探偵は胸を揉む:深淵の共犯者 ―― 完璧という名の砂漠と、塗り替えられた真実 第五章
第五章:湯煙の聖域 ―― 暴かれた深淵
それは、別荘での狂気的な訓練が開始されてから三週間目の夜のことだった。
連日に及ぶ精神的な同調の儀式と、ユウキが「脳の覚醒」と称して提供する奇妙な感覚増幅食のせいで、奏太の神経はガラス細工のようにささくれ立っていた。肌を撫でる夜の空気さえもが、今や脳の最深部を直接刺激する不快なノイズとなって彼を焼き焦がしている。
「久我さん、今夜は思考を止めてください。理性の蓋を外し、原始的な情動だけで彼女と繋がるんだ」
昼間、ユウキが残した不気味な言葉が耳の奥で何度もリフレインしていた。
促されるまま、奏太は別荘の最上階にある全面ガラス張りの大浴場へと向かった。重い木製の扉を開けた瞬間、熱を帯びた濃密な湿り気と、脳を麻痺させるような高純度のアロマオイルの香りが、容赦なく奏太を包み込んだ。
「……っ!?」
奏太は、入り口で完全に硬直した。
立ち込める白い湯煙の向こう側、ライトアップされた夜の雪景色を背に、彼女がいた。浅倉玲奈が、そこに立っていた。
湯を浴びて淡い真珠色に上気した肌。濡れて細い首筋にじっとりと張り付いた黒髪。きらめく水滴が彼女の鋭い鎖骨を伝い、未だ少女のような初々しさを残す小ぶりな胸の膨らみをなぞり、限界まで引き締まった腰のくびれへと滑り落ちていく。その圧倒的な肉体の実存感に、奏太の研ぎ澄まされた視覚が狂いそうになる。
「……すまない。時間を間違えた、すぐに出る」
奏太が狼狽を隠せず、慌てて背を向けたその時だった。
背中に、吸い付くような柔らかく熱い感触が、容赦なく押し当てられた。
「行かないで……久我さん」
裸の玲奈が、後ろから奏太の腰にしがみついていたのだ。彼女の細い指先が、奏太のシャツを千切れんばかりに強く掴んでいる。
「一人になると、あの雨の音と泥の匂いが戻ってくるの……怖い。息ができなくなる。お願い、私に触れて。あなたのその手で、私の中に残っているあの『汚れ』を、全部、抉り取って上書きして……!」
振り返った奏太の視界に、涙で潤んだ瞳と、拒絶を恐れて震える唇が飛び込んでくる。
久我は、もう抗えなかった。彼女を過去の地獄から救い出したいという探偵としての執念と、目の前の女を支配したいという一人の男としての強烈な渇望が混ざり合い、脳内の理性の堤防を一気に押し流した。
二人の濡れた肉体が、激しく密着する。吸い付くような肌の弾力、混じり合う熱い吐息。奏太は彼女の細い腰を強引に抱き寄せ、その唇を塞いだ。深く、互いの輪郭を確かめ合うような、貪るようなキス。玲奈の舌が怯えながらも奏太を受け入れ、彼女の爪が久我の背中に深く食い込んでいく。
その愛欲の渦中、奏太の右手が、玲奈の濡れた背中から、激しく脈打つ胸の鼓動へと滑り落ちた。
「――あ、っ!」
玲奈が声を漏らし、弓なりにのけ反る。
それと同時に、決定的な「視覚」が、サイコメトリーの暴力的な質量となって奏太の脳内を蹂躙した。
(――激しい金属の軋み音。上下が反転する視界。止まらないブレーキ。横転した車の中で、玲奈は額から血を流し、朦朧とする意識の中で助けを待っていた。
豪雨が叩きつける音が響く。ひどい泥の匂い。
そこへ、ベチャ、ベチャと、泥を吸う重い足音が近づいてくる。
助けが来た……そう思った瞬間。
歪んだ視界に映った男の手は、玲奈の首元からカバンを乱暴にひったくり、中の譜面を狂ったように漁り始めた。それだけではない。男は、ぐったりとした彼女の身体を泥まみれの地面に引きずり出し、冷酷な手つきで、その服を容赦なく剥ぎ取っていく――!)
「……貴様、あの日……!」
奏太は現実の湯気の中に引き戻され、激しく喘ぎながら眼を見開いた。掴み取ったビジョンの凄惨さに、全身の血が逆流する。
玲奈は奏太の腕の中で、歯をガタガタと震わせながら彼を見上げていた。しかし、その瞳にあるのは恐怖ではない。自らの最も深い傷口を暴かれたことへの、歪んだ快感と恍惚。彼女の心は、この情愛の瞬間をもって、初めて完全に奏太へと開かれたのだ。
「久我さん……いいよ、壊して……もっと、私の奥まで、全部見て……!」
立ち込める湯気の中で、二人の影が狂おしく重なり合う。奏太は彼女のすべてを暴き、同時に包み込んだ。それは安易な慰めなどではない。二人がこの世界の暗い裏側へと歩みを進めるための、血の共犯儀式だった。
翌朝、別荘のメインホールに現れた二人の空気は、昨日までとは決定的に異なっていた。
窓から差し込む冷徹な冬の朝光が、テーブルを照らす。玲奈の白い首筋には微かな赤みが残り、その瞳には久我に対する盲目的なまでの依存と、妖艶なまでの情念が妖しく宿っている。久我もまた、寝不足で顔をこけさせながらも、その右手には「守るべきもの」のあまりにも重い感触をしっかりと刻み込んでいた。
二人の間に昨夜何があったのか。それを口にする無粋な者はここにはいない。
ただ、ユウキだけが満足げに、グランドピアノのアクリル鍵盤の端に残された、拭き残されたわずかな一夜の痕跡――ファンデーションの微かな汚れ――を指先でそっとなぞっていた。
ユウキは自身の指先を見つめ、口元を不敵に歪める。
「フフフ……素晴らしい。ようやく、魂が『発情』しましたね。さあ、お遊びはここまでです。サントリーホールへの最終カウントダウン、始めましょうか、共犯者諸君」
狂気に満ちたプロデューサーの声が、静まり返ったホールに冷たく響き渡った。




