第2話:いない
しばらくして、僕はようやくその場を離れた。
帰り道、何度か河川敷の方を振り返った。当たり前だが視線の先に彼女がいるわけではない。それでも、もう一度振り返らずにはいられなかったのだ。
彼女はまた眠っているかもしれないし、もう帰ってしまったかもしれない。そもそも、僕が気にするようなことでもなかった。
家に帰ってからも、いつもと変わらない時間を過ごした。食事をして、お風呂に入り、本を読んで、眠くなれば布団に入る。ただ、それだけの一日だった。
それなのに、目を閉じると、あの河川敷の光景が頭に浮かんできた。
どうして、こんなにも気になるのだろう。
考えてみても答えは出なかった。
そうして僕は、腑に落ちないまま眠りについた。
翌朝、目が覚める頃には、彼女のことなど忘れていると思っていた。
けれど、実際にはそうならなかった。寝て起きても、何かの拍子に、彼女のことを思い浮かべてしまうのだ。
別に、特別なことがあったわけではない。少し話をしただけだ。話したと言っても、まともな会話になっていたかどうかさえ怪しい。
僕が勝手に心配して、彼女はそれに答えただけ。たったそれだけのことだった。
それなのに、あの時の彼女の声は、不思議なくらいよく覚えていた。でも、何を話したのかと聞かれたら、きっと大したことは答えられない。
僕は本を読んでいても、食事をしていても、時折あの河川敷での彼女の姿を思い浮かべてしまった。彼女が草の上で眠っている姿。風に揺れていた髪。目を覚ましたときの、少し不機嫌そうな顔。
そして、最後に彼女が言った言葉。
「でも、帰るのもったいないよ」
あの言葉の意味を、僕は何度も考えた。
何がもったいなかったのだろう。あの場所から離れることだろうか。それとも、あの時間が終わってしまうことだろうか
考えてみたところで、彼女に聞かなければ分からない。そもそも、本人だって深い意味を込めて言ったわけではないのかもしれない。
そう思うと、少しだけ馬鹿らしくなった。それに僕は、いつから知らない人の言葉をこんなにも考えるようになったのだろう。
夕方、気づけば僕は川沿いの道を歩いていた。特に目的があったわけではない。
強いて言うなら、読みかけの本を外で読もうと思ったくらいだ。家にいても落ち着かなかったし、少し歩きたい気分でもあった。
だから、あの河川敷へ向かったことにも、たいした理由はない。そう思いたかった。
階段を降り、昨日と同じ場所に座った。すると、辺りに漂う草の匂いが、鼻を掠める。
僕はふと、彼女が眠っていた場所に目を向けた。
――――誰もいない。
当たり前だ。そもそも、彼女があそこにいたことだって、ただの偶然。もう一度会える確率のほうが低い。それでも、少しだけ残念に思ってしまった自分がいた。
僕はその感情に気づかないふりをして、近くの草むらに腰を下ろし、鞄から本を取り出す。
パラパラと捲り、適当に開いたページに目を落とした。
いつも通り、文字は読める。文章の意味も分かった。ただ、何度か同じ行を読み返しているうちに、何を読んでいたのか分からなくなった。話が左から右にスーッと抜けていくあの感覚だ。
顔を上げると、川が見えた。水面に夕方の光が反射している。僕はしばらくそれを眺めていたが、やがて本を閉じた。
今日は、もう帰ろう。
そう思って立ち上がったとき、僕は自分が何を待ち望んでいたのか、少しだけ分かった気がした。けれど、それを認めるのは、なんだか気恥ずかしかった。
だから僕は、何も考えないことにして、階段を上る。そしてそのまま視線を落としたまま家までの道をゆっくりと歩いた。
それから数日後、僕は再びあの河川敷を訪れた。
特別な理由はない。
少なくとも、僕はそう思っていた。




