花びらが散る頃
ひらりとピンク色の花びらが瞳を覆い尽くすと、いつの間にか一人の女が立っていた。
それは誰よりも美しく、まるでいいところのお嬢様のように可憐な雰囲気をまとっている。
「あら? 今日も来たのかしら?」
「あぁ、ほら酒だ」
男がいいながらコンビニの袋を見せると、その女が嬉しそうに受け取って中を見る。
「えへへ、いつもありがとうね」
その笑顔が見たいだけのために、ここ最近こうして一本の桜の木に通っていた。
「このおつまみ! 健二さんセンスあるねーっ!」
そう褒められると健二は照れくさそうに、無精ひげを手で擦る。
「……喜んでもらえたなら何よりだ」
そっぽを向きながら返事をすると、少しだけ寂し気な瞳でこっちを見ている姿が隅の方に映った。
健二は息をひとつ強く吸ってから、上がった肩を撫で下ろしてその女に向き直る。
「……さっさと飲もうぜ」
ぶっきらぼうに健二が言葉を投げ捨てると、長い黒髪をなびかせてその女が「うん」と頷いた。
とことこ買い物袋を手に、道のよこに備え付けられているベンチへ向う。
健二も歩いて近寄ると、ゆっくりと腰を下ろした。
「よっこいしょ……」
「うわー、健二さんおじさんだ」
「やかましい。まだ、28だわ」
そんな何気ないやりとりをしながら、二人はビール缶を取り出して、乾杯と言って飲み始めた。
「くぅ〜! これよこれ! 桜を見ながらのこ一杯……やめらんねーぜ!」
女のそのひと言に健二が苦笑する。
「どっちがおっさんなだか」
「え〜? なんだってぇ」
この女はいつもこの調子だ。
どこかのいいところのお嬢さんかと思えば、発言の一つ一つが釣り合わない。
「なぁ、そろそろ名前を教えてくれよ」
今日で三回目。
連絡先を知らなければ、名前すら知らない。
いつもお前と呼んでいたがそろそろ呼びずらくなってきた。
「ん〜、いいよ。私の名前はね……"桜"だよ」
桜の気を寂し気に見つめながら、自分の名前を呟く。
意味深な言い方に、それが"嘘の名前"なのを感じ取ったが、「桜か」と健二は呟くだけで、それ以上は追求しなかった。
「もうすぐ散っちゃうね……」
桜の声には哀愁が混ざって少し低く、どこか消えてしまいそうな雰囲気を醸し出している。
「そう……だな」
健二はなんとなく分かっていた。
人……じゃない。
ここ最近、そう言うのと関わることが多かった。
だから、この桜と言う人間はすでに……。
「それにしても、健二さんと出会って三日も経ったんだね。早いね……」
桜がベンチに落ちていた花びらを一つ摘んで、それを何度も指先でこねくり回す。
該当の光が黒髪に反射して、艷やかな色を奏でると、健二の中で刻んでいたリズムが狂う。
頬が少し熱い。
悟られないようにと下を向いたが、彼女は健二から視線を外すことはなかった。
「あの時、びっくりしちゃったよ。ベンチで健二さんすごい項垂れててさ。思わず声をかけちゃったよね」
「言うな……恥ずかしい」
桜との出会いは唐突だった。
仕事に打ち込み若手として出世したが、課長として職場の責任が全て押しかかり、心が疲弊していた。
夜も寝れず、だからと言って家にいれば仕事のことを考える悪循環。
外に出て体を少しで動かそうと、夜の下を歩いている。
ふと見えたベンチ。
ただ、なんとなく、それに座って深く考え込んでいると、桜が現れたのだ。
ふわりとした風に流されて花びらのような、甘くて少しだけ酸っぱいようないい香りが鼻の奥に届く。
顔を上げて、彼女が心配そうに眉を潜めて「大丈夫」と声をかけてきた。
最初は驚いた。
若いのに知らない男に近づくとか、無警戒心過ぎるだろとも思った。
でも、それ以上に、この空間から浮いているように見えて、子どもの頃に出会った怪異を彷彿とさせる。
ひとときの縁と思って、健二は桜に自分の気持ちをぶつけることにした。
それからこんな感じだが、そろそろこの時間も終わりを告げるだろう。
彼女の横顔を見れば消え入りそうで、胸が締め付けられると同時に自分の心に陰が差したのが分かる。
「ん? なに? ビールあげないよ」
健二の視線に気づいた桜が、飲みかけのビールを抱えるように隠す。
「誰も取らねーよ」
ぶっきらぼう健二が答えると、安心したように桜がちびちびとビールに口を付けた。
「ねぇ……健二は私のことどう思う?」
それは突然の問いかけだった。
頭の中でなにかいい言葉を考えるが、まったく出てこない。
だから、正直に答える。
「いい女」
そう一言だけ。
「えー、なんかその言い方嫌だな」
顔がむつくれて不満そうに抗議をする桜に、健二は人が悪い笑みを浮かべた。
ふと、桜が顔を下に向ける。
「でも、嬉しい……ありがとね」
それが、"ここで話した"最後の言葉だった。
――――
あれから、あそこには行っていない。
桜の木から花びらが散り、完全に緑の芽が見えて全てが終わったのだ。
逃げた。
悲しさから逃げてしまった。
向き合うのも億劫で、仕事が終わってからは一歩も外に出なかった。
「課長! 今日の商談、上手く行くといいですね」
それは今年入ったばかりの新入社員。
"達也"と言って、最近の子にしては人当たりがよく社内でもムードメーカーだ。
「そうだな。頑張ろうか」
健二は昔の自分を見ているようで懐かしくなった。
それと同時になぜか、桜のことを思い出す。
あいつの笑顔に……似てる。
季節は初夏。
桜が咲く季節と離れてしまったが、ちゃんと成仏してくれただろうか。
「失礼します」
達也と二人で事務所で待っていると、中年の男性と若い女が一人入ってくる。
「本日は弊社にお越し下さりありがとうございます」
ああ……なんでだ?
だけど――嬉しい。
上司と思われる男性と軽い挨拶をすると、互いに名刺の交換を始める。
だけど、健二は相手方の声が耳に届いておらず、後ろの女性をずっと見ていた。
「あの……うちの佐々木がなにかしましたか?」
そう言った中年の男は、不安気に眉を寄せている。
「いや、そのなんと言うか……ちょっと……」
健二が口ごもっていると、ツカツカと女の方が前に出てきた。
口元をニヤニヤさせて、健二をまっすぐに見て
「初めまして。佐々木桜と申します――いい女ですよ」
最後の言葉は健二だけに聞こえるように囁くように桜は呟いた。




