お母さん
「ただいま〜」
「おかえり〜。美紀、ちょっと着替えたら手伝って」
お母さんは台所かな? 今日のよるご飯なにかな。
楽しみ。
お腹ペコペコだよ〜。
靴を急いで脱いで学校に持っていってる鞄を手に持って部屋に急ごうとした。
「あ、やべ! 靴ちゃんと並べないと、また怒られちゃう」
ご飯、ご飯、早く食べたいな〜。
あ、もうだいぶ汚れちゃってる。
今度、洗わないと。
ってか、もう高校二年とか早すぎるよ。
勉強嫌いだけど、友達に会えるから早く学校に行きたいな。
「あら。今日はちゃんと並べて偉いわね」
「あ、お母さん。ただいま。て、靴を並べるとか当たり前だよ」
「そうなの? ついこないだまでちゃんと並べられなかったのに」
「それ、小学生の時の話しだよ〜」
エプロンしてるってことはやっぱりご飯作ってるんだ。
笑うと目尻に細いシワが寄り、肌のところどころに薄い染みがある。
左の頬にハートの形のように薄茶色く染まってて、笑うと踊るようにそれも一緒に動くのが、私は好きだった。
「早く着替えておいでね」
「はーい。すぐ着替えてくるね」
少し小走りで、二階にある自室に向かおうとすると、階段の手前にある扉の奥から包丁がまな板を叩く音がして足が止まった。
あれ? お母さん? でも、さっき玄関にいたよね。
気のせいかな。
後を振り返ると今しがた入ってきた玄関の扉が静かに佇んでいた。
「気のせいかな?」
もう一度、目を向けてみたけど、聞こえてきたのはテレビから聞こえるニュースキャスターが今日のできごとを話してる声だけで、軽快な音は聞こえなかった。
やっぱり気のせいだね。
階段に足を踏み出そうとすると、後からお母さんの声が聞こえた。
「あら? まだいたの?」
「あ……うん。ちょっと気になることあったんだけど、気のせいだったみたい……」
「そうなの? なにかしらね?」
「なんでもないよ」と言うと、私は階段を一歩ずつ登って行く。
なんか変なの〜。
もしかして、今日はお父さんがご飯を作ってるのかな?
帰ってくるの早かったのかも。
きっとそうだ。
――ギュルルルゥ
「うわっ! お腹めっちゃなった」
お父さんがたまに作ってくれるチャーハンを思い出したら、余計にお腹空いちゃったよ。
少し雑なんだけど、なんか癖になるんだよね。
これぞ、父親の味ってか。
――――
「よし! 着替え完了。お母さんのお手伝いしないと」
廊下に出ると曇りガラスから赤い日差しが入ってくる。
もう、夜になっちゃうんだね。
最近暗くなるの早くなってし、少し冷えるかな。
――ガチャ
え? お母さん?
「着替え終わったの?」
「あ……うん」
寝室から出てきたエプロン姿のお母さんが現れて、目が勝手に大きく開いた。
「そんな、驚いた顔してどうしたのよ?」
動かないでそのままお母さんの顔を見ていると、笑いかけるように話してきた。
玄関で会った時と同じように、いつもの柔らかい笑顔を向けてくる。
思わず上から下まで観察するように見たが、エプロンを内側から少し押し上げ、左の頬にある特徴的な染みも一緒。
いつものお母さんだった。
「あ、部屋に忘れ物しちゃったから、先に降りてて」
「え……あ、うん……分かった」
足音したっけ?
それにドアが開いた音もしなかったような。
少しだけ寒い……。
階段の前に立って何気なく下を覗くと、薄暗くなった灰色の闇が私を引きずり込もうと待っているような気がした。
一段だけ下に足を降ろして背後へ振り返ると、部屋からなにかを探している音が聞こえてきた。
お母さん……部屋にいるよね……。
確認するように数秒眺めたが、部屋にある確かな気配に少しだけ安心できた。
階段に自分の体重が乗るたびに木がぎいっと音がして、それが悲鳴に聞こえて肌の周りの空気が冷える。
腕に生えた産毛が総毛立つように波うつと、ようやく玄関が視界に見えた。
いつもの階段。
それが今日はとても長く感じる。
「はぁ〜……やっぱり私の思い過ごし――」
――トントントン、トントン
嘘……そんなはず……お母さんは二階に……。
なんで……誰なの?
「お、お父さんだよね?」
階段の一番下まで到達すると、リビングへの扉の前で動けなくなってしまった。
今も部屋の奥から気配を感じる。
すると、玄関から音がした。
「――っ!」
声にならない悲鳴が漏れた。
「ただいま〜。あー、腹減った。ん? 美紀そんなところでなにしてるんだ?」
玄関から現れたのはお父さんだった。
あ……あぁ……そんな。
作ってるの――だれ……。
「あら、お父さんおかえりなさい」
「おう。ただいま」
浴室から今度はお母さんが現れる。
「お、お母さん……あ、さっきまで二階にいたんじゃ……」
「二階? ずっと下にいたし、洗濯物をまとめてたわよ?」
その言葉を聞いた瞬間、弾けるように階段を見上げる。
「美紀がおかしいけど、なんかあったのか?」
お父さんがお母さんに話しかけてるが、そんなことどうでもよかった。
階段から目が離せない。
心臓が激しく血液を送ると頭の天辺がぞわりとする。
――コッ……ギィィ……コッ
階段の奥から誰かが降りてくる音がする。
あ……あぁ……お、お母さんだ。
下半身が見えてくると、いつものエプロンが見えた。
「あ……あぁ……お母さん」
「呼んだ?」
「美紀、なに?」
前と後から同時にお母さんの声がした。
「や、やだっ!」
逃げはリビングしかなく、扉を乱暴に開ける。
「――わっ! びっくりたなー……美紀? そんなに顔を青くしてどうしたの?」
そこには夕食の皿を並べるお母さんが目を大きく開いて、私を見ていた。
「なに、なに? なにか怖いことでもあった? 美紀は昔から怖がりだからね」
「い……や、来ない……で」
「おっと! 危ないぞ。さっきからどうしたんだ?」
お父さんに肩を掴まれて、逃げることもできない。
「あら。お父さん帰ってたの? おかえりなさい」
「ただいま……あれ? さっきもただいまって言ったよな? まぁ、いっか」
なぜかお父さんは気づかない。
肩から手を離すと、いつも自分の座っているところに向うと、そのまま椅子に座る。
なんで……お父さん……気づかないの。
お母さん……たくさん。
口を開けようとするが、固く結ばれてるように動かない。
すると、私を挟むように二つの影が通り過ぎる。
「――ひっ!」
短い悲鳴が漏れた。
父は一瞬だけ私を見たが、すぐにテレビへと顔が向く。
お母さんがテキパキと料理を運び、その間に別のお母さんは食材を包丁で切る。
そして、もう一人のお母さんは切った野菜をフライパンで炒めてる。
「ほら、美紀も手伝いなさい」
父にそう言われたが喉が締まりきって、返事をすることもできない。
すごい勢いで並べられていく料理達。
あ……美味しそう。
お母さんの料理……食べたい……あれ。
でも、どれが本物のお母さん?
「あら、偉いわね。おかげでこんなに早く、ご飯の準備が終わっちゃったわ」
最後の料理を手に持ってきた母がそう言うと、テーブルにそれを並べて私に話しかけてきた。
エプロンを外そうと、背中に手を回すと"お母さん達"も同じように手を後にやった。
鏡に映るようにきれいに全員が同じタイミングで、同じ動作をする。
「ほら、突っ立ってない座りなさい」
お母さんにそう言われて、引きずるように足を動かして自分の席に足を運んだ。
なるべく見ないようにして顔を伏せるが、チラチラと視界の上の方で影が揺れていた。
お母さんも私に合わせるように座ると、他のお母さん達はどうなるか気になってしまう。
「おっ、美味そうだな! さすが、お母さんだ」
父の方を見るとご飯を見て嬉しそうに口に運ぶ。
何度も咀嚼してから喉が動く。
私は箸を手に取ろうとしたが、指先が震えて下に落としてしまう。
「もう、美紀ったらおっちょこちょいね。お母さんが洗ってくるから貸して」
「あ……うん」
箸を渡す時、思わず顔を上げてしまう。
「――三人」
椅子に座るお母さん。
その後に立っているお母さん。
みんな笑って、左の頬のハートの染みが歪んでいる。
思わず顔を背けると、カーテンの"隙間"が目に入る。
にゅるりと押し出されるように、そこから頭が生えてくる。
顔がねじれるように渦を巻いて、少しずつ母の形になっていく。
「あ――お母さんだ」
エプロンを手に持って、座る母の後に並ぶとあっとみんなと同じように笑顔になる。
「なんか、今日はにぎやかな感じがするな」
お父さんがそう言って、楽しそうに箸を伸ばしていた。
――――
「ただいまー」
「おかえり〜。今日も手伝ってー」
「あ、はーい。すぐ行くー!」
今日も"お母さん達"のお手伝いしないとね。
"お父さん達"が帰ってくる前に、ご飯準備しないとさ。
みんな食いしん坊なんだもん。




