前が空いてる」
「空いてない。人がいる」
「どけば空く」
「そういう考え方をやめろ」
イオは鍋道具を宿へ置いてきたため、今日は身軽だった。
それでも人混みに押されないよう、リンの袖をつかんでいる。
「すごい人ね」
「芝居小屋が名物らしいからな」
「でも半分くらい、ムソウさん目当てじゃない?」
周囲から聞こえる声は、確かに天下無双の噂ばかりだった。
屋根の上で荒くれ者を倒した。
一歩も動かず十人を転がした。
刀を抜かずに喧嘩を止めた。
声だけで相手を怯ませた。
噂はもう、半分芝居になっている。
「いいじゃねえか」
シンが笑う。
「強いやつは噂も強い」
「意味が分からない」
「分かれ」
「無理だ」
どんちゃんは、少し後ろからのんびり歩いていた。
人混みの中なのに、なぜか誰にもぶつからない。
眠そうな目で芝居小屋を見上げる。
「にぎやかだねえ」
「どんちゃん、置いていくぞ」
シンが言う。
「それは困るねえ」
「なら早く歩け」
「急ぐと疲れるからねえ」
「何しに来たんだよ」
「芝居を見に」
「なら急げ」
「芝居は逃げないよ」
その時、入口の係がリンたちを見つけた。
「あんたたち、ムソウ殿の連れだな?」
「連れというか、今日会ったばかりです」
リンが答える。
「ムソウ殿から聞いてる。立ち見でよければ入れとのことだ」
「助かります」
「ただし、中で暴れるなよ」
係は特にシンを見た。
シンは胸を張る。
「俺は暴れない」
リンとイオが同時に言った。
「信用できない」
「信用ねえな!」
「ない」
入口を抜けると、芝居小屋の中はさらに熱気に満ちていた。
中央に舞台。
客席を貫く花道。
左右には提灯。
奥には太鼓と笛の奏者たち。
天井近くまで人が詰めかけ、立ち見の場所もほとんど残っていない。
リンたちは壁際に立った。
シンは背が高いので舞台がよく見えるらしい。
イオは少し見づらそうにしている。
リンは場所を変えようとしたが、その前にどんちゃんが木箱を一つ指差した。
「そこ、乗れるんじゃないかなあ」
「勝手に使っていいの?」
イオが聞く。
「たぶん、客用だよ」
近くの係が頷いた。
「ああ、小さい人用の踏み台だ」
「小さいって言われると少し嫌だけど、ありがとう」
イオは木箱に乗った。
「どんちゃん、珍しく役に立ったな」
シンが言う。
「珍しくは余計だねえ」
どんちゃんは壁際に寄りかかる。
すでに半分眠そうだった。
やがて、太鼓が鳴った。
客席が静まる。
幕が上がる。
舞台に現れたのは、白塗りの役者たちだった。
話は、花道宿に伝わる古い物語らしい。
荒れた街道。
奪われる荷。
泣く旅人。
それを救う、名もなき用心棒。
役者たちは大げさに泣き、大げさに怒り、大げさに斬り合った。
シンは最初、芝居の動きに首を傾げていた。
「遅くねえか?」
「見せるための動きだ」
リンが小声で言う。
「本当に斬るなら、あんなにためない」
「芝居だから」
「でも隙だらけだ」
「芝居だから」
「敵も待ってる」
「芝居だから」
「面倒だな」
「お前は楽しみ方が下手だな」
イオは役者の動きを見ながら呟いた。
「でも、きれい」
舞台の上で、役者が扇を広げる。
花道を歩く。
提灯の光を受け、衣装の金糸が輝く。
観客が息を呑む。
確かに、戦いとは違う美しさがあった。
どんちゃんも、眠そうな目を少しだけ開けている。
「きれいだねえ」
「起きてたのか」
リンが聞く。
「半分くらい」
「半分寝てるのか」
「芝居は夢みたいなものだからねえ」
「それは少し分かるかも」
そして、物語が盛り上がったところで、舞台奥から大きな太鼓が鳴った。
客席がざわめく。
花道の奥。
赤い幕の向こうから、低い笑い声が響いた。
「待たせたな!」
幕が跳ね上がる。
そこに立っていたのは、天下無双のムソウだった。
昼間と同じく、派手だった。
いや、昼間以上だった。
朱と黒の衣装に、金の刺繍。
片肌を脱ぎ、肩から大きな布を流している。
腰には大太刀。
手には扇。
顔には芝居用の隈取りが施され、目元がさらに鋭く見えた。
客席が爆発するように沸いた。
「ムソウ!」
「天下無双!」
「待ってました!」
シンも叫んだ。
「待ってたぞ!」
イオが肘でつつく。
「声大きい」
「周りも叫んでる」
「あなたの声が一番大きい」
ムソウは花道の上で足を止める。
扇を広げる。
そして、大きく見得を切った。
「天下に二つと並ぶ者なし!」
太鼓が鳴る。
「咲いて散らせぬこの命!」
笛が高く響く。
「天下無双のムソウ、花道宿に推参!」
客席が再び沸いた。
リンは思わず感心した。
強いだけではない。
見せ方を知っている。
どこで止まり、どこで声を張り、どこで客の視線を集めるか。
ムソウはそれを本能的に分かっているようだった。
「ただの喧嘩好きじゃないんだな」
リンが呟く。
「当然だ!」
なぜか舞台上のムソウが反応した。
「聞こえてるのかよ!」
シンが笑う。
客席も笑った。
ムソウは芝居の中で、盗賊役の男たちと向かい合う。
盗賊は十人。
昼間の荒くれ者たちを思わせる数だった。
芝居とはいえ、役者たちの動きは鋭い。
木刀が振られ、槍が突き出される。
ムソウは花道の中央から、一歩も動かなかった。
扇で木刀を流す。
鞘で槍を押さえる。
肩をわずかに傾けて斬撃を避ける。
相手の足運びを誘い、勝手に転ばせる。
すべてが芝居として美しく、同時に本物の技だった。
シンは息を呑む。
「すげえ」
「本当に動いてない」
イオも驚いている。
リンはムソウの足元を見ていた。
一歩も動かない。
だが、上半身の使い方、視線、呼吸、武器の角度で全てを制している。
まるで、ムソウの周囲だけが彼の領域になっているようだった。
天下無双。
天下に並ぶ者なし。
その場に一人で立つ時、彼は本当に揺るがない。
最後に、盗賊役の十人が一斉に斬りかかる。
ムソウは扇を閉じ、大太刀の柄に手を添えた。
しかし、抜かない。
柄で床を一度、強く叩く。
ドン。
舞台が震える。
十人の役者が同時に動きを止める。
次の瞬間、全員が後ろへ倒れた。
客席が総立ちになる。
「天下無双!」
「日本一!」
「いや、この世界一!」
シンは拳を握って震えていた。
「戦いてえ」
「今のを見てまだ言うのか」
リンが呆れる。
「見たからだ」
「本当に分かりやすいな」
舞台はそのまま終幕へ向かった。
救われた旅人たちがムソウへ頭を下げる。
ムソウは高笑いし、花道の中央で最後の見得を切る。
「弱きを踏んで立つ強さなど、足元が臭くてかなわん!」
客席から笑いと拍手が起きた。
「強き者こそ、粋に咲け!」
幕が下りる。
芝居小屋は歓声に包まれた。
リンも拍手をしていた。
イオも少し興奮した顔をしている。
「すごかった」
「ああ」
「芝居なのに、本当に守られてる感じがした」
その言葉に、リンは少しだけ引っかかった。
守られている感じ。
確かに舞台上のムソウは、盗賊を倒すより、場そのものを支配していた。
けれど。
誰かを守っていたかと言われると、少し違う。
守るべき旅人たちは、舞台の後ろに下がっていた。
ムソウは一人で前に立っていた。
誰も隣にいない場所でこそ、彼は最も強く見えた。
芝居が終わると、客たちは興奮したまま外へ流れていった。
リンたちは裏口の方へ案内された。
芝居小屋の裏では、役者たちが衣装を脱ぎ、汗を拭っている。
ムソウはまだ派手な衣装のまま、中央に座っていた。
目の前には、大きな飯櫃と焼き魚と肉包みが並んでいる。
「おお、来たか!」
ムソウは飯をかき込みながら笑った。
「見たぞ!」
シンが叫ぶ。
「よかったぞ!」
「そうかそうか!」
ムソウは嬉しそうに笑う。
「芝居はよい。人が笑い、泣き、腹を鳴らす」
「腹は関係あるのか」
リンが聞く。
「大いにある! よい芝居の後は飯がうまい!」
「それは分かる」
シンが頷く。
イオはムソウの前の食事量を見て、少し引いていた。
「それ、一人分ですか?」
「足りぬか?」
「多い方の心配です」
「天下無双は腹も無双よ!」
「シンと同じ種類だ」
リンが呟く。
シンはムソウの向かいに座る。
「明日の朝、戦おう」
「よい!」
「即答するな」
リンが止める。
「町の外なら問題なかろう!」
ムソウが言う。
「問題はあります。シンが怪我します」
「怪我は戦えばする」
シンが答える。
「する前提で話すな」
イオは冷たく言った。
「治療はしないって言ったよね」
「本当にしないのか?」
「軽傷なら自分で舐めて」
「ひどい」
「自業自得」
ムソウは大笑いした。
「よい仲間だな、シン!」
「仲間だ」
シンは胸を張る。
「リンは考えすぎる。イオは飯がうまい。どんちゃんは働かない」
「あれ?」
イオが周囲を見た。
「どんちゃんは?」
リンも振り返る。
さっきまで一緒にいたはずだ。
芝居小屋の中でも、壁際で欠伸をしていた。
しかし、裏口へ来た時には姿が見えない。
「また寝床でも探してるんじゃないか?」
シンが言う。
「勝手に消えたのか」
「どんちゃんだからな」
「理由になってるようで、なってない」
リンは少し気になったが、今は探しに行くほどでもない。
どんちゃんは以前から、ふらりと現れてふらりと消える。
ただ今回は、ムソウと顔を合わせた直後だけに、少し引っかかった。
ムソウは飯を食べる手を止めた。
「昼行灯の男か」
「知ってるんですか?」
リンが聞く。
「いや」
ムソウはすぐに笑った。
「知らぬ」
「本当に?」
「天下無双は嘘をつかぬ!」
「その言い方、少し怪しいですね」
「鋭いな、リン!」
「ごまかした」
ムソウは焼き魚を丸ごと食べた。
「ただ、妙な男ではある」
「そう思いますか」
「三文字は珍しい。それに、気配が薄すぎる」
シンが頷く。
「だよな。俺も思った」
「シンが気づくくらいだから、よほどだな」
「どういう意味だ!」
「褒めてる」
「嘘つけ!」
ムソウはまた笑った。
だが、その笑いは一瞬だけ弱かった。
リンは気づいた。
ムソウはどんちゃんを知らないと言った。
でも、何かを感じている。
それは警戒か。
違和感か。
あるいは、自分と似た何かか。
「ムソウさん」
リンは話を変えた。
「あなたは旅をしているんですか?」
「そうだ」
「目的は?」
「花道を歩くためよ」
「それは芝居の?」
「人生のだ!」
「分かるようで分からない」
ムソウは飯櫃を空にし、茶を飲んだ。
「天下無双とは、天下に二つと並ぶ者なしということ」
彼は自分の背中の真名へ触れるように、胸を張った。
「わしは、どこへ行っても一人で立つ。一人で勝つ。一人で咲く」
シンの目が輝く。
「かっけえ」
リンは黙って聞く。
ムソウは笑っている。
豪快に。
派手に。
だが、言葉の端に、どこか冷たいものが混ざっていた。
「一人で寂しくないんですか」
イオがぽつりと聞いた。
ムソウの笑いが止まった。
部屋の空気が一瞬だけ静まる。
シンもリンも、イオを見る。
イオは慌てた。
「あ、ごめんなさい。変なこと聞いて」
「いや」
ムソウは少しだけ目を伏せた。
「よい問いだ」
「答えにくいなら」
「寂しいなどと」
ムソウは再び笑った。
少し大きすぎる声で。
「天下無双が言うものか!」
その声に、周囲の役者たちが振り返る。
ムソウは豪快に飯茶碗を置いた。
「隣に誰も立てぬなら、舞台を広げればよい! 見物人が多ければ、それで花よ!」
シンは納得したように頷いた。
「なるほど!」
リンは納得しなかった。
イオも、たぶん同じだった。
ムソウは立ち上がる。
「さて、飯も食った。少し外の空気を吸う」
「明日の朝、忘れるなよ」
シンが言う。
「忘れるものか!」
ムソウは扇を広げる。
「猪突猛進のシンよ、町の外れ、朝日が昇る頃に来い!」
「行く!」
「怪我しても知らないからね」
イオが言う。
「ならば怪我せぬよう戦おう!」
「できるの?」
「天下無双だからな!」
「答えになってない」
ムソウは裏口から外へ出た。
その背中は大きい。
派手で、強くて、迷いがないように見える。
しかしリンには、少しだけ分かった気がした。
あの背中の横には、誰もいない。
翌朝。
朝日はまだ、丘の向こうから半分だけ顔を出していた。
花道宿の外れにある空き地。
町から少し離れ、周囲に人家はない。
地面は踏み固められ、旅人たちが休憩に使う場所らしい。
そこに、シンとムソウが向かい合って立っていた。
リンとイオは少し離れて見ている。
どんちゃんの姿は、やはりない。
「本当に来ないね、どんちゃん」
イオが言った。
「珍しいな」
リンは周囲を見た。
「飯の時間には戻るんじゃないか」
「それはありそう」
シンは鉄棒を構える。
ムソウは大太刀を抜かず、鞘ごと腰に差している。
衣装は昨日より動きやすい旅装だが、それでも派手だった。
朱色の羽織。
黒い帯。
腕には赤い紐。
「抜かねえのか?」
シンが聞く。
「抜けば斬れる」
ムソウは答えた。
「わしはそなたを斬りたいわけではない」
「じゃあ俺も殺す気はねえ」
「よい」
リンが声を上げる。
「決まりを作るぞ。相手を殺さない。町へ被害を出さない。イオの治療を前提に無茶しない」
「三つ目は余計だ」
シンが言う。
「一番大事だ」
イオは腕を組んでいる。
「骨折したら、夕飯は野菜だけ」
シンの顔色が変わった。
「それは困る」
「なら加減して」
「分かった」
ムソウは笑った。
「よい縛りだ。飯は命を縛るな!」
「縛ってるつもりはないです」
リンは手を上げた。
「始め!」
シンが地面を蹴った。
猪突猛進。
赤い四文字が背中で燃える。
鉄棒を構え、真正面から突っ込む。
ムソウは動かない。
一歩も。
シンの鉄棒が唸りを上げる。
ムソウは扇を閉じ、鉄棒の側面を軽く叩いた。
角度がずれる。
シンの一撃はムソウの肩をかすめ、地面へ突き刺さった。
土が跳ねる。
「何っ!」
「よい力だ!」
ムソウは笑う。
「だが真っ直ぐすぎる!」
「なら曲げる!」
シンは鉄棒を引き抜き、横から振るう。
ムソウは鞘で受ける。
重い音が響く。
だが、ムソウの足は動かない。
リンは目を見開いた。
シンの力を正面から受けたのではない。
受け流している。
鉄棒の勢いを、地面へ、空へ、シン自身の体勢へ逃がしている。
だから動かない。
「すごい」
イオが呟く。
「一人で立っている時は、本当に隙がない」
リンも頷く。
シンは何度も打ち込む。
上から。
横から。
下から。
突き。
払い。
叩きつけ。
どれも重い。
まともに食らえば、岩でも砕ける。
だが、ムソウは一歩も動かず、すべてをいなす。
扇。
鞘。
肩。
肘。
ほんのわずかな体の傾き。
その全てが、シンの力を空へ逃がしていた。
「どうした、猪突猛進!」
ムソウが叫ぶ。
「前だけでは届かぬぞ!」
「うるせえ!」
シンは笑っていた。
楽しくて仕方ない顔だった。
「最高だな、お前!」
「そなたもな!」
打ち合いはさらに激しくなる。
リンは少し心配になった。
町から離れているとはいえ、地面はどんどん抉れている。
イオも眉をひそめた。
「これ、止めた方がいい?」
「もう少しだけ」
リンは二人の動きを見る。
シンは押しているようで、押し切れない。
ムソウは動いていないようで、完全に場を支配している。
このままなら、シンが先に体力を削られる。
だが、シンも馬鹿ではない。
自給自足の村で学んだ。
一人で突っ込むだけでは、届かないことを。
シンは一度、大きく後ろへ下がった。
「ほう」
ムソウが目を細める。
「止まったな」
「止まれる」
シンは息を吐いた。
「昨日より分かってる」
リンは少し笑った。
「あれ、まだ使ってる」
シンは鉄棒を低く構える。
真正面ではない。
少し斜め。
ムソウの足元へ向かう角度。
「行くぞ」
「来い!」
シンが突っ込む。
しかし途中で、わずかに進路を変えた。
猪突猛進の勢いはそのままに、目標をムソウの体ではなく、足元の地面へ移す。
鉄棒が地面を叩いた。
土が爆ぜる。
足場が揺れる。
ムソウの体が、ほんのわずかに傾いた。
「おっ」
ムソウの足が半歩動いた。
その瞬間、シンが笑う。
「動いた!」
ムソウも笑った。
「見事!」
次の瞬間、ムソウの鞘がシンの腹に軽く入った。
「ぐっ!」
シンが後ろへ吹き飛ぶ。
地面を転がり、仰向けに倒れた。
リンとイオが駆け寄る。
「シン!」
「大丈夫?」
シンは空を見上げながら笑っていた。
「負けた」
「楽しそうに言うな」
リンが言う。
「半歩動かしたぞ」
ムソウは鞘を肩に担ぎ、大笑いした。
「そうだ! 天下無双を半歩動かした! 誇るがよい!」
「次は一歩だ」
シンが起き上がる。
イオがすぐに止めた。
「今日は終わり」
「まだいける」
「お腹、入ったでしょ」
「軽くだ」
「内臓に軽いも重いもない」
ムソウは近づいてくる。
「安心せい。加減はした」
「分かってます。でも一応診ます」
「医食同源に診られるとは贅沢よ!」
「動かないで」
「はい」
イオに言われ、ムソウが素直に座った。
リンは少し意外だった。
「イオの言うことは聞くんですね」
「飯と命を扱う者の言葉は聞くべきだ」
「そこはちゃんとしてる」
「天下無双だからな!」
「関係あります?」
「ある!」
シンは腹を押さえながら笑っている。
「強かった」
「ああ」
リンは頷いた。
「でも、少しだけ見えた」
「何が」
「ムソウさんは、一人で立っている時に一番強い」
「そりゃそうだろ。天下無双だ」
「でも、それ以外の時はどうなんだろうな」
シンは首を傾げた。
「どういう意味だ」
「まだ分からない」
リンはムソウを見る。
ムソウは明るく笑っている。
シンを褒め、イオに礼を言い、豪快に朝飯の話をしている。
隙のない男。
揺るがない男。
誰にも並ばれない男。
けれど、その強さは「一人で立つ」ことを前提にしている。
ならば。
もし、誰かが隣に立ったら。
もし、誰かを守ろうとしたら。
天下無双は、どうなるのか。
リンはその疑問を胸にしまった。
昼頃。
一行は花道宿へ戻った。
シンは腹を押さえながらも、上機嫌だった。
「次は勝つ」
「今日は負けを認めるんだな」
リンが言う。
「半歩動かした」
「負けは負けだ」
「次は一歩だ」
「前向きだな」
イオは薬草を煎じながら言った。
「今日は肉少なめ」
「何でだ!」
「打たれたお腹に重いものはよくない」
「ムソウは飯食ってるぞ!」
「ムソウさんは打たれてない」
「ずるい」
ムソウは町の茶屋で、すでに朝昼兼用の食事を取っていた。
飯。
汁。
焼き魚。
肉包み。
団子。
「戦った後の飯はうまい!」
「お前は動いてねえだろ」
シンが言う。
「心が動いた!」
「それで腹減るのか」
「減る!」
「分かる」
「分かるのね」
イオが呆れる。
リンは茶屋の周囲を見回した。
どんちゃんは、まだ戻っていない。
朝にもいなかった。
昼にもいない。
飯の匂いがする場所にもいない。
それは、どんちゃんにしては珍しかった。
「どんちゃん、本当にどこへ行ったんだろう」
イオも気づいたように言った。
「昼寝じゃないのか?」
シンが団子を見ながら答える。
「どこで?」
「屋根の下」
「どんちゃんみたいな答え方しないで」
リンは町の外へ続く道を見た。
胸に、小さな引っかかりが残る。
ムソウも同じ方向を見ていた。
「ムソウさん」
「何だ、リン」
「どんちゃんが気になりますか?」
「……妙な男だからな」
「それだけですか」
ムソウは茶を飲み干した。
「この世には、触れぬ方がよいものもある」
「どんちゃんがそうだと?」
「分からぬ」
ムソウは珍しく、声を落とした。
「ただ、わしの真名が少し騒ぐ」
「真名が?」
「天下無双は、強き者を見ると血が騒ぐ。だが、あの男を見ると少し違う」
「どう違うんですか」
ムソウは答えなかった。
代わりに、また豪快な笑みを作る。
「考えすぎはリンの仕事だ!」
「ごまかしましたね」
「そうとも!」
「認めるのか」
その時、芝居小屋の方から慌ただしい声が聞こえた。
「座長!」
「誰か、座長を呼べ!」
「役者が足りない!」
茶屋にいた者たちが振り返る。
芝居小屋の若い役者が、息を切らせて走ってきた。
昨夜、荒くれ者に絡まれていた青年だった。
イオが立ち上がる。
「腕の傷が悪くなった?」
「違います!」
青年は首を振る。
「今夜の舞台で使う大道具が壊されていて……それに、子役の子が一人、いなくなったんです!」
場の空気が変わった。
ムソウの目が細くなる。
「いなくなった?」
「はい。朝から姿が見えなくて。昨日までは元気だったのに」
リンはすぐに尋ねる。
「最後に見た場所は?」
「芝居小屋の裏です。あと、変な男たちがうろついていたって話も」
「昨日の荒くれ者の仲間か?」
シンが鉄棒を握る。
「分かりません。でも、今夜の舞台にはその子が必要で……」
ムソウが立ち上がった。
「案内せい」
「ムソウさん」
リンが声をかける。
「落ち着いて確認しましょう」
「分かっておる」
ムソウの声は低かった。
先ほどまでの派手さが消えている。
「子を舞台裏からさらうなど、野暮では済まぬ」
その背中に、天下無双の四文字が浮かぶ。
だが、リンにはその光が少しだけ揺れたように見えた。
守るべきものが現れた瞬間。
天下無双の強さに、何かが走った。
リンはまだ、その意味を知らない。
ただ、胸騒ぎだけがあった。
花道宿の賑やかな昼が、少しずつ不穏な色へ変わっていく。
どんちゃんの姿は、どこにもなかった。
【後書き】
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
リンは考え、シンは突っ込み、イオは鍋を握る。
そんな三人の旅を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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