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第四話 その果実は、紅葉のように

「……」


 目を開く。


 幾重にも連なる鳥居。石畳の道。立派に作り替えられた社。

 そして、その向こうに広がる白い天井。

 最後に空を見たのは、何百年前だったか。

 もはや、時間の感覚すら薄れている。


「……」


 ずっと、何も変わらない。

 ずっと、ここに閉じ込められたまま。


 ずっと、独り。


 諦めたように目を閉じる。


 代わり映えのしない景色を眺めるくらいなら、暗闇のほうがよほど落ち着く。


「……なんでじゃ」


 どうして。


 今まで、気にも留めなかったというのに。


 ふと、あやつが持ってきた料理が頭に浮かんだ。


 香ばしく焼けた魚。ほくほくとした栗の甘さ。


 たった二度、口にしただけのもの。


 名前すら知らぬ、あの人間が持ってきたもの。


「……来るかのう、あやつ」


 ぽつりと呟く。


 そのとき、いつものように重い扉が開いた。


 ----------------------------------------------


「来たよ、神様」


「……ふん。懲りずにまた来たか」


 神様は鼻を鳴らし、そっぽを向いた。


 ……なんだよ、今日も機嫌悪いのか。

 水田さんは「今日は神様、静かにしてるわよ」って言ってたのに。

 まぁ、いつものことか。


「それで、今日も持ってきましたよ」


 神様が薄目を開け、こちらをちらりと見る。


 俺は袋から、一つの果実を取り出した。

 鮮やかな橙色をした、丸い果実。


「柿です」


「……柿、とな」


 神様が目を開き、柿をまじまじと見つめた。


「ずいぶんと大きいな。我が知っておるものは、もっと小ぶりじゃったが」


「えっ、見たことあるんですか?」


 てっきり、知らないものだと思っていた。


「当たり前であろう。我は神ぞ」


 神様は得意げに胸を張った。


「じゃあ、食べたこともあるんですか?」


「……」


 ぴたり、と動きが止まる。


「……そのような些事、覚えておらぬわ」


 あぁ、これ絶対食べたことない反応だ。

 思わず笑いそうになったが、なんとか堪えた。


「じゃあ、今日はこれを食べましょう」


「……うむ。して、どのように料理するのじゃ?」


 神様が俺の荷物に目を向ける。


「貴様、今日はろくに道具も持ってきておらぬようじゃが」


「あぁ、今日はこのまま食べます。皮をむくだけです」


「……このまま?」


 神様が目を丸くした。


「……手抜きか。期待して損したわ」


 深いため息をつき、露骨に肩を落とす。


「いやいや、これが一番おいしいんですよ。今日持ってきたのは甘柿なので、そのままでも十分甘いんです」


「……ふん。どうだかのう」


 神様は不満そうに顔を背けた。


「まぁまぁ、食べてみてくださいって」


 俺はリュックから布に包んだ包丁を取り出した。

 柿を手に取り、くるくると皮をむいていく。

 薄く剥がれた皮が、橙色の帯になって垂れ下がる。


 神様は相変わらず不満げだったが、その視線はしっかりと俺の手元を追っていた。


 ……気になってるじゃん。


 皮をむき終えた柿を食べやすい大きさに切り、皿に並べる。


「はい、どうぞ」


「……ふん」


 神様は一切れをつまみ、口へ運んだ。


 そして。


「……!」


 その目が、大きく見開かれた。


「……あ、甘い!」


 神様は口元を押さえ、しばらく動かなかった。


「なんじゃ、これは……! 何も加えておらぬというのに、これほどまでに甘いのか!」


「でしょう?」


 思わず得意げになる。


 栗の素朴な甘さとは違う、果汁たっぷりの濃厚な甘み。

 どうやら、神様も気に入ってくれたらしい。


 神様はもう一切れを口に運んだ。


「……美味じゃ」


 そう呟くと、また一切れ。

 ひょい、ひょい、と手が伸びる。


 ……さっきまで手抜きとか言ってたのに。


 あっという間に、皿の上には最後の一切れだけが残った。

 神様はそれを指先でつまみ、じっと眺めていた。


「……柿というものは、このように甘かったのじゃな」


 その声は、先ほどまでとは少し違っていた。


「……ずっと、見ていただけじゃったからのう」


「……え?」


「なんでもない」


 神様はそう言うと、最後の一切れを口に放り込んだ。

 俺は空になった皿を眺め、少しだけ嬉しくなった。


「すごいでしょう、柿って」


「……うむ」


「見た目も綺麗ですけど、味もおいしいんですよ。秋になると、こういう橙色の実が木になってるんです」


 神様は黙って聞いていた。


「紅葉とはまた違うんですけどね。葉っぱが赤や黄色に染まって、その間に柿の実がなってると、すごく綺麗なんです」


 俺は、神様の顔を見た。


「……神様にも、見せてあげたかったんです。秋の綺麗な景色を」


「……」


「ここからじゃ外は見えないでしょう? だから、せめて秋のひとかけらでも、感じてもらえたらなって」


 神様は何も言わなかった。

 ただ、遠くを見つめていた。


「……そうか」


 しばらくして、小さな声が返ってきた。


「……我は、忘れておったのじゃな」


「え?」


「秋というものを。かつては、あれほど見ていたはずなのにのう」


 神様は、どこか遠くを見るような目をしていた。


 その頭上で、光輪の輝きが一瞬だけ弱まったように見えた。


「……神様?」


「……っ」


 神様がはっと顔を上げる。


「なんでもないわ」


 いつものように鼻を鳴らし、そっぽを向いた。


 気づけば、光輪は元の輝きを取り戻していた。


「ほれ、まだあるのであろう? さっさと剥かぬか」


「あ、はいはい」


 ……まったく、素直じゃないなぁ。

 そう思いながら、俺は次の柿に手を伸ばした。


 ----------------------------------------------


 面会時間も、そろそろ終わりに近づいていた。

 食器を片付け、使った道具をリュックにしまう。

 いつもなら、この辺りで神様は興味を失い、さっさと帰れと言わんばかりにそっぽを向く。


 けれど、今日は違った。


「……のう、貴様」


「はい?」


 振り返ると、神様がこちらを見ていた。


「……名は、なんと言う」


「……名前、ですか?」


「そうじゃ。何度も来ておるくせに、名乗りもせぬとは無礼な奴じゃ」


 ……いや、聞かれなかったからなんだけど。


 そういえば、俺は一度も神様に名前を教えていなかった。


「樋口です。樋口昇」


「……ヒグチ、ノボル」


 神様が、小さく繰り返した。


「……そうか」


 そして、ふいっと顔を背ける。


「まぁ、片隅に覚えておいてやろう」


「……光栄です?」


 なんとも間の抜けた返事をしたところで、面会終了を知らせるブザーが鳴った。


「じゃあ、また来週来ますね」


「……ふん。好きにするがよい」


 いつものように、神様はそっぽを向いた。


 俺は軽く手を振り、社を後にした。


 ----------------------------------------------


 背後で重い扉が閉まる。

 エレベーターへ向かおうとした、そのときだった。


「おかえり、昇くん」


 振り返ると、水田さんがこちらに歩いてきた。


「あ、水田さん。ただいま戻りました」


「今日も神様の様子をモニターしてたんだけど、以前と比べるとずいぶん落ち着いてきたわね」


「そうですか? いつも通り偉そうでしたけど」


「ふふっ、それは相変わらずね。まったく、最初はどうなることかと思ったわよ」


 水田さんは、呆れたように笑った。


「でも、あんたが来るようになってから、少しずつ変わってきている気がするの」


「……そうなんですかね」


 言われてみれば、確かにそうかもしれない。


 最初は殺されかけた。

 二度目は秋刀魚を食べさせて、三度目は栗。


 そして今日は、名前を聞かれた。


 ……まぁ、少しは仲良くなれてるのかな。


「あ、そういえば、水田さん」


「なに?」


「神様って、何の神様なんですか?」


 今更ながら、そんな疑問が浮かんだ。


「あら、言ってなかったかしら」


 水田さんは少し姿勢を正した。


「あの神様はね、豊作の神様なの」


「……豊作の、神様?」


 思わず首をかしげる。


「え、じゃあ、なんで食べ物のことをあまり知らないんですか? 四季のことだって、ほとんど忘れてるみたいだし……」


 豊作の神様。

 それなら、食べ物にも季節にも詳しそうなものだけど。


 水田さんは少し考え込むように腕を組んだ。


「……そうね。実は、あたし達も神様のことを全部知っているわけじゃないの」


「……そうなんですか?」


「ええ。前にも話したでしょう? あの神様が、大飢饉のあった時代から生きているって」


「ああ、そうでしたね」


「古い記録によれば、その頃、この辺りでも多くの人が飢えに苦しんでいたそうよ。そして、あの神様が祀られるようになったと言われているの」


「……そうだったんですか」


「神様が祀られるようになってから、周囲の土地は少しずつ豊かになった。だから、豊作の神様として信仰されていたそうよ」


「なるほど……だから豊作の神様なんですね」


「そういうこと。でも、神様がどうやって現れたのか、なぜあの社に祀られるようになったのか。その経緯については、ほとんど記録が残っていないの」


「……そうなんですか」


「ただ、一つだけ確かなことがあるわ」


 水田さんは、閉ざされた扉に目を向けた。


「あの神様は、ずっとあの場所にいるの」


「……ずっと?」


「ええ。社は何度も改修されているし、今では施設に囲まれているけど、神様自身はあの場所から離れたことがないとされているわ」


「……」


「少なくとも、あたし達が把握している限りではね」


 ……八百年。


その長い年月を、ずっとあの場所で。


「……じゃあ、神様はずっと、あそこに閉じ込められていたんですか?」


「……そうね」


 水田さんは静かに頷いた。


「昔は信仰の対象だったけれど、今では危険な存在として扱われている。だから、簡単に外へ出すわけにはいかないの」


「……」


「もちろん、あたし達だって、いつまでも閉じ込めておきたいわけじゃないんだけどね」


 水田さんは、少し困ったように笑った。


「……そうですか」


 その瞬間、今日の神様の言葉が頭をよぎった。


『……ずっと、見ていただけじゃったからのう』


 柿を眺めていた、あの横顔。


『我は、忘れておったのじゃな』


 ……だから、四季を忘れたのか。


「……水田さん」


「なに?」


「神様って、寂しくないんですかね」


 水田さんが、少し驚いたように目を瞬かせた。


「……どうかしら」


「……」


「神様が何を考えているのか、あたし達にはわからないから」


 水田さんは、しばらく黙っていた。


「でも……そうかもしれないわね」


 その言葉を最後に、二人の間に沈黙が流れた。


 やがて、水田さんはふっと表情を緩めた。


「ま、とにかく! あんたが来るようになってから、神様が変わってきているのは確かよ。来週もよろしくね!」


「……はい」


 そう答えて、エレベーターへと向かった。

 扉が閉まる直前、水田さんは軽く手を振っていた。


 俺も会釈を返す。


 ……神様は、あの場所から一度も離れたことがない。


 その事実が、頭から離れなかった。

 ----------------------------------------------


 施設を出ると、冷たい風が頬を撫でた。

 見上げれば、秋の空が広がっている。

 道端の木々は、すっかり色を変えていた。

 鮮やかだった紅葉も少しずつ散り始め、冬の訪れを感じさせる。


「……」


 ふと、足を止めた。


『……ずっと、見ていただけじゃったからのう』


 今日、神様が呟いた言葉を思い出す。


 柿を見たことはあっても、食べたことはなかった。

 秋を知っていたはずなのに、その美しささえ忘れてしまっていた。


「……これも、知らないのか」


 目の前を、一枚の紅葉が舞い落ちた。


 神様は、この景色を知らない。


 いや。


 きっと、知っていたはずなんだ。ただ、忘れてしまっただけで。


 今まで、ただの傲慢で恐ろしい神様だと思っていた。


 でも、本当にそうなんだろうか。


「……帰ろう」


 俺は再び歩き始めた。


 ふと、振り返る。


 そこには、いつもと変わらない建物があるだけだった。

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