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探偵は胸を揉む  作者: リチャード裕輝
探偵は胸を揉む:深淵の共犯者 ―― 完璧という名の砂漠と、塗り替えられた真実

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深淵の共犯者 ―― 完璧という名の砂漠と、塗り替えられた真実 序章

探偵は胸を揉む:深淵の共犯者 ―― 完璧という名の砂漠と、塗り替えられた真実


序章:灰色の独白 ―― 完璧という名の砂漠


私の指先は、音楽を奏でるための道具ではない。神が遺した楽譜という名の精密な設計図を、一ミリの狂いもなく現実化するための「出力端子」だ。


幼少期、鍵盤を叩く私の横には常に父が立っていた。父の持つメトロノームは、音楽を刻む装置ではなく、私を縛る絶対的な法だった。 「感情はノイズだ。不純物だ。打鍵の圧力、離鍵の速度、ペダルの踏み込み……すべては物理現象であり、制御可能な数学でなければならない」 父の冷徹な声が、私の脳細胞に深く刻み込まれた。私はその教えに従い、コンマ一秒の狂いもない拍節テンポを刻む「精密な自動演奏機」として、日本の音楽界の頂点に立った。私の弾くスタインウェイは、一音の澱みもなく、クリスタルのように冷たく輝く。


だが、批評家たちの称賛には、常に逃れられない「影」が差していた。彼らは私の完璧な技巧を称えつつも、批評の最後には必ず、呪いのようにあの女の名を付け加える。


――橘玲奈。


彼女がステージに現れた瞬間、ホールの空気そのものが物理的に変質した。彼女の奏でるショパンは、楽譜という設計図をあざ笑うかのように歪んでいた。指示を逸脱したルバート(テンポの揺れ)、震えるような強弱。だが、その「揺れ」こそが聴衆の心拍を直接掴み、会場全体を愛と涙、そして狂気にも似た熱狂で満たしていく。


それが、憎くてたまらなかった。私が一生をかけて、血を吐くような修練の末に構築した無機質な「正解」を、彼女の奔放な「魂」がいとも容易く嘲笑っていく。私の弾く音は正論だが、彼女の弾く音は真実だった。


あの日、私は地獄の門を叩いた。自らの手を汚し、倫理を捨て、彼女という眩しすぎる太陽を闇に沈める道を選んだのだ。


今、私は日本の音楽界の頂点にいる。彼女が消えた後の静まり返った世界で、私は「深淵」という名の旋律を手に、偽りの王座に君臨している。聴衆はこの曲の美しさに酔いしれている。だが、彼らは知らない。この旋律の奥底に、どれほどの悲鳴と、掠め取られた絶望が塗り込められているかを。


この音の正体が、剥ぎ取られた橘玲奈の残骸であるということ。今はまだ、私以外の誰も知る必要はない。

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