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探偵は胸を揉む  作者: リチャード裕輝
探偵は胸を揉む:深淵の共犯者 ―― 完璧という名の砂漠と、塗り替えられた真実

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探偵は胸を揉む:深淵の共犯者 ―― 完璧という名の砂漠と、塗り替えられた真実 第三章

第三章:禁断の食卓と、血塗られた楽譜

雪に閉ざされた要塞、ユウキの別荘での合宿生活は、常軌を逸した「食事」から始まった。

広大なダイニングルームの長机。主であるユウキが用意したのは、美食というよりは、脳を改造するための化学実験のような一皿だった。


「今夜のメインは『牛の松果体と黒トリュフのペースト、高純度ドーパミン前駆体ソースを添えて』です。脳の報酬系を強制的に発火させ、あなたの創造性のリミッターを焼き切るための特製メニューですよ」


一見すると高級フレンチのようだが、どこか不自然に黒光りする、どろりとした漆黒のソースが蠢いて見える異様な一皿。久我が一口運ぶと、脳の裏側を直接鉄のブラシで擦られるような、鋭く、それでいて暴力的な刺激が走った。


「ユウキ……これ、味が変だ。というか、視界がチカチカする……心臓の音がうるさすぎるぞ」


「久我さんの感度を引き上げるため、神経伝達物質を通常の五倍に濃縮しました。死なないので気合でカバーしてください。執筆の合間でしょう? 脳が冴えていいはずだ」


奏太が悶絶していると、隣で玲奈が、猛烈な勢いでその漆黒の肉を口に運んでいた。


「……美味しい。すごく、美味しいです、ユウキさん」


彼女は頬を紅潮させ、普段の儚げな姿からは想像もつかないほど野性的に食らいついていた。あの凄惨な車の事故以来、彼女の神経は麻痺し、感情も味覚も死にかけていたはずだった。


「わかります。この刺激が、私の死んだ指の神経を叩き起こしてくれるのが……もっと、私を壊して、作り変えて……!」


玲奈は皿に残ったソースをパンで丁寧に拭い取り、最後の一滴まで完食した。久我はその、生命の根源に根ざした「飢え」に戦慄しつつも、彼女の再生への執念に強く惹きつけられていく。


食後、ユウキが重々しく、煤け、所々に赤黒い染みのついた一束の譜面を机に置いた。

あの雨の夜、大破した車の中から回収された、玲奈の自作曲の草稿だ。乾いて黒ずんだ血の跡が、まるで新しい五線譜のように玲奈の旋律を塗りつぶしている。ほとんどのページが、何かを隠すように乱暴に引きちぎられていた。


「久我さん、この譜面を見てください。僕の医学的見地では、彼女の記憶の『欠落』は、この譜面の『欠落』とリンクしている」


ユウキは眼鏡の奥の瞳を冷酷に光らせ、玲奈のカルテと譜面を交互に指差した。


「この欠落したページ。……今、世間で『闇の天才』ともてはやされている黒崎匠の最新譜面に、驚くほど酷似しているんです」


久我の右手が、吸い寄せられるように血のついた譜面に触れる。瞬間、指先から鉄の匂いと、玲奈の悲鳴が混ざったようなノイズが流れ込んできた。サイコメトリーが捉えたのは、事故の衝撃と、その直後に忍び寄った「略奪者」のどす黒い歓喜だ。


「黒崎匠……あいつが、君の魂を盗んだんだ。今、世間で大ヒットしているあいつの新曲『深淵』は、君の未完成の楽譜の、この引きちぎられた断片だ」


奏太の声が怒りで震える。玲奈は血の染みを指でなぞったまま、ガタガタと震えだした。


「黒崎さん……そんな、嘘です。あの人が、そんなことするはずがない……。あの方は小さい頃から私の憧れで、私なんかが到底叶う相手ではないし、私の曲なんて必要とするはずが……」


玲奈の言葉は、自分に言い聞かせるような悲痛な響きを帯びていた。しかし、久我が譜面から読み取った「悪意」の残滓は、彼女の心の防壁を容赦なく削っていく。


「嫌……。雨の音、ガラスが割れる音……暗い中で、誰かがこっちを見てる。影が……男の影が……!」


玲奈の瞳が大きく見開かれ、焦点が合わなくなる。脳裏に浮かび上がるのは、大破した車内に差し込んできた、冷酷な光。


「いやぁ……! やめて……!」


絶叫と共に、彼女は自分の髪を掻き毟り、自らを傷つけようと暴れだした。


「玲奈さん、しっかりしろ! まだ記憶に呑まれるな!」


久我が咄嗟に床に膝をつき、暴れる玲奈の体を背後から力一杯抱きしめた。彼女の細い肩が、壊れそうなほど震えている。同時に、ユウキが冷徹な手つきで玲奈の手首を掴み、動けないように固定した。


「パニックを起こして逃げるのは勝手ですが、それでは何も取り戻せませんよ。玲奈さん、あなたの脳は、あの日見た『影』を既に特定しているはずだ」


ユウキの氷のような声が、玲奈の錯乱を強引に抑え込む。久我は玲奈の荒い吐息を首筋に感じながら、彼女を現実へ繋ぎ止めるために声を絞り出した。


「玲奈、怖いなら目をつぶっていい。だが、俺の手を離すな。あいつが何をしたのか、核心はまだ闇の中だ……。だからこそ、今ここで壊れるわけにはいかないんだ」


二人の男に力尽くで抑え込まれ、玲奈は激しく喘ぎながらも、やがて力なく項垂れた。


「……黒崎さん、なの……? 嘘……嘘よ……」


「さて。譜面の解析は僕がやります。久我さん、あなたは彼女の『心』の深度をさらに引き上げて。……まだ、パズルのピースが足りない」


最初の一音が鳴り響いたあの夜を境に、別荘内の空気は一変した。「奇跡」などという生ぬるい言葉では言い表せない。それは、ユウキの冷徹な計算と、久我の削り取られるような精神、そして玲奈の狂気的な飢餓感が噛み合った、壮絶な「再構築リブート」の連続だった。


数週間に及ぶ訓練は、もはやレッスンの域を超え、神経系への断罪に近いものとなった。

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