探偵は胸を揉む:深淵の共犯者 ―― 完璧という名の砂漠と、塗り替えられた真実 第二章
第二章:再構築の第一音
都心の喧騒を捨て、四輪駆動車は深い雪に閉ざされた標高二千メートルの山嶺へと分け入った。そこには、ユウキが所有する要塞のような豪邸が、冷徹な月光を浴びて静まり返っていた。
「本来なら、ここはスキーを楽しむための僕の『遊び場』なんですけどね。……今回は、特別な手術室になってもらいます」
ユウキの言葉通り、敷地は広大で、それぞれの個室も一軒家ほどの広さがある。しかし、その豪華さは逆に、外界から完全に遮断された「監獄」であることを強調していた。一日の大半は、ホールでの凄惨なレッスンに費やされることになる。久我は作家としての執筆作業を合間にねじ込もうとしても、精神を削るサイコメトリーの後は指が震え、キーボードを叩くことさえ容易ではないだろう。
そんな中、ユウキがさらなる爆弾を投げ落とした。
「玲奈さん、そして久我さん。一ヶ月後、サントリーホールを押さえました。橘玲奈、復活の独奏会です」
「な……サントリーホールですって!?」
玲奈が顔を蒼白にして震える。日本のクラシック界の聖地。一音も満足に弾けない状態の自分に、あの大舞台を用意したというのか。
「驚くことはありません。一ヶ月あれば、久我さんの能力と僕の理論で、あなたを『怪物』に戻せる。……さあ、始めましょうか」
ユウキが不敵に笑いながら重厚な扉を開くと、そこには月光を透かす透明なグランドピアノが、冷徹な静寂を纏って鎮座していた。
「玲奈さん。座ってください」
促され、玲奈はふらつく足取りで椅子に腰を下ろした。だが、彼女が白く細い指先を鍵盤にかざした瞬間、異変が起きた。瞳は恐怖に大きく見開かれる。彼女の視界には、鍵盤が優美な楽器ではなく、自分の指を切り刻むために並べられた「八十八枚の剃刀」に見えていたのだ。
「……っ、ひ、あ……」
声にならない悲鳴を上げ、彼女は手を引っ込めた。医学的検査では、指の神経も筋肉も正常。しかし、彼女の脳は「音楽」を、自分を破壊したあの惨劇と直結する「致死性の猛毒」として認識し、神経伝達を物理的に遮断していた。
「久我さん、見てください。これが『魂の拒絶』だ。僕の医学的処置も心理学的暗示も、彼女のこの防衛本能の前では無力だ」
ユウキは眼鏡の奥で狂気的な光を宿し、久我を振り返った。
「だから、あなたの右手が要る。彼女の心臓に直接触れ、封印された『音の記憶』を、無理やり指先にバイパスさせてください。最初の一音……それを鳴らすためだけに、僕たちはここに来たんです」
久我は重い溜息をつき、玲奈の背後に立った。
「橘さん……少しだけ、君の心臓を僕に預けてくれ。痛いかもしれないが、耐えてほしい」
久我が彼女の薄いニット越しに、小ぶりな胸元へと右手を密着させた。
「……っ! やめて! 触らないで!」
玲奈の身体が強張る。久我の右手に流れ込んできたのは、氷のような拒絶と、泥まみれの地面で感じたあの「男」への根源的な恐怖。その恐怖が、ピアノの記憶を黒い霧の中に隠し続けていた。
「……見つけた。霧の向こう、ショパンの『別れの曲』。最初の一音、ホ長調の『ミ』だ」
久我はサイコメトリーを通じて、彼女の脳内に直接「音の像」を送り込んだ。久我自身の心拍と、彼女の鼓動が共鳴し、熱を帯び始める。
「いいぞ……その熱を指先に流せ! 橘さん、左手の親指だ。動かせ!」
ユウキの怒声が飛ぶ。
「できない……真っ暗なの! 何も聞こえない!」
「嘘をつけ! 久我さんの右手は、君の魂が歌いたがっているのを掴んでいるぞ!」
久我は玲奈を背後から包み込むように抱きすくめ、その胸をさらに強く圧迫した。彼女の震えを、心音を、己の指先にまで感じ取れるほどに。
「思い出せ。君が愛したショパンは、こんな泥の中でも、気高く鳴っていたはずだ。……今だ!」
久我のサイコメトリーが、彼女の脳が敷いた検問所を力ずくで突破した。刹那。
「……トン」
透明なピアノが、一音だけ、震えるように鳴った。玲奈の指が、剃刀の刃に見えていたはずの鍵盤を、わずかに押し下げたのだ。
「鳴った……」
玲奈の目から大粒の涙が零れ落ち、アクリルの鍵盤を濡らした。
「一音目……再構築の始まりだ」
ユウキはストップウォッチを止め、冷酷に微笑んだ。
「おめでとう。でも、コンサートは一ヶ月後。サントリーホールで、この続きを二万音、弾いてもらわなきゃならない。……久我さん、今夜は一睡もさせませんよ。彼女の情動を、一気に沸点まで持っていく」
外は猛吹雪。要塞のような豪邸で、狂気と愛が混ざり合う、最初の夜が更けていく。




