第十三番 Sentimentale
正直言って、予選の記憶はほとんどない。
ただステージの眩い光に吸い込まれるようにピアノの前に座った。
いつも恋い焦がれて聴き入るさやか先輩の演奏も聴こえなかった。
「まぁ仕方ないさ。だいぶ扁桃腺も腫れてたみたいだし。聞こえづらくもなるだろ」
小澤が溜め息をつきながら、聴診器を鞄に仕舞う。
倒れた俺は、九条先輩の指示で大袈裟にも医務室で集中的に治療を受けている。それも小澤の監視付きで。
「あんま無茶するな。俺の仕事が増える」
「すみません」
小澤が部屋を出て行こうと背を向ける。
「俺……」
ドアに手をかけた小澤が振り向いた。
「どんな演奏してました?」
自分の演奏を覚えていないなんて、今まで初めてだった。
握り締めた手に、じわりと汗が滲む。
「んー、そうだな。演奏は完璧だった。いや、完璧すぎると言うべきか。まるで機械が演奏してるみたいだった。正確で、無機質で、感情がない」
「…………」
一次予選、演奏が終わった会場は異様に静まり返ったという。誰もが拍手すら忘れていた、と。
そして二次予選、最後の一音を弾き終えた瞬間、俺はぶっ倒れたと後から聞いた。
「司にお礼言っとけよ」
「え?」
「真っ先に駆けつけたの、アイツ。余程心配だったと見える」
「司が……?」
(あのプライドの高くて、俺様で、情けの欠片もない司が?)
「あの彼女の事はだいぶ気に入ってるみたいだぜ?」
「…………」
全部さやか先輩のため。
俺を助けたのも、そのために先輩との時間を預けてくれたのも。
さやか先輩が頑張ると決めたコンクールを応援するためだ。
(それなのに、俺は……)
「そんな演奏聴かされる身にもなってみろ」
小澤は吐き捨てるように言うと、今度こそ部屋を出て行った。
小澤の言葉が深く胸に突き刺さる。
自分の都合で体調を崩し、自分の都合で演奏を台無しにした。
心のない演奏はさぞかし酷かっただろう……。
『感情のままに弾くのはやめなさい』
先生が言いたかったのは、感情を捨てろという事ではない。
悲しみ、憎しみ、恨み。
音楽をそういう負の感情をぶつける道具に使うなという事だ。
だからといって感情を捨てたら、それは音楽じゃない。
ただの記号だ。
(先輩、俺は)
(あなたの音を、殺してしまった……)
――コンコン
控えめなノックの後に、ドアが開く。
「あの、」
聞き慣れた声、鼻を掠める大好きな香りに、身体が震える。
「……さ、やか、先輩」
止まっていた呼吸が再び脈打つ感覚。




