第3話:小春
それから数日後、僕は再びあの河川敷を訪れた。
特別な理由はない。
少なくとも、僕はそう思っていた。
階段を下りると、川沿いの道を吹き抜ける風が、少しだけ冷たくなっていた。夏の終わりは、気づかないうちに遠ざかっているらしい。
僕はいつものように、河川敷を見渡した。草むら。川。遠くを歩く人の姿。順に流れるように視線を移す。そして、その先に。彼女がいた。
あの日と同じように、草の上に座っていた。ただし、今日は眠っていない。膝を抱えるようにして、ぼんやりと川を眺めている。
僕は足を止めた。声をかけるべきだろうか。
そもそも、彼女は僕のことを覚えているのだろうか。あの日、僕たちはほんの少し話しただけだ。彼女にとっては、もう忘れてしまっていてもおかしくない。
そう考えているうちに、彼女がこちらを向いた。僕はどうしていいか分からず、軽く会釈をした。
すると、彼女は少し首を傾げてから何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、この前の人」
「あ……はい」
思わず、変な返事をしてしまった。
この前の人。たしかに、僕たちはお互いの名前さえ知らない。
彼女にとって僕は、その程度の存在なのだろう。それでも、覚えていてくれたことが少しだけ嬉しかった。
「今日も来たんだね」
君は少し微笑んだ。
「まぁ、たまたま」
平静を装ってなるべく自然な温度で答えた。
「ふうん」
彼女はそれ以上、何も聞かなかった。僕も、どうしてここに来たのかを説明する必要がなくなって、少しだけ安心した。
近くまで歩いていくと、彼女は自分の隣の草むらに目を向けた。
座ってもいいという意味なのか、それとも、ただ視線を動かしただけなのか。僕には分からなかった。けれど、立ったまま話すのも落ち着かなかったので、少し距離を空けて腰を下ろした。
それからしばらく沈黙が続く。喉の奥がひどく乾いていた。けれど、不思議と帰りたいとは思わなかった。
「今日は寝ないの?」
ようやく口にしたのは、そんな言葉だった。彼女はこちらを向き、少しだけ目を細めた。
「寝たほうがいい?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、いいじゃん」
そう言って、彼女はまた川に視線を戻した。たしかに、その通りだった。
僕が勝手に心配して、勝手に声をかけているだけなのだ。彼女には彼女の過ごし方がある。僕が口を出すことではない。
「……そうだね」
そう答えると、彼女は小さく笑った。その笑顔を見て、僕は少し驚いた。
あの日、目を覚ました彼女は、ひどく眠そうで、どこか不機嫌そうに見えた。だから、もっと無愛想な人なのかと思っていた。けれど、今の彼女は違った。
もちろん、それだけで彼女のことが分かったわけではない。むしろ、少し話しただけで分かった気になってしまうことのほうが、よほど失礼なのかもしれない。
「何読んでるの?」
彼女の声で、僕は手元に目を落とした。鞄から取り出した本は、膝の上に置いたままだった。
「ああ、これ?小説」
「ん?うん⋯⋯」
会話が続かないことにぎこちなさを感じていた。
そんなことを思っている間も、彼女は笑っている。
僕は本の表紙を見た。何度も読んだことのある本だった。
「本、好きなの?」
彼女は僕の手元を指さした。
「うん…⋯まあ、好きかな」
僕は本をパラパラ捲りがら返事をする。
「私、あんまり読まないな」
「⋯⋯そうなんだ」
「うん。文字を追ってると眠くなる」
「んーそれは、眠いときに読んでるからじゃない?」
「そうかもね」
間を空けて答える僕とは反対に、彼女は考える間もなくあっさりと答えた。
会話は、そこで途切れた。僕は、何か話さなければと思った。
せっかく会えたのだから、もう少し彼女のことを知りたい。けれど、何を聞けばいいのか分からなかった。
名前。どこに住んでいるのか。何をしている人なのか。
頭の中には質問がいくつも浮かんだ。それなのに、どれも口にするには唐突な気がした。そもそも、僕たちは知り合いですらないのだ。
そんなことを考えていると、彼女が先に口を開いた。
「私、小春っていうの」
「……小春?」
「うん。小春」
あまりにも自然に名前を言うので、僕は一瞬、聞き返してしまった。
「そっちは名前なんて言うの?」
君は首を傾げた。
「えっと、僕は、瀬尾湊」
名前でさえもパッと出てこない自分に嫌気がさした。
「瀬尾くん?」
「湊でいいよ」
そんなことを言ってから、少し後悔する。
初対面に近い相手に、いきなり名前で呼んでほしいだなんて。そんなつもりではなかったのに、どうしてあんな言い方をしたのだろう。
小春は少し考えるように僕を見た。
「じゃあ、湊くんって呼ぶね」
それだけだった。たったそれだけなのに、自分の名前が、いつもと違って聞こえた。
家族や友人に呼ばれるときとは、何かが違う。声の響きなのか、呼び方なのか僕にはその違いがよく分からなかったが、何かが違うことは認識できた。




