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探偵は胸を揉む  作者: リチャード裕輝
探偵は胸を揉む:深淵の共犯者 ―― 完璧という名の砂漠と、塗り替えられた真実

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探偵は胸を揉む:深淵の共犯者 ―― 完璧という名の砂漠と、塗り替えられた真実 第四章

第四章 深淵のレッスン ―― 神経回路の断罪

狂気のシンクロナイズ

ユウキの私設ホールに鎮座する透明なグランドピアノは、魂を解体し再構築するための、冷徹な「手術台」だった。


「久我さん、始めてください。彼女の脳に、かつての『橘玲奈』という怪物を叩き戻すんだ」


ユウキの冷酷な階調の声が響く。

久我は意を決し、玲奈の小ぶりな胸元――その心臓の直上に右手を深く密着させた。


「……っ! 嫌……やめてッ!」


玲奈の悲鳴が、高い天井に跳ね返る。だが、久我は手を離さない。指先から皮膚を浸食していくように、自らの精神を傾けていく。


「橘さん、僕の目を見て。……今から君の過去を、指先に強制接続プラグインする」


奏太が精神を極限まで集中させた瞬間、玲奈の狂おしい鼓動と、自らの拍動が完全に同期した。

世界がぐにゃりと歪む。玲奈の血管を奔流する血の熱さが、呪いのように久我の右腕へと逆流してきた。

それは単なる同調シンクロを超えた、過剰な拒絶反応だった。

彼女の心拍はもはや音楽的なリズムを逸脱し、激しい嫌悪と、触れられていることへの甘美な戦慄が、歪なコードとなって混ざり合う。


「……見えた。ショパンの『革命』、第28小節の下降アルペジオだ。左手親指の付け根に重心が逃げている。わざと軸を不安定にして、過去の『焦燥』というノイズを混ぜ込んでいる!」


「なるほど」


ユウキが冷徹な手つきでタブレットに数値を刻む。


「橘さん、左手親指の第一関節を3ミリ寝かせろ。脳が拒絶しても、筋肉に直接『女王の命令』を出せ!」


「できない……! 指が、鍵盤が刃物に見えるの! 触れたら、切れて指が落ちちゃう……!」


玲奈が泣き叫び、全身を激しく痙攣させる。

しかし、その絶望的な叫びの裏側で、彼女の呼吸だけがわずかに「別の、狂った律動」へとズレ始めていた。恐怖だけでは説明のつかない、肉体そのものが音楽に飢え、悦びに震える本能の発火。


「動かせ! 動かないなら、僕がその地獄の手を引いてやる!」


ユウキがピアノの対面に滑り込み、全盛期の玲奈すら置き去りにする速度で『革命』を弾き始めた。

アクリル製のピアノが悲鳴のような重低音で共鳴し、暴力的な倍音の衝撃波が、玲奈の華奢な身体を容赦なく突き抜ける。

その音響ヴァイブスに導かれるように、玲奈の心拍が跳ね上がった。

拒絶しながら、同時に底なしの深淵へと引きずり込まれていく。


「久我さん、もっと強く押し当てて! 恐怖の裏側にある快感の回路を、一度焼き切って繋ぎ直すんだ!」


久我は背後から玲奈を組み伏せるように抱きすくめ、その胸を、心臓が潰れんばかりの力で圧迫した。

サイコメトリーを通じて、彼女の脳内に渦巻く「あの男」への恐怖、暗闇の記憶――そしてそれらを一瞬で蹂躙するほどの「音楽への盲目的渇望」を、力ずくで混濁させていく。

触れられている事実そのものが、彼女の神経の奥底で、未知の熱を爆発させていく。


「橘さん、思い出せ! 泥まみれの地面で、君が最後に掴もうとしたのは絶望じゃないはずだ! あの男の呪縛を、君自身の音で塗り潰せッ!」


「ああああああああーーーッ!!」


玲奈の絶叫がホールを裂いた。

彼女は恐怖をそのまま狂気へと裏返し、血の滲む指先を、渾身の力で鍵盤へと叩きつけた。


ドォォォォン――ッ!!


透明なアクリル鍵盤が、玲奈の指から噴き出した鮮血で瞬時に赤く染まる。

だがその瞬間、彼女の中で「音」と「肉体」の境界線が完全に崩壊した。

触れることが快楽となり、傷つくことが旋律へと変換されていく。

その一音は確かに、かつて「神の愛し子」と呼ばれた、あの天才の輝きを宿していた。


「素晴らしい……! 打鍵圧120ニュートン! これこそが、橘玲奈の本来の絶望だ!」


ユウキは立ち上がり、狂喜に歪んだ顔で哄笑を上げた。


浸食される日常

それからの日々は、まさに底量のない地獄だった。

久我は一日の大半を玲奈との精神的同調に費やし、本業である執筆の時間は、睡眠を極限まで削って深夜に捻出するしかなかった。サイコメトリーで玲奈の「恐怖」と「快感」を半分肩代わりしているせいで、久我の精神も限界を迎えている。

深夜、静まり返った書斎で原稿に向かう久我の指は、まだ玲奈の心臓の鼓動を覚えているかのように、小刻みに、そして淫らに震えていた。


「フフフ、久我さん、そんな幽霊みたいな顔をしないでください」


部屋の隅から、冷たい差し入れの「ドーパミン・ドリンク」を持ってユウキが現れる。その瞳は、一分一秒の休息すら許さない、冷徹なプロデューサーのそれだった。


「あなたの脳も、彼女の覚醒に伴って、これまでにない悍ましくも美しい物語を紡ぎたがっているはずだ。違いますか?」


それから一週間が過ぎ、二週間が過ぎる頃には、玲奈はもはや自力でショパンの難曲を最後まで弾き通せるようになっていた。

しかし、その音色には、かつての清廉な彼女には存在しなかった、黒い「毒」と網膜にへばりつくような「執念」が混じり合っている。


「……甘いですね。まだ、聴衆の内臓を素手で抉り出すような『刺激』が足りない」


血と汗、そして涙が染み付いた譜面を見つめ、ユウキは不敵に、美しく微笑んだ。


「久我さん。……仕上げのフェーズです。もう少ししたら、あなた方二人には男女としての極限の共鳴、肉体の境界が完全に曖昧になるほどの情動に身を投じてもらう。それによって、彼女の魂をさらなる『神の領域』へ引き上げる必要があります」


【狂気の檻】

窓の外では、吹き荒れる猛吹雪が世界を完全に封鎖していた。 白銀の闇に閉じ込められた館の中、世界にはもう、彼ら三人しかいないかのようだった。

久我は、自らの意思か、あるいは侵食された本能か、震える手で玲奈の細い肩を強く抱き寄せた。

もはやこれはレッスンなどという生易しいものではない。互いの肉体を、精神を、魂を貪り食い合う、禁断の儀式メロディが始まろうとしていた。

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