探偵は胸を揉む:深淵の共犯者 ―― 完璧という名の砂漠と、塗り替えられた真実 第六章
第六章 現場の残響 ―― 深夜の解剖眼
玲奈が心身の磨耗から泥のような眠りに落ちた、午前二時。
ユウキは久我を伴い、漆黒の帳に包まれたあの峠道に立っていた。
突き刺すようなサーチライトの白い光が、湿ったアスファルトを冷酷に切り裂く。久我が新調されたガードレールの歪みに指先で触れ、サイコメトリーの予兆にこめかみを引きつらせた。だが、それよりも早く、ユウキがライトの焦点を地面の一点に固定する。
「久我さん、ここを見てください。所轄の見落とし……いや、上層部による『意図的な黙殺』の痕跡だ」
闇の中に浮かび上がったのは、玲奈のセダンの歪んだ制動痕――そのすぐ脇に刻まれた、極めて薄く、しかし剃刀のように鋭い「別の」スリップ痕だった。
「この特異なトレッドパターン。ピレリの『P ZERO』……それも一般には流通しない、超高荷重対応の特注コンパウンド(コンペティション用)です。市販車でこれを履きこなし、このタイトなヘアピンをアンダーステアを出さずに曲がれる怪物など限られている。そして、この軌跡を見てください」
ユウキの指が、黒いゴムの微粒子をなぞる。
「玲奈さんの車がスピンを始める直前、この『もう一台』は彼女の左後方に数センチ単位で肉薄していた。パッシングとクラクション、そして物理的な幅寄せによる強制的操舵。……これは不幸な単独事故じゃない。執拗に追い詰めた末の、合法を装った『突き落とし』だ」
久我は息を呑んだ。遮るもののない夜の静寂が、ユウキの冷徹な声をいっそう低く、不気味に響かせる。
「公式記録では、偶然通りかかったパトカーが彼女を発見したことになっている。だが、このタイヤ痕の主は、大破した彼女の車を目の前にして、確実にここで停車している。それも、アイドリングの熱でアスファルトの油分が変色するほど長い時間――およそ三分以上。玲奈さんの車から白煙が上がり、彼女がステアリングに顔を埋めて意識を失っている間、この主は車を降りて彼女に近づいた。そして救急に通報するでもなく、あるものを奪って立ち去った」
「……奪った? 何をだ」
「玲奈さんのバッグ、そしてその中にあったはずの、彼女が心血を注いでいた『新作の楽譜』のオリジナルデータです。……さらに、ここにはもう一つ、反吐が出るような痕跡がある」
ユウキのライトが、草むらの縁の泥を照らし出す。
「泥の跳ね返りの不自然な途切れ、そしてガードレールの破片に引っかかった最高級ウールの繊維。……この男、瀕死の彼女を助けるどころか、身動きの取れないその無防備な身体を、歪んだ愛撫で蹂躙している。指紋を残さないよう、細心の注意を払いながらね」
ユウキの冷徹な解剖眼が、闇の中から最悪のシナリオを完全な形に肉付けしていく。犯人は事故を演出し、彼女から「音楽」と「尊厳」を同時に、根こそぎ奪い去ったのだ。
「特注のピレリを履いた、タングステンシルバーのアストンマーティン・DBS。……黒崎匠ですよ。久我さん、この闇に深く刻まれた『残響』を、あなたのその右手に限界まで込めておいてください」
別荘へ戻る帰路。助手席の久我が、ふとフロントガラスを睨みつけたまま低く呟いた。
「……ユウキくん、さっきの言葉。警察の『見落とし』はともかく、まるで上層部が絡んでいるかのような言い草だったな。あれは俺の怒りを煽るための、お前の誘導か?」
ユウキはステアリングを握ったまま、眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、不敵な笑みを漏らした。
「フフ、おや……バレましたか。さすがは久我さんだ。ですが、大袈裟な敵を設定した方が、あなたの中の『正義感』がより深く研ぎ澄まされるとは思いませんか? ……まあ、演出が過剰だったことは認めますよ。ですが、あの男が玲奈さんを蹂躙したという事実だけは、何ひとつ変わりません」
久我は何も答えず、ただ右手を血がにじむほど強く握りしめた。
フロントガラスの先、ヘッドライトが照らす暗闇の向こうにあるのは、もう生ぬるい「救済」などではない。
それは、完璧に設計された「断罪」という名のステージだった。
そして、いよいよサントリーホールでのリサイタルを翌日に控えた、最後の夜。
奏太の指導による楽曲の完成度は九割九分を超えていた。だが、あと一歩。魂の最深部を完全に覚醒させるための「最後の一音」が、どうしても見つからない。膠着した空気が、別荘の暖炉の前に重く立ち込めていた。
ユウキが揺らめく炎を映すシャンパングラスを傾け、不敵な笑みを浮かべる。
「いよいよ、明日ですね」
「ああ、完璧に仕上げたつもりだ。だが……何かが決定的に足りない。玲奈の奥底に、どうしても開かない、重く錆びついた扉があるんだ」
奏太が精神的な疲弊を隠せず、頭を抱えて呟く。すると、ユウキは眼鏡の奥の切れ上がった瞳を、妖しく明滅させた。
「ええ、知っていますよ。彼女の防衛本能は、あの日自分を蹂躙した『男の顔』を、脳の底に故意に封印している。恐怖で狂ってしまわないためにね。……でも、安心してください。明日、コンサートのステージで、彼女のために最高の『サプライズ』を用意しましたから」
「サプライズ……?」
玲奈が微かな怯えを孕んだ瞳で、ユウキを見上げる。ユウキは彼女の前に膝をつくと、震える頬を酷く優しく、そして残酷なまでに美しい微笑をたたえて撫で下ろした。
「それが、あなたを開く最後のトリガーになります。久我さんの右手が暴いた真実を、僕の心理学がコンサートホールの密室で追い詰める。その果てに、真の『橘玲奈』は完成する。フフ……楽しみにしていてください。明日の夜、世界は本物の『怪物』の誕生を目撃することになるんですから」
ユウキの別荘での、最後の夜が更けていく。
リビングの張り詰めた空気から逃れるように、奏太と玲奈は、どちらからともなく互いの部屋を訪れ、言葉もなく朝を迎えるまで互いの体温を貪るように寄り添い続けた。
それは明日、地獄の蓋を完全に開け放つための、嵐の前の、最後の静寂だった。




