第4話:川の向こう側
「湊くんは、よくここに来るの?」
「いや、そんなには来ない。たまにかな」
なんでここに来たのかを聞かれたら答えられる自信がなかった。
「そっか」
小春は大きく頷いた。
「私、けっこう来るんだよね」
「そうなんだ」
「うん。なんか、ここにいると時間がゆっくりになる気がするから」
小春は川を見つめたまま言う。その言葉は一瞬では理解できなかった。
時間がゆっくりになるってどういうことだろう。
「家にいると、何かしなきゃいけない気がするんだよね。でも、ここなら何もしなくてもいいから」
その言葉を聞いて、僕はもう一度考えた。
そういえば僕も、家にいて落ち着かないことがある。何かをしているわけでもないのに、何もしていない自分が気になってしまう。
休んでいるはずなのに、休めていないような感覚。そんなことを思いつくけれど、それを彼女に話すことはできなかった。
似ていると思っただけで、本当に同じなのかは分からない。僕が勝手に自分と重ね合わせているだけかもしれない。
「……それ、分かる気がする」
結局、そんな曖昧な言葉しか出てこなかった。
小春は僕を見た。
「ほんと?」
「うん。多分」
「多分なんだ」
「自分でも、よく分かってないから」
そう答えると、小春は声を立てずに笑った。僕も、つられて笑う。
それから、しばらく二人で川を眺めていた。話したことは、大したことではなかった。本の話と、ここによく来るという話。それだけだ。
それでも、最初に会ったときより、彼女のことを少しだけ知れた気がした。
小春。
その名前を、心の中でもう一度呼んでみる。
たった二文字の名前を知っただけで、彼女が急に近くなったような気がした。
もちろん、名前を知ったからといって、彼女のことが分かったわけではない。どこで生まれて、どんなふうに育って、普段は何を考えているのか。僕の知らないことのほうが、ずっと多い。
それでも今は、それでよかった。
「じゃあ、私、そろそろ帰るね」
小春は立ち上がり、服についた草を軽く払った。
「あ、うん」
僕も立ち上がろうとして、やめた。
引き止める理由なんてなかったし、引き止める勇気もなかった。
「またね、湊くん」
小春はそう言って、階段のほうへ歩いていった。
「……またね」
聞こえていたかどうかは分からない。
彼女は振り返らなかった。その背中が見えなくなるまで、僕はしばらくそこに立っていた。
やがて、川の音だけが戻ってくる。
僕は膝の上に置いていた本を鞄にしまい、ゆっくりと歩き出した。
帰り道、何度も彼女の言葉を思い返した。
家にいると、何かしなきゃいけない気がする。ここなら何もしなくてもいい。
その言葉が小春にとって、どんな意味を持つのか。僕にはまだ分からなかった。いつか、その理由を聞ける日が来るのだろうか。
そんなことを考えている自分に気づいて、僕は小さく息を吐いた。
また会えるかどうかも分からないのに。
それでも、次にここへ来る事が、少しだけ楽しみになっていた。




